蒼天の雲 13



(猶父のように思えとさんざ督促して、手元へ呼び寄せておきながら、この始末とは…) 
 晴氏へはああ言ったが、北条から恨まれるのはやはり、まず第一に己であろう。
  己の血縁ばかりでなく、その労りを家の子、郎党、果ては地下の民へも示して他国に無い
  団結力を誇る北条が、その姫をないがしろにされて黙っているわけが無い。 
 高助が見たところ、古河公方側にも小弓側にも今はもう、ろくな豪族はいない。
  原胤隆が仕える下総千葉氏もそうだが、皆、古くから続く家柄というのだけをいたずらに誇っているだけのこと。 
(これから、ますます北条の力は必要になる) 
広間から縁側へ出て、とっぷりと暮れた空を見上げながら高助は苦笑した。彼が見たところ、
今回の軍議はいつものごとく、消極派のほうが勝っている。この分だとまた、こちらから仕掛けると
いうような意見は引っ込むかも知れず、だがそうなっても、 
(北条は、討って出るであろうなあ) 
それだけの力を有していると高助は見る。事実、里見義尭と真理谷信隆は、これまでの旧怨を忘れて
味方して欲しいと、北条氏綱へ再三、懇望しているらしい。北条にとってみても、小弓公方内の重臣が
二つに割れた今、小弓公方側で長年の宿敵でもある扇谷上杉を叩く、これはいわば絶好の機会なのだ。 
 その北条とより一層の絆を結ぶには、やはり姻戚関係になってしまうのが「手っ取り早かった」のである。 
 高助がこうして、寝もやらず広間の縁に腰掛けて呻吟していた夜、 
(なんと、のう…慌しかったこと) 
はからずも晴氏の訪問を受けて、志保は苦笑していた。これが世の男性の愛し方なのかは知らぬ。
突然部屋へ乱入した晴氏は、驚いた他の侍女が慌てて退出していくのを尻目に、彼女の肌を
踏み散らすだけ踏み散らし、ことが終わったあとはそそくさと志保の元を去った。 
(だが、これでのう…八重も父上も、少しはうるさくなくなるであろ) 
他人事のように思いながら、気だるい体を起こして衣服を整え、夜具へもぐりこんだ志保は、
しかしその少し前に乳姉妹に起きた出来事を知らぬ。 
 ともかくこうして、晴氏と志保がようやく夫婦の契りを結んだのが大永四(一五二四)年の正月過ぎ。
  その頃になって、志保の父氏綱はいよいよ江戸城攻略を開始した。 
 そのきっかけになったのが、扇谷現当主である朝興の、川越城にいた山内憲房(高基次男、
  晴直改め憲寛の養父)訪問である。 
 あれからも、古河公方家では「出るべきか出ざるべきか」の軍議がただ繰り返されており、
  いたずらに月日が費やされていた。小弓公方家でも、里見・真理谷両氏の家督争いが断続的ながら
  続いており、そのさなかでの扇谷朝興の前山内上杉当主訪問は、古河、北条両家にとって
  違う意味での緊張をそれぞれもたらした。 
 元をただせば同じ血を引く関東管領家でありながら、仲が良いのか悪いのか…仲直りしてはまた争い、
  を繰り返していた両家は、 
「山内の、そこもと、お子をようようもうけられながら、公方の次男を嗣子としていやる。
このままでは公方家に山内の家を吸収されよう。それをなんとも思わぬか」 
川越城の一室に通された、扇谷朝興のその言葉で再び急接近したように見えた。 
「その時は、我が子と呼べるものがおらなんだゆえ。じゃが今は深く後悔しておる」 
「ならば再び手を組もう。小弓義明様が公方として立てば、我らとてそこもとを粗略にせぬ。
古河の高基様やその跡継ぎでは、もはやたれもが心服しまいて」 
「しかし、扇谷の。われら、代々古河足利家に仕えて参ったもの…正直、我らも高基様や次期様が
この関東を統べるに相応しいかと問われたなら黙らざるを得まいが、これは主家へ弓引くことにならぬかの」 
どこか躊躇している山内憲房へ、 
「ならぬ!」 
扇谷朝興は首を振って言った。 
「関東を統べる人物が、その任に相応しくなければ変えねばならぬ。これも管領家を勤めるものの
お役目ではないかの」 
「ふうむ」 
「これも、公方家を思うがゆえのもの。なんぞ弓引くことになろうや。小弓義明様も、味方になれば、
そこもととお子を必ずや引き立てようと申しておられる」 
 重ねて言われて、山内憲房は昨年、ようよう出来た、まさに「目の中に入れても痛くない…」
  ほどに愛している息子のことを思った。もはや五十八、老いた彼の目に迷いが差す。たとえ主家から
  預かったとはいえ、養子ではなくて、 
(血の繋がった我が子に家を継がせたい…) 
そう思うのも人情としては当然なことであったろう。 
そこへ、 
「申し上げまする!」 
山内上杉家の郎党の一人が慌しく駆け込んできた。 
「江戸城の大田資高殿、北条側に寝返られました!」 
その叫びに、両上杉の主はさっと顔色を変えた。しかし、 
「山内の。今日はこれにてご免つかまつる。さりながら我ら、腹中をあますことなく語りまいたゆえ」 
立ち上がって退出しながら振り返り、 
「これより、そこもとが我らへお味方すると思うてよいのでござるな?」 
釘を一本、刺すところはさすがに扇谷の当主である。 
「思うてくれてよい」 
山内憲房が頷くと、扇谷朝興は満足したように頷いて姿を消した。 

 江戸城は、先述のように当時は江戸湾に直接面している。三浦半島から臨めば手につかめるような
  近さであり、扇谷上杉定正に謀殺された名将、太田道灌が築いた、小さいながら堅固な城であった。 
 今では、道灌の孫の資高が城主として納まっているが、氏綱がまず目をつけたのが、
  この太田資高である。道灌は、その才能に危惧を抱かれたのか、嫉妬されたのかは分からぬが、
  当時の主であった扇谷定正によって謀殺されており、その後太田氏は主家(扇谷上杉)へ事あるごとに
  忠誠心を示すことを余儀なくされていた。それを常々不満に思っていたので、資高は北条へ
  簡単に寝返ったのかも知れぬ。 
氏綱は、資高と、やはり太田一族であった太田資頼を寝返らせた。 
「汚し」 
川越から退出しながら、そう扇谷朝興は罵ったというが…。 
(これは、なあ…) 
そして戦が始まり三週間余りが経った同年二月二日のこと。扇谷上杉と北条の開戦の報せを、
志保は古河城の北条館、己に与えられている部屋の一つである詰の間で受け取った。その後の経過を含めて
報せて来たのは松田左衛門の孫、左衛門憲秀である。 
(おじじ様のやり方じゃ) 
戦を始める前に、必ず「敵の側の味方」を作っておく。そしていざというときにこちらへ寝返らせる。
だが、それはやむを得ぬ場合を除いてあくまで「民百姓」を嘆かせぬ農閑期。それが出来ぬ場合は
耕作地以外へ敵を誘い込んで戦いへ持ち込め…それが故早雲入道より北条の者へ徹底的に叩き込まれた
戦術の一つなのである。どうやらそれを、「真面目な氏綱殿」は律儀に守り通しているらしい。 
「千代丸君は、まだ元服するにも幼くおわすゆえ、殿のご命令にてこたびは出陣されてはおりませぬ。
我が軍は、江戸城の太田資高殿と語らって武蔵野を駆け、扇谷側の諸将を板橋にて討ち取りまいた。
はい、さすがは我らが殿、破竹の快進撃にて、それゆえに、ここまで来れば『ついで』じゃから、
ちょと参って知らせよと申し付けられまいた。あくまでも古河公方家へのご報告優先で、志保様は
『ついで』じゃと、繰り返し仰せられて。ですが多目殿らご家老の御歴々は、『ありゃ、必ずや志保様の
様子を伺って参れ、と申されておわす』と笑っておられまいた」 
「ふふ」 
(これも父上らしい) 
 志保よりも二つ三つ年下らしい憲秀は、勤めを果たさねばならぬと青年らしく、気張った顔で
  志保の前に平伏して告げた。彼の体からはほのかに、嗅ぐことのなくなって久しい潮の香りがする。
  それが部屋に活けられている寒椿の香とあいまって、えもいわれぬ風情をかもし出している。 
「こたびの戦は、ようよう故殿の夢へ大きく飛躍する一歩じゃとて、氏綱様ご舎弟幻庵長綱様、
多目殿、我が父は申すまでも無いことながら、大道寺殿その他『北条由緒七本槍』を筆頭に、
御歴々、張り切られておいででござりまする」 
「菊兄様もか、懐かしいのう…して、父上はお元気であろうかの。いや、戦にお出になるくらいじゃゆえ、
ますますご壮健に遊ばすであろうの」 
父氏綱は、今年四十歳を越えた男盛り。憲秀の口から飛び出す「旧臣」や叔父の名もなんとも懐かしく、
顔も自然にほころぶ。志保の左右に居並ぶ北条のものどもも、懐かしそうに彼を見やっている。 
「左衛門も、息災かの」 
「いえ、祖父は」 
 そこで志保が「じい」の安否を尋ねると、憲秀は口ごもった。 
「お言いやれ」 
「は…これは、しかし、志保様には告げるなと祖父から固く…いえ、はい、承知いたしました」 
 だが、志保の眼光に耐え切れず、憲秀はすぐに口を割る。 
「実は祖父は、昨年暮れより臥せっておりまする。志保様の息災と、和子をもうけられたとの報せを
聞くまでは何のこれしきと気張っておりますものの…」 
「気張っておりますものの?」 
「医師の見立てでは、春までは保つまいと…はい」 
「そうか…おじじ様にお祈りして、回復を祈らねばのう」 
 それを聞いて、志保はホーッと息を吐いて眉を曇らせた。 
「ですがわが軍は、平、利根、渡良瀬の三川を自在に駆け巡っており申す。これより岩付へ向かいまいて…志保様」 
 慌てて話題をそらそうと、懸命に話していた憲秀は、 
「お顔色がすぐれぬようでおざりまするが?」 
そこで話をやめ、心配そうに志保の顔をうかがった。 
「ふむ…」 
すると志保は微苦笑を浮かべて、 
「このところ、朝晩けだるうての。あれほど好きであった食べ物の匂いも、嗅いだだけで
時折吐き気がするのじゃ」 
 それを聞いて、そばに控えていた八重の顔色が変わったのに気づいた者は、しかし誰もいなかった。 
 周りのものへ軽く頭を下げて、まるで厠へでも行くように席を立つ。八重が襖を閉めると、
  部屋の中からは、「正室様ご懐妊」の歓喜の声が沸いた。 
「おお、侍女殿。こちらからも、北条の使者殿にそろそろご挨拶をと思うておったところじゃ」 
そのまま、急ぎ足で北条館から出ると、ちょうど探していた簗田高助が向こうからやってくるのが見えて、 
「高基様にも、手前からくれぐれもよろしゅう言うておけと申されての」 
「すみませぬ。こちらへ」 
八重はその袖を軽く引いた。すると高助は、後ろについていた二、三の供へしばらく待っているように告げ、
彼女とともに少し離れた廊下の隅へ足を運ぶ。 
「しょう様、ご懐妊にござりまする」 
八重が強張った顔でそう告げれば、 
「ありゃ、それは」 
喜ばしいこと、と言いかけた高助の顔は、 
「私にも、しょう様と同じ症状が出ておりまする」 
彼女が続けた言葉に、さっと青ざめた。 
 八重から目をそらしてしばし天井を仰ぎ、嘆息した後、 
「こなた、ひとまず我が関宿城へ移れ。志保殿には、伝染させるといけぬ病にかかったとでも、手前から申しておく」 
高助は苦渋に満ちた声でそう言ったのである。 
(ありえぬことでは無かったが…) 
 そして控えていた供へ、八重の身柄を引き渡して関宿へ移すよう言いつけ、 
「くれぐれも、丁重に扱うよう」 
言い置いて、彼はそのまま北条館側の詰の間へ向かった。 
「賑やかでござるな」 
 そして襖の前で一呼吸、言いながらさらりと襖を開けると、 
「お猶父上様」 
志保が苦笑でもって彼を見上げ、一同の者とともに平伏する。 
「公方家に、二人目のお子が出来られまいた」 
「おお、これは左衛門殿の孫息子殿か。して、それはまことかの? まことなら、早速医師を遣わさねばならぬ」 
 早速、咳き込んで報告したのは松田左衛門憲秀である。うわべはにこにこと、不自然に見えぬように
  笑顔を繕いながら、高助が案内された席へ着いて尋ねると、 
「はい、こちらの侍女方が間違いないとおっしゃるもので」 
「憲秀、まだよう分からぬものを」 
志保が苦笑して憲秀をたしなめた。 
「いやいや。これは高基様や氏綱殿へ早速ご報告申し上げねばならぬこと。よう分からぬのであれば、
なおさら早く医師の手配をなあ。ありゃ、それは手前にお任せあれ。確かなことが分かりまいたら、
すぐに岩付の北条殿の陣へ使者を走らせよう」 
言いながら、高助は、 
(八重にも早急に医師が必要じゃ) 
そう思い、八重が無事に出産できたなら、己の子として育ててもいいと覚悟を決めていたのである。 
「では我ら、これにて」 
「息災でのう」 
志保の言葉に嬉しそうに平伏して頭を下げ、左衛門憲秀やその他、彼に付き従ってきた者はあたふたと去っていく。 
 そしてこの大永二年二月二日。北条勢は攻撃していた岩付城を落とし、城を守っていた太田資頼の
  兄である太田備中守を討ち取った。それと見て敵わぬと思ったのか、その先にあった毛呂城城主の、
  毛呂太郎とその将、岡本将監が北条へ降伏したのがその一週間の後。これにより、北条勢は一時的にせよ、
  毛呂から石戸までをその勢力下においた。 
このことは、結果的に扇谷側の松山城と川越城(山内憲房が守っている)との連絡を絶ったということになる。
北条勢が出陣してからの行動の素早さに、 
「さすがは北条よ」 
と、簗田高助は再び舌を巻くのであるが、 
(事前に、綿密に計画を立てられたもの…) 
志保はすぐにそれと察して、しかし黙っていた。 
父氏綱や北条のものだけではなく、戦乱に巻き込まれる無辜の民や、そして、 
(おじじ様、それら全てをお守りくだされ) 
敵となった扇谷のためにも香を焚き、部屋に据えた小さな仏壇へ朝な夕な、志保は手を合わせ続けている。 
聞こえてくるものは当面、北条側の快進撃のみであった。 
「ときに、のう」 
今朝も仏壇への読経を終わって、志保は神妙に控えている侍女を振り返る。戦いが始まってはや四ヶ月。
悪阻が激しく、幸千代王と散策にも出られなかった春はあっという間に過ぎた。 
「八重の具合は、まだようならぬのかや」 
「はい…私どもにも、詳しいことは聞かせていただいてはおりませぬ」 
「ふむ」 
指の先が凍りつくような冬がいつの間にか去り、ようよう春らしく日差しが和らいできたと思えば、
すぐに梅雨に襲われる。それが終われば霜月上旬までは暑く、いきなり寒くなる。つまり一年の半分は寒く、
半分は暑いという古河の気候にもやっと慣れて来たと思っていたのだが、 
「八重にも、心労を重ねさせたゆえ」 
「そのようなこと」 
申し訳なく、ぽつりと呟くように言うと、その侍女は大仰に首を振る。 
伝染させるかもしれぬ病気かもしれぬと分かったゆえ、大事をとって関宿城へ移した、と、猶父の
簗田高助には聞かされている。志保の気持ちとしては、今すぐにでも乳姉妹の見舞いに出たいところなのだが、 
「伝染させるかもしれぬ、と言われてはのう」 
「腹におわすお子に大事があってはなりませぬ。石戸の氏綱様からも気遣われる手蹟がありまいたこと、
ここは身二つになられてから、ゆるりと八重をお見舞いなされませ」 
「…うむ」 
ため息をついて、志保は縁へ出る。今日も古河は鬱陶しい梅雨空である。 
(北条のものも、これで冷えねばよいがなア) 
海の近くであれば蒸し暑くもある梅雨時の雨は、内陸へ入ると芯まで凍えるような冷たさのそれに変わる。
その空に向かってもう一度、志保が手を合わせている頃に、 
「資頼殿、扇谷朝興殿側へ寝返り!」 
古河から南へ半日ほど離れた石戸の北条本陣では、その報せを聞いて浮き足立った。 
(まずここまで来れば) 
と、これ以上の進攻を控え、氏綱が付近の足固めに入ろうとしていたまさにその時である。
これが大永四年六月十八日のこと。 
 太田資頼には、兄の城であった岩付城を守らせている。それが寝返ったとなると、逆に
  こちら側が扇谷側に挟撃される恐れが出てくる。 
 太田資頼はその少し前に、扇谷朝興が甲斐の武田信虎(信玄の父)に協力を要請しているのを知ったのだ。
それが本当ならば、 
(挟み撃ちになるのはこちらだ…) 
とばかりに、名将道灌の孫らしからぬこの武将は、北条を離れて扇谷側へ帰参してしまったのだ…。 



…続く。