奇骨賛歌 12



国瑞の生い立ちが生い立ちであるから、ひょっとするとそれ……己を慕う者だけではなく、他の者にも
心を開くこと……をする、ということは、国瑞にとっては、まことに難しいことかもしれない。もちろん、
彼にとって苦手なその箇所を助けるために、己や他将がいるわけであるから、
(徐殿や湯殿、そして私が生きてある間は大丈夫だろうけれど)
万が一、国瑞が独りになった時、彼のこの弱点は大きな敵になるのではないか。
「お前の夫は、?州城で俺たちを迎え入れるつもりらしい。その後、和州へ向かうという。いやはや、
なんとも行動力に恵まれた奴だ」
養父は、そんな悦の様子に露ほども気づかず、ますます上機嫌で言う。
「定遠に続いて、近隣の和州をも我らの手で取り戻すことが出来たなら、わが軍の評判はますます高くなる。
まことに大した奴だ、あのあばたは」
使者の複雑な表情にも、まるきり気を留めてはいないのだろう。子興の口からは何度も国瑞を賞賛する言葉が
出たが、貶める言葉も同じ頻度で出る。
子興にしてみれば、最大の親しみを見せているつもりなのだ。婿である国瑞への信頼がいよいよ厚くなっているのは、
「あいつは俺に、定遠の主になれと言ったのだぞ。欲のない奴め」
続く言葉が、情愛に満ちた響きを持っていることから分かる。
だが、
(親父殿が親しめば親しむほど、我が夫は興ざめしていくに違いない)
悦はそう察していた。それは、これらを報告するのに使者を寄越したことで分かる。要所要所で細かい気配りを
見せる国瑞が、このような重大事を自ら報告しに来ないはずがない。
かつて「いい奴だが、ただそれだけだ」と言っていたように、国瑞は舅をそういった人物であると
見なしてしまったのだろう。なにしろ彼は、ほぼ無に等しい状態から、二万もの軍勢を作り上げられるほどの
人間なのである。
(彼が、養父を舅として、人として、敬愛していないというわけではないのだろうけれど)
考え込んでいる悦とは裏腹に、
「さあ、俺達は定遠へ戻ろうではないか。ただ、戻るのはかの家ではなくて、安徽の城(ジョ州城)だがな」
養父は明るく言ったものだ。
とにもかくにも、郭家一族は再び定遠へ戻ることになった。
ただ、子興も言っていたように、戻ったといっても住まうのは郭邸ではない。
「あの家は、かの親族に住ませておけばいい」
と養父は言う。妹の家に避難していた子興の兄一家へ、既に連絡を取ったというのだ。
そして、己の一家はどうするのかというと、
「お前たちは俺と共に住め」
ジョ州城を住みかとするつもりらしい。
逼塞してしまっているとはいえ、濠州紅巾軍の主将は一応、郭子興である。だから、それなりの
威容が必要であるという理由なのであろうが、
(あの家に戻って、お袋様の墓守をするつもりだったのだが)
悦もやはり少し落胆したし、義妹の珠に至っては、
「結局、親父殿は、自分が良ければそれで良いのです。お袋様のことなどどうでも良いのでしょう」
と、悦へ零したきり、口を閉ざした。ついに、思慮の足りなさ過ぎる実父へ愛想を付かしたようである。
ともかく、定遠を離れて数年で、また戻ってくることは出来た。?州城に住むことになったとはいっても、
「かの家に行こうと思えば、いつなと行けますよ」
道中、悦はそう言って、珠を慰めたものだ。
仮の住まいであった濠州城を出る頃には、白い桃の花がまばらに咲き初めていた。馬車に揺られて
南下していくにつれ、周囲には満開の桃の木が増えていく。
「ほら、御覧なさい。今年も美しく咲きました。よい香りがしますね」
向かい側に座っている珠の心をほぐそうとして、悦は話しかけるのだが、
「そうですね」
微笑を浮かべていながら、義妹の答えは何とも素っ気無い。ゆえに、会話は常に「ぶつ切り」なのだ。
定遠へ戻ることが決定した日から、珠の笑う顔を見ることが少なくなった。賑やかなことの好きな
「おしゃべり」であったはずだが、近頃は俯き加減に沈黙を守り、何か難しいことを考えているような
表情をしていることが多い。
そのため、もともと整った美しい顔立ちをしているところへ、なにやら冴え冴えとしたものが加わって、
(まるで研ぎ澄まされた刃のような)
常に義妹の側にあって、彼女を見守ってきた悦でさえ、時にはその表情に、背筋に冷たいものを覚える。
悦に対して心が冷たくなった、というのではないらしい。養父の子興は、そんな娘の様子を見て、
「年頃になったということだろう。落ち着きが加わったのは良いことだ。そろそろしかるべきところへ
縁付けなければ」
などと、無邪気に喜んでいる。
後ろへ流れていく景色を眺めながら、
(せっかちな我が夫は、今頃いらいらしながら私たちを待っているだろう)
ぼんやりとそんなことを考えていた悦は、
「姐様」
「はい」
意外な険しさを含んだ呼びかけに、はっとして義妹を見つめた。
「女の身で、生まれ育った家を守る方法というものを、私は先ごろ悟りました」
「さあ、それは」
「私は、私なりに郭家を守ると決めました。そのためには、何でもします」
「……はい」
何を言いたいのか咄嗟に理解できず、曖昧にしか答えられぬ悦へ、
「この先、姐様は、何があっても私を信じてくださいますね」
珠はむしろ淡々と、呟くように言って唇を結び、窓の外を眺める。
座った膝の上で、肌が白くなるほどに握り締めた二つの拳はかすかに震えてさえいた。
(この義妹は、並々ならぬ何かを決意したらしい)
そしてそれは、今は義姉である己にも言えぬ類のものなのだ、と思い、
「信じますよ」
蒼白な彼女の横顔を真摯な眼差しで見つめながら、悦はこっくりと頷いたものだ。
すると珠は、
「ありがとうございます」
窓の外を見やったまま、わずかに笑みを浮かべる。
(己の気持ちを隠せるほどに、大人になったのだ)
聡い悦は、珠の言葉の裏にある感情を薄々察していた。もちろん、義妹の心の中まで見通せるわけではないが、
(そうは言っても、やはり姐には信じてもらえぬだろう)
と思っているのを感じていたのである。
後の事になるが、珠はやがて悦の夫である国瑞の側室、郭恵妃となって、幾人かの子を成す。後に国瑞が
明国皇帝になるとまでは考えもしなかったであろうが、その時点では、小娘に過ぎぬ郭珠の目から見ても、
将来有望な男は国瑞しか居らず、よって、
(己は義姉や世間にどのように謗られてもいい。郭家を存続させるには、あばた殿の関心を郭家へ
向けさせておくしかない)
という、何とも健気な結論に達したのだ。
郭珠は既にこの時、「義兄」の室に入ることを決意していたのではないかと考えられる。
果たして、姉妹を乗せた馬車は定遠の郭邸を通り過ぎ、?州城内へ入った。
そして悦の夫は、彼女の予想通り、郭一家の、というよりも妻の到着を待ちかねていたらしい。
「お袋様、ご無事で何よりです。到着の報せにより、主の命を受けて手前が参りました。これより城まで
お供いたします」
輿の側までやってきてそう告げたのは徐達で、
「なんとお懐かしいこと。よろしくお願い致します」
この誠実な武将の日に焼けた顔を、目を細めて眺めながら、悦は微笑った。
せっかちなため、何事も自分の目で確かめなければ気が済まぬ、といった夫の性分は、誰よりも妻である
己が良く知っている。本当なら、さぞや自分自身が迎えに出たかったに違いない。
だが、高位に上った人間は軽々しく動くべきではない。国瑞はそのことも充分弁えているから、
(これでも我慢しているらしい)
己の分身のように深く信頼している徐達を、己の目と耳代わりに寄越したのであろう。
徐達のほうも、
「我らが主君も、ほとんどいつも機嫌が悪しゅうございました。お袋様が側においででなかったせいですよ。
おかげで我らはよく八つ当たりされたものです。とんだとばっちりでございました」
などと軽口を叩く。
「まあ、それは申し訳ございませんでした」
悦がくすくす笑いながら言葉を返すと、
「ですが、こうしてお袋様がおいでになった。これであのお方の機嫌も直りましょう。やれやれ、
これで我らもようやく、当り散らされずにすむ」
徐達もまた、明るく笑って言ったものだ。
そして、
「おや、門の側にまでお出ましだ」
徐達が苦笑しながら漏らした言葉どおり、国瑞は城に一番近い門まで出てきていた。
悦と珠が輿から降りてくるのを見て、
「遅い。何をしていたのだ」
己の舅への挨拶もそこそこに側までやってきて、ぶっきらぼうに言ったものだ。
「ご心配をおかけして、申し訳ございませんでした」
悦が微笑を含みながら頭を下げると、
「飯と寝床の用意はさせてある。こっちだ」
久しぶりの再会に照れているのか、赤くした頬をぷいと背けて歩き出す。
「攻める時、なるだけ町を破壊せぬようにしろと言いつけた。だから、城の建物もさほど損傷はしていないはずだ」
歩きながら、国瑞は少し自慢げに言った。なるほど、その言葉通り、かつて仮の宿にしていた濠州城とは違って、
街の人々もそれぞれの仕事に精を出しているようであったし、
「降伏した奴らは、命を保証してやった」
夫が続けたように、元の兵士であった人間たちも、今度は夫の部下となってそのまま?州城内に留まっているらしい。
「西では、張士誠が誠王なんぞと名乗っている。いずれそいつも俺の前に立ちふさがるだろう。だが、
俺の相手にはいささか役不足だ」
得々と夫は話し続ける。だが、残念なことに悦にはさっぱり分からぬ。「はあ」「まあ」などと曖昧に
相槌を打っているうちに、
「俺は明日、親父の妹婿の張天佑らとともに和州へ行く」
とある部屋の前でぴたりと足を止め、国瑞はいささか寂しげに言った。
「お前を連れて行くわけにはいかぬ」
「はい、それは充分存じております」
少しうなだれた様子の夫を、悦は微笑を含んだ表情で見上げ、
「貴方様の居られぬ間、このお城は確かに守ります。どうかお心を安んじられて」
言うと国瑞は、
「うん」
珍しく素直に頷いて、かすかに笑った。
その晩、夫婦は久しぶりに夜を共に過ごしたわけだが、
(いつもながら、お早いこと)
翌朝、まだ暗いうちに悦が目覚めると、傍らにいたはずの夫の姿がもう無い。
長旅の疲れで良く眠っている彼女を起こさぬように、との気遣いからであろうが、
(遠慮せずに起こして下さってよろしいのに。見送りくらいはさせて下さいな)
脳裏に描いた国瑞の顔へ、悦が少しの不満を込めて文句を言うと、彼は頬を赤くしてぷいとそっぽを向いたものだ。
悦の懐妊が分かったのは、それから数ヶ月ほど後のことである。この時、彼女の腹にいたのが後に
皇太子となる長男、標で、
「そうか、そうか。俺にもようよう、気がねなく可愛がれる孫が出来るか。身体を大事にせよ」
養父の郭子興などは、そう言って手放しで喜んだものだ。
国瑞が向かった和州からも、
「戦局に変わりなし。途上の城をほぼ無血で降伏させつつ進軍中」
との報告が来ている。
この時期は、少なくとも表面上、濠州紅巾軍にとって、全てが良い方向へ向かっているように見えていた。
朱国瑞は、
「降伏してくる者の命は奪わぬ。民から米粒一つでも奪うと許さぬ」
ということを、己の軍に徹底している。ために、和州もなんなく落ちた。敵側にいた兵士たちも懐くのが早かったし、
何より城内の人民が、先に彼の味方になるのである。
和州城へ入った国瑞へ、郭子興は、
「お前が軍隊を統括せよ」
との軍令書を出した。
その命令を出した日の夜、
「俺の跡は、奴に任せておけば問題ない。あのあばたは大した奴だ」
悦の元を訪れた子興は、いつになくしみじみとした様子で漏らしたものだ。
和州城は戦乱のため、荒れ果てている。よって、子興は国瑞へ、
「諸将をまとめて、まず城壁の修理から行え」
と命じていた。
国瑞はしかし、将軍たちの中で己が一番年若く、ために他将が己の命令を聞かぬことを畏れて、子興からの
軍令書を懐へ秘していたのだ。
城壁修理の工期は三日とされたが、その工期を守れたのは国瑞だけで、その鮮やかな手際を見た諸将たちは、
恥じ入って顔を上げることも出来なかったという。
ここにおいて初めて、国瑞は子興からの軍令書を皆に示した。さらに、軍隊によってかどわかされていた婦女子を
解放して、民衆を喜ばせている。
そのような、誰にも文句を言わせぬやり方を聞き知って、
「まことに大した奴だ。あいつなら、たとえ年上の人間が相手でも、対等に渡り合っていける。安心して
跡を任せられる」
勧められた椅子にどっかりと腰を下ろし、子興は深く感嘆の息を吐き出したものだ。
そんな養父の頬はやはりげっそりとこけていて、
「跡、などと不吉なことを仰いますな。親父殿はまだまだお若くていらっしゃいます」
悦は思わずそう言った。娘婿に対する信頼が深いのはありがたいことだが、
「私はまだ、貴方に少しも恩返ししておりません」
なさぬ仲である己を育ててもらった、そのことへの恩を返せていない。そう言うと、
「そんな小さなことを気にするな。俺は、俺がそうしたいと思ったからそうしたのだ。それよりも、
どうだ悦よ。俺の人物を見る目も、なかなか高いであろうが」
養父は、以前の養父の調子を取り戻してカラカラと笑った。
そして、
「お前は、お前の実の親父に良く似ている。あいつも、まことに良い奴だった」
養い子の顔を、首をかしげてつくづく眺めた後、「身体を厭え」と言い残して、部屋から出て行ったのである。
かの孫徳崖が和州に現れ、それを国瑞が受け入れたという報告がもたらされたのは、それから間もなく、
至正十五(一三五五)年三月のことだ。
「俺も和州へ行く。城の中のことはお前に頼む」
報せを受けて血相を変え、子興は悦に告げた。
言うまでもないことながら、孫徳崖は「子興監禁事件」の主犯である。その名前を聞いただけでも未だに
頭に血が上ってしまう子興へ、
「ひょっとするとあのあばた殿は、孫徳崖と手を結んで独立するつもりでは」
などと余計なことを吹き込む輩がいたものだから、
「噂ばかりでは話にならん。俺が自分の目で確かめる」
当然、慎重論も出たのだが、いかさま、「仇敵」のことだ。そう言い出したら聞かなくなってしまった。
娘の言うことなら聞くだろうと、それら慎重派から止めるように言われた悦も驚いて、
「どうかどうか、お考え直しください。もしか事態が悪くなればどうなさるのですか。それに、総大将が
軽々しく動くなど、それこそ話にならぬのではありませんか」
国瑞は、軽々しく敵と手を結ぶような人間ではない。親も同然の「舅」の仇なのだから、彼にとっても
孫徳崖は仇敵に当たるはずなのだ。それが徳崖を受け入れた、ということは、
「あばた殿にも、きっと何かお考えがあったか、やむを得ぬ事情があったに違いないとは思われませんか」
悦はそう続け、なおも諌めたのであるが、
「徳崖の奴は、口先三寸で人を丸め込むのが上手だ。いかな国瑞だとて、丸め込まれぬとは限らない。
そうなる前に、俺が止めるのだ」
養父はがんとして譲らない。
結局、娘やその他将軍たちの制止を振り切って、子興は和州へ発ってしまったのだ。
その後の報せをハラハラしながら待っていた悦は、
(ああ、やはり)
数ヵ月を経て、左右に支えられるようにしながら戻ってきた養父の姿を見、深く嘆息したものだ。



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