奇骨賛歌 11



 四  光と影と

夫婦になる誓いはしたとはいっても、戦いの最中でもあるし、何より国瑞のほうの親戚は一人もいないということで、
「もう少し賑やかになさればよろしかったのに」
郭珠が口を尖らせたように、朱国瑞と馬悦との婚姻式は、まことに簡素なものだった。
しかも国瑞は、
「では、俺はこれから故郷へ戻って兵隊を集めてくる」
夫婦の契りを結んだまさにその翌朝、そう言って慌しく城を出発していったのである。
「先ほどの攻防戦で、かなりの人数を失ってしまった。だからだ」
珍しく素直に「すまない」と口にしながらも、
「俺が自ら行かねば、人は動いてくれぬ」
彼は心持ち誇らしげにそう言ったものだ。
元軍が去っていったところで、この濠州城にもしばらくの小康状態が訪れた、と言っていいだろう。ために
国瑞に言わせると、
「俺がしばらく留守にしても安心だ。この間に動く」
ということになるらしい。
(確かに、彼しかいないだろう)
養父の郭子興は、誰が見ても分かるほどに意気消沈していた。拉致の衝撃から未だに立ち直っていないらしいことが、
容易に推測できる。それに「犯人」の孫徳崖の行方も分かっていない。
どうやら和州や濠州を転々と逃げ回っているらしいとの情報を得るには得たが、戦いの最中とて、彼らをわざわざ
捕らえるだけの余裕はないから、
「またぞろ、俺に悪さをしにくるのではないか」
子興は悦にまでもそんな風に愚痴り、また、
「どいつがまた、奴らに俺を渡そうと手引きするか分からない。お前の義兄らは頼りにならん」
共に連れて来た実子の不甲斐なさを、だれかれ構わず繰り返し嘆く。
他の将校にしたところで、
(そんな雑用は、俺がやるべきことではない)
と思っているのが、顔にありありと表れていた。そればかりか、
「かの、、、あばたには、ちょうどよい仕事であろうよ」
鼻を鳴らして言うのだ。
各将は、どうやら国瑞を嫌わぬまでも煙たく思っているらしい。なにせい、今までの戦いで……さほど
大きな戦いでは無かったとはいえ……彼は負けたことがない。しかも率先して彼らの親分であるところの郭子興を
助けたのだから、功績は誰より重いと言える。従って、濠州紅巾軍と言えば、今は子興と朱国瑞が率いる軍のように
兵士に認識されてしまうのも、当然といえば当然だったかもしれぬ。
何より第一に、国瑞という人間には癖がありすぎた。彼という複雑な人間を理解し、愛するには、
よほど寛容な心を持っていなければならぬらしい。つまり、常人の感覚をしている各諸侯には、そのことは不可能である。
ために、
「子興殿を助けたはよいが、もう少し方法というものがあったろう。元は流浪の乞食坊主であったというが、なるほど、
と思わないか」
奪い返すのに、手段を選ばず盗賊のような真似をした、と、将の連中はこそこそと言い合ったものだ。
その妬みは、養女であるところの悦を妻にしたことで、さらに大きくなったに違いない。養い子とはいえ、
子興自身が悦を実の娘同様、この上なく慈しんできたということは、誰もが知っている。
「子興殿は、いよいよ彼奴を己の跡継ぎにしようとしているのだ」
右のようなことを将軍連中が言っていると郭珠から聞かされ、
「また馬鹿馬鹿しいことを」
悦は繕い物の手を止めずに、そう言って苦笑したものだ。
国瑞と夫婦になってから、そんな話は腐るほど漏れ聞いている。例えば廊下をすれ違いざま、
「あのあばたの妻ともなれば、気骨が折れることであろう。いつなと俺へ乗り換えられよ」
わざわざ彼女へ近づいて、そんな不遜なことを言っていく輩もいるのだ。
そんな時、悦はかすかに首を振り、静かに笑うのみである。
彼女は今この時も、将軍や兵卒のわけ隔てなくその衣服を繕い、下働きの者に混じって皆の食事を作っている。
悦の立ち居振る舞いは、定遠の郭邸に居た時、ひいてはその前と、なんら変わらない。
「でも姐様。これから先、あばた殿がお兄い様方を軽く見るということも、有り得るのではないでしょうか」
口を尖らせて反論する珠も、ようやく落ち着いたのか、大きな瞳に輝きが戻ってきている。日に日に美しくなる義妹の、
艶めく黒髪を撫でながら、
「どうしてそう思われるのですか」
微笑んで悦は問い、しかし心の中で、
(有り得ぬことではない)
と思っていた。
この義妹は、変わり果てた実父の姿を見ることを恐れている。そのため、あの後一度も子興の滞在している部屋を
訪れたことがない。従って、
(親父殿の考えを知らないのだ)
「貴女もご存知でしょう。あばた殿は、皆が言うほどお悪い方ではない。むしろ良く気の付く、教養の深い方ですし、
どなたに対しても公平に接しておられますよ」
考えていることとは裏腹なことを、悦は言った。
心の中では、
(いずれ、お兄い様方はそうなるだろう)
郭珠の考えているようになるに違いない、と、彼女は思っている。
郭家の子弟たちは、国瑞が意識するしないに関わらず、やがて自然に、か、あるいは故意に……最も容易に
想像がつくのは、子興が亡くなった時であるが……軍隊の中核から追いやられるに違いない。繰り返しになるが、
実子でありながら、父の子興の危機に際して機敏に動けなかったのが、何より痛い。
(何よりも、親父殿自身がそう考えていらっしゃる風なのだから)
悦はこの城へ移ってきてからというもの、日に一度は養父の様子見舞いに彼の部屋を訪れる。この養い子の顔を見ると、
子興は必ず側近の者を遠ざけて、
「実の子とは言っても、いざという時に当てにならぬもの」
己の息子らの不甲斐なさに対する愚痴を漏らしては、
「確かに俺も言いすぎたが、まさか信じていた奴らに裏切られるとは。国瑞の奴も、兵士を集めるといって俺から離れた。
ひょっとするとこのまま逐電するのではないか」
言って深く吐息をつく。
その姿からは、かつて自信と気力に満ち、ために魅力に溢れていた面影が微塵も見られない。ために陽気な子興が
好きであった兵士たちも、近頃は彼をどことなく敬遠している雰囲気さえ感じられるのだ。
子興がそのような体たらくであるから、今の濠州紅巾軍の指揮は、かつて国瑞と共に子興を助けた彭大が取っている。
これは、年長者を敬うというこの国の慣習が原因と言えよう。
子興救出現場に居合わせた物に言わせれば、彭大はただ国瑞に付いていっただけ、ということになる。子興救助のために
尽力したのは、実際には国瑞とその部下たちなのだが、傍からすれば、
「彭大と、朱国瑞の二名で大将を助けた」
というように見える。
それに、国瑞はやはり若いし、先述のごとく性格にムラがありすぎ、人望に甚だ乏しい。従って、子興を共に
助けた彭大のほうが自然、子興に代わる大将のような立場になってしまった、というわけだ。
従って、彭大の部下たちも、
「俺たちの親分が、子興様を助けたのだ」
そんな思いからか、どこか尊大な態度を取るようになってしまっていた。そこへ、いつの間にか趙均用と
その部下たちも加わって、事態はより複雑になっている。
趙均用といえば、かつて孫徳崖と共謀して子興の監禁を図った人物である。だが、趙の方は、この時点でもまだ
逃亡を続けていた孫徳崖とは違って、いささか度胸に欠けていたらしい。
国瑞によって、子興を奪い返されたと分かると、
(これは敵わない)
と考えたのだろう。数日も経たぬうちに濠州城までやってきて、
「二度と裏切らぬから、貴方の配下に加えて欲しい。私の部下も貴方の配下として、ご自由に使って下さって構わない」
彭大に向かい、厚顔無恥にもそう言ったものだ。
彭大にしても、かつての裏切り者とはいえ己の勢力が増えるのは大歓迎、といったところであったろう。子興が
やる気を失っているのをいいことに、趙均用を独断で許した。
彭大が事の次第を子興へ報告したのは、趙均用とその配下を己の部隊に組み入れた後のことである。それについても
子興は、
「貴方の良いようにしたがよい」
驚いたことに、投げやりに許可を与えたのだ。
したがって、かつての裏切り者は大手を振って城内を闊歩するようになった。それに苦言を吐こうものなら、
彭大に睨まれよう。今の子興に訴えた所で、彼の繰言ばかり聞かされる、といった具合であるから、
(ひょっとしてあばた殿もまた、こういった親父殿や、その周りから離れたがっているのかもしれない)
彼女の夫ばかりではなく、心ある武将もまた、今の子興に何とも言えぬ歯がゆさを感じているに違いない。
それやこれやで悦は、
(あばた殿は早晩、親父殿を見限るであろう)
そこまで考えて、密かに覚悟を決めていた。
子興自身と言えば、
「養女ではあるが、お前をあいつの嫁にしておいて良かった。血のつながりや縁など、まことにはかないものだが、
それでも無いよりはましだ」
とまで、悦に愚痴る。さらに、
「お前だけは、俺を裏切ることはないであろう。であるから、国瑞の奴に、万が一不審な素振りがあっても、
お前が奴を説き伏せてくれよう。頼りにしている」
全くもって、信頼されているのか疑われているのか分からない。それにいつもこんな風に言われていては、
いくら子興を慕っている人間でも、反って気を悪くしよう。
むろん、子興自身にはまるで悪気はなく、ただ思ったままを言っている。だが、それも場合によりけりであろう。
これまで周囲に気を配らずとも生きてこられた、その弱点が今になって出たのであり、
(親父殿も、そういう意味では気の毒な方なのだ。だから、せめて私だけでもお慰めせねばならない)
不遜ではあるが、そんな風に考えるようにしている悦も、あまりに続く養父の愚痴吐きに、時には眩暈を覚えそうになる。
身内でさえそうなのだから、国瑞だけではなく他諸侯であれば、尚更気が滅入ることであろう。
ゆえに、
(あばた殿が己の郷里へ戻ったのは、兵士を募集することももちろんだが、こういった暗さを嫌ってのことかもしれない)
子興の醸し出す、言いようの無い曇った空気を吸い込むのが、少しわずらわしくなったのかもしれぬ、とも、
悦は考えていた。
愚痴ばかり零す大将に、ついてゆきたいと心から思う人間がいるとは思えない。調子付いている時は良いが、
一度挫折を味わうともろいという点、子興にもやはり贅沢に育った金持ち息子の甘さがあったといえる。
「国瑞が、新たに七○〇人もの兵士の徴募に成功して、やがてそれらを率いて戻ってくる」
という報せが濠州城を沸かせたのは、国瑞が出発してからわずか数ヵ月後のことだ。
ために、
(今日はきっとお喜びになるに違いない)
「また父のところへ行くのか」と、うんざりした顔で言う義妹へ笑いかけ、悦はいそいそと部屋を出た。
(私も共に悦んで差し上げたい)
少しでも明るい報せを聞けば、養父の陽気さも、わずかなりと戻るかもしれぬ。久しぶりに軽い足取りで
養父の部屋を訪れた悦は、
「お早いお着きなことですね」
そこに夫の姿も見て、目を丸くしたものだ。
「お前に会いたいから、こいつは早く帰ってきたのだ」
代わって答えたのは、久しぶりに聞く養父の明るい声である。その左右には相変わらず彭大、趙均用と
その部下たちがふんぞり返っているが、
(女が表向きのことへ口を出すべきではない。劉先生も仰っていたではないか)
「親父殿も、今日はお加減がよろしいようで何よりです」
悦は努めて気にせぬよう、養父へ向かって微笑を返した。
すると子興は、近頃は滅多に聞かせぬ笑い声を上げながら、
「このあばたが、己が苦労して集めたろう兵士を全て、俺の直属にしてくれると言うのだ。大した奴だ、お前の夫は。
だから、鎮撫にしてやった」
傍らに居た国瑞の肩を叩いて上機嫌で言う。
「俺の威勢も、これで少しは蘇ろうというものだ、なあ」
「それは、まことに」
曖昧に語尾を濁しつつ頭を下げながら、悦はちらりと夫の様子を伺った。
(まっこと、単純なお人さ)
取ってつけたような笑いを口元に浮かべている国瑞の顔は、養父をそのように評しているようである。
それに、国瑞は例え部下とは申せ、己を救い出してくれた、いわば「恩人」であろう。それへ向かって、かの人の
一番気に食わぬあだ名で子興は呼んだ。
娘婿であるから、という甘えと信頼もあったのだろうが、皆の前でそう呼ばれて、国瑞が果たしてどう思ったか。
とまれ、これで子興は、少しではあるが以前の明るさを取り戻したように見えた。
が、その夜催された酒宴の後、
「俺が居らぬうちに、ここは甚だ面白くないことになってしまったな」
国瑞は悦の部屋へやってきて、小声でこぼしたものだ。
悦の勧めた椅子に、彼はどっかりと腰を下ろした。組んだ両手を頭の後ろへやって、黙ったまましばらく宙を
睨んでいたかと思うと、
「お前は、いつまでも俺と共にあるか」
初めて出会った時と同じ、疑いを浮かべた鋭い目を悦へ向けて、尋ねたのである。
そんな夫へ、
「何ゆえにそのようなことを尋ねるのか」
と、悦は尋ね返さない。こんな時の夫は、決して彼女の返事を欲しているわけではないのだ。さらに、その言葉が
反って彼女を信頼している証でもあることを、聡い彼女は既に察している。
黙ったまま小首をかしげ、国瑞を見つめていると、
「親父は、彭大と趙均用の顔色を伺ってばかりいた。奴らは、俺が集めた兵士が俺の物になることが
気に食わなかったらしい。親父がそれを言いかけると、こぞって反対した。親父は彭大に借りがあると思っている。
だから、俺は集めてきた兵士を親父に預けたのだ。そうでもしなければ、あの場は切り抜けられなかった」
太く、哀しげなため息を、夫は吐き出すのである。
「親父は、いい奴すぎる。できれば戦いなどない時、共に酒を飲む友として出会いたかった。だが、それ以上は無理だ。
いい奴、というだけの人間は信用出来ないし、いざという時に頼りにならぬ。それを俺は、嫌というほど知っている」
「心から人を信じられぬ」と言いながら、真実は人が恋しく、信じたくてたまらない気持ちがその様子からは溢れていて、
(やはり、そうなったか)
悦は労わりを込めて夫を見つめ直す。
そういった言葉が国瑞の口から出るであろうことは、ある程度覚悟していたから、彼女はさほど驚かない。そんな悦へ
視線を戻して、
「だから、これから俺は、徐達や湯和や……昔からの仲間だけで、定遠へ行くつもりだ」
国瑞は言い切った。
「お仲間だけで行くおつもりなのですか」
夫の昔からの仲間というと、聞き知っただけではざっと二十数名しかいない。
「ああ、そうだ。しばらくの間はな」
驚く妻を光の戻った瞳で見つめ返し、
「定遠へ行くまでの間に、ろぱい驢牌という名のとりで寨がある。そこに立てこもっている奴らを、俺の兵にする。
そこにいる奴らは、軍に属している奴等ではないから、説得すれば応じよう。俺はこれからも、俺の力で俺の軍隊を
作ってやる」
国瑞は力強く頷く。
「郭の家も、きっと取り戻してやる。心配するな。俺なら、お前の家を二度も焼かせん」
言ってから照れたのか、ふいと妻から顔を背けて立ち上がり、
「今夜はお前を抱かぬ。これから俺の人生をかけた勝負に出るのだ」
迷信にすぎないが、いくさの前に女に触れるのは不吉であると言われている。それを守る、と言いたいのであろう。
扉の側まで行って振り返りながら、
「よく休め。帰る場所がくたびれてしまっては、俺も張り合いがない」
夫はそこでようやく笑い、発っていった。
国瑞が悦に告げたのは、大げさに言えば軍の最高機密である。細部までではないだろうが、それを己に打ち明けたと
いうことは、
(彼は私を、そこまで信じてくれているのだ)
悦は嬉しく思う反面、
(義理の兄達はともかく、親父殿と郭珠はこれからどうなるのか)
寝床へ腰掛けながら、暗澹たるため息を着いた。
国瑞に嫁いだからには、いかに常に共に暮らしているとはいえ、別の所帯である。郭家の細部には、今までのように
あまり立ち入るようなことをしたくない。
なるほど、確かに悦が采配してきたのは内向きのことのみであるが、
(もしもこれからも私が郭家の面倒を見続けたら、郭家の存続も危ういのではないか)
義妹が無意識に察しているように、国瑞が郭家を乗っ取る、という形になるかもしれぬ。となれば、これは子として
最大の不孝であろう。
(珠のことを言えぬ)
苦笑しながら見やった開け放しの窓からは、温い春の夜風が吹きつけてくる。軍隊の喚きが驚くほど近くから聞こえてきて、
(行動力も度胸もある彼のことだから)
窓枠へ両手をかけ、無意識に夫の姿を探しながら、悦は思った。今回も彼が自分で言っていたとおりのことが、
ほどなく成し遂げられるに違いない。
城内は、おびただしい数の松明に照らされて昼のように明るかった。
彼の姿を探し当てると同時に、既に騎乗していた国瑞のほうも悦に気づいたらしい。口をぐっと結んで右手を
大きく振っている。
思わず破顔して手を振り返すと、国瑞は再び大きく頷いて馬首をめぐらした。その後を慕って行くのは、わずか二十四騎。
後のことであるが、いつしか同年代の国瑞を慕うようになっていた郭子興の次男、興及び三男の英も加わった
この二十四騎が後ほど、国瑞を頂点に抱く明帝国の基を作る中枢人物となった。が、当然ながら、今の悦には
そこまで予見できぬ。
松明が照らしているのは、城の周りのみである。少し離れただけで、夫の率いる軍はもう見えなくなってしまう。
馬の蹄の音が遠ざかっていくのを聞きながら、
(どうぞ、ご無事で)
その方角へ向かって悦は深々と頭を下げた。

結果的には、国瑞が宣言したように、事は驚くべき短期間で進んでいる。
南下して定遠へ向かう途中、驢牌寨(定遠県張家堡)に立てこもっていた民兵を己の配下に加えたのが、至正十三年夏。
そこからさらに南へ向かい、横澗山に駐屯していた元の将軍、張知院の軍を夜襲して、定遠を下したのが翌十四年。
その際、降伏した兵二万を自軍へ組み入れて、朱国瑞の威勢はさらに強くなったと言える。
これまでもしばしば留守にはしたが、二人がこれほどまでに長く離れていたのは、夫婦となってから初めてであろう。
ために、
「安心して食える飯の作り手や、衣服の縫い手がいなくて困っている」
一月に一度、律儀に寄越す手紙の中で、夫はいつもの彼らしく、いささか天邪鬼に妻の悦へ常にそう述べた。
さらに先ほどの戦果のいちいちを報せて、
「お前が郭の家に帰るのも、そう遠いことではない」
楽しみにしているように、とも言い送っている。
また、国瑞は定遠において、新たに李善長という猛者を部下に加えている。新たに加わったその武将もまた、
国瑞へ向かって、
「貴方は漢の高祖のような振る舞いをすべきだ。否、貴方はすでに高祖のようである」
そう言ったらしい。
これでますます機嫌が良くなったらしく、
「これからお前の親父殿も、定遠へ迎える。俺が漢の高祖なれば、親父はさしずめ、その舅の呂文といったところか。
だが、俺がいつでも弱い者の味方であることは変わらない」
つい先日届いた手紙には、何度もそういったことが書かれてあった。
時に、至正十五年正月。戦時下ではあるが、悦の提案でささやかに新年の宴が設けられることになった。その準備の
合間のことである。
いつしか外では、細かい雪が降っていた。意外にマメで筆達者な夫の文字を眺めつつ、
(まるで、いつも褒めてもらいたがっている幼子のような)
悦はクスクスと忍び笑いを漏らしたものだ。
だが、そこからさらに手紙を読み進めた悦の顔は、瞬時にこわばった。それはむろん、
「郭邸も、いささか損傷していたから、もう一度住めるように部下に手入れをさせた」
その監督を兼ねて郭家の周りを見回った、と、夫が述べた、その部分のためではなく、
「その最中に、胡惟庸という名の、なかなか男前な奴に会った」
その名に、半ば忘れかけていた過去の記憶が呼び起こされたからだ。
繰り返しになるが、胡惟庸というのは、かつて悦の父に親族を殺された経緯を持ち、そのために悦を仇の娘と
罵ったかの人物である。
「男前という以外に、何の取り柄もなさそうな奴ではあるが、俺の軍に入りたいと懇願してきた。その様子が
あまりにも哀れなので拾った。使い走りの用には役立つかもしれない」 
当然ながら、細かいことまでは夫は知らぬ。手紙は、何と言うこともなさそうに続き、
「定遠がある程度落ち着いたから、お前や親父殿、郭家の人間を迎えに行く。準備をして待っていろ」
と結ばれている。
しばらくの間、動悸を抑えるために深く呼吸を繰り返した後、
(まあ良い)
ようやく己の心が落ち着いた。
(彼に極力、関わらねば良いことだ。もしも関わらねばならなくなっても、他の武将と同じように接することを
忘れてはならない)
郭珠もいずれ、このことを知るであろう。その時に彼女がどれほど騒ぐか、と苦笑したところで、
「姐様、親父殿がお呼びです」
まさにその義妹が呼びに来た。
「何の御用でしょうか。聞いていますか」
夫の手紙を丁寧にたたみ直し、胸元へ仕舞いこみながら悦が尋ねると、
「あのあばた殿の使いが来ました。私たち、定遠へ戻れるのですって。ですから、親父殿が姐様にも
知らせて来るようにと」
悦の袖を引きつつ、珠は弾むような声で返事をする。
「それは良いことですね」
素直に喜びを表す義妹へ微笑みながら、
(いつもながら、行動のお早いこと)
心の中で、彼女は己の夫へ舌を巻いていた。
極度の照れ臭がりのため、素直に口に出して言わないが、これも「喜びを知らせるのは早いほうが良い」という
国瑞の気遣いなのであろう。その暖かさのおかげで、先ほどの不快感はいささか拭われた。
だが、惜しいかなその「思いやり」の恩恵を受けられるのは、悦も含めて彼が心を開いているごくわずかな人間のみである。
夫は、己が漢の高祖と比肩すると言った。だが、漢の高祖、劉邦は国瑞とは真逆の性質をしていて、他人へ己をさらけ出し、
仲間を増やしたという。
(そこが、高祖とは少し違うところだ)
さらに上機嫌の養父へ向かって祝いの言葉を述べながら、
(我が夫は、素直な思いやりをもっと皆に示すべきではないか)
と、悦は思っていた。





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