奇骨賛歌 10



気が付けば、空はどんよりと曇っていた。
(雨が降るかもしれない。なんとつれない)
この上なく慌しく寂しい「葬儀」を見守る悦へ、
「この家には、信頼できる者を残しておきます」
徐達が話しかけてくる。
「ありがとうございます」
それへ頷くうちにも、養母は裏庭にある一本の桃の根元へ深く深く埋められていく。
「私たちも参りましょう。足手まといになってはならぬ」
首を振るばかりで動こうとしない郭珠を、その場から引き剥がすようにして、悦は家の外へ向かった。
用意されていた輿へほとんど強制的に乗せられて、
「姐様は、哀しくはないのですか。お袋様のことを悲しんでは下さらないのですか」
向かい側に座った郭珠は、恨みがましい目をこちらへ向けてくる。
彼女らが乗った途端、輿は激しく揺れ始めた。どうやら担いでいる兵士たちも走っているらしい。
「あれだけ、あの家に残ると仰っていたくせに、あれは嘘だったのですか」
「私たちが残ると、私たち自身が親父殿の枷になってしまいます。そうすると、今度は親父殿の命まで
危うくしてしまうことになりませんか」
聡明とまでは行かないが、もともと義妹も察しが悪いほうではない。言われて唇を噛み、両の膝に爪を立てて
俯いてしまった珠へ、
「お袋様に続いて私たちまでいなくなってしまっては、親父殿がどう思われるか。それに私たちがいなければ、
いつかあの家へ帰って、お袋様の弔いをする者がいなくなりましょう。劉先生に教わったように、子として
これ以上の不孝がありましょうか。あなたは、その不孝を犯すのですか」
(私が泣いてはならない。残されたこの義妹を護らねばならない)
己に言い聞かせながら、わざと厳しい声音で悦は話しかけた。
このような状態でなければ、何よりも自分が大声で泣き喚いていたろう。だが、今涙を流してしまったら、
きっと心が折れてしまう。生きていることさえどうでも良く思ってしまうかもしれぬ。
黙りこくったままの郭珠から目を反らし、悦はそっと窓へ手をやって外の様子を覗いた。兵士たちに担がれた輿は、
何度か担ぎ手が代わったが、相変わらず激しく揺れ動き続けている。もしも心が悲しみに満ちていなければ、
とうの昔に酔ってえずいていたに違いない。
窓が少し開いたのを見てか、
「お袋様。今、淮河にかけられた橋を渡っております。出来る限り急がせておりますが、濠州城に到着しますまで、
少なくとも一両日はかかります。今しばらくのご辛抱を」
ずっと輿の傍らに付いていたらしい徐達が声をかけてくる。
「お気遣い、感謝いたします」
少しばかり顔を覗かせて悦が礼を言うと、
「なんの。お疲れならば仰ってください。いつなと少憩を取りますので」
徐達は鉄板のように黒い顔をほころばせた。かと思うと、次の瞬間には厳しい顔へ戻って、
「何某村へ入ったが、追っ手は来ないか。元軍と思われる輩は潜んではいないか」
などと兵士たちへ叱咤を飛ばして探索の手を入れる。
兵士たちに念入りに確認させてやっと、彼は「進め」と命令するのだ。その一方で、硬くなっているであろう
娘たちの心をほぐそうとしてか、
「我が主、重八殿も、お袋様のことを気にかけておいでです。素直に言葉の出ぬ人柄ゆえ、誤解されることも
多いのですが、本当は誰よりも情の深い方なのですよ。郭のお嬢さんにも、己の顔のせいで怖がらせて
しまったことを、しきりに後悔なさっているようです」
などと冗談交じりに言う。
兵士を動かす手際の鮮やかさや、己に対する心遣いなどをまざまざと見せ付けられて、
(こういう方々が、あばた殿の下についているのか)
軍のことなど元より何も知らぬ悦である。素直に賞賛しながら、
(あばた殿というお方は、本当に不思議な人だ。徐達殿のような方を惹きつける何かを持っているのだ)
重八のことをそのように風に評した。この分なら、自分と義妹はきっと無事に濠州城へ届けられるに違いない。
さても、輿は揺れ続けた。
「姐様、私はもう平気ですから、姐様も少しはお寝りください」
そう言いながら、さすがに気の強い郭珠も眠れぬらしく、寝不足と酔いとで目の周りを黒く縁取らせている。
(無理もない)
その姿がいじらしく、年長である己への気遣いも嬉しくて、
「あなたこそ、少しはお休みなさい」
己もきっと同じような表情をしているのだろうと思いながら、悦も労りを込めた言葉を返した。
悦が言うと、珠もわずかに微笑んで目を閉じる。その様子に少し安心して、悦はとじられている窓へ目をやった。
(今、どこの辺りを進んでいるのか)
定遠から一歩も出なかった身であるから、地理は皆目判らない。だが、窓の隙間から吹き込んでくる風が
やや乾いていて、
(また違うにおいがする)
気のせいであろうか、そんな風にも思える。
季節はまるで違うが、現在の状況は、
(あの時と同じだ)
かつて雪の中、父に抱えられて走った。今も鮮明に脳裏に焼きついているあの光景を、彼女に思い出させた。
こういった危機にさらされても、己が存外落ち着いているように思えるのは、
(ひょっとすると、その時の体験が物を言っているのかも知れない)
などと苦笑交じりに考えていると、
「お袋様、加減はいかがですか。味方の湯和(とうわ)が参りました。もしもお休みでなければ、お顔を
貸してやっていただけませんか」
遠慮がちな徐達の声がして、悦は窓を開けた。
そこには、すっかり見慣れてしまった徐達のひらぺったい顔と、
「お袋様、お初にお目にかかる。俺、いえ、私が湯和です」
よく使い込まれた鉄の鍋底のような顔をした、凹凸の激しい武将の顔が並んでいて、
「親父、いや、子興殿と重八殿が濠州城から元軍を追い払いました。これより城内へ入ります。周りは
俺たちの味方ばかりですので、安心するがよろしい」
これでも精一杯、気を遣っているのだろう。なるべく丁寧な言い方をしようと心がけて、それでもお里が出る、
そして隣の徐達にわき腹をつつかれる、というのを繰り返している様子を微笑ましく見ながら、
「ありがとうございました。これからもよろしくお願い申し上げます」
悦は輿の中で頭を下げた。すると湯はこころもち誇らしげに胸を反らし、礼を返して徐達と共に
輿の側から去ってゆく。
かくして輿は城門をくぐり、街の中へと進んでいった。進んでいくと、いつしか細かい雨が降り始め、
辺りは少し暗くなる。
ぐったりとした顔をしていた義妹も、いつの間にか体を起こして物珍しげに城内の様子を眺め始めた。
輿の屋根に当たる細かな雨音を聞きながら、
(兵士の中では、私はどうやら既にあばた殿の妻であるらしい)
悦は笑みを浮かべていた。
いつの間にか己も、「お袋様」と呼ばれ慣れてしまった。そう思うことが出来るようになったのも、
ほんの少しではあるが安心できたためであろう。
この大陸では、古代より主だった都市において、街は城の砦の中に作られている。元軍が去った直後である、
というせいもあってか、街並みは少し雑然としていて、
「常は、もっと賑やかで明るいのですよ」
徐達が気を利かせて話しかけてくれることを、悦は(さもあろう)と頷いて受けた。
輿の中から、そこかしこに破壊された民家がある。中には未だに煙が上がっている家もあって、その傍らに
住人であろう家族が、途方にくれて佇んでいるのが見えた。そしてそれは、一箇所や二箇所ではなく、
城内の街道を延々と続くのである。
ために、
(相当な攻防戦だったのだ)
戦いに疎い悦にも、そのことが分かった。この惨状に比べれば、つい先ほど己が経験した戦いは、
戦いと呼ぶに至らぬほどに小さなものだ、とも思った。
後ほど悦が小耳に挟んだところによると、濠州城が持ちこたえたのは、子興と国瑞が良く戦ったということもあるが、
何よりも元軍側の将軍である賈魯が死んだというのが大きいらしい。
これが至正十二(一三五三)年初夏五月十五日のことで、悦が郭珠と共に城内へ迎え入れられたのは、それから
二週間ばかりの後である。
つまり、戦禍が過ぎ去ったばかり、という頃合なのであるが、それでも城内に入ったからには、自分たちの身は
もう安全であろう。後は、
(お袋様や家のこと、どのように親父殿にお話しするか)
気が緩んだせいか、義妹がしきりに不快を訴える。彼女の背をさすりつつ、悦はそのこと
ばかりを考えて、こっそりと吐息をついたものだ。
子興自身も、つい近頃まで囚われの身になっていたのである。そんな養父に妻の死を告
げるのは酷かもしれぬ。だが、郭家の中で起こったことは、やはり郭家の一員が話すべきで、その役目を
果たすことの可能な者は、今は自分しかいないのだ。聡明な悦は、そのこともまた重々承知していた。
家や妻の有様を聞けば、覚悟していたこととはいえ、養父はさぞや落胆するであろう。悦に対して、
面と向かっては言わぬであろうが、なぜ最後まで養母の側にあって、運命を共にしなかったのかと心中恨むかも知れぬ。
(だがそれでも良い)
やがて輿はようやく止まった。城の中へ悦と郭珠を導く兵士に従って歩きながら、密かに覚悟を決めていた悦の前で、
「お嬢様方、お連れしました」
兵士の声と共に、重そうな両開きの扉が内側へ動く。
中から現れたのは、床へ剣を突き、それへ両手を乗せて立っている人物だった。それを見た途端、郭珠がくらりとよろめく。
慌てて義妹を支えながら、
「親父殿ですか」
悦もまた、信じられぬような心地で、変わり果てた子興を見つめ直したものだ。
ふくよかであった頬は、顎の形が分かるほどにげっそりとこけていた。いつも穏やかで、危険な戦いを
どこか面白がってさえいるように微笑っていた瞳の光は、
「お前たちは、本物の悦と珠か」
こちらへ向けられる声以上に、猜疑に満ちている。
「はい、確かに私ども、あなた様の娘どもでございます。徐達殿に送られまして、ただ今到着いたしました」
(親父殿の中で、何かあったらしい)
軟禁生活がよほど堪えたのであろうか。よくよく見ると立っている足が少し震えている。
(もしや、剣でお体を支えているのでは)
「食は、きちんと取っておいでなのですか」
戸惑いながら尋ねた悦へ、
「お前が心配することではない。俺は休む」
彼女が驚くほどに投げやりに応じて、養父はよろよろと娘たちの横を通り過ぎていくのだ。
優しかったはずの父の変わりように、これまた大変な衝撃を受けたのだろう。「己も休む」と言い出した珠を、
郭屋敷から連れてきた使用人が連れて出て行った。
その後を、部屋にいた兵士達がどやどやと追いかける。呆然と見送る悦の後ろから、
「子興殿は、お疲れなのだ。あれでもお前達の顔を見るまではと踏ん張っておられた」
懐かしい声が聞こえた。
ようやく肩の荷を下ろせたように思いながら、
「親父殿を救っていただいて、本当にありがとうございました」
悦は振り向いて頭を下げた。
すると、
「お前は、疲れてはいないのか。腹は減っていないのか」
口元の髭を人差し指の先でボリボリ掻きながら、重八は言うのだ。
「お前は健気で、気丈な奴だ。だから今回も、お前さえいれば郭家は大丈夫であろうと思っていた。だが、
何と言ってもやはり女だ。だから俺も、ほんの少しではあるが心配してやっていたのだ」
彼の口から、悦に対する気遣いの言葉を聞くのは、これが初めてである。己に対する呼びかけも、「貴様」から
「お前」に変わっていることに気づいて、
「……驚きました。嬉しいです」
悦は素直に目を丸くし、微笑った。
「重八殿は、衣食に不自由などなさっておられませんでしたか」
尋ねると、
「重八ではない。国瑞と呼べ」
彼は顎をしゃくり、得意そうに胸を張って言うのだ。
「お前も知っての通り、俺は数々の手柄を立てた。だから元の名では格好がつかん。ゆえに、国瑞と名乗ることにして、
それが許されている。これからはお前もそう呼べ」
得々と話す彼の顔は、相変わらず茶色い痘痕だらけであり、団子鼻は依然としてその存在を誇示している。
話し方も高飛車なままではあるが、
「女だが、お前には特別に許してやる」
言う彼の様子が何とも微笑ましく思われて、
「分かりました、あばた殿」
ついそう応じ、悦ははっと口を押さえた。
途端、彼はみるみるムッとした顔になり、
「お前たちが、俺をそう呼んでいるのは知っていた」
フン、と鼻をひとつ鳴らして言った後、
「だが、お前にそう呼ばれるのは悪くない。だが、お前にだけだ」
蚊の鳴くほどに小さな声で続けたものだ。
重八改め国瑞の変わらぬ様子に悦は再び口元を緩め、ついで慌てて顔を伏せた。
(泣くなど情けない)
ようやく安心出来たためか、気が緩んだらしい。唇を噛んで堪えようとすればするほど、嗚咽が喉から漏れて、
「お前のことは、お前の義妹や親父殿から色々と聞いた。もっとも、義妹のほうは俺を怖がって、
親父殿ほど話してはくれなかったが」
そんな悦におずおずと近づきながら、国瑞は呟くように言う。
「どれだけ悲しんでも、失ってしまったものはもう戻らない。俺はお前ではないから、お前の気持ちも、
安易に分かったなどと言ってはやれぬ。だが、その喪失感がどれだけ深いかは、俺にも分かる。理解できる。
だから、これをやる」
袖で涙を拭きながら顔を上げた悦の前で、国瑞はごそごそと懐を探り、小さく細長い箱を取り出した。
「お前の持っていた物と同じかどうかは分からないが、俺が兵士になって得た最初の金で買った。決して
盗んだ物ではないから、受け取れ」
「これは、何でございますか」
悦が再び丸い目をしながら彼の顔を見つめると、国瑞は首筋まで赤くして、
「いいから、受け取れ。要らなければ後で捨てろ」
悦へ箱を突きつけるようにしながら、再度言う。
恐る恐るそれを受け取って彼の顔を見ると、国瑞は再び顎をしゃくる。蓋を開いた途端、
「まあ、これは」
悦は言って、思わず国瑞を見上げていた。
中に入っていたものは櫛である。昔、悦が実母から伝えられたそれとは無論違うが、
(この人は、こういう一面も持ち合わせているのだ)
ただただ驚いて己の顔を見るばかりの彼女に向かって、
「俺はこの通り不細工で、女にも慕われたためしがない。それに、自分でも嫌になるほどに拗ね人で、
さらには意地張りだ。乞食同然の流浪の生活を送っているうちに、人に騙されたことなど数え切れぬほどある。
ために、己の性分の嫌なところが、ますます顕著になったように自分でも思う」
右の頬を己の手でつねりながら彼は言い、ついでぴしゃりとその頬を叩く。
「何十回と騙されて、馬鹿な餓鬼であった俺はやっと、他人に心を許してはならんと悟った。恐らくこれからも、
他人を心から信じることなどないだろう。だが、こんな俺でも見所があると言って、ついてきてくれた奴らも
大勢いる。ということは、俺も存外良い奴だ、と、言うことにならないか。だから」
そこで一旦言葉を途切れさせたと思うと、その手のひらで己の顔をつるりと撫でる。
続く言葉を待っている悦の前で、二、三度深呼吸を繰り返した後、
「もしも、お前も俺を気に入ってくれたら、で良い。俺の嫁にならないか。自分でも自分を持て余すような奴だから、
お前はもっと扱いに困るだろうと思う。だが、もしも俺についてきてくれるなら、いつでもお前を一番に考える」
国瑞は一気に言って、ぐっと口を結び、胸を反らせる。
悦は、しばらく呆気に取られて彼の顔を見つめていた。
(どうやら彼は、私に伴侶になれと言っているらしい)
確かに国瑞も口にしたはずなのだが、あまりにも突然過ぎた。ために、そのことを彼女が理解できたのは、
「嫌ならさっさと言え。俺は諦めの悪い男ではないつもりだ」
しばらくして彼が再び、拗ねたように口を開いた時である。
これがもしも悦ではなく、他の女人であったなら、まずその親に相手にされなかったであろう。いくら女性の地位が
低いといっても、少し無礼が過ぎるし理屈をこねすぎる。何と不遜な言葉を吐く若造であることかと、一蹴されて
終わりだったに違いない。
だが、箱の中の櫛を見つめながら、
「私とて、あまり器量の良い女ではありませんよ」
悦は微笑った。
他の男なら、相手の女の意思を確かめることなどせず、ただ黙って奪ったろう。だが、こうして婚姻の相手として
見ている彼女自身にに断りを通した、ということは、
(彼は、私を女ではなくて一人の人間として見てくれているのだ)
国瑞が悦のことを尊重しているということだ、と、彼女は考えたのだ。
「この通りの不器量ですが、それでも良いのですか」
悦が問うと、国瑞は目を丸くして彼女の顔を見つめる。そして、いささか慌てたように、
「あまり器量の良い女は俺の好みではない。妻にするなら、お前くらいでちょうど良い」
と言う。言ってから、これも女人に対して失礼だと気づいたのか、
「お前のような女だから、俺が気を遣わずに口を聞けるのだ」
と、さらに慌てたように付け加えた。
「まあ、失礼な」
言いながら、悦は思わずクツクツと笑った。
「笑うな。俺は女の扱い方を知らん」
すると再び怒ったように国瑞は言い、
「全く女というものは、これだから面倒くさい。俺の嫁になるのか、ならんのか。早く返事を聞かせろ」
口を尖らせて尋ねたのである。
気が付けば、いつの間にか雨は止んでいた。
「なります」
笑って頷いた悦の頬を、傍らの窓から差し込んだ日の光が照らす。一瞬、呆気に取られたような顔をして、次に、
「まあ、俺の頼みだ。聞かぬ女がいるわけがない。俺にも留守を守る者が必要だからな」
赤い顔をしながら言った彼へ、
「ただ、一つだけ、お願いがあるのです」
櫛の入った箱を胸に抱きしめながら、悦は告げた。
「もしも貴方が、この国から戦いを失くしてくれるなら。そしてそうなった暁には、二人で共にどこか
静かな場所へ行って、畑を耕しながら過ごしてくださるならば。私は己の食い扶持だけを養いながら、
信頼できる人たちとひっそり、穏やかに暮らしたいのです」
「お前という奴は」
驚いた顔をする国瑞へ、
「叶えてくださいますか」
悦は重ねて言った。すると、
「そのようなこと、たやすい事だ。だが、今しばし時間をくれ」
国瑞は、それまでに聴いたことのない朗らかな声で笑う。
「俺は農民の味方だ。人の食い物を作る基を為す奴らの味方だ。人のために働いている奴らが、なんで
底辺の暮らしを強いられねばならん。そんな、、、、クソッ、、たれな今の世を変えるのは俺しかいないと
思っている。そのためには、俺が」
熱っぽく語っていた彼は、そこで一旦言葉を止め、
「……俺が、漢の高祖になるべきだ。違うか」
悦の耳元へ厚い唇を近づけて囁いた。
「もっとも、これは徐や他の奴らの入れ知恵だがな。いかに俺でも、容易に成し得るとは思っておらん。
だから、時間をくれと言っている」
全く、国瑞の言うことには驚かされてばかりである。ただただその顔を見るばかりの悦から、体を少し離して
彼はまた笑った。そして、
「これから、また軍議だ」
と、扉のほうへ歩いていったかと思うと、取っ手に手をかけて振り返り、
「しかし、お前はという奴は、珍しい奴だ。世の中の人間は、己のみの栄達を求めるものだとばかり
俺は思っていた。女なら尚更、贅沢したいという欲望を抱くものだと。なのに、お前はそれを望まないという。
真実かどうかは分からないが」
ニヤリと笑う。
「いえ、私は本当に」
首を振りながら言いかける悦へ、
「俺についてくれば、いつか贅沢させてやる。それが皇帝だのなんのという、一握りの人間にしか許されぬと
いうのなら、俺もきっと、その一握りの人間のうちに入ってやるし、お前も入れてやる。きっとだ。
そんな風に思わせた女は、お前しかおらん。感謝しろ」
彼女の言葉を遮って、国瑞はそのように続けたのである。
(どうやら、私の言葉は冗談だと思われてしまったらしい)
閉まった扉を見つめて、悦は苦笑交じりに思った。確かに彼が言うように、自分は欲がないように見え、
ために今を生きる人間としては珍しい部類に入るのかもしれぬ。
(だが、私は本当に、贅沢なんぞしなくとも良いのだ)
悦は改めて思い、己もまた部屋の外へ向かうべく、扉へ向かって歩き出しながら、
(だが、彼はいくさを無くすると言ってくれた。私はそれを信じよう。その時が来るまで彼を支えよう)
とも考えたのだ。
時に、馬悦二十一歳。後に高皇后と呼ばれ、中国史髄一の賢皇后と称えられることになる女性は、
こうして誕生したのである。







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