奇骨賛歌 9



こうして濠州のほうは、親玉である子興がひとまず取り戻され、混乱していた軍系統も回復したところで、
やってきた元軍と一合戦する羽目になってしまったのである。
定遠、郭邸においても、蜂の巣を突いたような騒ぎが起こっていた。
重八によってもたらされた主、子興の無事の報せと、元軍の一部隊が定遠へ向かってやってくるという……
そして事実、やってきているという……報せを受け取ったからだ。
「姐様、どうなさるのです。私達はどこへ避難するのですか」
郭邸、張第二夫人の部屋では、郭珠が顔から血の気を引かせて、馬悦の袖を掴んでいた。
「あなたは、従姉妹の方々と共に、郊外の叔母(子興の末妹)様のところへお逃げなさい。支度はさせておきました。
今すぐにでも逃げることが出来ます」
義妹の華奢な両肩へそっと手を置いて、悦は安心させるように微笑む。
「分かりました。でも、悦姐様はどうなさるのですか? 私と一緒に来てくださらないのですか」
「私? 私は」
郭珠の問いに、悦は少し困ったようにしばらく目を伏せていたが、
「ここに残ります」
きっぱりと言い切った。
驚いて口を挟もうとする義妹へ、
「お袋様は、到底動かせぬ病人でいらっしゃる。それに、親父殿やお兄い様が戻ってこられた時に、
もしも家が無くなっていたら、どれだけ消沈なさるか」
(それに、私には今更どこへ行くという当てもない)
思いながら、悦はむしろ淡々と言うのである。
「しかし姐様! お袋様なら、乗り物へのせて、静かに運ばせればよいではありませんか。何もこの家のために、
あなたが犠牲になることは」
「あなたはお逃げなさい。私は、これからやらねばならないことがあります」
叫んで袖を引く珠の手をそっと離し、悦は養母の枕元から立ち上がった。
(義伯母と従姉妹らを逃がす手配と、それから親父殿の妹御への連絡と、何よりも重八殿へのつなぎ、
それから……何をせねばならぬだろう)
誰にも頼れぬ今、一人でやらねばならぬことはまさに山ほどある。
さすがに覚えた眩暈を堪えながら病人の部屋を出ると、己の後ろから、郭珠のものであろう軽い足音もする。
それを聞いて軽く苦笑を漏らしつつ、悦は玄関の扉を開いた。
そこには、すっかり顔なじみになった兵士たちの姿があって、
「おお、お袋様だ」
悦に気づき、一斉にこちらを向く。
「いつも私どもをお護りくださって、本当にありがとうございます」
彼らへ向かって、悦は深々と頭を下げた。
「あばた殿、いえ、重八殿からの連絡がありました。既に噂にでもお聞き及びかもしれませんが、
ここへも間もなく元軍の一部隊がやってくるとのことです」
覚悟を決めたその声は、常の彼女に似ず大きく、しんと静まり返った辺り一帯に朗々と響く。
「徐達殿が軍を率いてこちらへ加勢に向かって下さるとのことですが、それまでは」
(もしもそれまでに元軍が来たら)
そこで悦は一旦言葉を切り、震えそうになる二つの拳の裏側へぐっと爪を立てた。
「……それまでは、あなた方のお力にすがらねばなりません。どうかいま少し、この家と私どもをお護り下さいませ」
言い終えて再び深々と頭を下げた途端、喚声が辺りを震わせる。
そして、
「お袋様を護れ」
「郭家における持ち場を決めねばならん。早速軍議だ、軍議だ」
口々に言いながら、兵士達は慌しく動き始める。
その様子を呆然と見ていた悦は、
「姐様、私もここに残ります」
後ろから郭珠へ声をかけられて、振り向いた。
「私、あの従姉妹たちと逃げるのは嫌ですもの。それに姐様一人では、彼らの面倒を見切れぬでしょう。
私も、握り飯を作ることくらいは出来ます」
「まあ」
言われて悦は、泣き笑いのような表情で義妹を抱き寄せる。
「でも、なんだかちょっと悔しい」
すると珠は、いたずらっぽく笑って悦を見上げ、
「あの兵士達は、姐様が心底好きなのですね。この家を護るためではなくて、悦姐様のために戦うのでしょう。
それがちょっと悔しいかもしれません」
言いながら悦の袖を引いて、「ほら、炊き出しをはじめましょう」と、家の中へ導いたのである。
子興の姉一族が郭邸から落ち延びて行ったのは、その日のうちのことだった。
邸宅内は夜もあかあかとかがり火が焚かれている。それまでは決して邸内に入らなかった兵士たちの姿が、
今では屋敷のそこかしこにも見られる。
「子興殿は、重八殿によって助けられたのですね」
ここのところ、小康状態を保っていた張第二夫人が、病床から悦を見上げてぽつりと呟いた。
「その通りですよ、お袋様。ですから、お袋様もどうか、気をしっかりお持ちになって」
その耳元へ口を寄せるようにして悦が励ますと、病人はしばらく目を閉じて、黙ったままかすかな微笑
を口元へ浮かべる。
かがり火に照らされた兵士たちの影が、閉め切っている病人部屋の扉に映っている。しばらくして目を開いた養母は、
その様子へ弱弱しく目をやりながら、
「元軍がここへも来るのですね」
「……はい、その通りです」
問う養母へ、悦はためらいつつもきっぱりと答えた。
(この期に及んで、気休めの嘘でお袋様を絶望させたくはない)
そう思ったからである。
「ですが、私も最後まで諦めずに戦う所存です。幸い、あばた殿が残してくれた兵士の方々も、私たちを護ると
仰ってくださっています。珠も残ってくれますから、私には本当に心強いのです。ですから、お袋様は、今、
お体を治すことだけをお考え下さい」
すると張夫人は、
「すみません、あなたにばかり世話をかけて。もしももう駄目だと思われたなら、私などいつなと
打ち捨てていくように。あなたは珠を連れてお逃げなさい」
震える声で言う。
「何をおっしゃいます」
悦は慌てて養母の手を取った。その手は驚くほどに肉が落ちていて、皮膚にもまるで生気がない。両手で
養母の手を包むようにしながら、
「親父殿もお袋様も、なさぬ仲の私を懸命に育ててくださったではありませんか。私は」
(心ない一族から、身体を張って護ってくれたこの人が好きなのだ)
と、一旦そこで言葉を途切れさせ、
「今こそ、その恩に報いる時だと思っています」
悦は力強く言った。
その言葉に、養母は再び目を閉じてかすかに微笑った。
外からは、かがり火が爆ぜる音と、兵士たちが慌しく言葉を交し合う声がひっきりなしに聞こえてくる。
しばらくして、
「悦。あなたは、あなたが本当に好いた方と結ばれなさい。何も子興殿や私への義理を立てる必要はない」
夫人が口にしたのは、まるで違う話題だった。
きょとんとした表情で顔を見つめる悦へ夫人は、
「もしもあの、あばた殿がお嫌であれば、私から子興殿へ申してあげます。あなたは、あなたの思う人生を
歩まれたが良い。これ以上、我が家に縛り付けられる必要はないのです」
言ってうっすらと目を開け、微笑う。
「もちろん、本当にあばた殿がお好きな場合も、あなたの好きにすると良いのですが」
「お袋様、私は」
悦は戸惑って、頬に血を上らせた。
劉基を師とし、主に儒家の教えを受けた彼女である。女は父母の教えに従うべきだとごく自然に思っていたし、
それ以外の人生など思いも寄らなかった。
「今はそれどころではありません。私のことよりも、まずこの家を護りましょう。全てはその後です」
頬を赤らめながら悦は言って、立ち上がった。兵士の一人が慌しくこちらへやってくる影が扉に映ったからである。
その兵士は、元軍らしき一小隊がこちらへ向かってやってくることを告げ、
「お袋様。兵士どもは既に各持ち場に付いて、おのおのの場所を死守するつもりでおります。ですから、
なにとぞお心を安んじられますよう」
そう結んで一礼し、張夫人をなるだけ見ぬようにしながら扉を閉めた。
「さて、これから忙しくなります。早速厨房のほうへ参りますので、失礼致しますね」
言いながら、悦もまた扉へ向かう。その背後から、
「ありがとう」
小さな声で礼を言う養母へ微笑んで頭を下げ、悦は廊下へ出た。
(初めてあばた殿とお会いした時には、満開の季節であったものを)
風はまだ冷たい。だが、庭に植えられている桃の蕾が、再び少しずつ膨らみ始めている。あれからもう
一年が経とうとしているのだと、悦は感慨深げにそれを見やって、
(徐達殿が来るまでは、なんとか持ちこたえなければならない)
吹いてきた突風に、思わずわが身を両手で抱きしめて擦った。
(そのためには、せめて郭邸内のことは、私がしっかりと取り持たねばならない)
兵士たちの食料、かがり火や調理の火を絶やさぬための薪、そして何より水……と、考えながら厨房へ入ると、
既に中ではそこかしこから湯気が上がっていて、
「姐様、私が用意させたのですよ。姐様も早くこちらへいらっしゃいませんか」
ずらりと並んだ握り飯の向こう側から、珠が得意そうに述べてくる。
「ありがとう。心強いです」
思わず微笑を漏らして義妹へ礼を述べつつ、
(やれる限りやってみなければならない。でなければ、濠州で戦っているあばた殿や親父殿への面目が立たない)
悦は新たに己を奮い立たせたものだ。
果たして数日後、元軍がやってきた。
郭家一つが相手であるから、という理由であろう。物見の兵士が報告したところによると、その軍の規模は
まことに小さいものであったし、武装の状態もさほど本格的なものではないらしい。
ために、
「郭家の人々を、人質にするつもりなのではないか」
兵士たちの中から、そんな声も上がった。なるほど、確かにそれも見方の一つであろう。
ただ、それが、どうしたことか病床にある張夫人の耳に入ってしまったからたまらない。夫人の心労は
いよいよ増したらしく、こけていた頬は、一日も経たぬうちにより一層落ち窪んでしまった。
やがていよいよ元軍が郭邸を取り囲み、戦いは始まった。兵士たちが懸命にそれらの侵入を防いでいる。
(徐達殿の援軍よ、疾く来たれ。お袋様のためにも、どうか、どうか)
その折も、祈るような思いで兵士たちの握り飯を作っていた悦は、
「お袋様が姐様をお呼びです。私が代わりますから」
珠の言葉にわずかに微笑んで、飯櫃の前から離れた。
義理の伯母一族が居ない郭邸は嫌にだだっ広く感じられる。
厨房から病人の部屋へと小走りに急ぐ間にも、塀の上にびっしりと詰めた兵士が奮戦している姿が見えて、
(あの方々も踏ん張ってくれているのだ。私ごときの働きなど)
今にも倒れこみそうになる己を叱咤しながら、悦は養母の部屋の扉を開けた。
「悦ですか」
床の中から目ばかりを光らせて、養母は己を見上げてくる。
「はい、悦です。ここにいますよ」
やせ細って、枯れ枝のようなその手をしっかり握りながら、
「何でしょう、お袋様。何か食べたいものなどおありですか」
悦が問うと、夫人はゆっくりと首を振って、
「まだ言葉を口に出せる間に、あなたに言っておかねばならないことがあります」
それだけを言って、夫人はゼイゼイと喉を鳴らす。止めようとする悦の手を、驚くばかりの力で握り返し、
己の姉と悦の実父との経緯を一通り語った後、
「私は妹であったから、二人のことを良く知っていた」
目を丸くする悦を見つめて、彼女は微笑んだ。
「けれど、親の命令には逆らえぬ……思いを押し殺して、姉は子興殿に嫁した。私も、親に言われて
子興殿の後妻に入った。それはそれで悪くはない人生であったし、何より女の人生、それが当たり前ではあるけれど、
今、これで本当に良かったのかと思うのです」
(ああ、だから、この人は私を、あんなにも大事に育ててくれたのだ)
悦の実父と張第一夫人との間には、事実全く何の関係もなかった。だが、第二夫人はそこに浅からぬ縁を覚えて、
悦を他人とは思えなかったのだと、
(人を愛するというのは、何と不思議な)
今更ながら、第二夫人への感謝と、何とも言えぬ感慨とに打たれて、悦はしばらく養母の顔をただ見つめていた。
「もしもいつかお会いできたら、私はあなたのお父様に詫びねばなりませんね」
張夫人もまた、悦を見つめ返して微笑う。
「それに、私どもがあなたを立派な婦人に育てられたのかどうか見ていただいて、お叱りを頂かねばなりません」
「そう、そうではありませんか、お袋様」
思わず強く養母の手を握って、悦は頷いた。
幼子に言い聞かせるように病人の顔を覗き込みながら、
「そのために、しっかりとお体を治して頂かねばなりません」
なおも言葉を続けようとした時、
「姐様、元軍が中へ入ってまいりました! 側にいてください!」
郭珠の悲鳴が響き渡る。
ハッとしながら夫人を見ると、夫人は「行ってあげてください」というように頷いて目を閉じた。握っていた手を
そっと床の中へ戻して、悦は義妹の声のしたほうへ小走りに向かい出す。
廊下の外へ出てみれば、塀の外には粉塵が上がっている。塀の上で戦っている兵士たちの中には、肩に矢を
突き立てている者もいて、
(ついにその日がやってきたのだ。徐達殿は間に合わなかった)
頑丈に思われた塀も、外から何度も突かれてヒビが入っていた。
それを見て、悦が思わずぞくりと背筋を震わせたところへ、
「姐様!」
義妹が子犬のように飛びついてくる。その華奢な身体をぐっと抱きしめながら、
「お袋様の側にいなさい。私は、使用人の方々に、厨房から動かぬよう言ってきますから」
言いつけて、悦は再び走り出した。
その間にも、悦の背をすれすれにかすめて矢が柱へ突き立つ。悲鳴を上げてうずくまりたくなるのを堪えながら、
悦はようやく厨房へ入った。
「元軍が、邸内に入ってこようとしているようです」
中にいる人々を見回しながら告げると、彼女の姿を認めてホッとした顔を作った使用人達の間に、
たちまち動揺が走る。
「彼らの狙いは私たちであって、あなた方ではありません。ですから、もしもここまで元軍がやってきたら、
決して抵抗なさらぬよう。物陰にでも隠れて、じっとしていて下さい」
言い終えて、悦は再び使用人の顔を見回した。そこにはもはや、少女の頃、悦を庇ってくれた人々の姿はないが、
「お世話になりました」
心からの感謝を込め、彼女は深々と頭を下げる。
礼を終えてふと気が付けば、辺りが妙に静まり返っていた。剣戟の音も止んでいて、何者かが
怒鳴っているような声も聞こえてくる。
何事かとよくよく耳を済ませてみれば、
「繰り返し告ぐ。濠州が我ら元軍の手に取り戻された。後は我々に任せて、各々濠州へ行けとの命令である!」
こういった内容を、かの人物は繰り返しているらしい。
しばらくすると、漣が引いていくように軍隊が引き上げていく気配がして、
(濠州が落ちた? 親父殿やあばた殿はどうなったというのだろう)
気丈な悦も、顔から血の気を引かせた。
邸内をどやどやと歩き回る兵士たちの足音が、こちらにも近づいてくる。
(私は、どうすれば良いのだろう)
あまりのことに、思考が働かぬ。覚えず足がふらりともつれた。傍らの机の縁に慌てて片手を付くと同時に、
煤にまみれた厨房の扉が大きく開いて、
「お袋様、よくぞご無事で。驚かせた罪をお許しください」
意外なことに、そこから顔を覗かせたのは徐達である。
「重八殿から言い付かって、御身様方をお助けに参りました。使用人どもも一緒に濠州城へ参るようにとのことです。
さあ、お支度ください」
「徐達殿、一体これはどういうことですか」
しっかりしていると聞いていたが、さすがに理解の範疇を超えたのだろう。ただおろおろしている
彼女の様子を見ながら、徐達は軽く苦笑した。
「手っ取り早く言えば、あなた方を救い出すために我々は元軍を騙したのです。濠州は決して奴らの手に
渡ってなどいません。詳細は、濠州へ向かう途上でお話しします。夫人や郭の末のお嬢さんは、どちらにおわす」
尋ねられて、悦も気を取り直したらしい。
「こちらです」
使用人の面々が、兵士に促されて逃げ支度を始めるのを確かめてから、悦は養母の部屋へと小走りに向かった。
きわどい所で、救いの手は差し伸べられた。これで養母も安心して少しは持ち直すだろうと思いながら、
「お袋様。私達は助かりました。徐達殿が来てくれたのですよ」
言って扉を開けると、郭珠が赤く腫らした目をこちらに向けて、悦に抱きついてくる。
「……どうしたのですか」
問いながら、悦も手足の先から血の気が引いていくのを自覚していた。
「私がこちらへ来た時には、すでにお亡くなりでした」
義妹が、震える声でようようそれだけを告げ、悦の胸へ顔を埋めて泣きじゃくる。
「お袋様。このような時に申し訳ないのですが、時間がありません。我らに騙されていたことを
もしか彼奴らが知ったら、こちらへ戻ってくるでしょう。ですから」
その様子を痛ましげに見ていた徐達が、遠慮がちに発した言葉へ、
「分かっています」
悦は目を閉じながら頷いた。
「ですが、お袋様をこのままにしていくわけには参りません。せめてお庭にでも埋葬して差し上げたい。
兵士を二、三名、お貸しいただけますか」
「それは言うまでもなく」
徐達が頷いて駆け去っていく。しばらくして、裏庭から土を掘る音が聞こえてきて、
「ごめんなさい。さぞや怖かったでしょう」
悦は郭珠の背を軽く叩きながら囁いた。
珠が激しく首を振る。二人の横を張夫人の亡骸を丁重に抱えた兵士達が通り過ぎて、
「最後まで、見届けて差し上げましょう、ね」
義妹の肩を抱きかかえながら、悦もその後を追った。






MAINへ ☆TOPへ