蒼天の雲 12



この頃になると、妙な平和を保っていた関東の情勢は、またぞろキナ臭くなり始めている。
小弓公方を支持していた安房の里見氏、上総の真理谷武田氏の家中で、二年越しになる
家督争いが起き始めていたのだ。 
 安房の里見氏の家では、義豊とその甥である義尭が、真理谷武田氏の家では信応と腹違いの兄で
  その母の身分の低い信隆が、それぞれ争う気配を見せている。協力して古河公方へあたらねば
  ならぬこの時に、里見義豊は真理谷信応と、里見義尭は真理谷信隆と、それぞれが組んで
  なにやら画策しているらしい。 
そしてこれらを仲裁でもするまいことか、小弓義明は里見義豊側に味方すると公言した。
当然ながら、小弓公方を支持した扇谷上杉もまた、小弓側へつく。となると、扇谷に敵対している
北条としては、里見義尭側に回るだろう。関東管領の片割れである山内上杉はといえば当時、
高基の次男で晴氏の弟である憲寛が、跡継ぎのいなかった先代憲房の養嗣子となり、
山内家を継いでいた。よって、こちらのほうは当分問題なかろう。 
(もしも、お千代殿が出るとなれば) 
考え考え歩いているので、どうしても志保の歩みは遅くなる。 
(扇谷上杉の、朝興殿が所有の江戸城付近をまず、抑える戦となろうなあ) 
江戸城は、かつて扇谷上杉を助けた名将、太田道灌が築いた小さな城である。この時点で、
相模湾一帯を手中にしていた北条の格好の標的となろう。この付近一帯を抑えれば、
関東平野へ攻め入るにも退却するにも、絶好の地を獲得することになる。 
 簗田高助が、志保の父、氏綱へ急使を差し向けるというのは、おそらくそのことも含めて
  事前の打ち合わせをするために相違ない。北条とともに事に当たれば小弓公方を挟撃できるのだ。 
 いずれにせよ、まずは小弓公方の出方次第。それによってまた、 
(民が泣くことになる…) 
志保が暗いため息をつくと、 
「継母上様?」 
先を駆けたり立ち止まったりしていた幸千代王が、ふと彼女の顔を覗きこんだ。 
「幸千代様も、簗田のお爺様が今のお言葉、お聞きであろ」 
「はい」 
 そのあどけない顔へ、志保は真剣な顔をして話しかけた。 
「戦をすれば、一番難儀をするのが民なのじゃ。母もこなた様の父上を力の限りお助けする
所存にはござりまするが、幸千代様もお父上をお助けくだされ。そして、やはり関東公方よ、
将軍家のご連枝よと、その治政を称えられる様におなりくだされ」 
「はい」 
 すると幸千代王もまた、真剣な顔をして頷いて継母の手を取る。二人が手を取り合いながら
  古河城へ戻りつつあった頃、 
(さてもさても…いよいよ氏綱様へお知らせせねばなるまい) 
一足先に帰って、簗田高助の来訪を高基お付の小姓へ知らせた八重は、自室へ戻って慌しく墨を擦っていた。 
 古河へ嫁した志保に従って足掛け五年。めまぐるしく変わる関東の情勢下では、
  確かにそれどころではないのかもしれないが、 
(あまりにも、北条をないがしろにした仕打ち…) 
次期、晴氏が志保へ指一本も触れていないということを、やはり己から氏綱へこっそりと
告げておいたほうが良い。ましてや、古河から北条へ向けて、戦の始まりを告げる急使が立つ。
戦になると晴氏は、それをよい口実にしてますます志保から遠ざかろう。何より志保自身が
「ただ和子をもうけるだけのために公方家へ嫁いだのではない」と、それをさほど気にしていない様子なのが、 
(ますます歯がゆく…) 
八重には映る。 
 そうして筆へ墨を含ませたところで、襖の外で人の気配がした。 
「しょう様? もうお戻りでござりまするか? なんぞ御用で」 
もうそろそろ夕餉前である。しかも今は北条へ急使を立てるか否かで家中の主だったものは皆、
広間へ詰めきっているはずである。このような中途半端な時間に北条方の侍女の元を訪れる者といえば、
北条に好意を持っている簗田家の家来か、しかも志保お側つきの八重ともなれば、
まさにその主である志保くらいしかないのだが、 
「これは…!」 
何気なく開けた襖の外に、次期古河公方の姿を見て八重はすくんだ。そのままもつれあうように、
八重の部屋の中へ二人の姿が消えると、襖はそのままぴしゃりと締まる。 
(…はて、若殿はどこへおいでであるのやら) 
 北条の力を大いに利用すべきだという積極派と、これ以上の北条の介入を許せば後々
  公方家にとってよろしくないという消極派に別れて、軍議は予想外に長引いている。簗田高助もまた、
  その間に何度となく厠へ立って遠慮のない大きなあくびを漏らすのだが、 
(そういえば先ほどから…) 
晴氏の姿が広間に見えぬ。やはり厠へ立つか、どこぞの縁へ出て頭を冷やしているのかもしれぬと思っていたのだが、 
「おお?」 
辺りを探り歩いて、高助は、とある廊下の曲がり角から出てくる若殿の姿を見つけた。 
「若殿。これはお珍しいところにおられたもの。北条の者に何か御用で?」 
この曲がり角の向こうへ続く廊下には、主に北条から志保についてきた侍女や侍に与えられた
部屋が並んでいるのである。 
 高助が声をかけると、晴氏は刹那、ぴくりと体を震わせたが、 
「戻る」 
短く言い捨てて、荒々しく広間への襖を開ける。 
(おかしい?) 
 その目は充血したように赤く潤み、吐く息も荒かった。まさかと思いつつ、高助は足早に
  廊下を曲がって「北条館」といつの間にか呼び習わしていた館の廊下を踏んだ。 
(志保殿は、未だ戻ってはおらぬ。北条のものも志保殿にほぼ付き従っておるはずだが) 
 自分の「先駆」となった八重は戻ってきているはずだと、全身から血が音を立てて引くような感覚に囚われながら、 
「八重殿。入る」 
返事を待たず、高助は襖を開けた。 
 彼の目に飛び込んできたのは、無残に踏み荒らされた花である。辛うじて一枚の衣で身を覆っただけの
志保の侍女は、高助の姿に目を見張った後、がっくりと顔を伏せた。 
「…若殿が?」 
「お願いにござりまする!」 
 乾いた唇で辛うじてそれだけを問うと、八重は突然身を起こし、高助にすがりつく。 
「我らがしょう様には、ご内密に…これが知れたら、あのお方のことゆえ、きっと晴氏様に
膝詰め寄せて直談判を言い出される。そうなると、好意を持っておられるお舅の公方様にもご機嫌を
損じられるやもしれず、しょう様をこの上のう愛しておいでの父氏綱様には、恐らく烈火のごとくお怒り…
どうぞ、どうぞご内密に。このような事態に相成りましたのは、ひとえに八重一人の責に
ござりますれば、どうぞ平にご容赦を…!」 
「…詫びねばならぬはこの高助のほうじゃ」 
 ともかく服を整えるようにと言ってから、 
「我らが切にと懇望しておきながら、よろずにかまけて若殿へ志保殿のもとへ参られるように
強く勧められず…許されよ。内密にと頼みたいのはこちらのほうじゃ」 
 これが北条側と高基の双方へ知れたら、八重の言うとおり、関東が手のつけられぬ事態に
  なること必至である。何よりも高助へ一番に北条の恨みは集中しよう。いつしかじっとりと額に汗しながら、 
「…こなたのこと、粗略にはせぬ。まこと、済まなんだ」 
「それよりも、若殿へ」 
幾分落ち着いてきたらしい八重は、彼女の前へ手を付いた高助の顔を覗きこむように、 
「今宵にでも、否、今すぐにでもしょう様のお部屋へお渡り下されますよう、ぜひともお説き下されませ」 
「相分かった。それが何よりのこなたへの侘びとなるのじゃな?」 
「左様にござりまする」 
 高助の目を、先ほどまで理不尽な蹂躙を受けていたとはとても思えぬ強い光を
  湛えた目で見返して、八重は頷いた。 
「どのみち私など、若殿にとっては一度限りの慰み相手。教養もさほどなく、器量もさほど
よろしくなく…じゃがしょう様は違いまする。公方家のご重臣に、一介の侍女に過ぎぬ私が申し上げるのも
恐れ多いことながら、しょう様こそは、この坂東に安らぎと秩序をもたらされるお方…公方のお家へ、
必ず再び信望を集められるお方と我ら、心より思うておりまする」 
「ふウむ…」 
(これほどまでに、家の子らの心を掴んでいる。変節極まりない我がお家の家臣どもらとは大違いじゃ) 
 八重の言葉へ耳を傾けながら、高助は唸った。これが志保に限らず、北条早雲の血を継ぐ者全てに言えることであるならば、 
(敵に回せばこれ以上ない脅威) 
「後のことは、この高助へ任せよ」 
膝を叩いて、高助は立ち上がった。八重が平伏するのへ、 
「無理かも知れぬがよう休め。こなたの身などに変わったことがあれば、遠慮のう申せ」 
言い置いて、八重の部屋を出る。 
(まさに、内憂外患よのう) 
苦りきった顔で広間の前の廊下へ戻れば、 
「おお、簗田殿」 
「原殿か」 
北条へすぐにでも急使を送って、小弓公方を攻めさせるべきである、と、軍議の中で一番の強硬意見を吐いた
「積極派」原胤隆が、 
「小休止にござる。会議は明日へ持ち越しだそうな」 
苦笑して、彼へ話しかけてきた。 
「お気持ち、お察しする。じゃが公方家もなあ、まだまだ戦禍が癒えておらぬゆえ」 
「それは重々承知しており申す」 
 原胤隆は、下総千葉氏の重臣であり、主家へ強く古河側へつくよう前々から勧めていた。このたびは、
  主君千葉氏に代わって軍議に出たものらしい。小弓公方にその城を「乗っ取られた」本人で、現在は
  家老の高城胤吉の居城である根木内城へやむなく身を寄せている。簗田高助に申し訳なさそうに言われて、
  この四角い顔の持ち主は頭を掻きながら、 
「私怨で物申しておると思われても致し方ない、不甲斐なき我ら。この度こそは主ともども高基様に
従うて奮戦し、父祖以来の城を取り戻そうと…少々焦っておるやもしれませぬ」 
「ウム」 
「それゆえ、こたびの里見、真理谷の家督争いはかつてない好機。敵が二つに分かれておる今こそ、
外からもゆさぶりをかければ僭称公方も弱りましょう。それゆえに、この時期お見逃しのう…と、
申し上げたのじゃが、それはなお早しとのご意見もござってなあ」 
「…フウム」 
「ありゃ、されど、こたびは出陣せぬ…となりまいても、我らの公方家への忠誠は変わりませぬゆえ」 
「それは、こちらとて重々」 
 最後の言葉にだけは、高助は心から頷いた。父祖伝来の地に対する思いは、たれしも深い。
  それを奪われて「小弓公方」などと称された胤隆の恨みは深く、だからこそ高基側へより深くつながって
  おきたいという気持ちは分からぬでもないし、またそれゆえに何よりも信じられる。 
(だが、それとて所詮は『利害関係』…北条の結びつきには遠く及ばぬ) 
 軽く頭を下げて去っていく原胤隆を見送りながら、高助は再び嘆息する。その横にある広間への襖が
  さらりと開いたかと思うと、疲れた表情を露骨に表に出した諸将が、高助へ頭を下げつつ三々五々、散っていく。 
どうやら、高基は主だった家臣へは古河へ泊まる様に申し付けたらしい。それらが立ち去るのと
入れ替わるように、高助は広間の畳を踏んだ。 
 上段には、これまた高基が疲れた表情で脇息にもたれており、そのすぐ右手の下段には、
  「若殿」晴氏が扇で口元を隠そうともせず、たれはばかることのない大あくびをしていた。 
「高助か。余は休む。いささか疲れたわ」 
「は」 
高助の姿を見ると、高基は投げやりのように言い捨て、丸い尻をおっ立てたと思うと大儀そうに
広間から出て行く。それにならって腰を上げようとした晴氏の前へ、 
「申し上げたき儀がござる。今しばらく」 
広間の襖を閉め終え、高助は強張った顔で平伏した。 
「…若殿には、北条のものへお手をつけられまいたな」 
 彼ら二人だけになった広間には、まだ諸将の人いきれがこもっている。冬にしては少々暑過ぎるくらいの
  室温であるはずなのに、晴氏の顔からはみるみるうちに血の気が引き、 
「そ…そのようなことまで、こなたに口出しを受けるいわれは無い」 
しばらくしてそう言った時には、再び顔に朱が差していた。 
「ご自身が一体何をなさったか、分からぬ年ではもうござりますまい。公方館のものならいざ知らず、
一触即発のこの時期、北条まで敵に回しては」 
語りだす高助からは目を伏せて、晴氏はむっつりと腕を組む。 
「必ずや、北条は公方家の心強い後ろ盾となりまする。口幅ったいことながら、この高助、これまでに
目測を誤ったことはござりませぬ。それゆえに、北条の姫を貴方様の継室へお迎えしたのでござりまする」 
「…」 
「それを、あろうことか姫君ではのうてその侍女へお手をつけられるとは…」 
「気に食わぬ」 
「は」 
そこで高助の言葉を突如遮って、晴氏は堰を切ったように話し始めた。 
「何もかも、気に食わぬ。北条の後ろ盾がどうじゃというのだ。余が戯れに手をつけたからというて
どうじゃと申す。仮にもわが身は公方の次期。それをありがたいと思いこそすれ、口やかましゅう説教される
いわれはない。そもそも何じゃ、領主の奥方ともあろうものが、卑しい民衆に媚びおって」 
「ふうむ…」 
高助は嘆息しながら、しかし若殿の言葉の裏にある、やるせないまでの北条の姫への劣等感には気づかない。 
(たとえ力に任せて組み伏せたところで、俺は到底、北条の姫には敵わぬ) 
その侍女に手をつけさせたのは、いつしか志保に触れることさえ密かに恐れるようになっていた晴氏の、
実は劣等感の裏返しなのだ。 
民の人気は、当然ながら毎日のようにその様子を見て回る志保により多く集中している。当初は
志保のふるまいを「公方の正室らしからぬ」と眉を顰めていた家臣でさえ、最近では意外な親しみを
民から示されたりするので、満更でもないらしい。 
貴種の家柄に生まれた者にありがちな傷つきやすい自尊心を、尊大な態度で覆い隠している晴氏が、
周りの人間が自分では無くて志保へ寄せる好意に気づかぬわけがない。もともと「公方家の力だけで
公方家の名誉回復を」と、北条の協力など要らぬと頑なに思い込んでいる若殿なのである。 
そこへ持ってきて、人物も器量も、次期殿の奥方である北条の姫のほうが「上」である…否、
事実はそうでなくとも、周りの人間がそう見ているともはや晴氏は思い込んでいる…となれば、 
(意地でも触れてはやらぬ) 
となるのも、若いゆえに無理はないかも知れぬ。 
「ともあれ、公方の御身。我侭は効きませぬ。押し付けたのはこの高助ではござりまするが、
それもこれも、公方家の御為を思ってこそのこと」 
 高助は、しかしそれをただの「わがまま」であると取った。公方の跡継ぎとして、腫れ物に触るように
育てられた彼と、身分はさほど変わらぬながら「面白き育ち方…」をした新興勢力側の姫なのである。
考えはすれ違って当たり前なのだ。 
 しかし、今はそのようなことをあれこれ考えている時ではない。 
「侍女へ手をつけられて、ご正室へ手をつけられぬという法はござりますまい。ただちに志保殿の元へ参られませ」 
不満げに何か言いかけた若殿の口をふさぐように、 
「北条より姫をお迎えして何年にござりまするか。和子をもうけられぬ兆しとて無いのが、
若殿が触れぬゆえで、しかしその侍女には手をつけたと知れば、北条は、怒りの矛先を全力で
古河公方家へ向けましょう。悪くすると小弓の叔父御へ味方してしまうやも知れませぬ。さすれば、
公方の地位は叔父御、義明様のもの…それでもようござりまするか?」 
「…分かったッ」 
そこまで高助が言うと、憤懣に耐えぬもののように晴氏は叫んで、蹴るように席を立った。
襖に映る影が、足音荒く北条館へ向かうのを見て、 
(…困ったもの…) 
再びじっとりと額に滲み出た汗を、無造作に右の袖で拭いながら、高助は長い息を吐いた。 



…続く。