奇骨賛歌 7



よって、
「よく分かった。皇覚寺なら白連教の系統であるから、俺も名前は知っている。どうやらこちらの人間の
勘違いだったようだ。詫びる。同じ宗教を信奉しているのなら間違いない。俺の陣営に入ってくれるというなら
大歓迎だ」
子興は若者へそう言い、ついで、
「二、三いいか。お前さんは何処の出身で、今まで何をしていた。年は幾つだ。家族はいないのか」
と尋ねた。
すると若者は轟然と胸をそらし、
「俺は十六の時に家族を亡くして、天涯孤独だ。それからしばらく寺に居たが、飢饉のせいで寺主らが
俺たち坊主への飯を吝嗇ったので、食っていけなくなった。やむなく一人であちらこちらを彷徨って、
今は二十五になる。ただ賑やかな町でうろついていただけの他の奴らよりはずっと、世の中というものを
知っているつもりだ」
大きな鼻の穴から勢いよく息を吐き出して、そう答えたのである。
その態度は、まさに傲慢としか言いようがない。だが子興は、
(面白い。こいつは掘り出し物かもしれない。なかなか頼もしそうな奴ではないか)
と思った。
なるほど、奇怪といえば大変に奇怪で、例えるとすれば鬼瓦のような風貌である。それに、乞食坊主を
やっていた者らしからぬがっしりした肉体を持っているから、男には、畏敬の念をもって迎えられるかも知れぬ。
(まず女は怖がって寄り付かぬだろうが)
子興はついそう思ってしまい、再び口元が緩みそうになるのを懸命に堪えながら、
「今ひとつ。家族をなぜ亡くした」
問いを重ねた。
「かの時に起きた飢饉のためだ」
「そうか」
少し深入りした問いかけへの返答は、あくまで簡潔で分かりやすい。そのことにより、相手が意外に
頭のよいことが分かる。
「余計なことを尋ねた」
反って子興のほうが苦い顔をした。若者の言うことが本当なら、九年前の飢饉で彼は孤児になったことになり、
(悦とほぼ同じではないか。かの娘と同じ境遇に陥った者が、あの時他にどれほどいたか)
改めて同情の念を呼び起こされたからである。
「では、重八とやら」
一呼吸置いて子興は、先ほどより余程情のこもった声で若者へ話しかけた。
「これから大いに役に立ってもらう。よい働きを期待している」
後に明史に、
「子興、ソノ状貌ヲ奇トシ、留メテ親兵トナス」
と書き留められたように、この時から朱重八すなわち朱元璋は、子興の配下に加えられ、十夫長の位を与えられた。
一小隊を率いる長の待遇である。
この青年は、子興の期待に違わずよく働いた。対岸の味方を助けに行け、と命令すれば、数日も経たぬうちに
その窮地を救って帰ってくるし、他の部隊がこっそりやっているように、元軍を追い払った後の村から、
いくばくかの穀物を略奪することもしない。
何より彼は、
「罪のない善人から強盗をするな」
己に預けられた兵士たちへ向かって、たびたびそう言い聞かせているらしいし、また、兵士たちもそれを
良く守っているらしい。
従って、郭子興軍が元軍を破るたび、軍の人気は上がっていく。
(やはりこいつは掘り出し物だった)
喜んだ子興は、重八の地位を戦いの都度上げてやったし、兵士の数も増やしてやった。
急激に使える者を増やすと、大抵の軍はどこかに綻びが見える。だが、重八配下の兵士たちの仲たがいもなく、
逆にその団結力を増しているらしいことも聞いて、
(奴には将の才能もあるのだ。大した奴だ)
もともと人を羨むことの少ない子興は、素直にそう感心したものだ。
こうして、重八を兵士に加えた数ヵ月後、郭子興軍はついに濠州城を落とした。その際、重八は、闇に紛れて
逃亡しようとしていたかの守将、徹里不花をそれと知らず捕らえたのである。
偶然ではあるが、これは誰が見ても一番の手柄であろう。敵将の身柄は、ひとまず白蓮教本軍へ贈ることに
なったのだが、
「見たか、俺の人を観る目の狂いの無さを」
子興はそのことを喜んで、重八へ厚い信頼を寄せるようになった。
占拠した濠州城の一室で、子興は、
「お前は独り身か」
薄々答えの分かっている問いを発し、相手が「悪いか」と答えると、
「ならば、俺の家のところにいる娘をくれてやる」
なんともあっさりとそう言ってのけたものだ。
前にも述べたように、
(こいつは使える奴だ)
と考えただけではなく、
(こういう奴こそが、俺の家を守ってくれるのだ)
とも思ったし、
(女を知らないわけではないだろうが、恐らくこいつは、心を通わせる女に恵まれたことはないだろう)
まことに失礼な話だが、その点では、たいそう哀れな奴だとも思っていた。平たく言えば、かの青年の身の上全般に、
いたく同情したということである。それに、
(孫徳崖には悦をやらぬ)
という感情が混じっていなかったとも言えない。
よって子興は重八に向かい、
「お前さんをもっともっと出世させてやりたい。そのためには、俺の軍の連中を納得させることが必要だ。
だから、ひとまず定遠を平らげてきてくれないか」
ついでに俺の養女に会ってこい、と付け加えた。
「きちんと知れば、女もなかなか良いものだぞ。特に俺の養い子は、顔はさほど良くないが、大変に慎ましくて
優しい性質をしているし、苦労もしているからしっかり者だ。お前もきっと気に入る」
「女など要らない。それに、貴方の娘をもらってしまえば、せっかく俺が手柄を立てても、貴方の後ろ盾が
あったからだ、などと言われてしまうではないか」
「まあそう言うな」
(どうやら、よほど己に自信のある、自尊心の高い奴らしい)
そしてかなりの「ひねくれ者」でもある、そう思いながら子興は苦笑して、
「お前さんは、まことに立派なご面相をしている。その面が見掛け倒しでなければ、俺の娘もなびくであろうよ。
敵の兵は倒せても、女一人、口説ける自信は無いというのか」
(こんな奴には、こういった煽り方が良いのだ)
このような無頼漢の扱い方は、長年の付き合いで心得ていた。こういったことになると、やはり年長者のほうが
一枚上手である。
案の定、
「なんの、女の一人や二人。戦場で敵を倒すよりずっと容易い」
重八は、痘痕面を真っ赤にしていきり立った。
そうしてみると、意外にも素直な若者の表情になる。
(要するに、こいつはどうしようもなく餓鬼なのだ。それもまた面白いではないか)
それを大変に微笑ましく思いながら、
「ならば口説いて来い。先ほども言ったが、俺の娘はなかなかのしっかり者だし、人物を見る目もある。
見事、口説いて見せろ。手紙を書いてやるから持っていけ」
子興は、己よりも一回り以上背の高い若者の肩を叩いた。

子興が亡くなるのは、それからわずか数年後のことである。結果的には、彼の人を観る目も満更ではなかったと
いうことになるのだが、
「姐様、今、私たちの家を訪ねてきた人を見ましたか」
「親父殿の手紙は読みましたが、まだ会ってはいません」
「では、今すぐ見てみるべきです。お客の間に通されたようですから。でも、皆はまだ、彼を盗の類ではないかと
思っている風なのですよ」
郭珠が息せき切って報告しに来たように、痘痕の重八を迎えると、郭家では大騒ぎになった。一個小隊を率いた
強盗の類だと思われたのである。
だが、よくよく落ち着いて尋ねれば、主、郭子興の手紙を持っているし、その小隊の中には見知った定遠の者もいる。
すったもんだの末、重八はようやく邸内に招き入れられたわけなのだが、
「皆が言うのも無理はないと思います。あのような怖い顔をした男の人は私、見たことがありません」
義妹は、まだまだ幼く、紅い唇を尖らせて言うのである。
「私はまだ会っていませんが、そのようなことを言うものではありませんよ」
閉めている戸の隙間から吹く風が、時折ほのかな桃の香を運んでくる。その匂いを楽しみながら自室で
刺繍をしていた悦は、郭珠の容赦ない言葉に苦笑した。
「人は見かけによらぬもの、身なり形で判断してはならぬと、劉先生も仰っていたではありませんか。
私もそう思いますよ」
「でも姐様」
そこで珠はぐっと声を潜めて、
「あの人が、ひょっとしたらあなたのお相手かもしれませんよ。そうであったら、どう思し召す?
私はあんな怖い顔をした殿方を、お義兄い様とは呼びたくありません」
思春期に差し掛かった娘にありがちなことだが、胡乱な男に対する嫌悪感を露にした、真剣な顔を
近づけてくるのである。
「今は、お客の部屋でくつろいでいるようですけれど、すぐに付近の賊討伐に出かけるとか。その前に姐様も、
一度は見ておいたほうがよろしいです。さあ」
珠の話し方だと、まるで珍しい獣でも現れたようである。強引に袖を引っ張られるに任せて歩き出しながら、
悦は苦笑していた。
その部屋へは、裏庭沿いの廊下を通らねばならぬ。その裏庭では、植えられている桃が一斉に花を咲かせていて、
いつもならばなかなかの風情なのであるが、
「姐様、早く行きましょう。足を止めていると、何をされるか分かりません」
珠が小声でせかすように、今は重八が率いてきた兵士達が屯しているのである。
中には顔見知りの人間もいるが、大半は始めて見る顔なのだ。その兵士たちが、好奇の目で持って
自分たちを眺めるので、
「強盗のような人が率いてきたのだから、きっと兵士たちだって」
珠は居心地悪そうに身体を揺すっている。
義妹がそう言うのには、やはり率いてきた人間の第一印象が、彼女の中で強く影響しているためであろう。
(どうやら、よほどかの人に偏見を持っているらしい)
半ば呆れてはいるが、それでもその言い方がなんとも微笑ましく感じられ、
「でも、悪い人たちではないのですからね」
「それは分かっていますけれど、やはり怖いではありませんか。急ぎましょう」
「はいはい」
口辺に笑みを浮かべながら、悦は彼女の言葉に頷いた。
その悦も、
「やあ、貴様らが子興殿の娘どもか」
扉を開いて中へ一歩入った途端に浴びせられた、遠慮の無い言葉に思わず肩をすくめた。
何より、声が大きい。それに珠の言ったように、何とも形容しがたい風貌の青年である。用意されていた椅子へ、
両手両足を広げた格好で座っていた彼は、彼女らに気づいて立ち上がりざま、
「家の者から聞いたろうが、俺が朱重八だ。貴様らの父御に、養い子であるほうを俺の嫁にしろと言われた。
本当はすぐに賊どもの討伐に行かねばならぬところを、わざわざ寄ってやったのだ。人間は、ことに女は
信じられんものだが、子興殿に言われたのなら仕方ない。もらってやろうと思ったのでな」
ありがたく思え、と浴びせるように告げて、鼻を鳴らす。
(なるほど、これは珠の言う通りだ)
言葉を失ったまま、悦は彼の顔をまじまじと見つめた。
さきほどからの威嚇に近い言葉遣いは、恐らく女への接し方を知らぬためであろう。だが、若い娘二人には
そこまでは分からない。
重八と名乗ったこの青年は、ただでさえ大きな目をぎょろりとひん剥いて、己を呆然と見上げる娘たちを
睨みつけていた。
茶色い痘痕の散った顔の中央には、大きな鼻がその存在を誇示していて、同じように大きな鼻の穴からは、
勢いのよい呼気が聞こえる。袖をまくって腕を胸の前で組んでいるのだが、その腕の表面を、
もうもうたる毛が覆っていた。
あれほど勢いの良かった珠などは、すでに怯えて己の背の後ろに隠れてしまっている。
(これでは、珠に限らず、女子供であれば怯えてしまう)
かすかに震えてさえいる義妹をそのまま庇うように、
「ようこそいらっしゃいました。私がこの家の養い子で、馬悦と申します。こちらは子興親父殿の実の娘で
珠という名です」
悦は背をまっすぐに伸ばしてそう応じた。
「このたびは、重大なお仕事へ赴く途中とのこと、まことにお疲れ様です。私が申せた立場ではありませんが、
滞在中はどうぞゆっくりおくつろぎください」
声を励ましながら言い終え、深々と頭を下げると、
「……驚いた」
小さな声が降ってきて、悦もまた驚きながら顔を上げる。
すると「なんでもない」と、慌てたように重八は分厚い右手を振り、
「してみると、そちらの別嬪のほうが子興殿の実の娘ッ子か」
再び遠慮の無い言葉を吐く。ばかりか、大きな足音を立ててこちらへ一歩踏み出した。途端に饐えたような匂いが
鼻をついて、ついに珠は大きな悲鳴を上げた。そして次の瞬間には身を翻して部屋から逃げていってしまったのである。
しばらく呆気に取られてそれを見送っていた青年は、やがて我に返ったらしく頭を両手で無闇にかき回す。
そしてふと、己を見つめている悦の視線に気づいて顔を赤らめ、
「……フン」
再び鼻を鳴らした。
その様子を見て、
(おや)
悦はふと首をかしげた。
(ひょっとするとこの人は、強がっているだけなのかもしれない)
確かにこの青年の態度も言葉も、いかにも傲岸不遜である。だが、彼が先ほど鼻を鳴らした、その音には、
拗ねて意地を張った子供が出すような、どこかしら哀しげな響きがこもっているように彼女には感じられたのだ。
そう思うと、先ほどから感じていた恐怖心は少し和らいでくる。
ゆえに、
「お立ちになるまでには、いま少し間がありましょう。よろしければ、貴方のお話を聞かせてくださいませんか」
己から逸らされた彼の顔へ話しかける悦の声は、少しの柔らかさが混じっていた。
「親父殿の手紙にもありましたが、貴方は幼い頃から諸国を巡り歩かれたとか」
しかし返ってきた答えは、
「それがどうした。けちな地主に追われたから、やむなくそうせねばならなくなったまでだ。別に
誇りに思えるような経歴でもない。貴様ら女などに話すことは何もない」
多弁ではあるが、まことに素っ気ない。さらに彼は、そう言い終えたかと思うと再びそっぽを向くのである。
全く、取り付く島も無いとはこのことであろう。だが、
「話を、聞かせてくださいませんか。今、世間はどうなっているのですか」
悦は、垢が黒くこびりついた彼の横顔に向かって、辛抱強く繰り返した。
「世間のことを語るのは、俺の人生を語るのと同じだ。俺にしか分からん俺の苦労を、赤の他人の貴様が
知ってどうするというのだ」
向き直りはしたものの、重八は馬鹿にしたように言う。
「養い子とはいえ、金持ちの家で何不自由なく育てられてきたのだろう。わざわざ世間向きなど知らずとも、
これからも良いものを着られるし、食ってはいけるのだから、そのまま大人しく生涯を送れば良いではないか」
「私は、人殺しの娘です。父は、私を郭の家に置き去って、そのままどこかへ出奔したまま帰りません。
他にいた兄弟も、そのために離散して行方も分かりません。ここに残った私は、陰で人殺しの娘と
呼ばれて育ちました」
静かに、きっぱりと悦が言うと、重八は再び「驚いた」と口の中で呟いた。
「私は、父を探したいのです。ですがこのままでは女の身ゆえ、叶わない。ですからせめて、
世間向きのことなど知りたいのです。世間が安定していれば、父も生きているかもしれない。
そしていつかは……会えるかもしれない」
言っていると、熱いものが喉へこみ上げてくる。悦はそれぞれの袖口に両手で爪を立て、ぐっと唇を結んで下を向いた。
しばらくの沈黙の後、
「貴様は、父を恨んでいないのか」
やがて重八が、おずおずといった風に尋ねてくる。
「無責任にも貴様一人を他人の家に残して、手前だけ逃げたのだぞ。常ならば恨んで当たり前だ。そんな親父を、
まだお前は信じているというのか」
「はい。私は父を恨んでいないのです。それは何故なのか私にも分からない」
悦がかすかに微笑うと、
「物ははっきりと言うくせに、そういった類のことは曖昧なのか。分からん奴だ。俺は貴様のような奴が一番嫌いだ。
全ての物事には、白か黒しかないのだ」
重八は舌打ちをして吐き捨てた。
そして、
「貴様のような奴がいる家には、本来ならば長居したくはないのだが、貴様が居ろと言ったのだから、
しばらく居てやる。貴様を嫁にもらってやるのは、賊を平らげてからだ。逆の順番だと、貴様の
父御のおかげで勝ったと言われる。俺にとっては大いに損だ。見ていろ、性根の腐りきった元の連中など、
この俺があっという間に蹴散らしてやる」
言って鼻を鳴らしたかと思うと、悦の側を足音荒く通り過ぎ、
「野郎ども! 俺達は休憩を取りすぎた。これからとっととこの辺りのの賊どもを蹴散らしに行くぞ!」
裏庭どころか、郭邸内に響き渡るような声で叫ぶ。
たちまち集まってきた連中へ、
「いつも俺が言って聞かせてやっているから、承知のこととは思う。が、ここはわりにでかい街だ。
お前らを信用していないわけではないが、眼がくらむ奴が出てくると思うから、敢えてもう一度言う。
俺達はあくまで貧しい奴らの味方だ。他の連中が陰でコソコソやっているような略奪はするな。
した奴は、俺がぶった切ってやる」
拳を振り上げながら告げた言葉に、
(ああ、だから親父殿はこの人を、私の伴侶として送り込んだのだ)
悦は驚いた。同時に、おぼろげではあるがそんな風に納得したのである。
義妹の珠の言うように、少しずれてはいるが、養父への自分の愛情は疑うべくもない。いかになさぬ仲の
養い子であるからといって、
「お前は馬の奴の娘だ。あいつは、俺の窮地を助けてくれた、真に勇気のある男だ。そんな奴の娘を、
滅多な者にやるわけにはいかん」
日頃からそう言っていたように、適当な人間を彼女の相手として選ぶわけがないのだ。重八青年を
自分の嫁ぎ相手として寄越したからには、可能な限り念入りにその身元を調べたに違いない。
その証拠は子興が寄越した手紙に良く現れている。それによると、かの青年の名は、彼が朱一族の中で
八番目に生まれたことに由来しているらしい。朱一族は、悦の実父が半ばそうであったように、
江南一帯を流れ歩いた小作人の一家であったというのだ。
悦とは無縁であったかの飢饉と流行病のために、
(一家離散、とは……私と同じで、けれど私よりもずっと貧しく、辛い人生を送ってこられたのだ)
親族の中で、生き残ったのは彼一人だった。住んでいた場所の地主が、土地を提供してくれなかったため、
一家の墓さえしばらくは定まらなかったというのだ。
(十六、七歳でたった一人になって、寺に行くしかなった。独りになったのは私と同じだけれど、
彼は待ってくれている人がいるはずの家も失くしたのだ)
続く戦乱の中、少年が独りで生き延びるためにどのような辛酸を舐めたのか。実の親に代わる以上の
保護を受けられた悦には、到底想像できないことである。
女子供に限らず、恐らく誰に対しても向けられるあの虚勢は、そういった流浪の生活の中で身につけたものだろう。
彼は、養父、子興が付き合っているような、養母が言うには「たちの悪い連中」に混じって生きていかねばならなかった。
そしてそのためには、決して他人に舐められてはならない。
「では、俺は行く。賊を平らげるまで、この家の前に陣を張らせてもらう」
出陣の号令を受けて、兵士達がたちまちざわめく。春の日差しを受ける裏庭を背にして悦に告げる重八の、
言葉と態度は相変わらず高飛車ではあるが、
(この人は違う)
求婚のため……恐らくは郭家の財産目当てがほとんどであろう……に、人殺しの娘である己に近づいてきた、
他の誰とも違うと悦は思った。
「お気をつけて行っていらっしゃいまし」
轟然と胸を反らせて出発していく、広く分厚い背中へ頭を下げながら、
(この感情は、世間で一般に言う恋、というのともまた違うだろう)
その点、率直に感じてもいる。重八に抱いた第一印象は幾分なりとも改められたが、敬慕する、といった状態には
まだ至っていない。
兵士達が出て行くと、裏庭は急に静かになった。逃げてしまった義妹の様子を伺うため、その部屋に向かいながら、
(恐らく、私は彼に同情しているのだ)
同病相哀れむ、といったところであろう。己と良く似た境遇で育った人間に、同情しているに過ぎない、と、
この、穏やかではあるが芯の強い娘は結論付けた。
甚だ実感が湧かないが、いずれにせよ彼が己の伴侶となる。それはもう養父が決めたことだから、覆せぬ。
(同情ごときで夫婦になるのは、彼に失礼だとは思うし、それに私は、どうやら嫌われてしまったようなのだけれど)
夫となった人間を敬い、支えるのが妻の役目である、と、かの劉基も言っていた。だが、どうやら
重八は自分という人間を気に入らなかったらしい。
(それでもまず、彼の伴侶は私ということになろう。そうなったらそうなったでまあ、よいではないか。
共に過ごすうち、おいおい愛情も湧いてくるかもしれないし)
かの青年に近づかれただけで逃げてしまった義妹には、到底向かぬ、と考えた所で、悦は覚えず忍び笑いを漏らしていた。
確固たる愛を抱いたわけではないが、今はもう、彼の事を少なくとも怖がってはいない。そのことも併せて
分かったからである。






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