奇骨賛歌 5



あの晩の父の様子は、明らかにおかしかった。よって彼女自身も、
(どうやら私の親父殿は、人には言えぬ罪を犯したらしい)
うすうすそう感じていたのだが、少年の言葉でようやくはっきりし、逆につかえが落ちた
ような心持ちでもある。
(あの少年が言ったのは、郭家以外の誰もが言っていることだと思わなければならない)
それに郭家でも、養父の兄の子らは、己に対して妙によそよそしいし、あからさまに侮蔑の言葉を
投げつけてくる時もある。
(私が半農の子だったから、という理由ばかりではなさそうだ)
そしてそれは、実父がしでかしたことに起因しているのではないか、と考えていた。実際、父は
あれ以来帰ってこない。何よりもそれが事実を指していないか。
(親父殿があの時、父はいないものと思え、と言ったのは、このためだったのだ)
改めて認めるには、あまりにも辛い現実だった。だが、そう認めることで、
(私はまだここから出て行けるほど、大人ではない。色々と物事を知ることのできる大人
になるまで耐えよう)
取れた胸のつかえは、腹のほうに落ちたらしい。
やがて、その腹に据わった何ものかを感じながら、少女は、座らせられていた木の椅子
から立ち上がった。そして、
「ありがとうございました」
周囲に向かって深々と頭を下げた。
この「騒ぎ」はまた、数刻もしないうちに村に広まっていたらしい。
「馬の娘はいるか」
言い騒ぎながら、胡家の者が郭家にやってきたのは、下女たちが悦をともかく邸内へ入れ
ようとした、ちょうどその時のことである。
「娘なら、親父の行く先を知っているだろう。こちらへ渡せ」
さすがに門の中までは入ってこないが、言いながら、賛同者らしき者たちもてんでに鎌や鍬などを手にしている。
「渡したら、どうするのさ」
悦を庇うように立ちふさがった下女が言うと、
「親父の居所を吐かせてやる」
その物騒な得物を振り上げて、先頭に立っていた男も言う。
男が言うと、堰を切ったように、
「江(長江)の北にいた俺たちの親戚は、旱魃のために食うものが無くなって死んだ。真面目に生きていたのに、
不公平だ」
「人殺しの娘が、衣食住を保証されているなど、馬鹿なことがあってたまるか」
他の者も口々に言い騒ぐ。
元からの重税に加え、旱魃による食料の激減で、皆、食うか食わずかの生活を続けていたものだから、どうしても
恨みはその箇所に集中する。彼らの不満はまた、
「半分とはいえ同じ小作人でありながら、なぜあいつばかりが」
という僻みから発しているとも言える。
本来なら、それはこのような世の中を作り出した支配者に向けられるべきだった。なのに、被支配社会層にいる者に
ありがちな思考ゆえに、よそへ向いた感がある。悦の実父は、支配者から見ればまことにありがたい不満の
捌け口であったろう。
果たして、邸内に走った使用人の報せで、文字通り夫人は飛び上がった。
(拙いことになった)
折悪しく、主の子興は今、留守をしている。准北地方への救援物資についての打ち合わせ
とやらで県庁に呼び出されているのだ。
(戻るまで、どうみてもあと数刻)
普段は尊大な態度を取る嫂たちも、こういった時は震えて屋敷の奥にこもってしまうので役に立たぬ。
己が何とかせねば、と腹をくくって裏庭へやってきた張夫人は、転がるようにして彼女の側へやってきた下女が
指差すほうを見、愕然と足を止めた。
静まり返った裏庭で、少女は小さな体を折り、地面へ頭を付けている。それを見て、迫ってきた者達のほうが
反って怯んでたたらを踏んだ。
胡少年の一件で、昂揚していたらしい精神は、悦が崩れ落ちるようにして地面に跪いたのを見て、一気に
萎えてしまったらしい。
誰もが本当は、悦に罪はないことを分かっているし、心の底で(小さい者を責めてもどうにもならない)とも
思っていたのである。実父の無実を訴えて泣き喚くかと思っていた娘の、予想に反した行動が、彼らを
ためらわせたのだろう。
「年端も行かぬ小さき者を捕らえるのに、一族総出か。恥を知りなさい。この娘自身には罪は無いのだし、
この娘自身も父の行方を知らぬのだから」
そこへ郭夫人の凛とした声が響いて、振り上げられた「武器」は、自然に下ろされた。それを見て夫人は
声を少し和らげ、
「我々としてもこの娘の父の行方を知りたいので、人を使って探させているところです。だが、それはそれ、
これはこれ。今はこの娘の父は私の夫で、母は私。あなた方の気持ちも分かるが、親である我々の眼の黒いうちは
自由にはさせない。引き取りなさい」
でないと、今日の一件を自分の口からも郭子興に告げる、と結んだ。悦を立たせ、自分の袖の中へ庇うように
しながらの言葉である。
戸惑いながら顔を見合わせていた連中は、やがてぞろぞろと引き上げていった。途端、張っていた気が緩んだのだろう、
悦は夫人の腕の中でがっくりと倒れかけ、
「ごめんなさい」
慌てて立ち上がろうとする。
だが、夫人の腕は、彼女の小さな身体を離さない。
「なぜ、あんなことをしました? 下手をすると、あのままあなたは彼らに連れて行かれていたかも
しれないのですよ。怖くは無かったのですか」
背中を優しく叩かれながら尋ねられて、
「怖かったけれど」
大事な人を奪われた気持ちは、私にも分かるから、と、小さな声で悦は言った。
「だから親父殿の代わりに、謝らなければならないと思った」
続けて呟くのを聞いて、夫人は思わず小さな身体を抱きしめていた。
その意外な暖かさに戸惑いながら、
(これからは、この人をお袋様と呼ぼう)
悦はその時ようやく、心からそう思えたのである。

 二 紅巾の乱

「あの人たちときたら、酷い」
郭家の裏木戸が開くと同時に、甲高い声が響く。それを聞いて、悦は思わず頬を緩めた。声と駆け足の音が
こちらへ近づいてきて、
「悦姐様、そこにおいででしたか」
畑の草取りをしていた彼女の前に、一つの影がさす。
「どうしました、珠」
微笑んだ顔を上げて名を呼ぶと、まだまだ頬の赤いこの義理の妹は、
「姐様が私に仕上げてくれた刺繍を、従姉妹たちが勝手に部屋から持ち出して、自分のものにしてしまったのです」
ますます頬を赤くし、口を尖らせるのである。
彼女は郭子興の末っ子である。悦が郭家に引き取られる直前に生まれていた。子興の初めての女児でもあるし、
遅くに出来た子なので父に溺愛されて育ったが、珠自身は近頃、それをいささか鬱陶しがっている模様である。
上の三人がそろって男子であるし、年が離れているし、
「男兄弟なんてつまらない。従姉妹たちは意地悪。あなたが私の姐であってよかった」
自分のことを第二の母のように可愛がる悦に向かって、いつもそう言っていたものだ。
悦が郭家の養い子であることを、今では珠もよく理解している。理解したうえで尚、
「あなたが一番好き」
と言いながら頼ってくれるその気持ちがやはり嬉しく、悦の方もいつの間にか実の妹に対するような情愛を
彼女に対して持っていた。
「刺繍など、またいつでもしてあげます。先だってあなたに差し上げた物より、ずっと素敵に仕立ててあげます。
ですから、そう怒りなさるな」
今日も春の日差しは暖かい。額ににじんだ汗を、首周りにかけた手ぬぐいでふき取りながら、悦はにこにこと
義妹を見つめた。
「相手が欲しいというのであれば、いつなと渡してあげれば良いではありませんか。なんの刺繍のごとき」
なだめながら、むくれている彼女の頬を指先で軽くつつくと、
「姐様は、またそんなことを言う。私が言うのは、刺繍のことばかりではない。姐様が私のためにと心を込めて
繕ってくださった、そのお気持ちが踏みにじられたようで、だから私は怒っているのです」
近頃は、より腹を立てた風に珠は言葉を返してくるのだ。
この、畑の畦にちょこなんと腰を下ろした義妹は、末っ子らしくまことに多弁である。多弁ではあるが、
手は口ほどに達者ではないらしい。そもそも野良仕事は自分の仕事ではないと思っているから、悦が汗を
流しているのを見ても、決して自分から「手伝う」とは言い出さない。
いつものごとく、悦の仕事振りを眺めるのみの彼女の憤りは、
「それもこれも、悦姐様が穏やか過ぎて、決して言い返さない方だから。姐様も、もっともっと強く仰って良いし、
いつまでもそんな、野良仕事や炊事など手伝わなくても良いのに。例えば姐様には、そう、欲しいものなどは
無いのですか」
義理の姉が慎ましすぎ、ひっそりとしすぎることへも向かう。
(欲しいものは無い、ということもないのだけれど)
言われて浮かぶのは、あの夜、家と共に焼けたであろう母の櫛であり、平凡で、幸せであったあの暮らしである。
己にとって、それ以上にも以外にも価値があるものはなく、
(けれど、それはただの感傷だ)
しかし失ったものはもう戻らない。
そんな悦を、少し首をかしげつつ眺めて、
「簪や珠飾りや……欲しくないのですか、姐様は。やはり以前ちらりと仰っていた、かの櫛が良いのですか。
もうとっくの昔に無くなってしまった物でしょう」
話し続ける珠の言葉には、全く遠慮がない。
「そうですね」
心の中を見透かされて、悦は珠の言葉に苦笑した。
「でしたら、親父殿にでも新しい櫛が欲しい、と仰れば良いのに。櫛のことだとて、姐様は私が問いたださなければ
仰らなかったでしょう。いつまで遠慮なさっているのです。姐様に言われたら、それでなくとも恩に着せたがる
親父様のこと、きっと喜ぶに違いありません」
「親父殿に向かって、そんな言い方をするものではありませんよ」
珠が悦にぶつけてくるのは、贅沢な環境で育った者のみが出せる、まっすぐな感情である。そのことを少し
羨ましく思いながら、
「まあまあ、良いではありませんか。私は何も憤ってはいない。私が作ったものでも、大事に扱ってくだされば、
私はそれで良いのですよ」
悦は再び、義妹の白い頬を軽く突いてそう告げる。
「ほれ、そのような顔をしていては、お袋様に良く似た美人が台無し」
重ねて言うと、珠は「姐様がそう言うなら」と、不満げに言いつつ、不承不承口を閉じるのだ。
時に、至正十一(一三五一)年。早いもので、悦が郭家に引き取られてから十年あまりが経とうとしていた。
飢饉や旱魃が頻発している大陸北方では、いよいよ白蓮教徒と元朝廷軍とが衝突したという噂も聞く。
近くの浙江でも、塩の密売を行っていた方国珍という者が、朝廷に対して乱を起こしたらしい。
だが、ここ定遠一体はまだ平和で……未だに元朝の支配下にあるのだが……数年は豊作が続いていた。
小作人の間でさえ、
「そろそろ娘たちの嫁ぎ先を探さねばならない」
「祝いの酒や肴はどれほどがいいか。小作人であるから、あまり贅沢は出来ぬが」
などという話がのんびりと出るほどなのだ。従って、悦とその父に対する悪感情も、いささか薄れた感がある。
現に、かつて彼女を罪人の娘となじった胡家の少年も、現金なもので今では悦への求婚者の一人になっているのだ。
悦ももう二十歳で、年齢的にはいつ嫁いでもおかしくない。だが、
(顔は良くても、心の中では何を考えているのやら)
悦はただ苦笑していた。
かつて己を殺人者の娘と罵ったかの少年は、名を惟庸という。胡少年は一見、どこぞの富豪の子弟かと思うような、
整った顔立ちの青年に育った。村の娘があまりに騒ぐものだから、
「俺は男前だ」
そういった方面の自信だけは、どうやらたっぷり持っているらしい。
身分的にはまだ郭家の小作人である。だが、今のように、郭家の野良仕事を手伝っている悦にたまたま出会うと、
わざわざ近づいてきて、
(俺のような良い男ぶりの者が、人殺しの、しかも仇の娘をもらってやろうというのだ。ありがたく思え)
(俺のような良い男が話しかけているのだから、悪く思わぬ女がいるはずがない)
そのような感情を、言外に匂わせて話しかけてくるのだ。
話しかけられても、悦自身は適当に相槌を打つのみであるが、
「養女とはいえ郭家の子なのだから、嫁にさえもらえば将来は楽な暮らしが出来る。嫁になれば、悦も亭主である
己に従わざるを得ぬ」
露骨にその意図が透けて見えるだけに、郭家の使用人などは胡惟庸青年を毛嫌いしている。
そのような状態ではあるが、もしもこの小康状態が続くようであったら、胡惟庸青年が相手ではなくても、
悦は求婚者の中の一人に嫁いだかもしれない。
しかし郭家の主、子興は、さすがに情勢を知っていた。彼の情報源は、主に白蓮教徒の筋からで、
「そろそろ俺も打って出るか。元の奴らを俺たちの住処から追い出す機会が来た」
ずっと様子を伺っていた彼が、そう言って腰を上げたのは、さきほどもちらりと述べたが、華北における
白蓮教と元の官軍との争いを聞いたからである。
白蓮教本軍、つまり大宋軍は、既に頴州で挙兵していた。劉福通という名の幹部が、教祖である韓山童を奉じて、
「我らが教祖は、北宋の八代皇帝の末裔である」
言い言い、自ら兵を募りながら、
「我らに協力せよ」
白蓮教徒の主だった者へ使いを出した。その使いは四方へ飛んで、徐州では、李二、趙均用、彭大らが、
湖北では徐寿輝が立ち上がっている。
これが数年前のことで、これら「蜂起軍」は、それぞれが住んでいた地方の県令を倒してこれを本拠とした。
朝廷に反旗を翻す場合、よく取られる方法に倣ったということだ。
大雑把に言うと、白蓮教が元朝に対して反乱を起こした、ということになるこの状態は、後に紅巾の乱と名づけられる。
白蓮教の信徒が目印として、赤い布を身体のどこかに結びつけたことから、そう呼ばれたのだ。
「紅巾」軍は、後世、東系、西系の二つに大別された。
東系紅巾軍の中心である韓、劉福通らは、大宋と名乗っている。郭一族が居住していた定遠の隣地、
徐州で蜂起したのが李二、趙均用、彭大という名の者たちだった。さしずめこれらは、徐州紅巾軍と
いうことになろう。
西系紅巾軍は、かつてちらりと述べたが、天完国を建てた徐寿輝が中心である。その下にあったのが、
漢を名乗った陳友諒、夏を名乗った明玉珍、巣湖水軍(巣湖に巣食っていた水賊)などである。
東系も西系も従っている人間が人間だけに、細かな争いが絶えぬ。皆が皆、「あわよくば己が頂点に立ちたい」
といった考えを、腹に持っていたからだ。
さても、先ほどの劉福通の使者であるが、郭子興の元へもやってきた。江南で一番、資金にも人脈にも
恵まれている郭家なのである。やって来ぬ訳がないのだ。
使者の言い条は、無論、
「北で我等、南では貴方が蜂起し、民衆のための平和な暮らしを取り戻そう」
ということで、手っ取り早く言えば協力要請に他ならぬ。
彼は家人に相談もせず、
「劉殿がやるというのなら、声さえかけていただければこちらはいつでも呼応する」
そういった意味のことを言って、即諾してしまった。
「ご先祖のことも考えて、どうか危険なことはおやめください」
当然のごとく夫人は心配し、止めた。だが、「前々からずっと考えていたことだ」と、子興は耳も貸さない。
夫人にしても、子興の
「世の中に打って出るまたとない機会だ。男であるからには、一度はでかいことをやってみたい」
男としてのそういった気持ちは充分に理解しているつもりである。愛する夫の生涯をかけた夢とやらに、
出来るだけ添いたいとは思うのだが、
「せめて子供たちは、巻き込まずにそっとしておいてやってください」
それは子を持つ母の、当然すぎる願いであったろう。
だが、夫は故第一夫人との息子たちを三人とも、自軍の勢力の中へ組み入れてしまった。
「人の上に立つ者が、身内だけ危険に晒さぬとあれば他の者に示しがつかない」
というわけである。それに、
「あいつらも乗り気だ」
その言葉通り、夫よりも若く、血の気の多い息子たちのほうが乗り気なのだ。
その後も子興は、定遠ばかりではなく、南京、宿州など、主だった江南の都市ほとんどの代表者と語らい、
着々と戦闘の準備を整えた。結果、兵士の人数も瞬く間に数千人に及んでいる。
彼が威勢のよいのを聞きつけて、行方不明になっていた孫徳崖までもが、
「敗軍の将ではあるが、まだまだ戦える。今までは力不足のため潜んでいたが、これからは貴方の傘下に入って
元軍への恨みを晴らしたい」
と、己の他に三名ばかりを引き連れてやってきた。むろん、その配下に居た兵士たちも共に、である。
このことで、子興の軍の威容はさらに高まった。それやこれやですっかり気をよくしてしまった彼は、
「淮河は渡らせぬ。江南は俺が守る。我こそはと思う者は、俺の元へ来い。働きいかんによっては、重く用いるであろう」
といったようなことを、各方面に吹聴して回っている。実際に、小規模ではあるが淮河を渡ってこようとした元軍を、
彼自身が始めて率いた軍で破りもした。
こうなると、もはや立派な「郭子興軍」である。濠州で蜂起したため、濠州紅巾軍と呼ばれたこの軍隊を率いて、
子興は今も、主に江南一帯を転戦しているのだ。ために、
「親父殿が留守なのですから、せめて家の中は波風立たぬよう、私たちでしっかり守らねばなりません。中が不和では、
親父殿が心配なさって、外で思う存分やりたいことが出来なくなりましょう。親父殿やお兄い様達は、皆の暮らしを
守るために戦っているのですよ」
悦が今、畑で義妹へ言って聞かせているように、彼女の養父たちは真に多忙であった。
「さて、私もそろそろ少憩を」
並んで腰を下ろした義姉へ、
「それ、その親父殿のこともそう」
しかし珠はより一層口を尖らせるのである。
「聞きましたか。親父殿は、あなたの将来の夫を、集まってきた烏合の衆の中から選んでいるということ。
親父殿は、兄様たちが頼りないからと言って、あなたを餌に、もっと役に立つ人間を集めるつもりなのだと
仰っているわ」
何が「革命軍」か、と、珠は言い、
「お袋様を寝込ませておいて、自分だけ好きなことをして、その上あなたまで私から奪おうとするのだから。
これのどこが正義ですか」
父をなじるのだ。
「あら、それは本当ですか」
悦が問い返したのは、義母の郭夫人が寝込んだことではない。そもそも、寝込んだ義母の面倒を主に見ているのは、
他ならぬ悦自身なのである。
「もちろん。この間、家に来ていた白蓮教の方々の話を聞きました。その後で、劉先生にも問いただしました。
だから間違いは無いと思います」
珠もまた、悦の問わんとするところを見抜いて応えた。
「親父殿は、昔からそう。いつも人に聞かないで、『お前も喜んだろう』なんて後から言うのだから。もしも
あなたが集まってきた人の内の誰かに嫁いだら、あなたが本当に幸せかどうかを知ろうともせずに、
『お前も幸せだろう』なんて後から言うに決まっている」
義妹の口は、言いながら再び尖っている。その様子を再び微笑ましく見つめながら、
(革命軍。その中の誰かの元へ、私が嫁に)
そう考えて、悦の鼓動は早鐘を打っていた。
動悸を早くさせたのは、人殺しの娘でも誰かの元に嫁すことが出来るという希望のためではない。もとより、
「自分が食べられるだけの物を作り、着られるだけのものを作りながら、信じられる人たちと、ささやかで
慎ましい暮らしをしたい」
と考えている……つまり、引き取られる前の暮らしを未だに懐かしんでいるのだが……そんな彼女のこと、
贅沢などなおさら望んではいない。
(もしも革命軍の人のところへ嫁いだら、その人の話の中から、父の行方が片鱗でも分かるかもしれない。
女の身ではあるけれど、もしもその人について行けるものなら一緒に行って、父を探したい)
そう考えたためである。
郭邸内においては、今現在も悦への親族の陰湿な嫌がらせは続いているが、少なくとも表面上、悦がはっきりと
分け隔てをされたことはない。ひとまずは、分け隔て無く育ててもらったと言えるだろう。
(私は、本当に恵まれていた)
誰よりも、養母の張夫人が率先して、目の行き届く限り庇ってくれた。そのことには真に感謝しているが、
やはり実父への情は別である。
女の身であるから、放浪の一人旅など思いもよらないが、
(私が男であったら、とうの昔にこの家を出奔して)
父を探しに行っただろう、とも思うのだ。
養女とはいえ郭家の子ということで、同年齢の従姉妹たちと同様、悦にも縁談の話は毎日のようにもたらされている。
が、
「俺が道を安全にするまで待て」
養父の子興が常々言っているように、定遠から一歩でも出ると、真っ昼間から野盗が出るらしい。そんな物騒な
ところを通る花嫁行列は、盗賊の格好の餌食となろう。ゆえに、話はあっても現実に嫁げるかどうかは、
まだ分からない。
珠などは、
「あなたにも、もっと普通のお話を持ってきてくれたらいいのに。この近くの人だったら、あなたがお嫁に行っても
遊びに行ける」
と言うのだが、
(そのことこそ、世の中が騒然としているという証明ではないか。財産がある、というだけでは生き延びられぬ
世の中になっている、ということかもしれない)
自分の回りは穏やかだが、確実に世間は動いている、その確たる証が、子興の言動に良く現れている、と、悦は思った。
「劉先生の話を、もっと聞きましょう」
ふと気が付けば、郭家の専属家庭教師がやってくる時刻になっている。さらには、
(確か、約束は今日までだったはず)
その教師が自分たちの学問の面倒を見てくれる期限のことを思い出して、悦は義妹を促しながら椅子から立ち上がった。






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