奇骨賛歌 4



肌がひりひりするほど何度も擦られ、垢まみれの身体は、ようやく白くなった。郭家の子らと
同じような服を着せられ、髪を結われて、
(私ではないような)
少女はさらに戸惑った。見せられた鏡の中にいるのは、もう貧しい小作人の娘ではない。
足の傷にも白い布が巻かれ、見たこともない食事をふるまわれた後、
「あなたの部屋だと思って、自由に使いなさい」
夫人が案内してくれたのは、今までの家がすっぽりと入るような大きな部屋である。
「寒くはありませんか」
問われて、少女は呆然としながら首を振った。備えられてある家具は、少女の目には、話に聞く
宮殿にあるもののように見える。隅々まで掃除された部屋の隅にある火鉢には、炭がどっさりと入れてあった。
寒いどころか、今にも眠気が襲ってきそうに暖かい。
「おお、そうだ。こちらへ」
目を丸くしている少女の肩へそっと手を置いて、郭夫人は窓の脇の、どっしりとした机へ導いた。
「あなたのお名前を考えてみました」
引き出しから筆と一片の紙を取り出して、夫人はさらさらと文字を書き上げる。
「これでいかがです? 発音はあなたの言う、エツです」
示された紙には、「馬悦」という文字が黒々と書かれていた。
(この子はさぞや、悦ぶことが少なかったに違いない。これからは、大いに悦ばなければならないのだ)
思いながら、夫人は少女の髪をそっと撫でる。その夫人の仕草には、お義理ではない愛のようなものが感じられて、
(ひょっとして小母さんは、私を気に入ってくれたのだろうか)
「これが、私の名前?」
撫でられた髪のその場所に、おずおずと手をやりながら少女は尋ねた。むろん彼女は、夫人の
心の奥にある記憶を知らぬ。
「そうです。郭家の一員となったからには、あなたも学問をしなければなりません。そうすれば、
文字の意味もおいおい分かるでしょう。今日はもうおやすみなさい」
尋ねられ、夫人はにっこりと笑って頷いた。
そして張夫人は、
「何も考えずに良く眠りなさい。ではまた明日」
寝床を指し、部屋を出て行く。
部屋の扉が静かに閉まると同時に、火鉢の炭が爆ぜ、かすかに音を立てた。
(夢ではないのか。私はまだ、夢を見ているのではないか)
部屋の中を見回しながら、夫人が示した寝床の端へ少女はおずおずと腰掛ける。ふと眺めた窓の外では、
すでに白々と夜が明け始めていた。
(雪は、止んだのか)
幼い身体は、くたびれ果てていた。頭の端が鼓動に合わせてズキズキと痛む。落ち着かないながらも、
用意されていた豪華な布団へもぐりこむと、目を閉じた途端、狭く、汚かったあの家のそれとはまるで違う
優しい香りが漂った。
(いい匂いだけれど、やっぱり駄目)
布団の端を噛み締めながら、少女はわずかに首を振る。ふっくらと優しい作りの布団は、少女の手足をすぐに
温めてくれたのだが、
(親父殿)
彼女がそこで思ったのは、布団代わりにしていた、ツギだらけの父の上着である。
(これは夢ではないのだ。親父殿や兄たちには、もう二度と会えないのだ)
垢じみ、饐えた臭いを放っていたあの「布団」を恋いながら、少女は声を殺して泣いた。

狭い村落社会のこととて、馬が、
「同じ白蓮教を信奉していた人間を殺し、後始末に失敗して逐電した」
という話は、一晩のうちに広まった。
実際に、その晩以降、少女の父である馬の行方は杳として知れぬ。
皆、馬公の性格を熟知していたから、
「きっと何かの事情があったのだ」
口に出してはっきりとは言わないが、事が起きた当初は、そんな風に密かに同情する者が大半だった。
だが、やはり犯罪人は犯罪人なのだ。国家の法に照らして罰せられなければならない。だから、
県の役人がそれなりに行方を追ってはいたらしい。
その役人も、さすがに富豪である郭家には遠慮した。なにさま、この県の税収入のほとんどを郭家に頼っているのだ。
さらには、この家は定遠一帯の農民の顔役でもある。
馬が、その娘を郭家に預けた話を聞いて、事件の翌日には郭家を訪ねてきたものの、
(郭の機嫌を損ねると、俺たちの食い物も減る)
(あまり追及すると、帰り道は奴の味方であるならず者に襲われるかもしれぬ)
というわけで、通り一遍のことのみ尋ねて、早々に引き上げていったのだ。
かくして、半年も経たぬうちに「捜査」はうやむやになってしまった。
人殺しを依頼したことを、自ら名乗り出る人間などいないであろう。ゆえに、馬に人殺しを依頼した人間のことも、
どうやら知れずじまいになりそうである。それに役人たちは、郭家の「後難」を恐れて馬の行方を真剣に
探そうともしない。こうなると、収まりがつかないのは、馬に殺された人間の家の者である。
改めて記すが、かの者の家の名は、胡と言う。
「役人は何をしているのか。こういう時に役に立たずにどうするのだ。せめて馬の行方くらいは捜すなりしてくれ」
県庁に乗り込んでいって息巻いてはみるものの、
「お前たちの方だとて、馬の家を焼いて捜索の邪魔をした。お互い様だ」
理屈にならぬことを言われるし、さらには、
「それにお前たちも郭家に雇われている身ではないか。あまり騒ぎ立てて、郭一族に睨まれるのもつまらんだろう。
お前の親戚も、殺されたくらいだから、相当の恨みを買っていたに違いない。まずは恨んでいそうな人間を、
お前たち自身が探したらどうだ」
そうも言われるし、で、ついに返す言葉をなくしてしまった。自分たちに恨みを抱いていた人間云々はともかく、
郭家に睨まれて仕事をもらえなくなれば、一族あげて路頭に迷ってしまうのは事実だからだ。
そんなこんなで、持って行き場の無い怒りを抱えた胡の家族は、ついで、
「馬の娘が、正式に郭家の養女として引き取られた」
という話を聞いて、
「そんな馬鹿な話があってたまるか。人殺しが少しも罰せられることもなく、その娘が俺たちの上で大きな顔を
しているなどということが、どうして許されるのだ」
今度は郭家にいる少女に向かって、その怒りを爆発させた。
そして鬱屈した憤りは、
「馬の奴は卑怯な奴だ。最初からこうなることを見越して、俺たちの家族を殺したのだ」
そんな言葉に変わって、小作人仲間にぶちまけられた。己と同じ身分である小作人たちと顔を合わせるたび、
胡家の者はそう言って回るようになったのだ。
最初はそれを戯言だと思い、雇い主である郭家に睨まれるからと話半分に聞いていた人々も、やがて、
「馬の奴は、上手いことやりやがった」
「俺も誰かを殺して、子の面倒を郭の親分に見てもらうか」
嘲笑交じりに物騒なことを言い合うようになってしまったのだから、言葉の力というのは本当に恐ろしい。
しかもそれはただの風評ではなく、事実なのである。
さて、郭家に引き取られた件の馬の娘、悦のほうは、
「あれ、お前さんかえ。ゆっくり寝ていれば良いのに」
台所の下女の優しい言葉に、今日も微笑んで首を振った。事情をある程度知っている郭家の使用人は、
面と向かってこの少女を罵倒しないし、陰でコソコソと悪口を言うこともしない。
そればかりか、彼女らは悦を守ろうとしていた。
「お手伝いします」
あの事件の翌日、悦はそう言いながら、昼飯の支度の真っ最中である台所へやってきたのである。
驚いて顔を見合わせていた下女たちは、
「今までも、私はこうやって親父殿の食事を作り、服を繕ってきました。お金持ちのお嬢さんでいるより、
こうしているほうが、よほど私の性に合う」
そういった意味のことを言って、竈の近くの杓を取り、火にかけられている鍋の中身をかき混ぜる少女の姿を見、
(この子は苦労してきたのだ。私たちと同じなのだ。我々とて食い詰めたら、家族のために同じ事をするかもしれない)
さらに、その行動が計算されたものではないことを本能的に感じ取って、たちまち庇護欲
をそそられた。田舎の人々だけあって、根は純朴なのだ。
朝は下女らと同じように暗いうちに起きて、家人の飯の支度をし、野良仕事にも出る。
頼まれなくても、家人や使用人の服にほころびが見えたら、
「繕います」
といって手を差し出し、慣れた手つきでそれを繕う。
ものの数分も経たずに、
「出来ました」
にっこりと微笑って、綺麗な縫い目を見せた服を返しにくるのだから、誰もが感心せざるを得ない。
しかも彼女は、そのことを、郭家の一員として学問を身につけさせられている合間にやってのける。
さらには、せっかく養女となったのに、悦は自分から欲しいものをねだらない。ねだら
ない、というよりも、ねだることを知らずに育ったためであろう。食事の時なども、郭家の子らにも遠慮して、
例えば大皿に残った一番小さな豚の足などへ遠慮がちに箸を伸ばす。
そんな悦をもどかしがって、
「いつになったら心を開いてくれるのか。遠慮するなと言っているのに。使用人のする仕事など、やらなくても良いのに」
郭家の主人、子興はしきりに夫人へ零し、また、悦に向かって、
「お前の親父は、必ず俺が探してやる。安心しろ。それに、もう俺の娘なのだから、使用人がやる仕事など
しなくてもいい」
そういった意味の言葉を直接言いもした。
そんな場面を目撃するたび、
(それが、この人の悪いところだ。この娘が反って傷つくかもしれぬとは考えないのだ)
夫人は苦笑して夫の袖を引いたものだ。
夫には、決して悪気はない。悪気は無いどころか、それはすべて「相手を喜ばせたい」という親切心から発している。
だがその言葉の中に、
「自分がここまでしているのだから、相手も喜ぶはずだ」
そんな風な、どうしても、自己満足による善意の押し付けのようなものを感じさせてしまうのだ。
相手が本当にして欲しいことは何であるか、といったことを深く考えぬのは、これも金持ちの子として
育てられたためであろうか。
「本人の好きにさせておきましょう。それでいいのです。あまりこちらから言い過ぎると、より心を
閉ざされてしまいますよ。ここはぐっと見守りましょう」
少女と同じ苦労を舐めてきた夫人に何度かたしなめられて、不承不承ながら、郭子興もようやく何も言わなくなった。
こうして悦は、自然に身につけていた慎ましい人柄によって周りの人々の心を溶かし、
無自覚ながら、自分の居場所を少しずつ広げていったのだ。
今では、嫂二人の親族を除いたほぼ全ての郭家の人々が、
「このまま、本人にも相手にも真実を知られることなく、良い嫁ぎ先を見つけてやれたら」
と、あまり器量よしではないが気立ての良いこの孤児へ、暖かい眼差しを注いでいる。
だが、そのような噂、ことに己自身に関する悪意ある話というものは、どのように周囲の人間が気を遣ったところで、
必ず本人の耳に入るように出来ているらしい。
季節は、再び田植えの時期に入っている。
「俺も、お前と同じ、郭の家の養い子になれるように、奥方に頼んでくれないか」
小作人の娘であった頃と変わらず、郭家の田の作業に出ていた悦に、そんなことを言ってきた少年がいた。
その手に持っているのが牛追い用の棒であるところを見ると、ここから少し離れたところで、郭家の牛の
世話をしていたらしい。
「やっとお前を捕まえた、だからこの機会を無駄にしてはならないと思ったのだ」
養女になる前と同じように野良仕事をしている悦と、以前のように顔を合わせる事が無く、ために、
「いつかは言ってやろうと思っていた。やっと見つけた」
かの少年は何故か勝ち誇ったように言い、
「俺も郭家の子にしてもらうように言え」
繰り返すのである。
太陽が水面に照り返す光の眩しさに目を細めながら、泥の中を這いずり回っていた悦は、
「そんなこと、私に言えるはずがない」
驚いて大きくした目を、顔見知りであった少し年上のこの少年に向けた。
(この人は、確か胡といった)
辛うじてその姓のみを思い出しながら、
「言えるはずがないでしょう」
再び首を振ると、胡少年は、たちまち整った面立ちの顔をゆがめる。そして、
「なぜだ。元はといえば、お前も俺と同じ立場だったではないか」
忌々しげに水面へ唾を吐く。
「それはそうだけれど」
悦は戸惑って、周囲を見た。
少年の父は、二人からかなり離れた場所で牛の荷台に腰をおろしている。恐らく少憩を取っているのであろう。
彼らの会話が聞こえている風でもない。郭家の人間はと見れば、少憩をとってでもいるのか、
少し離れた畦の上でのんびり茶を飲んだりなぞしている。
「俺たちの仲間も皆、思っている。お前ばかり狡いではないか。なぜ頼んでくれない」
(狡いと言われても)
郭家に引き取られたのは、自分自身が希望してのことではない。困惑して黙ってしまった悦に、少年は続けて、
「お前は運のいい奴だ。人殺しの親父を持ったくせに、郭の家の娘になるなど図々しいにもほどがある」
悦の周りの人間が遠慮して言わなかったことを、ついに口にした。
興奮したため、その声はかなり大きかったらしい。悦の視界の片隅で、少年の父や郭家の使用人がこちらへ
顔を向けるのが分かったが、
(あの親父殿が、人殺し?)
呆気に取られて己の顔を見る悦に、少年はさらに苛立ちを募らせたらしく、
「知らないはずはないだろう。お前の親父は俺の従兄を殺したのだ。人殺しだ。人殺しの娘ですら、
郭家の養い子になれるのだ。ならば、何も罪を犯していず、わずかな金で働かされている俺たちにこそ、
その恩恵は授かるべきではないか。お前たち親子は、まことに狡い人間だ」
そういった意味のことを、叫ぶように言ったのである。
激昂のあまり、そう言ったのみならず、少年は娘に掴みかかった。慌てて飛んで来た彼の父が、後ろから
その身体を抱きとめる。同じように駆け寄ってきた郭家の下女たちが、悦を守るように人垣を作って、
呆然とした様子の悦をそのまま屋敷の裏口へ導いていく。
「まあまあ、可哀想に。何もあんなに言わなくてもねえ」
「子供は正直だから。あまり気にしなさんなよ」
下女たちは口々に言いながら、悦を手近な木の椅子に座らせた。親切な彼女たちに、
「私の親父殿は、人を殺したのですか」
半ば呆然としたまま、うつろな目を向けて悦は尋ねたのである。
ぎくりとした様子で顔を見合わせた下女たちは、ついで黙り込んでしまった。朴訥な田舎者であるから、
咄嗟に言いつくろうことが出来ないのだ。
彼女たちの様子を見て、
(ああ、やはりそうだったのか)
むしろ、どこか冷めた感情でもって悦は思った。




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