奇骨賛歌 3



少女の家族が離散しなければならなくなったのは、この年に准北地方を襲った旱魃が大元の原因である。
その地方を救うために、同じ県でより近い穀倉地帯だからというわけで、
「救援のために使うので、各家に蓄えてある食糧を残らず出せ」
という命令が、元朝廷から同県の他地方に下された。
もともと定遠を含む江南一帯は、豊かな穀倉地帯である。当時「江浙熟すれば天下足る」とまで言われたように、
江南一帯の省だけで、天下の富の三分の一を生産していたはずなのだ。
だが、先ほどの命令により、ただでさえ重税に喘いでいる小作人たちに、より一層の負担がのしかかることに
なってしまった。役人の言う分量に合わせようとすれば、例えばコメでも、来年の田植えに使う種籾まで
差し出さねばならない。つまりそれほどまでに、酷い旱魃であったということだろう。
そしてこの旱魃は、反政府側である白蓮教信者の懐具合にも影響した。
各地の富豪信者からの献金だけでは、兵士の食糧をまかなえない。その資金繰りに頭を悩ませていたのが少女の父、
馬公であり、彼が頼まれた仕事、というのは、まさにその資金繰りのことだったのである。
「計算が合わない」
と支部責任者の何某に責められて、生真面目な彼は丹念に帳簿を繰り、
「貴方が信者の皆からの献金を掠めていたのか」
その日、たまたま支部に来ていた者を問い詰めた。
定遠に古くから住む自作農家だったその者の名は、胡という。
南京にあった白蓮教江南支部の、狭い一室でのことだった。両側の壁には天井まで届く棚が作りつけられており、
その中にはぎっしりと帳簿が並んでいる。
問い詰められて、
「いくら信奉している教団だからといって、自分が飢え死にしてしまっては何にもならぬ」
胡某は逆上して言い返し、馬へ掴みかかった。
「旱魃のせいで一族が飢えている。とてもではないが、白蓮教にまで渡す金はない。お前は、俺が掠めたという
酷い言い方をしたが、もともとは俺の家が教団へ渡していた金だ。俺はそれを返してもらっていただけだ」
叫びながらの体当たりを、馬公は無意識にかわした。かわした先には大きな机が置いてある。その机の上には、
帳簿に使う紐を切るための短刀が転がっており、
「頼む、見逃せ」
言いながら、さらに向かってくる胡と揉み合っているうち、馬公は彼を刺していたのである。全く、
不運な出来事であったとしか言いようがない。
やがて騒然となった建物の中から、馬公は逃げ出した。
誰も正確なところを目撃していない、小さな部屋の中での出来事なのだ。今更弁明できるとは思っていない。
彼の頭を掠めたのは、何よりも先ず子供らのことである。
(捕まれば問答無用で連座だ)
まず彼らを逃がさなければならない、と、雪の中を走りながら馬公は思ったのだ。
男の子供らは、やはり男であるから、どうにかして生き延びることも出来よう。だが、
(娘には無理だ)
末娘の行く末を、この父は案じた。
(誰よりも信頼できて、何処よりも安全な場所)
我が家へと逃げる最中、そのことばかりを考えて、出した結論が、
「郭家まで辛抱しろ」
ということだったのである。
出て行く際、戸口で「良い子でおれ」と己の頭を撫でた父の手は今、乾いたさびのような匂いをさせている。
その匂いを嗅ぎながら、
(なんて、綺麗な)
民家から漏れる明かりに輝く夜の景色を、いつしかぼんやりと少女は眺めていた。彼女にとって、
暗い道を見るのはこれが初めてである。
その道は、降る雪や家々の明かりでおぼろげに光っている。泣き疲れたのと寝不足とで、頭はなにやら、
ぼうっとした霞がかかっているようだ。
そんな頭で見ていると、
(ひょっとするとこのままずっと、親父殿と走り続けているのではないか)
この道を、父と二人で永遠に彷徨っているような心持ちさえする。
あの明かりの灯る民家の一つに、つい先ほどまで自分もいたのだし、ひょっとして、実は今もあの家の寝床に
いるのではないか。自分がこうして父に抱かれて走っているというのは、夢まぼろしではないか、とも思った。
だが、それが夢やまぼろしではない証拠に、
(家だ)
その方角から、喚きが聞こえてきて、少女はハッとそちらを見た。
さらに、
「馬の奴はどこへ行った」
「いっそのこと、このボロ家を燃やしてしまえ。火で燻し出せ!」
などという物騒な言葉すらそこには混じっていた。さらによくよく見ると、かの場所は松明らしき明かりに
照らされて、いやに赤く光っている。
それを見て思い出したのは、
(まさか家が燃えている? お袋様の櫛が)
娘時代に母がその母、つまり少女の祖母から譲り受けたと言っていた、唯一ともいうべき財産である。
思わず父の肩から身を乗り出すと、
「見るな」
たちまち叱咤が飛んで、少女はぐっと両目を瞑った。その睫にも雪は張り付いて、瞼はすぐに重くなっていく。
何かが焦げるような匂いがし、爆ぜるような音が聞こえるのは、気のせいであろうか。
(このまま、目がくっついてしまうのではないか)
馬鹿なことではあるが、そう思い始めた頃に、
「誰か、誰かいないか。俺だ。馬だ。早く開けてくれ」
ようやく父が足を止めた。家の木戸を乱暴に叩く音が耳に入ってきて、少女はその方へ首を捻じ曲げる。
見ると、夜だというのに、その両側には大きな松明が赤々と灯され、戸板の隙間からは料理の匂いさえ漏れていた。
父が必死の形相で叩くこと数十度、
「何だ、馬の奴か。こんな夜中にどうしたというのだ」
ようやく家の者が気づいたらしい。いかにも「眠りを途中で妨げられた」という不機嫌な声がして、仏頂面の男が
開いた扉の隙間から顔を出す、
「お前、なんだその顔は。娘まで連れてどうした。いや、それは良いが、他の子らは」
よくよく見ると、その男は少女とも顔見知りだった、郭家の下男の一人である。その男の顔は、少女の
父の様子を見て、みるみるうちに驚きの表情に変わっていく。
「詳しいことは若旦那に言う。とにかく会わせてくれ」
「分かった。中へ入れ」
父の気迫に押されたように、下男は扉を開けた。その隙間に体を割り込ませるようにして、少女の父は郭家の裏庭へ
転がり込んだのである。
「馬の奴か。久しぶりに会ったと思ったら、一体何をやったのだ」
ほどなく、屋敷の護衛数名を引き連れてやってきたこの家の主が放った第一声が、これだった。
主が自邸の裏庭で見たのは、血まみれの体で小さな娘を抱いたまま、地面にへたり込んだ哀れな中年男である。
「落ち着け。一体何をやって、娘ごと俺の家に逃げてきたのだ」
近くの松明を一本手に取り、その近くへよって再び尋ねると、
「若旦那、すまない。俺は」
しばらく娘を強く抱きしめたまま、荒い呼吸を繰り返していた少女の父は、やがて悲鳴のような声を吐き出した。
さらに、
「俺は、取り返しのつかぬことをした」
震える声で辛うじてそれのみを告げ、号泣し始めたのである。
嗚咽のため、聞き取りづらい声で馬が告げたのは先刻述べたようなことで、
(まさかこいつが)
彼が話し終えた後、郭子興は思わず大きくため息を着いて、曇天を仰いだものだ。
彼が任侠を好んだことは、先にちらりと述べた。そうすると自然、そういった類の人間とも多く付き合うことになるし、
人道社会に反する話も多く耳にすることになる。
ために、子興自身は今更そのような話を聞かされたところで驚かない。だが、馬はそういった類の人間とは違うのだ。
(真面目で、言いつけられたことは十分以上にこなして)
地面にぺたりと膝を付いて泣く「友人」を、子興は信じられぬ思いで見つめていた。
(己を全く知らない、という奴でもなかったはずだから)
馬は、食い詰めても人殺しなどする人間ではないし、ましてや金のためにそれをする人間でもないことを、
誰よりも子興が知っている。
悪く言えば、小悪党にもなれないただの小心者だということで、
(こいつの話は本当だ。だが、現場を見ていない人間はそうは思うまい)
高ぶっている感情を、努めて冷静に保とうとしながら子興は思った。
馬もそう思ったからこそ、郭家へ逃げてきたのであろう。
「仕方のない奴だ」
郭は、ため息と共に言った。小さき者が共にいる手前、そのことをあまり詳しく問うわけにもいかぬ。
(ただ真面目に生きてきたのに、なんという運の悪い、哀れな奴だ。なによりも、子らが一番哀れだ)
繰り返しため息を着きながら眺めやると、その娘は、血まみれの父に強く抱きすくめられて怯えている。
何とも言えぬ感に打たれながら、
「全くもって、仕方のない奴だ。そしてお前は、俺にどうしろというのだ」
もう一度舌打ちをして、郭は再び問うた。
どこの何某を殺してしまったのか、とは問わない。してしまったことなど、問うても無駄である。それよりも、
(この先、こいつをどうしてやるか)
今の場合、そのことのほうが、郭にとってより重要だったのだ。
問われて少女の父は、血がこびりつき、凍りついた頬を上げて、
「こいつを頼む」
再び、悲鳴のような息と共に吐き出した。
「こいつを頼む、と言って、お前。お前も、俺の家にしばらく隠れて居るつもりで、逃げてきたのではなかったのか。
それに他の子らはどうしたのだ」
郭が呆れて尋ねると、
「俺はこのまま逃げる。俺までいては、貴方に迷惑がかかる。他の子らは男だ。だから、それぞれ追い放った。
運がよければ生き延びよう。人殺しの子らと言われて縄打たれるよりましだ」
少女の体を抱きすくめていた腕を解き、郭の方へ押し出すようにしながら、少女の父は首を振る。
「だが、こいつは女だ。独りでは生きてはゆけぬ。だから貴方に頼む。まことに申し訳なく思うが、
貴方にしか頼めない。俺は一旦、ここから去る。俺が居なくなったとなれば、まさか娘まで奴らも手を出すまい。頼む」
繰り返し言って頭を下げたかと思うと、彼はぱっと身を翻し、先ほど入ってきた木戸の外へと姿を消した。
しばらく呆然とそちらを見ていた郭は、松明が爆ぜる音でようやく我に返ったらしい。
「……さぞかし疲れていよう。腹は減っていないか。眠くはないか」
傍らで同じように突っ立ったままの少女の、やせ細った肩へ分厚い手を置いて、しみじみと問うた。
少女は、ただ黙って首を振る。その様子は、あまりにもか細く痛々しい。ぐっと胸に迫るものを感じながら、
「寒かろう。さあ、中へ入れ。飯を食って、湯を使え。これからはな、この郭の小父さんがお前さんの親父だ」
郭は少女の体を抱き上げんばかりにして屋根の下へ導いた。
すでに近くの廊下には、騒ぎを聞きつけて家人が集まってきている。その中には、さほど派手ではないが、
趣味のよい服装をした女性がいた。
「あの小母さんが、俺の妻だ。お前さんのお袋だと思え」
そちらを指差しながら、郭は少女へ話しかけ、
「お前も聞いたろう。俺はこれから、馬の娘の世話をする。お前もそのつもりで頼む」
夫人へ向かって告げたのである。
(そのつもりで、と言われても)
突然言われて、張夫人は面食らった。自分ばかりではなくて、周りにいる使用人たちもまだよく状況を
飲み込めていない風であるのに、
「俺は眠るよ。後はお前に任せる。足に傷を負っているようだから、傷の手当てもしてやってくれ」
夫の子興は、突如現れたその娘を妻の自分の方へ押しやって、何でもないことのように言うのである。
そして子興は、
「まだ眠りの途中であったから」
続けて大きな欠伸をしたかと思うと、さっさと己のみ寝所へ引き上げてしまった。
(やれやれ、またか)
でっぷりと太った後ろ姿を、半ば呆気にとられながら見送って、夫人は苦笑した。
これまでにも子興は、例えば両親に死なれ、生活に困窮した青年に職を見つけてやることや、嫁ぎ先を失った娘に
新たな嫁ぎ先を見つける、などの世話を軽く引き受けてきた。
(あまりにも軽々しすぎるのが、あの方の欠点だ)
夫人は再度ため息を着いた。その都度、実際にそういった人物のために骨折らねばならなかったのは、妻の
張夫人なのである。
郭が慈悲深く、鷹揚だとの評判は確かに事実だった。無頼漢とも付き合い続けているから、富豪にしては
世間を知っている方であろう。
だが、
(自分が引き受けたことを人にやらせて、上手く行けば自分の手柄。しかもそれを当たり前だと思っているのだから)
その点に夫人が不満を抱くように、人を使うことを何とも思わぬ、といったところはやはり金持ちの家の子である、
といった感が拭えない。人の気持ちを読み取る機微に、どこかしら欠けている。
鷹揚である、というのはある意味、いい加減である、というのにも通じる。それに、郭子興自身は何も言わないが、
教団の用事などで出かける先、例えば南京などに、彼が密かに愛人を囲っていることも夫人は知っている。
(もしかして実は、彼の愛人の子ではないのか)
ふとそんな風に思いかけて、夫人はつくづく少女を眺めた。
目ばかりが大きく、鼻はたいそう低い。栄養不足のためなのか、身体がガリガリに痩せていて、頭や顔ばかりが
いやに大きく見える。一言で言えば不器量ということで、
(夫にまるで似ていない)
よくよく見れば、若かりし頃……今はでっぷりと肥え太ってしまったから、見る影もないが……美男と言われ、
娘たちに騒がれていた郭子興には、欠片も似ていない。よって、夫人はさきほどの自分の考えをすぐに打ち消した。
打ち消した側から、別の不安が胸の中にむくむくと広がる。
(ついにこのような小さな子の養育まで、私がやらねばならぬ羽目になるとは)
今までで一番、厄介なことになった、と、彼女は思った。
これまでに郭が世話を引き受けた人物、というのは、おおむね、十七、八、といった年頃の、ある程度成長した
青年たちである。
従って、郭家に滞在して面倒を見なければならなかった場合でも、ごく短期間で済んでいたのが、今回
引き取った件は違う。十二歳の幼い少女なのであるから、少なくともあと十年は面倒を見ねばならぬ、と
思わねばならない。
(所詮は他人の子なのだ。嫁ぐまで育て上げることなど、私に出来るだろうか)
夫人は思い、顔を伏せたままの少女を見下ろしながら、途方にくれてため息を着いた。
先に亡くなった張第一夫人は、己の姉である。その姉と夫との間には、既に三人の男児がいるし、己自身も、
郭家に嫁いでから一人の女児をあげているのだ。
なるほど、経済的にはなんら問題はないから、子の一人や二人増えても今更どうこういうことはない。しかし、
(我が子達と分け隔てなく育てることが、凡人の私に出来ようか)
先の男子三人は、姉の子でいわば甥でもある。叔母に当たる自分のことも知っていたから、懐いてくれるのも早かった。
しかし、繰り返すが今回ばかりは勝手が違う。
(全くの赤の他人の子、というわけではないけれど)
張第二夫人は、姉である故第一夫人が、この少女の父である馬公を密かに思っていたことを知っている。
馬公が貧しい小作人で、それでは彼女の両親らが承知しないだろうと思って言い出せずにいたところ、
郭子興から嫁取りの申し出が来た、ゆえに郭家へ嫁入った、という経緯があるのだ。
張家も、定遠では貧しいほうではない。だが、
「女に学問は要らない」
という親の考え方のため、嫁ぐ際、儒学の一部にある嫁たる者、母たる者としての立場は叩き込まれただけで、
その他の教養など身につけさせられなかった。文字の幾ばくかは覚えたが、それもこの屋敷に来てからの付け焼刃である。
だが、郭家は違う。経済に余裕があるため、義姉の子らにも読み書きのほか、漢詩などの教養を身につけさせているのだ。
三男坊の嫁に学があまりないことを、郭家と同程度の富豪から嫁いだ嫂たちは見下して、
「文字も書けぬ家の娘が」
未だにそんな風に陰で言っているのを夫人は知っている。
これからこの少女にも教育も受けさせるとなると、その嫂たちの子と共に学問をすることになるわけで、
(きっとこの子も、私と同じように言われるに違いないけれど)
自分の子たちはともかく、気位ばかりの高い嫂と同じように、母が人の陰口を叩くのを聞いて育った彼女らの子も
……少女が人殺しの子であると知ればなおさら……馬鹿にし、軽蔑するに違いない。
実子をあげた時もそうであったが、今更ながら、教養という点でこの家の誰よりも劣る己に、そのように
育てることが果たして出来るか、と、第二夫人は責任の重大さに少し身震いしながら、
(それでも、私に出来る限りでやってみねばなるまい。引き受けたからには、全力で当たらねば)
と、考え直した。
夫の子興は亡くなった姉同様、今の妻である己を愛し、信頼してくれている。自分が郭邸にいる限りは、
嫂たちの陰口を許さなかったし、そんな夫を己も愛している。ゆえに、
(そうなれば、この子は私が庇ってやろう。子らにもそう言い聞かせよう)
この健気な夫人は再び大きくため息を着いた。今回も夫の信頼に応えようと決意したのだ。
そこへ、
「奥方様、食事や湯の支度は、とうに出来ておりますが」
厨房の者が遠慮がちに声をかけてきて、
「おお、そうですか」
夫人は気を取り直し、少女に向き直った。
「先に汚れを洗い流しましょう。湯を使うと、心も落ち着きますよ」
優しく声をかけても、少女は顔を伏せたまま小さく頷くのみである。
無理もない、と思いながら、
「あなたのお名前は? 何度かこの家に遊びに来ていたのは知っているけれど、小母さんは聞いたことがありません。
名前だけでも教えて頂戴。あなたを呼ぶ時に、不自由しますからね」
小さく、痩せた手を取って、郭夫人は廊下を歩き始めた。
再び優しく問われて、少女はようやく顔を上げ、夫人を見ながら、
「……エツ」
小さな声で答える。
「エツ、というのですか」
夫人が頷くと、
「バエツ。バが姓で、エツが名です」
やはり小さな声が答えを返してくる。
「さっきもちらりと聞きましたが、あなたの姓は馬というのですね。あなたのお父様は、先ほどまであなたと
共に居た男性ですね」
少女がこっくりと頷くのを見て、
(やはり姉が想いを寄せていた人の子か)
夫人は今更ながら何ともいえぬ思いに打たれた。
(馬は、一体どんな思いでこの屋敷の畑を耕していたのだろう)
小作人だから、両親がきっと渋るであろう。きっとそう考えたから、互いに想いを告げるのを遠慮していたに違いない。
第一夫人の妹であり、事情を知っていた自分には、
(思いあっているのだから、手に手を取って逃げ出すなりすれば良いものを)
二人の様子が何とももどかしく映ったものだ。
馬公の生真面目な顔を思い出しながら、
「……エツという名は、お父様がつけたのですか」
続けて尋ねると、少女はこっくりと頷いた。
「どういった字を書くのか」
問うと、黙ったまま首を振る。恐らくは文字を知らないのだろう。
「今まで食べる物や着る物はどうしていたのですか」
「食べる物は、自分で作った粥かなんぞで、着る物は破れたところに近所からもらったツギハギを当てたりしていました」
尋ねられると、小さい声ながらもはっきりと応えるが、その後が続かない。
ぶつ切れの会話を続けながら、廊下を幾度も曲がるうち、ようやく湯殿が見えてきた。入り口にかかったところで、
「母は居ないのか」
と尋ねると、そこで少女はぴたりと足を止め、
「私が生まれるのと同時に、死んだと聞かされています」
小さな小さな声で答え、再び顔を伏せて体を震わせたのである。
その様子を見て、夫人は愚かな質問をした自分を悔いると同時に、
(なんと可哀想な。この子は、私が守るべき子だ。この子をきちんと育てて、今こそ馬への償いをするのだ)
急速に少女への親近感が湧き上がるのを感じていたのである。
小作人に限らず農民は、貧しすぎて湯など使える身ではない。一生を通して二、三度、風呂に入れたら良い方なのだ。
少女の肌にも、恐らくは生きてきた年数分、垢がこびりついるに違いない。
黒く光ってさえ見える少女の手を、改めて強く握り返しながら、
「小父さんからも聞きましたね。これからは、この家があなたの家だと思ってください」
夫人は熱さえ込めて少女に話しかけた。
湯殿からはもうもうたる湯気が上がっていて、
「私があなたの背中を流しましょう」
夫人は言い、自ら布を取り上げて、少女の肌を拭っていく。
少女にとって湯を使い、さらに人に背中を流されるなど初めての経験なのだろう。
(落ち着かないのか。無理もない)
肌を拭う間、少女は痩せた体をずっと固く縮めていた。熱い湯が足の傷にしみるらしく、時々顔をしかめる。
そんな様子を見て、夫人の心はさらに痛んだ。
「小耳に挟みました。郭の小父さんは、小父さんや私をあなたの親だと思えと言っていましたね。ですが」
荒れ放題の少女の髪を、米とぎの汁で丁寧にすすいでやりながら、
「今すぐ無理にそう思う必要はありません。あなたのご両親はあなたのご両親。心にしっかりと留めておきなさい。
いつかもし、自然に私たちを親と思える時が来たら、その時に父、母と呼んでくれたら良い」
夫人が言うと、少女は驚いた目を見張って夫人を振り返る。
微笑んで頷く美しい夫人の顔を見て、
(お袋さまとは違う。けれど、同じ匂いがする)
「……ありがとうございます」
あまり器量よしとは言えなかった亡き母の面影を描きながら、ようやくはっきりとした声で、少女はそう述べた。


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