奇骨賛歌 2



元朝廷は、漢民族を支配していたモンゴル民族の国である。これまでのことは、その政治が、
いよいよ綻びを見せ始めていた頃のことだ。また、浄土教の一派である白蓮教が、少しずつ
力を付け始めていた時でもある。
異民族国家として中国史上初めて、中国大陸のほぼ全域を支配したこの国は、狩猟を生活の
基盤としていた。対して、その支配下に置かれた漢民族の生計は、農耕によって立てられている。
フビライを初めとする元の皇帝は、漢民族の生産性を上手く利用することを知らなかったのだろう。
その政治は主に民から狩る、すなわち奪う、ということを繰り返すのみであったように見える。
言葉は少々悪いが、そういった搾取しか知らぬ元の政治は、すでにその建国者である
フビライ=ハンの頃から腐敗臭を放ち始めていた。フビライが日本への侵攻―元寇―に失敗し、
失意のうちに亡くなってから九十年、役人はほぼ全て、私腹を肥やすことに熱中していると言っていい。
いわゆる貪官汚吏がはびこった状態、というのであろう。この頃になると、政治の乱れが極まった感がある。
政治の乱れは、庶民の暮らしの乱れにつながる。地方へ赴任した官の役人が、そのまま流賊もどきに
なることも珍しくなかったし、野盗の群れが小さな村を略奪しつくしたこともある。
そんな状況に対して、
「元を倒して、漢民族の理想とする国を築く」
というスローガンを掲げた白蓮教を、人々がすがるように信じていったのは、むしろ当然の成り行きだったろう。
白蓮教というのは一言で言うと、弥勒菩薩へ信仰を捧げる宗教団体である。その起源は古く東晋
(西暦三一七―四二〇に存在した中国王朝の一つ)に遡る。
彼らの活動によって、弥勒菩薩の生まれ変わり、つまり救世主の誕生に合わせ、今の世の中を
変えなければならぬという「弥勒下生」の考えが流行した。ちなみにこの考えは、我が国で、
平安末期から鎌倉時代にかけて流行した末法思想の元であり、その意義や主張するところも全く同じである。
根は同じ宗教であるが、我が国における浄土教と違うのは、その考えに多分に革命的要素が
含まれていたという点であろう。ために、この宗教団体は、元王朝に危険視され、しばしば弾圧されている。
その弾圧に対して、当然ながら白蓮教徒は各地で反乱を起こし、その反乱に対して元の官軍も
また鎮圧のために赴く、といったいたちごっこが繰り返されていた。
この物語の最初でもちらりと述べたが、
「汚い政治から民の生活を守る」
と言い言いしていた白蓮教徒の中にすら、時には、
「お前たちの生活を守ってやるためだ。俺たちに糧を寄越せ」
などと、何の縁もない民家に押し入って……もっとも、それらは専ら「下っ端」の仕業であるが……
脅迫じみたことをした者たちがいる。
改めて記すが、子興らが住んでいた定遠一帯は、中国大陸中央部のやや東よりに位置していて、
大都市である南京にも近い。南を長江、北を淮河という二つの大きな流れに挟まれた豊かな田園地帯で、
それゆえに盗賊にも目を付けられやすかったのだろう。群盗は、この地方をもしばしば襲って、
民家のみならず富豪の蔵などからも糧を奪い取ったものだ。
民の味方ですら明日には盗に変わる。こんな風な世の中は、子興が張氏を嫁にし、馬青年を
「かけがえのない友」と認識しつつも、相変わらずごろつきと付き合っていた十五年間、ずっと続いていたのである。
子興もさすがに年を取って、若い頃の軽挙はなりを潜めた。張氏との結婚生活の中で、三人の息子を
もうけている。三人目の息子を産むと同時に張氏は亡くなったのだが、彼女は死の直前、
「馬はどうしていますか」
と尋ねている。
(馬。あいつのことか)
かつて彼女を共に助けた、かの青年のことであろうと思って子興は頷き、
「近頃、奴に俺は直接会っていない。奴のほうがどうも俺を避けているようだ。だが、相変わらず
白蓮教の金の管理をしているし、俺の家の畑を耕しているらしい」
いたってあっさりとそう答えた。
(馬の奴の気まぐれだ。俺が馬に何かした覚えもないから、放っておいてもそのうち向こうのほうから
また寄ってくるだろう)
そう思っていたからである。
「そうですか」
すると張夫人はうっすらと微笑って頷き、そのまま目を閉じた。これが至元三(一三三七)年頃のことだ。
この時、なぜ第一夫人が馬青年のことを尋ねたのか、子興はちらりとも気にしなかった。自分でも言っていたが、
彼はやはり周囲に気を遣う事なく育てられた金持ちの子だったのだ。その時は、ただ単に、
(同じ村の誼ということで、気にかけただけだろう)
そう思っただけだった、というところが、いかにも子興らしいと言えよう。
さても、夫人の葬儀を終わらせた頃と時を同じくして、いよいよ元の政治が乱れた。後に詳しく述べるが、
四方に群雄と呼ばれる者がこぞって挙兵し始めている。
(ならばいっそのこと、俺も博打を打つか)
と、子興も思った。
両親は、子興の末息子が生まれて半年後には亡くなっていた。それに兄二人もまた張氏が亡くなるずっと前に、
白蓮教の一員として元の官軍と戦っているうちに死んでいる。残った彼が郭家を継いで、彼の他、生き残った
ただ一人の肉親である妹は、近くに住む縁者の元へ嫁いだ。
二人の兄たちの嫁とその子たちは、そのまま郭家に残っている。だが、家の財産は代表である子興の自由に
なったということで、
(俺もまた、群雄の一人になってもおかしくはない)
兄二人が家を継いでいれば、そのまま妄想で終わったかもしれない夢を、今こそ実行する機会だと思った。
己も男である。男に生まれたからには、一生に一度くらいは大勝負をしてみたい。
幸いといっては何だが、若い頃から任侠を好み、種類を問わず多くの人間と交流があったので人脈も豊富である。
ために、いつの間にやら子興がこの地方における白蓮教の代表人物のように見なされていた。
おまけに、家は富豪である。賭けに乗るための元手、すなわち軍資金ならありあまるほどあった。ために、子興が、
「俺も、この地方の代表者として立つ」
すぐにでもそう宣言したところで、誰もそのことを自意識過剰であるとは考えなかったに違いない。
元来、この大陸においては、元手は持っていても行動力がないのが富豪であるとみなされていた。よって、
彼のような地主は、一旦事が起きた場合は、「革命家」のスポンサーとして立ち回るのが自然で、そうなるのが
何やら不文律のようになっているのだが、
(俺自身が革命家になってもおかしくはあるまい)
この「不良息子」はそうも思い、
(まだだ。まだ時期早尚だ)
富豪らしくなく、そんな風に考えたりもした。
(どうやら元朝廷は、腐り始めているらしい)
そんな「情報」を彼にもたらしたのも、そういった流れ者、やくざ者である。それと同時期に、己が形ばかりに
属している宗教団体が、元朝廷に向かってしばしば乱を起こしているというのも知った。
だが、反乱を起こす都度、白蓮教軍が元の官軍に蹴散らされているとの情報も、同時に入ってきている。
実際に、元軍に破れたといって、白蓮教本軍においては高位にあった孫徳崖という者が行方をくらましたと
いうのだから、事実に違いない。火種は確かにあるし、煙も上がっている。だが、くすぶっているという程度で、
まだ容易に踏み潰せるということであろう。
従って、
(まだまだ元の力は侮れない。蜂起するには、こちらが力不足だ。じっくりと力を蓄えなければならない)
子興はそのように結論付けていた。
彼もそう考えることが出来るほどに分別もついていたし、ただの「お坊ちゃん」ではなかったということだろう。
また、彼はそう考えるのみならず、目をかけていたやくざ者らと密かに連絡を取って、
「郭の親分は懐が広い。外見や職業で人を分け隔てしたりしない」
「何かあったら定遠に住まう郭の親分のところへ行け。きっと頼りになる」
といったような噂をばら撒かせた。
噂ばかりではなく、実際に己の家で雇っている者たちにも労りを施した。その労りは畑を耕作していた
日雇いの者たちにも及んでいる。
(その時のために、家を守ってくれる者が必要だ)
子興は考えて、第二の妻を娶った。第一夫人の年の離れた妹にあたるので、名は同じ張氏である。
そんな彼のところへ馬とその娘が逃げ込んできたのは、第二夫人の張氏が娘を産んだ、至正四(一三四四)年
冬のことであった。

粗末な寝床に横たわっていた少女は、不意の大きな物音に眠りを覚まされた。
食事を摂るために兼ねた土間と、その他にもう一つきりしか部屋の無い、小さな家の中である。夜が明けていない
せいなのか、周囲は未だに薄暗い。
現在彼女の住んでいる定遠には珍しく、夕暮れの時分から、雪が断続的に降り続いている。眠りに就く前、
竈の中で焚いていたはずの火はとうに消え、家の中は冷え切っていた。
(夜盗かもしれない)
気が付けば、いつも布団代わりにしている父の上着が、床へ滑り落ちている。少女はそれを慌てて拾い上げ、
薄い己の胸にしっかりと抱きしめた。
起き上がった途端、幼い体が小さく震えたのは、寒さのせいばかりではなかったろう。最近は、誰を信じてよいのか
分からない、とにかく物騒な世の中なのである。
雪が降り始めた頃、父は「頼まれた仕事をしに行くのだ」と、相変わらず生真面目な表情で家族へ告げ、
「明け方には帰るであろう。俺が戻ってくるまで、決して外に出るな」
そう言い置いて、外からしっかりと戸締りをしていった。だからかの物音は、
(親父殿が立てたものではないだろう)
彼女は思い、寝床の上で小さな体を一層縮めた。
少女は、この馬家の末娘であった。
他に三人いる兄たちは、大きな口を開けて健やかな寝息を立てている。十七を頭に十六、十五と年子で生まれ、
家の中では少女だけが女性だった。兄三人と少し年が離れていて、今年十二歳になる。
少女は、父、馬公が定遠に来て四年目に生まれた子だという。
「もともと俺は宿州に住んでいたのだ。運河もあって交通の便もよく、耕作するにも水に不自由しない。
さらには気候も温暖で適度に雨も降る、まことに恵まれた場所だった。だが、そこでは食っていけなくなった」
いつであったか、共に狭い台所へ立ちながら、父が遠い目をして語ったところによると、
「家も代が下るごとに、少しずつ土地を切り売りしていた。そのたびに土地はどんどん狭くなる。
耕作で得たものは、重い税のためにほとんど全て手放さねばならぬから、俺たちの食うものはどんどん
減っていったのだ」
自分で土地を管理するとなると、その分の税までかかる。土地から上がる収穫物の多少に関わらず、
税は一定であったから、不作の年にはその金額が重くのしかかる。
父母つまり兄妹の祖父母は、それがために心身ともにくたびれはて、早くに死んだ。一人になって
途方にくれている馬青年へ、
「郭家のある定遠へ行ってはどうか」
そう勧めたのが、白蓮教関係の人間だった。郭家も白蓮教を信奉しているから、その繋がりで小作人として
雇ってもらえるように口を利く、というのである。
さらに馬公は、その真面目な人柄から教団の金の出入りを任されるようになった。定遠に住んでいた
小作人の娘も嫁にもらうことが出来た。
「それがお前のお袋様だ。お前はお袋様に一番良く似ている。もう少ししたら、お前もお袋様の櫛を
使うようになるのだろうか」
そう言って父は少し首を傾げ、少女の顔をつくづくと見ながら寂しげに笑った。
少女の母は、少女を産むと同時に亡くなっていたからである。
また父は、
「俺達は人のおかげで何とか食っていけるようになったが、お前のお袋の家は貧しい。だから、俺は
早くに死んだ実の両親とも思って、あちらの家へ出来る限りの援助をしたいと思っている」
常に言った。
前述した馬公の言葉の中にも出てきたが、かの理由でせっかく受け継いだ土地を手放し、小作人になる農民が
後を絶たなかったからである。兄妹の母方の家もその一つだった。まだその家には、母方の祖父母が
残っているのである。
父はそのことを言い、
「せめてお前たちにだけは、腹一杯食わせてやりたいのだが……苦労をかける。すまぬ」
たどたどしい手つきで夕餉の支度をしている末息子と末娘へ向かい、深く頭を下げたものだ。亡き妻の
父母への援助さえしなければ、もう少しよいものを着せ、食わせてやることが出来るのだが、
(それは口にすべきではない)
と、馬公は思っていた。子供たちにとっては彼らも祖父母なのだ。
「せめて俺の家が先祖代々、郭の親分のように金持ちの家でさえあったら。貧乏人の家になど、
生まれるものではない」
父はため息と共に言い、
「俺の知り合いのように、もしか俺が女であったら、郭の親分の嫁か、あるいは囲い者にでも
なれたかもしれぬ。もしかそうであったら、今のように貧しくはなかったろうに」
子らには良く理解できないことを愚痴っては、
「俺は、親父殿と一緒に暮らせるだけでいい」
「私もです」
己に向かってあどけない目を見張り、そのように応じる息子や娘を「すまない、すまない」などと言いながら
抱きしめたものだ。
嘘のない、そんな父が好きであったから、
「親父殿を支えなければならない。俺たちは俺たちの出来ることをするのだ」
子供たちも子供たちで、早くからそう考えていた。上の息子二人は幼い頃から郭邸で働いたし、
末の息子も少女が一人で家を切り盛りできると分かった二年前から、兄二人と同様、郭家の小作人として働き始めていた。
そんな父や兄たちが持ち帰った野菜や米を、少女が粥にする。家族の衣服にほころびが見えたら、
竈に燃える火の側で、少女がその繕いをする。確かに家は貧しかったろうが、そこには、何より平凡で
幸せな光景があった。
このまま行けば、平和な生活が続いたろう。兄三人はそれぞれ嫁を娶り、末の少女も同じような小作人か、
あるいは教団関係の人間の元へ嫁いだかもしれない。
だが、
(なぜ目が覚めたのだろう)
いつもなら目覚めるはずのない時刻であることが、少女にも分かった。少女が目覚めたのは、これから起きる
事柄に対する予感のためだったかもしれぬ。
(寒いから、目覚めたのか)
窓から外を見ると、雪はまだ降り続いている。戸の隙間から肌に染み入るような風も吹き込んできている。
兄三人はそれぞれ、つぎだらけの小汚い上着を布団にして眠っているのだが、
(寒さのせいではない)
しきりと悪い予感に襲われて怯えている自分とは対照的に、一番上の兄などは、鼾すら掻いている。
(よほど疲れているのだろう)
思って、少女は己の寝床からそっと降りて粗末な靴を履いた。消えてしまった火を起こそうとしたのである。
そこで、二度目の大きな物音がした。
「扉の後ろへ隠れろ! 鎌を持って来い!」
さすがに兄三人も気づいたらしい。飛び起きると同時に長兄は叫んで身構える。
扉を破って雪と共に飛び込んできたのは、
「起きていたか。支度しろ。逃げるぞ」
彼らの父であった。
平穏な生活が破られた、これがその始まりだった。
盗賊ではなく、父であったと安堵を覚える間もなく、ただ面食らって目をくるくるさせる兄妹へ、
「早くしろ。俺たちはもう、ここには居られぬ」
父は言って急き立てた。
暗がりでよく見えないが、家を出て行く時と打って変わって強張った表情をしながら、末娘の上着を着せかけ、
外へ向かって手を引くのである。
さらに父は息子たちへ向かって、
「お前達は男だ。もう自分ひとりで生きてゆけるだろう。それぞれ別れて逃げよ。定遠からなるだけ遠くへ行け」
悲鳴のような声で言い、
「お前達の親父は人殺しになった。お前達とはもう暮らせぬ。ここにぐずぐずと留まっていれば、
お前達は報復のために殺される。早く逃げろ。さもなければ、俺がお前たちを殺すぞ」
息子たちの背を、それぞれ乱暴に叩いて命じるのである。
「それぞれ何とでも暮らせ。生きろ」
すると兄三人は、半ば呆気に取られた顔をしたまま、それでも涙を堪えて走り去っていく。
何ともいえぬ表情をしてそれを見送っていた父は、
「お前はこちらだ。郭の旦那のところへ行くのだ」
少女の手を握り直して一歩を踏み出した。 
家の外へ出た途端、冷たい風が少女を襲う。思わず体をすくめた彼女へ、
「急げ。何をしている」
優しかったはずの父は、初めて怒鳴った。
我が娘の小さな手を乱暴に引き、父は雪の夜道を走り始める。吹き付けてくる雪は、容赦なく幼い頬を刺した。
「後ろを向くな」
途中、家の方を振り向いた少女へ、再び父の叱咤が飛ぶ。
(もう、家には帰らないのだろうか)
父の足に合わせて懸命に走りながら、少女は唇を噛んだ。
時折ちらりと見上げる父の顔は、驚くほどにドス黒い。従って、とてもそのことを問える雰囲気ではないと、
さすがに少女も悟った。
(もう、あの家には帰れないのだ。兄たちにも会えないのだ)
今の状況はまるきり飲み込めないが、そのことだけは確実に分かる。特に仲の良かった三人目の兄を思うと、
大きな両目からは、堪えようとしても堪えきれぬ涙が零れ落ちていく。その涙に白い雪が張り付いて、
たちまち少女の頬を凍りつかせていった。
「すまなかった」
父がようやくその足を止めたのは、淮河沿いのとある土手である。
「お前たちに、何とか人並みに食わせてやりたかった。何とか人並みの着物を揃えてやりたかった。
俺が不甲斐ないせいで、まことにすまない」
冷え切った己の胸に娘を強く抱きしめ、父はそう繰り返しながらむせび泣く。
その様子はやはり、いつもの優しい父であり、
「親父殿。私たちは、これから何処へ行くのですか。家には戻らないのですか」
小さな両手を父の肩へ回し、その布を掴みながら、少女はようやく安心して問うたのである。また、
それによってほんの少しであるが、少女にも周りを見回す余裕が出来た。
そうしてみると、父の体からはなにやら生臭い匂いがする。こけた頬にはドス黒い物がこびりついているし、
着ているものも、何かで裂かれたようにあちらこちらが破けていた。
父は、そんな彼女の視線に気づいたらしい。彼女の両肩を大きな手でぐっと掴んで、
「俺は、もうお前の親父ではいられない。これからは、お前の親父は郭の旦那だ。俺は今日この刻、
この世からいなくなったものと思え」
娘の目を見つめ、震える声で告げた。
(郭の小父さんは知っているけれど)
父の言う「郭の旦那」が、この地方随一の富豪であることを少女も知っている。
自分もまた父や兄たちに従い、その畑を耕しに行っている「お金持ち」の家で、
(声が大きくて、親父殿と違ってとても太っていて)
耕作中に何度か、
「そのように働きすぎずともよいから、こちらへ来ないか」
などと、声をかけられたことを少女は思い出していた。
父や兄たちの方を気にしながら縁の先へ寄っていく彼女の手を、
「遠慮するな。休め。手間賃のことなら気にするな。お前の分もしっかり渡す」
子興は言って、節くれた毛だらけの手で掴み、彼の家の中へ引っ張り込んだこともある。
そこには必ず、少女と同じような小作人の子がいた。少女の前には、彼女の三番目の兄が招かれたことも
あったという。子興は大きな居間の机にそんな子らを座らせ、彼の子供たちと同じように菓子を与えてくれたり、
時には少女に、
「お前は裁縫が得意と聞いた。だから俺の娘や姪たちにも教えてやってくれ。他の者だと嫌がって
教わろうともしないが、同じ年頃のお前とならば、あいつらも楽しく学ぶのではないかと思うのだ。礼はする」
などと頼んだこともある。だから、郭家の子らともまんざら見知らぬ仲でもないし、嫌いというわけではもちろんない。
(けれど、どうして今、郭の小父さんの所へ行くのだろう)
少女に問う隙も与えず、
「今少しだ。走るぞ」
父は言って娘の手を引きかけ、ふと彼女の足に目を留めた。
粗末な沓で凍った地面を走ったためであろう。小さな足は血だらけだった。再び泣きそうな顔をしながら、
「もう少しだ。旦那のところへ行けば、お前のことはきっとなんとかなる」
娘を肩へ抱き上げて、父は走り出す。
父の上着の右肩には、いつか己が繕ったツギハギがある。父と決して離れまいとするように、その部分を
ぐっと左手で掴むと、少女の目からは再び涙が零れ落ちた。
(一体、何があったのだろう。これから親父殿がいなくなるというのは、どういうことなのだろう)
何もかもが、全く急すぎた。父の言葉もにわかには信じられない。だが、
(本当に親父殿がいなくなるはずなどない)
自分に言い聞かせようとするほど、唇は震え、歯が鳴る。
大きく揺れる父の肩に爪を立てながら、少女は唇を噛み、嗚咽を堪え続けていた。



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