イランカラプテ 19




シャクシャインは、「松前藩の奴ら」と言わずに「和人」と言ったのだ。
(その意味を、こいつは分かっているのか)
庄太夫がほろ苦い思いで傍らの義兄を見やると、
「幸いコイツ……庄太夫にも」
その視線に力を得たように庄太夫へ頷いてから、
「弘前に、杉山吉成という知り合いがいるという。悪くは扱われぬのではないか。アイヌの誇りと意地なら、
蝦夷全土のアイヌと共に松前藩と戦った親父が生きている……それだけで、松前藩の奴らと蝦夷のアイヌに
伝わるではないか。何もこれ以上、無理して戦う必要はない」
カンリリカはなおも訴えるのである。
やがて彼らの上空を、再び灰色の雲が流れる。三人の姿が一瞬かげって、
「……それがお前の考え方か?」
すぐにまた初冬の太陽が弱弱しく彼らを照らし出した時、微笑でもって、いつになく熱心に告げられた
息子の訴えに耳を傾けていたシャクシャインは、ぽつりとそう言った。
そして、口を挟もうとした庄太夫にその隙を与えず、
「良く分かった。俺はお前の父として、お前の考えを尊重しよう」
メナシクル族長は続け、広く分厚い背中を息子達に見せたのである。
「義父殿!」
ほっとしたような顔をするカンリリカとは対照的に、慌てたのは義理の息子のほうで、
「なぜ今更和睦など。もう少し待てば雪が降る。雪が降れば松前藩の兵士達は弱る。そこを打って出れば、
我らは局地的ではあるが、勝利を収めることができるではありませんか。そして我等が勝てば、きっと他の
アイヌ達の励みにも」
義父の広い背中を追って彼が叫ぶと、
「庄太夫よ」
部屋の中央の床に敷いてある熊の敷物へ、どっかりと腰を下ろして胡坐をかきながら、シャクシャインは
己に詰め寄った庄太夫に向かって再び微笑った。
「誰にも言わなかったが、俺も一度、シュムクルアイヌらの言伝で、松前藩の奴らから和睦勧告とやらを
受け取っていたのだ」
何も言えず、ただ己の顔を見つめる義理の息子へ、全てを悟ったような穏やかな表情を向けながら、
「その時は松前の奴らに……和人の奴らに、逆に怒りが湧き起こった。あいつらのは、対等な立場同士での
和睦とは言い条、実は降服だ。それゆえに、決して降服などしてなるものかと。神々とともに生きる俺達アイヌは、
最後の最後まで和人と戦って、かつて楽園と言われたこの蝦夷を、アイヌの手に取り戻すのだと」
シャクシャインは続けて、少し寂しい目をする。
小屋の中が再び暗くなったと思うと、冷たい風が吹き込んできた。しかし、急速に気温が下がっていくと
感じられるのは、そのためばかりではあるまい。
「だが、他でもない我が息子が、和人との和睦を望んでいるのであれば、父である俺はそれに従うしかあるまい。
息子一人の心をつかめぬ者が、アイヌの民族をまとめられようか」
「義父殿」
「庄太夫よ、俺は今までに一度も、親父としてカンリリカと向き合ったことがない。アイツと向き合う時は、
いつでもメナシクルコタンの族長としての冷たい義務感を伴っていた。実の息子だからと感情に走ってはならんと
思ってな。だが、それは間違いだった。俺はアイツに対する負い目がある」
老いてなお、力強い光を放っていたはずの瞳は今、穏やかに細められている。
「俺は、いつカムイに召されても良い老いぼれだ。だから、最後の最後くらい、親父らしいことをしようと思っても
良いだろう。だから、俺は松前の奴らの言うように、松前まで出かけていって、奴らの詫びとやらを
受け入れようと思う。カンリリカがアイツなりに、頭を振り絞って出した策だからな」
(危うい)
その目を見、いつになく穏やかな声を聞いて、庄太夫の背筋に一瞬、冷たいものが走った。
(行ってはならない。彼を止めなければならない)
心の中で、しきりにそんな声が響く。シャクシャインは、松前に行ってはならない。その理由は、
そう思った庄太夫でさえ、何故だか分からない。
しかし喉まで出かかったその言葉は、
「ああ、俺は行く。この茶番が終わったら、カンリリカに後を譲って、俺は隠居しよう。これからの時代には、
カンリリカのようなヤツこそが長に相応しいのだ」
自分に言い聞かせるように頷いたシャクシャインを見て、ついに発せられなかった。その
時、庄太夫の目の前にあったのは、アイヌの英雄でもなんでもない、年老いた一人の「父
親」の姿だったのだ。
そしてシャクシャインは立ち上がり、言葉を失ってしまった庄太夫の横を通り抜けて、
「戦いは終わりだ。皆、ご苦労だった!」
扉を開き、そう叫んだのである。
(……終わってしまった)
腹の底まで良く響く声は、庄太夫が幼い頃から聞いていたそれと少しも変わらない。
(終わってしまったのだ。果たしてこれで本当に良かったのか)
限りない寂寞感に囚われて、しばらく呆然としたまま座り込む庄太夫のところへ、妻や子が駆け寄ってくる。
父シャクシャインの言葉を聞いて、
「確かめに来たのです」
と言う妻へ、
「ああ、そうだ。戦いは終わりだ」
その顔を見上げながら、、庄太夫は告げた。
(この子らにも苦労をかけた)
骨と皮ばかり、とまではいかないが、二人の子らもすっかり痩せてしまっている。 その子らを抱きしめてふと、
(……杉山様から頂いた、この子らの産着はどこへやったか)
何故かそのことが思い出されて、彼は苦笑した。
コタンの中で、シャクシャインの家の隣にあった己の住居。その一室の北の一隅にひっそりと置いてあった行李の中に、
大事にしまっておいたはずだが、
(この戦いで、もう誰ぞに奪われてしまったかもしれない。きっといつかこの子らを連れて、ご挨拶と御礼と、
長年の無沙汰をしていた侘びに伺おう)
この戦いの間中、すっかり忘れてしまっていた弘前藩家老の顔を思い浮かべながら、庄太夫は垢じみた子らの匂いを
胸一杯に吸い込んだ。そんな義弟の肩を叩きながら、
「これから松前に行くぞ。お前も一緒に」
変わらぬ信頼を込め、カンリリカが話しかける……。

 終

それは三年前、寛文九(一六六九)年十月二十三日のことである。
松前泰広は、和睦のために集まってきた、主にシャクシャインを中心とするメナシクルアイヌを酒の席に招いた。
このため、松前藩が己らを招いたのは、本当に和睦のためだったと信じてしまったシャクシャインその他十四人の
巨魁達を、その宴席を取り仕切っていた蛎崎広林の号令一下、鉄砲を浴びせかけて殺した。松前泰広はさらに、
まだシベチャリのチャシで抵抗を続けようとしていたシャクシャインの妻を「征伐」するように命じて、
例のごとく蛎崎広林がヨイチ(現余市町)ヘ出かけている。
結果、シャクシャインに組して蜂起したアイヌ軍はほぼ鎮圧。蜂起軍から賠償金を受け取った松前藩は、
シャクシャインに組せずに中立していた……言葉は悪いが、日和見を決め込んでいた……石狩や宗谷のアイヌ達にも
絶対的服従を誓わせた、いわゆる七か条の起請文出させた、と、『渋舎利蝦夷蜂起ニ付出陣書』に記録されている。
メナシクルアイヌの味方だった和人商人たちの中で、特にシャクシャインの娘婿だった庄太夫は火炙りに、
尾張の市座衛門にも厳しい「処罰」が下されたと聞いて、
(やはり騙し討ちという手を使ったか。確か策を献上したのは、松前家中の佐藤権左衛門とかいう
輩だったと聞いたが)
松前から引き上げるべく準備を整えながら、
「アイヌどもの反乱は、当藩のみにて見事収めまいた。各々方も遠路はるばるお疲れにござった。どうぞ
気をつけられてお引取りを……」
「乱」の収束の後、東北三藩を松前城広間に集め、厳かにそう言った当主大叔父の顔をも思い浮かべ、
(かの方の顔には、「お前たちの手を借りずに乱を収束させた。貸し借りは無しであるぞ」と、
はっきり書いてござった)
同時に、松前城下に詰めていたあの折、自分宛に届いた庄太夫の最後の手紙をも思い出して、
かの杉山吉成はこっそりと苦笑したものだ。
その手紙は、日ごろからメナシクルに同情的な和人商人の手を経て、密かに届けられたものである。
中には「蝦夷アイヌ王国が実現したなら、杉山様ともぜひもう一度お会いしたい。対等の立場の国として、
弘前藩ともこれまでと変わらぬ取引を……」などと気負った文が書いてあった。
言うまでも無いことながら、そのような手紙を所持していることは、
「反乱の勃発に関する物的証拠を握りながら、幕府へ報告しなかった」
ということになるため、大変に危険である。なのですぐに燃やしてしまったのだが、彼にとってあまりに刺激的、
かつ衝撃的な内容であったため、一読しただけで文章をそらんじてしまったのである。
あの折の蝦夷は、特に日高から渡島にかけては、戦いの最中で厳戒態勢が敷かれていたはずなのだ。その手紙を
襟元に縫い付けて運んだ商人が言うには、
「通して頂けそうにない場所は、恐れ多いことながら、杉山様の名を連呼致しまして、杉山様のお使いであると
言い続けまして……はい」
といった風だったらしい。恐らく、そのおかげで大目に見られたのだろう。
特にメナシクルコタンから外部藩への連絡となれば、松前藩としても厳しく警戒していたろう。
身包み剥がされての「検査」も珍しくないのだ。もしも手紙を運んだ商人がそのような目に遭っていたら、
その手紙はやすやすと発見されていたに違いなく、従って吉成の手には到底渡らなかったと言える。
(なんにせよ、よくもまあ、そのような場所から運ばれてくる途中にでも、この手紙の中身が知られなかったことだ)
と、その内容を思うにつけ彼は、
(親父のことを尊敬していると、俺に向かってはっきり告げたあの小僧なら、「その時」は意外にサバサバとした
心持ちであったかもしれん)
と、火炙りになった庄太夫の最期をも思う。
彼の記憶に中にある庄太夫は、今も少年のままであり、
(騙し討ちのことを、庄太夫に知らせておいたほうが良かったか……)
彼が処刑された後、何度もそのことで悩んでは、
(何、知らせたところで、あの小僧は逃げなかったろうよ)
そう思い返して、苦笑したものだ。
庄太夫の妻になったシャクシャインの娘と、その間に出来た子らがそれからどうなったかということも、彼は極力、
知らぬようにしている。知ればきっと眠れぬほどに心が痛むであろうし、
(だからといって、地方藩の一家老に過ぎぬ俺に、一体何が出来たか)
それが第三者の感傷に過ぎぬことも、吉成は自覚しているからだ。
ともかくこれにより、蝦夷のほぼ全土のアイヌが蜂起したこの戦いは一応、収束に向かい始めたように見えた。
シャクシャイン側について戦ったアイヌの人々…例えば、アッケシのアイヌがあるが、彼らとの交易も、
まもなく再開されようとしているらしい。なんでも、アッケシのアイヌのほうから「交易を再開して欲しい」と
頭を下げてきたからなのだそうだが、もはやそこには、かつてあったはずの言葉上の対等性さえ見られない。
なんとなれば、戦いの前にはどことなく柔軟性、曖昧さを保っていた商場知行制度や場所請負制度は
強化されたばかりではなく、アイヌの人々が独自に所有していた武器や刃物の類が、彼らからすっかり
奪われてしまったからである。
このことは、和人との交易なしにはアイヌの人々が暮らしていけなくなった、ということを意味する。
武器も刃物も、和人との交易において「支給」を許されたものだけ、となれば、これまでのような自給自足など
出来ようはずがない。この戦いに参加せず、中立を保っていた石狩の総大将ハウカセの、
「松前殿は松前殿、我等は石狩の大将」
という言葉に象徴されるようなアイヌ民族の自立性は、瞬く間に失われていったのだ。
(庄太夫がこのことを知ったら、「それ見たことか」と言ったかもしれん)
この蜂起の平定で、幕府からはそれぞれ恩賞が下った。戦いの翌年に、報告のため
江戸へ戻った松前泰広には、
「日頃からおさおさ怠りなく勤めている」
ということで、黄金二枚と、常陸国真壁郡に五百石の加増が、そして戦いに参加した東北三藩の主だった者にも
褒章が与えられている。杉山もむろん、その中の一人であり、
(まあ、喜ぶべきことなのだろうよ)
少々複雑な気持ちで、彼はそう思ったものだ。
だが、こちら側にとって良いことばかりがあったわけでもない。あれから三年も経つというのに、蝦夷では未だに
蜂起の余波が続いているのだ。そのせいで、最盛期には四百人もいた商人が、七十人に減ってしまった。
松前家中でも、藩士やその家族自らが、慣れぬ野良仕事に出ざるを得ぬ羽目に陥った。なんとなれば、
「食えぬ」からである。  
従って松前藩では、わざわざ江戸藩邸から戦いに慣れているもの百名余りを召還させて、「残党」の鎮圧に
力を注ぐ一方で、不公平だったコメと鮭の交換比率をアイヌに幾分か有利なように改正したりしていた。
しかしそれも、
(まあ、俺達には関係のないことだ)
どちらにしても、杉山にとっては「別の国の政治」のことだ。
それに、
(もしか、もう一度協力を求められたところで、俺には無理だ)
吉成も、近頃はとみに己の気力が衰えたことを痛感している。もしも出征を要請されても、還暦を越えたせいで、
もう蝦夷へ出て行く体力は無い。
老眼が進んだせいで時折かすむ目を、右手で無造作に擦りながら、自室で帳面に走らせていた筆をふと止め、
彼は障子を開けた。
(所詮、戦いなどというものは、どうしても勝者が正義になるのか……いや、俺にはやはり良く分からない)
ぼんやりと見上げたかなたの空には、大きな鳥が今日も翼を広げて悠々と舞っている。しばらくそれを
見上げているうちに、
(イランカラプテ……蝦夷では、もう雪が見られる頃であろう)
故庄左衛門が、今にも己の部屋の襖をさらりと開いて挨拶をしそうな錯覚に囚われ、彼は長い長いため息を
着いたのである。
この石田三成の孫が、病の床に着いたのは、それから間もなくのこと。
彼とほぼ同年のアイヌの英雄、シャクシャインの死に遅れること三年で、杉山吉成も亡くなった。アイヌの人々の
挨拶に込められた意味を彼が知ったのは、その死の直前である。

             了


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