イランカラプテ 17



これにより、辛うじて連絡を取り付けられていた内浦湾アイヌとは、完全に分断されてしまった。内浦湾のアイヌも、
その背後の松前から攻撃を受けるとあっては、そちらに対せねばならぬ。従ってシャクシャインとの連絡も、
ついに途絶えてしまったのだ。
そのうち、ついに松前泰広自身が鉄砲一五〇〇丁を携えて国縫へやってきた。それが嘘ではない証拠に、
国縫側の攻撃は俄然、勢いを増す。対してアイヌ側は日が経つに従って負傷者ばかりが増えていく。
「引き上げろ!」
ここに至って、シャクシャインもついに国縫城占拠を諦めた。傷つき、倒れたアイヌの同胞を背負うよう
生き残りに命じながら、
(江戸幕府も、そこまで俺達のことを重く見ていたのだ)
そんなアイヌの民の一人を自らも背負い、白髪を乱して静内へ退却していくシャクシャインは、決して庄太夫の
見通しの甘さを責めなかった。ばかりか、
(これからは、俺達の土地で戦うのだ)
つまりゲリラ戦を展開することに決めていたのだ。国縫城占拠は諦めても、和人の支配をやめさせること、
蝦夷から和人を追い出すということを、まだまだ諦めてはいなかったのである。

六 追憶関ヶ原

さて、同日。こちらは松前である。 
幕府から松前藩を救出するため、出動を命じられた東北三藩のうち、弘前藩の兵士を率いるように命じられたのは、
かの杉山吉成だった。彼は松前藩士がシャクシャインとの戦いのため、全て出払って空になる松前城下を守るように
言われ、津軽海峡を渡って渡島へ赴いたわけだが、
(なんとまあ、大仰なことよ。話には聞いていたが、これほどまでとは)
自分に割り当てられた松前藩邸の一室から眺めていると、松前藩士たちが、血相を変えて次から次へと船に乗り込み、
慌しく出立していく。
その光景をぼんやりと見つめながら、
(これは長引くと、こちらにとって少々面倒なことになる。だから、幕府も俺達にまで松前藩の救援に
差し向けたのだ)
複雑な気分で彼は密かにそう思った。もちろん、杉山自身はアイヌが勝つとは夢にも思っていない。
かの庄太夫には、この戦いがいかに無謀なものかを告げ、即刻やめるように諭した手紙を何度も
届けさせているのだが、
(気負い立っている人間には何を言っても届かぬものだ)
そうは分かっていても、
(父を助けてくれた庄左衛門がいたからこそ、俺もここにいる)
大恩ある人の息子がみすみす命を失うかと思うと、やはり心は痛む。
もっとも、弘前藩家老という立場にある杉山吉成としては、どちらが勝っても負けても、藩に害が及ばねば
それで良いとも言える。冷酷なようだが、
(松前藩がアイヌを服従させるならそれで良し。この戦いも、これまでと同じようにアイヌを徹底的に
屈服させるだけで、その指導者の命までは取らぬだろう。結局は規模の大小の違いだけで、これまでと同じだ)
そうなれば、松前藩の人間でもない自分が、余計な労力を払う必要もないし、
(万が一アイヌ達が攻めて来れば、海を渡って逃げるまでよ)
とも考えていたのだ。
恐らく、共に松前藩の救援にやってきた他の二藩の感情も、
(松前藩のために、わざわざアイヌと戦って自藩の兵士を傷つけるなど……)
実は迷惑極まりない、と、この点は杉山と同じであったに違いない。
何よりも、あの庄太夫が密かに寄越した書簡に、
「我ら、貴殿のいる弘前藩を決して攻めませぬ。我らは松前藩を追い出して、幕府が蝦夷アイヌ王国を認めたなら、
それで良いのだ」
とある。それに対して、
「こちらも松前城を守りに来ただけである。お前たちとは戦わぬことを約束する。形勢がこちらにとって
不利になるなら、海を渡って引き上げる」
と、杉山自身も密かに書き送っているのである。もちろん、この上ない造反行為である。
庄太夫は蝦夷から松前藩を追い出した後、アイヌ王国を幕府に認めさせる交渉に入るつもりだとも書き添えていた。
(あの小僧は信頼するに足る)
彼の記憶の中に在るのは、父庄左衛門に伴われて津軽に寄った際、あどけない目を見張っていた幼い折の
庄太夫の面影でしかないわけであるが、
(あの小僧なら、これくらいのことはやっただろう)
かの少年は、父を尊敬していると、幼く赤い唇で吉成に告げた。そしてこの「反乱」がおきた。ということは、
庄太夫が彼の父への敬慕をそのまま持って成長した、何よりの証明にならないか。
(そして俺は、ここにいる)
ふと畳へ視線を落として、吉成は苦笑した。愚痴をこぼし続けながら、それでも生きた父重成へ、冷めた思いしか
抱けなくなった己自身も、
(長いものには巻かれるしかない……親父と同じ生き方をしている)
そう思われたからである。
そこへ、大勢の人間が畳を踏む音がして、
「お疲れ様にござりまする。このたびは我らにご協力いただくため、はるばる海を渡られて来られた由、
まことに感謝しておりまする」
彼と弘前藩兵士達に割り当てられたこの部屋に、家臣を左右に従えた松前藩主が現れて、ふと吉成は我に返った。
恐らくは、それらいかつい顔をした家臣に言わせられているのだろう。当年とってまだ十一歳という、
何とも幼い藩主、松前矩広は、
「戦いが始まるまでは、ごゆるりとお過ごしください」
痛々しささえ感じさせる口ぶりでそう告げる。
(商人だろうが武士だろうが、子供というものはさして変わらぬもの)
「何の、これもお役目にござりまする。どうか気を使われまするな」
苦笑を堪えて頭を下げながら、彼は、
(さて、俺は果たしてアイヌ達が羨ましいと思っているのか、それとも)
アイヌと、話にしか聞かぬ祖父、双方に改めて思いを馳せた。
杉山の祖父は、以前にも述べた石田三成である。三成は、徳川家康によって処刑された。なぜなら、
関ヶ原の戦いで負けたからである。負けたから処刑されて、
「大規模な戦いを起こし、天下に混乱を招いた張本人」
の汚名を着せられ、今の幕府によって悪者にされたのだ。
祖父の次男である父、重成が、乳母の夫に伴われて、はるばる津軽に逃れねばならなかったのは、
(祖父が余計な野心を抱いたからだ)
律儀で真面目なだけが取り得だった祖父、石田三成が分不相応に「秀吉が亡くなった後の天下は、自分が
仕置きせねばどうにもならぬ」と思いこんだためである、と、杉山はあれから五十年以上経った今もなお、
そう思っている。
だから、
(悪者にされてしまわねばよいが)
今回のアイヌ達の「蜂起」を、祖父のそれと重ねて杉山は思った。
人づてに聞いたところと、庄太夫が言って寄越したところによると、シャクシャインはなるほど、その求心力、
指導力、そしてカリスマという点において、祖父三成をはるかに上回っている。だが、
(関ヶ原と同じだ)
父が彼の乳母の夫から聞き、杉山に伝えた関ヶ原の戦いと……今回の戦いにおいても、蜂起を呼びかけても、
蝦夷全土のアイヌ達が集まったわけではなく、さらに集まったアイヌ達の中に、いつ松前藩側に寝返るか
分からない者を含んでいる……事情が良く似ているようにも思えるのだ。
どんな戦いにも言えることだが、勝つに決まっていると見える戦いでも、どこか一部分でも「渋り」を見せる
人間がいる限りは到底勝てず、いずれそこから綻びて負けに繋がる。それに、鉄砲を持たないアイヌ達の戦いは、
誰がどう見てもやはり無謀としか言いようが無く、従って勝とうとするならやはり、蝦夷全土のアイヌが
団結せねばならない。
(さすれば、万に一つの勝ち目でもあったかもしれないが)
戦いの渦中にいる当人には分からないかもしれないが、そこから一歩離れて冷静に見てみると良く分かる。
関ヶ原の当時も、見る目のある人間は、やはり我が祖父を「天下を仕置きできる器量はない」といった風に
評価していたに違いない。
それからはや半世紀が過ぎて、己の小鬢はほとんど白くなってしまった。若い頃は、
「元は太閤殿下の膝元にいた我が家が、このような辺鄙なところで燻って…」
というような、ともすれば父と同じように胸の中に煮えたぎった、江戸幕府に対する憎しみも、いつしか心の隅の
澱ほどに小さくなってしまっている。誰がどう見ても、今の幕府は「磐石」で、それを覆そうとするなら、
たちまち返り討ちに合うに違いないのだ。
(だが、俺もあともう二十も若ければ、どうしていたか分からぬ。もしか庄左衛門親子に初めて出会った折に、
この戦いが起きていたら……俺と同年の、アイヌの英雄、か)
己の年を思って、杉山は大きく息を吐きながら立ち上がり、窓へ寄ってそこから見える空を仰いだ。
すると夏の蝦夷には珍しく、黒い雲が見る間に青い空を覆いつくして、
(雨になるな)
窓の外へ顔を出しながら思った途端、滴が一つ、ぽたりと彼の頬を濡らした。同時に、窓の外でうろうろしてい
た松前家中の藩士達が、ついに松前泰広が到着したことを告げられて、一斉に騒ぎ始める。
(ついに始まってしまったか)
思ってそれらを見ている杉山の隣に、彼の配下の者達も集まってきて、
「このような場所から失礼致す。緊急の折ゆえ」
それに気付いたか、松前藩士の一人が窓を見上げて叫んだ。兵卒の中では、幾分か格が上なのだろう。
その者が続けて、
「藩主大叔父、松前甚十郎泰広、鉄砲一五〇〇丁を持って到着いたしました。これより我ら松前藩士、
国縫へ向かいまするゆえ、後のことをよろしくお頼み申す」
叫び、頭を下げるのへ、
「分かり申した。後は我々が誓ってお守り申しあげまするゆえ、お心安う。存分にお勤めを果たされるが良い」
「かたじけない」
杉山もまた叫び返すと、松前藩士たちは一斉に城外へと駆け出していく。
 この報せは恐らく、すでにアイヌ側にも伝わっているに違いない。
(鉄砲があるとなっても、蝦夷各地にこの「火種」が飛び火すれば戦いは長引く。しかし)
少し髭の伸びた顎を、左手で無意識に撫でながら、
(終わらせる方法は無くもない)
杉山は思った。何のかの言っても、戦いは大将が倒れたら終わりなのだ。となれば、
(シャクシャイン一人を倒せばよい)
これは奇しくも、オニビシを倒した折のシャクシャインの考え方と一致していた。戦いが長引けば、松前藩も
「アイヌの鎮圧に手こずった」というので、幕府から何がしかのお咎めがあるのは必至である。
それだけに彼らも必死で、
(シャクシャインだけを何とかすれば、アイヌとの戦いは終わる。俺がわざわざ進言しなくとも、松前家中で
思いつく輩が居よう)
卑怯な手を使ってでも、何とかしようとするに違いない。何しろアイヌの間で……自分たち和人の間でも
心の中では密かに軽蔑されている……「だまし討ち」という先例がある。それに倣えば、大仰な戦いなど展開せずとも、
勝利はこちらのものになろう。
そして杉山は窓から離れ、彼が率いてきた弘前藩兵が詰めている部屋へ向かった。
「聞いたか。俺達は松前城の守備任務に当たる。石狩、宗谷のアイヌ達は松前藩に従うと言って寄越してきたが、
シャクシャインの有利を聞けば、どう転ぶか分からぬ。よって」
彼の姿を見て、一気に緊張する弘前藩士の顔をぐるりと見渡しながら、
「他の二藩とも連絡を取りながら、警戒を怠らぬように城壁を守れ」
命じた。命じながら、
(だが、そのようなことはあるまい)
杉山は思った。先だってちらりと述べたが、俗にヘナウケの乱と呼ばれている戦いのことである。あの折にも、
蜂起したものの、松前藩に叩きのめされて「懲りている」はずの道東アイヌ達が、松前に敵対するために
やってくることはまずあるまい。
降り出した雨が瓦を叩いている凄まじい音が聞こえてくる。その音ははや、この戦いの終焉を告げているようで、
(こちらが和解を求めれば、アイヌ達は応じるだろう。彼らはお人よしだ。「太閤恩顧」を唱えて情に訴え
、味方を集めようとした我が祖父と同じで、人は皆、根は善人なのだと信じている、どうしようもない
お人よしなのだ)
だが、江戸幕府への反抗が成功して成立された王国を、この目で見てみたいような気もする。もしも
関ヶ原で西軍が勝っていたなら、と、己が密かに夢想することはあっても、今では到底実現不可能なことを、
今回のアイヌ達の蜂起に託しているのか。
(だが、所詮は家を滅ぼされたものの感傷に過ぎぬわのう)
思って杉山もまた、兵士達と共に城壁の守備に着くべくそちらへ向かいながら、彼らに気づかれぬように、
こっそりと微苦笑を漏らしていた。
 
八月下旬の雨は、国縫から撤退し、オシャマンベにあった味方のコタンへ一族ともどもこもった
メナシクルアイヌ達の上にも、容赦なく降り注いだ。
「親父、だから俺は言った。種子島に弓矢で対抗するなど、燃え盛る火の中に素裸で入るようなものだと」
急ごしらえの粗末な小屋の軒端から、その雨は小さな流れを作って地面へ落ちていく。その中で、
「先の見えないゲリラ戦など、もうやめよう。無駄だ。こちらから頭を下げれば、向こうも我らの命を
奪おうとまではしないはずだ」
先ほどから、カンリリカの怒号が響き続けている。
まことに短い夏が終わって九月に入ると、蝦夷はいきなり寒くなる。従ってこの小さな小屋の中にも二、三、
炭を入れた鉢が置かれてあるのだが、
(熱い)
火の暖かさとはまた違う、後頭部をじりじりと焼かれるような感覚に身を任せたまま、その父に詰め寄る
カンリリカを見つめて、庄太夫もまた押し黙っていた。
元はといえば庄太夫の見通しが甘かったために「負けた」のであるが、国縫から戻ってきたシャクシャインはただ、
「これからは蝦夷各地に分かれて、我らの地の利を生かした戦いをする」
とだけ娘婿に告げ、一族を伴って味方のコタンへやってきたのである。
しかし、そんな父にカンリリカは、
「そもそも種子島に弓矢で立ち向かう馬鹿がどこにいる。このままだと、アイヌの血は全て失われてしまうぞ。
それでも良いのか」
言って、繰り返し罵るのだ。そしてそんな息子にシャクシャインはシャクシャインで、
「お前は、神と共に生きるアイヌの民としての誇りを忘れたか」
と言い返す。
こうして親子が言い争っている間にも、松前藩側は東蝦夷、すなわち松前藩に従うことを誓っているアイヌ達に、
「シャクシャインに味方すれば、お前達のコタンを容赦なく潰す」
そんな脅しをかけ続けている。ばかりか、シャクシャインに味方しているコタンの部族長達にも使いを送って、
「これ以上シャクシャインに味方しなければ、お前たちを攻撃することはしない」
揺さぶりをもかけ続けている。
従って、
「ただ今の状況とあいまって、アイヌ達が離れていくのも時間の問題である」
同じようにこのコタンへやってきた市座衛門が、顔をしかめてそう言うのも無理もない状況だったのだ。
とはいえ、ここに至っては市座衛門も覚悟を決めているらしく、これも庄太夫を微塵も責めぬ。それが
心苦しくてたまらず、
「小父、貴方だけでも逃げてください」
庄太夫がつい言うと、
「今では私も反逆者だよ」
市座衛門は、どこか悟りきったような、さばさばとした表情で言って微笑った。
「確かに」
それを受けて、庄太夫も苦笑いする。今回の蜂起にどこか消極的であったとは言っても、市座衛門の
立場もまたやはり、「メナシクルアイヌの相談役」なのだ。幕府や松前藩からしたなら、十把一絡げで
反逆者と見なされているだろう。
となれば、今更どこへ逃げたところで、蝦夷に来る以前のように商売が出来るわけもない。己の言葉の愚かさを悟って、
口をつぐんだ庄太夫へ、
「苦しくなるが、我らにこっそりと物資を届けてくれる商売仲間もいることだ。長期戦に持ち込めば、
なんとか暁光が見えてくるかもしれん」
「私もそう思っています」
市座衛門は力強く言い、庄太夫も確信をこめて頷いた。敗戦の原因は、相手に鉄砲があったからであり、
必ずしもこちらの気力や勢力が劣っていたからではない。よってシャクシャインの言うように、ゲリラ戦に
持ち込んで和人の戦力を分散させ、さらにこちらの土地を良く知らぬ相手を誘い込んで壊滅する、ということも
出来なくは無い、と庄太夫は考えていたのだ。


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