蒼天の雲 11



 志保が再びそこで、にこ、と笑って結ぶと、 
「いや、面白い。まこと、面白きことを聞いたものかな」 
高基がそこで、はたと膝を叩いた。 
「我ら、公方という関東を統べるものの頂点に立ちながら、今、志保殿が申されたことは思いもよらなんだ。
これは志保殿に一本取られたの。やはりこれで決まった!」 
 晴氏の口を封じるように叫んで立ち上がりながら、 
「やはり晴氏の嫁は北条の姫でなければならぬ。三日後、古河で式を挙げる…これに変更は無い」 
父の言葉に、晴氏はしかしそのままぷいと顔を背けて庭から去っていった。息子の後ろ姿を嘆息と苦笑で見送りながら、 
「志保殿」 
「はい」 
「あれ、あのように難しくはあるが、根は単純な子なのじゃ。よろしゅう頼む」 
「はい」 
高基が言うのへ、志保は神妙に頭を下げた。左衛門もまた、一連の様子をただ黙って見守っていたのだが…。 

 古河城へは、関宿からさらに渡良瀬川を遡る。先述のように、関宿城から、さらに大山沼、
  釈迦沼など大きな沼を経るこの川と、源流の赤麻沼とのほとりに公方の館であるその城は位置していた。 
 現在、古河城を囲む沼は御所沼となっており、半島状の台地が突き出している。当時もほぼ同じような地形の
  この半島の上に古河城、別名古河公方館はある。この城の周りにはまた、うっそうと茂る林が城を護るように囲んでいて、 
(静かなところじゃの…つい先だってまで争いがあったなど信じられぬ) 
 城の奥で晴氏とともに左右に並び、何とも退屈な家臣たちの祝賀を受けた後、ようよう寝所へ案内されて
  布団の側へぽつりと座った志保は、晴氏を待ちながら木立のざわめきに耳を傾けていた。 
宴の合間、志保が時折ちらりと横を見ても、新たな花嫁のほうを伺いもしなかった晴氏の、ぶすりとした
表情を思い出すだに、微笑が漏れる。 
(これが女の戦いであるならば、何とも難しいのう。こればかりは人の心が相手ゆえ) 
 新たな「夫」晴氏は腹いせのように痛飲していたが、ひょっとしてもう今夜は志保の待つ部屋へは訪れぬかも知れぬ。 
(それならば、それでよい。まだまだこれからのこと) 
 志保はふと思い立って、縁へ出た。襖を開けると、途端に室外の冷たい空気が足元から忍び寄ってくる。 
 ようよう生き返ったような心持ちで、胸いっぱいにその空気を吸い込んでいると、 
「左衛門かの?」 
「おお、気づかれてしまいましたか」 
冴え冴えと光る月の下、庭先に人影が見えた。声をかけるとその人物は、頭を掻きながら姿を現し、志保の前に平伏する。 
「こうやって、おひい様をお守りするのも今宵が最後ゆえ…無礼、お許しくださりませ」 
「何を申す」 
 志保は縁から降り立って、地についている彼の手を取った。 
「じいの心遣い、志保はいつもありがたく思うておった」 
「おひい様」 
「私のわがままで、城を留守にさせてしもうたの…八重の家も、私の供で八重がはるばる古河へ
参ったので心配させておるのではないかや」 
「なんの」 
 すると、この「源平合戦以来から伊豆に土着している古い家柄」の城主は、志保の手を年老いた
  両手で包んで首を振るのである。 
「松田の城は、じいの不肖の息子…盛秀だけでのうて、市右の弟めも左衛門憲秀を名乗うてしっかと
護うておりまする。また、八重のお家、多目殿の元にも、八重の弟御(後の多目元忠)がおいでじゃによって、
そのようなご心配は無用にござる」 
「ああ、そうであったの…」 
 事実、松田家は北条家臣団の中でも最高の所領を与えられており、この後北条の『御由緒七家』に
  数えられるほどの家柄になっていく。志保の幼馴染であり、先の三浦との戦いで彼女を護って死んだ市右衛門の弟、
  松田左衛門憲秀が家督を継ぐ頃になると、松田家は北条の筆頭家老になるのである。 
「それよりも、おひい様。僭越ながらこの松田左衛門頼秀、申し上げたき儀がござる」 
 手に取った志保の手を、慈しむように皺深い手は撫でる。 
「聞かせてくだされ。粗略にはしませぬ」 
「は」 
 志保が頷くと、左衛門はその顔をしみじみと見やりながら、 
「おひい様。先だっての公方家とのご対面の折は、見事でござりました」 
「…うむ」 
「この左衛門、やり取りの一部始終をハラハラと拝見しながら、しかしさすがは故殿の孫姫よと
心中喝采しておりまいた」 
そこで、左衛門はつ、と手を伸ばし、志保の髪の毛をそっと撫でた。 
「故殿のご訓示…故殿が改めておひい様へ言葉で伝えられたこともありませなんだ。じゃが、
故殿の想いは確かに、おひい様の中に息づいておいでじゃ。故殿は、おひい様の中で確かに今も生きてござる」 
「…そう思うか」 
「はい」 
 志保が嬉しそうに言うと、左衛門は頷いて、 
「しかし…それゆえにじいは案じてもおりまする」 
再びとつとつと語り始める。 
「常のおなごらしからぬ、はきはきと物申すご気性…たれに対しても物怖じせぬ据わった肝を
お持ちのお方…公方を変えたいと思うておられる簗田殿や、高基様もそれを面白いと愛でては
下されましたが、きっとあのお方々にも、我ら北条の『成り上がり精神』をその半分もご理解は頂けませぬ」 
「…それは、のう…」 
「故殿も仰せでありました。おひい様は古河へ嫁げば四方全てが敵。北条は新しく、古河は未だ古い。
きっとおひい様は、北条の理念そのままに、公方家の目を民へ向けようとなさる。だが、
それはまだまだ時期尚早にござりまする。何よりも、古くより公方家に従う郎党どもから反発を食らいましょう」 
「…」 
「晴氏様もなあ…まだまだお若い。学もあり、人の意見をまるきり容れぬほど狭量なお方ではない
とは思われまするが、しかしやはり耳に痛い言葉を容れる幅は狭い。先の奥方様を亡くされたばかりが
原因にあらず、やはり、我ら『成り上がり』北条が公方家へ介入して参ったのが気に食わぬ…
それが大半でありましょう」 
「うむ」 
「おひい様。この左衛門が申すのもまこと、僭越なことながら…晴氏様の心を獲るのは至難の技と
お見受けいたす。北条がこれまでに『買った』戦の中で何より難しい戦…おひい様にだけ押し付けて、
真に相済みませぬ。無礼を承知でさらに申し上げるなら」 
「…」 
「今宵、きっと晴氏様はもう、こちらへは参られぬでしょう。じゃが、おひい様の戦いはまだまだ
これからにござる。なにごとも晴氏様のお心に波風を立てられぬよう。媚びへつらえとまでは申して
おりませぬ。少しずつでも良い、晴氏様の御心を溶かす工夫をなされるのが…それがまず、
おひい様の戦においては第一かと存ずる」 
「…」 
「いや、これは出すぎたことを申しました」 
 そこで、志保の頬が硬く強張っているのに気づいたらしい。左衛門は慌てて彼女の手を離し、再び平伏した。 
「どうか…どうか、晴氏様とお幸せに…突き詰めれば、じいの願いはただそれだけにござりまする」 
「左衛門。顔を上げてくだされ」 
「は」 
「…泣いておいやる」 
「こ、これは、粗相を」 
 顔を上げた左衛門の頬に、白い筋が幾つも見える。それを指摘されて慌てた彼の頬へ、
  志保はそっと白い布を当てて微笑った。 
「こなたはなあ、私の第二の祖父じゃ」 
「…」 
志保が言うと、今度は左衛門が押し黙って、涙ながらに彼女の顔を見た。 
「口やかましい『おじじ様』がいのうなると、寂しゅうなるのう。左衛門」 
「は、はっ」 
「体を、厭えや」 
「は、ははは、は…」 
 皺深い頬に流れる涙を志保の震える手が拭くに任せ、左衛門は泣き笑いをした。 
「じいも、大切な孫をまた一人、我が側から失くしてしもうたような心地にござる」 
冴え冴えと光を放つ月が、手を取り合った二人を照らしている。今宵は、ひょっとすると北条の者たちは
誰一人、まんじりともせずに夜を明かしたかもしれない。 

    2 

 北条と古河公方が姻戚関係になったことにより、再び関東の勢力地図は大きく塗り替えられることになった。 
 小弓義明がその後、沈黙を余儀なくされていたのも、一度は傾きかけたに見えた天秤がまた、
  水平に戻ったからに相違ない。激しかった戦で疲弊したというばかりでなく、彼が頼みにしていた
  真理谷武田氏も、北条が古河へ志保を嫁入りさせてしまったため、いずれに去就したものか決めかねていたらしい。 
 真理谷氏は、先だって述べたように北条一族が滅ぼした三浦氏とも姻戚関係にあった。だが、
  三浦一族が滅びた折に、武器を捨てて全面降伏したため、存続を「北条氏に許された」という因縁がある。
  真理谷氏ばかりでなく、当時関東にあった豪族もまた、勢いのある北条の力を図りかねて沈静化してしまったため、 
「まこと、静かで良いところですなあ」 
志保が、彼女の言葉にこっくりと頷く幸千代王の小さな手を引いてお拾いに出られるような、
危なっかしい均衡の上にある、妙な平和が続いていた。 
 周りを林に囲まれて、大山沼はその懐にひっそりと「公方様のお館」を抱いている。
  その林道を抜ければ、晴れた日にはこの大きな沼の南向こうに関宿城をくっきりと臨み、
  西に広がる耕作地帯を見ることも出来た。 
(おじじ様。本日も一日、我らをお守りくださりませ) 
 志保の一日は、小田原より持参した小さな仏壇へ手を合わせることから始まる。遠く小田原の早雲寺に
  葬られている彼女の祖父は、今や彼女の中では神にも仏にも等しい存在なのだ。 
そして、毎日のように散策に出てくる「母子」の姿は、たちまち下河辺荘一帯の農民の間に広まって、 
「今度の公方の奥方様を見たか」 
「なんとも気さくそうなお方ではないか」 
「この間、切り株を踏み抜いて苦しんでいた娘に、薬を届けて下さったぞな」 
「この川向こうの村の流行り病へも、医師を遣わして下さったそうな」 
…さすがは「北条の御方」よと、ここでも好意でもって眺められることになった。 
「ほれ、御覧なされ。桜が咲き初めておりまする」 
「はい」 
 耕地と林道の境目に、二、三の桜が植わっている。それを志保が指すと、また幸千代王はこっくりと
  頷いて枝を見上げ、志保と顔を見合わせてにこりと笑った。 
(ここでも、桜が見られるとはのう) 
 嫁いできて、はや一年半が経った頃、志保が幸千代王と供に付近の散策に出るのが、
  すっかり習慣になっていた。ただ、小田原にいたときのそれと違うのは、その前後を公方家の護衛が
  びっしりと固めていることである。 
「幸千代王様はなあ」 
 常に臨戦態勢にあるゆえに致し方ないが、と内心苦笑しながら、志保は、 
「いずれこの地を統べるお方。それゆえ、お家の根を支えてくれる民の暮らしをとっくりとご覧になって
おかねばなりませぬ。お分かりかの?」 
今日も、頬の赤い継子へ言い聞かせた。 
 それをもう何度となく聞かされている公方の家の護衛も、はたしてどう思っているのか、志保は気に
  留めていない。二人のすぐ後ろに従っている八重もまた、微苦笑を漏らした。 
(果たしてしょう様の『戦』、どこまで成功するか…) 
 北条が強いのは、志保の言うとおり、従来の封建君主には無い領地経営を施してきたからである。
  それまで搾り取るばかりで、たれも顧ようとしなかった民の暮らしを、初代早雲が第一に考えたところに、
  その秘密はあると八重も思っている。 
 民と領主が一体に、国が一つになれば、当然ながらその国は強くなる。その当たり前の事を
  関東の頂点に立つ公方家は気づきもしなかった。というよりも、そういった意識はもともと「公方」には薄い。
  そこへ持ってきて、公方家の名誉と権威の回復にこだわり過ぎて代を重ねるうち、代々当主の心の
  根っこから完全にすっぽりと抜け落ちたのだろう。 
 大人になってしまえば、人の考えを変えることは難しい。だが、 
(『これから』の世代から、変えてゆくことが出来るなら…) 
まだ幼い幸千代王なら出来るかもしれない。そう考えて、志保は毎日のように古河城を出るのだが、 
「しょう様」 
古河城で与えられている一室へ戻って一息ついたとき、何かに耐えかねたもののように八重が切り出した。 
「今日こそは、お父上様へ告げられませ」 
「フム」 
 またか、と志保は苦笑する。 
「晴氏様と私、夫婦の間でのことじゃ。わざわざお父上へ告げるには及ばぬ」 
「しかし、婚礼を挙げられて後、次期様(晴氏)がこちらへお渡りになりまいたことは一度たりともないでは
ござりませぬか。あまりにも北条を…いえ、志保様をないがしろになされすぎておわす。早く次期様と
しょう様の和子をと、矢のように手蹟で催促される氏綱様のことを思うと、しょう様だけではなくて氏綱様にも我ら、
合わせる顔がござりませぬ」 
「何も、こなたが済まながることではなかろうに。こなたも存じておろ。公方家はなあ、今お忙しいのじゃ」 
言いながら、左衛門がもしも側にいたなら、やはり同じことを言ったろうと志保は思った。 
 事実、晴氏が志保の元を訪れたことは、婚礼の日から一度も無い。小弓公方側になにやら不審な動きが
  見受けられるのもさることながら、 
(よほど、我らを嫌うておわす…) 
ある程度、覚悟をしてはいたものの、やはり内心、忸怩たるものがあるにはある。だが、 
(形ばかりの妻でもよいとなあ) 
矛盾したことながら、そうも思う。周りが思うほどに、己自身は苦悩してはいないのかも知れぬと、
そっと苦笑を漏らす志保なのだ。なぜなら、己の心の中にはまだ初めて恋うた人物の面影が生きている…。 
「それにのう、公方家には幸千代様という跡継ぎがすでにおわす」 
不満げに鼻を鳴らす幼馴染を、反ってなだめる側に回りながら、 
「何も次のお子をと急ぐ必要もない…と、私は思うのじゃがなあ」 
「やれやれ」 
すると、八重はしようがないと言ったように、しかし溢れる好意の笑いを漏らして、 
「今宵はこれにて。志保様もお休みなされませ」 
一礼し、襖を閉めるのである。 
(長い長い戦じゃ) 
 蝋燭を手元へ引き寄せて、文机の上で父への手蹟を書きながら、志保は大きく息を吐いた。 
(晴氏様が御心を開いてくださるように。我らに抱いておわす誤解を解いてみしょう) 
改めて臍を固めなおす思いで、志保は天井を仰ぐ。 
 晴氏は晴氏で、 
(気に食わぬ) 
およそ、武士らしからぬ執念深さで志保を思うのである。 
(ちょとからこうてやろうかと思うただけ…じゃのに泣くまいことか) 
 晴氏の若さは、夜毎女性を求めさせずにはおかない。「貴種」の血筋ゆえに、彼が望めば館に勤める
  どの女でも彼の思うままになった。 
 それゆえに、志保が父へ手蹟を書いているその夜のうちにも、女人の一人を組み敷いているのである。だが、 
(…クソ) 
今少しで精をもらす、というところで、また晴氏のそれは勢いを失った。怪訝そうな顔をして彼を見つめる女人へ、 
「…疾う、去ね」 
今宵も素っ気無く命じて彼は背を向ける。 
(あの娘、まこと、気に食わぬ) 
 何か粗相をしでかしたのではないかとおろおろする女人へ、 
「何をしておる、とっとと去らぬかッ」 
イライラして爪を噛みながら怒鳴りつけて、晴氏の脳裏に浮かぶのは志保の白い顔なのだ。 
 襖が慌しくぴしゃりと閉まる音が、妙に空々しく聞こえる。 
(泣くか、狼狽いたせば、少しは可愛いとも思うてやったかもしれぬものを) 
初めて会った時、北条の姫は己を見て微笑ったのだ。それゆえに、思わずカッとなって言うまじき言葉まで
口に出たが、それをがっきりと受け止め、耳に痛い言葉を返した。まさに鮮やかな「しっぺい返し」
を食らったと言ってよい。 
ひょっとして、父や簗田高助がいなければ、志保をその場で斬る、とまではいかずとも、追い返せと
命じていたかもしれない。この点、松田左衛門が案じていたように、初対面で「己の立場を弁えず」、
あれだけのことを晴氏に言ってのけた志保の態度は、公方家に対して無礼としか言いようがなかったのだ。
それが無事で済んだのはひとえに志保が、高基や簗田高助に「面白き姫」として気に入られたからである。 
ともかく彼女は、彼の知っている常の女人とはおよそ違っていて、 
(まるでおなごらしからぬおなご…ひょっとすると) 
志保が嫁いでくる前から、下河辺荘でも評判の高かった北条氏である。彼女が意識せずとも、彼女の
古河での振舞いは自然に民の心も掴んで、それゆえにより一層北条の人気が高まっているようであるし、
志保自身も己よりも聡明で人望もあるかもしれぬ、そう思うと余計にイライラは募って、 
(泣いて縋れば、少しは情けをかけてやるものを) 
それはより一層、晴氏の妙な意地となって心の中へ沈殿した。 
(泣いて、こちらへ来いと申せば行ってやるものを…否、あの八重とかいう娘) 
 ごろりと布団の上へ転がった晴氏の脳裏に、いつしか浮かぶようになったのは志保にいつも
  付き従っている侍女の姿である。 
だが、表面上は晴氏と志保の間にも、関東の情勢にもなんの変わったことの無いまま、志保が
古河へ嫁して四年が経った。 
「そろそろ、戻りましょうなあ。お天道様の雲行きが怪しゅうなってまいりまいた」 
「はい、継母上」 
 管弦の催しや歌の詠み合わせなど、正月の行事も一応は滞りなく済んだ、小春日和の正月十日
  の頃である。志保の言葉に素直に頷いて、幸千代王は笑った。まだまだ背丈は志保に到底及ばぬが、 
「継母上のおかげさまを被りまして、この幸千代王」 
 志保が微笑むと、この早熟な公方の孫は薄い胸を少し張って、 
「下河辺の民が、どのような暮らしをしてまいったのかをつぶさに知りまいた」 
「ほう、それは、のう。どのようにお考えか、この母に聞かせて下さりませぬか」 
「はい。我らが贅沢をすれば、その分、民は飢える…その恨みは当然、我らがお家に向けられる」 
「はい」 
 志保は頷いて、幸千代王を促した。 
「何も言わぬが民の無言の抵抗…そうなったれば遅い。万一、敵が攻めてきた場合に、民はすべて
我らからそっぽを向く。そっぽを向かれては民からの協力は得られず、遠からず我が家は滅びる…
継母上は何もおっしゃりませなんだが、幸千代王はこのお拾いの間で、それを学び取りまいた」 
「そうでござりましたか。それは嬉しいこと」 
 志保が幸千代王と顔を見合わせて、もう一度にっこりと笑いあったところで、 
「志保殿! 幸千代王君もおでましでござりまいたか」 
「おお、これはお猶父(ちち)上様」 
 林道を古河城へ戻りかけたところである。後ろから太い声がかかった。いつになく慌しい声に、
  何事かと護衛を含めた全員がそちらを振り返る。 
「ただ今なあ、志保殿の父御へ急使を差し向ける勅許を得に、古河へ向かおうとしておったところじゃ」 
 挨拶もそこそこに、わずかの供回りを引き連れていた簗田高助は言った。 
「ああ…左様で」 
「それにのう」 
高助は、志保を取り巻く一団に混じっていそいそと歩きながら、 
「こなたの弟御がなあ、父御と共に扇谷と一戦交えるやもしれぬそうな」  
「あの、私の弟が」 
「左様」 
「あのお千代殿が…」 
(今年で、ようよう数え十二くらいになったばかりであろうのにのう) 
志保は嘆息して、頷いた猶父の顔を見る。彼女の中では、彼女の弟はいまだに「お千代殿」であり、
別れの際に涙を溢れんばかりにためた、幼い頃の彼のままなのだ。 
「では志保様。八重めも簗田様へ従うて先に戻っておりまする」 
 やはりいつものごとく着いてきていた八重が、軽く頭を下げて、簗田勢の案内に立つ。その後から、
  幸千代少年の足の運びに合わせてゆるゆると帰りかけながら、志保は、 
(戦か…雲行きが怪しいのは、お天道様ばかりではないの…) 
そっとため息を着いた。 


…続く。