イランカラプテ 15




「奇妙なことになりましたな」
さても、さすがに松前藩もシュムクル側に味方して、藩士の一小隊くらいは彼らにつけるか、
あるいは最新式の種子島を貸すか、といった最悪の場合のことまで考えていた市座衛門や庄太夫は、
(まあ、これもある程度予測されたことではあったが)
と思いながら、
「どうなさいます?」
シュムクルアイヌ達を前に、苦笑を浮かべてシャクシャインを仰ぐことになった。
シュムクルコタンからやってきたその使いは、川上から「我々はもうお前達の敵ではない、よって
攻撃しないで欲しい」と言い言い、静内川を下ってきた。シベチャリのチャシへ近づくや否や、警戒していた
メナシクルアイヌ達にたちまち捉えられたわけだが、
「見ろ、我々は武器を持ってきていない。お前たちに報復するために来たのではない。協力を求めに来たのだ。
場合によっては、お前たちに服従を誓ってもいい」
その口から漏れた意外な言葉に、敵意をむき出しにして彼らを迎えたメナシクルアイヌたちは、さぞかし
困惑したことだろう。
ともかくもシャクシャインへ報告を、しかし油断はならぬからということで、一応はがんじがらめにその使い達を
縄で縛り、砦で次の攻撃の準備をしていたシャクシャインの元へ引っ張っていくと、
「我らの副部族長は、松前藩に毒を盛られた。ここは一つ、積年の恨みを忘れて松前藩への報復に力を貸して欲しい」
「松前藩が毒を盛ったというのは嘘ではない。嘘だと思うなら、松前藩から戻ってきたウタフと我らの仲間の遺体が
まだそのままにしてあるから、貴方の目で見て欲しい」
彼らはシャクシャインの姿をそこに見るや否や、口々に言い募り、彼に向かって神妙に頭を下げたのである。
(さて、真実か否か。見たところ、嘘ではなさそうだが)
たちまち静まり返った砦の一室で、同じように父の側にいたカンリリカと並びながら、庄太夫は唾を飲み込んで
両者の様子を交互に伺い、
(もしもこれが偽りであるなら、ウタフも相当な詐術師だ)
そう思った。
シュムクルアイヌにこういったことを入れ知恵しそうなのは、言わずと知れた彼らの相談役、砂金掘の文四郎である。
しかし、当の彼は、シャクシャインがその屋敷を急襲したあの晩から行方知れずであるというから、
(まことに失礼なことだが、シュムクルアイヌ達だけで、このような「手の込んだ」謀略を考え付くとは到底思えない)
頭を下げたまま、神妙にシャクシャインの言葉を待っているシュムクルアイヌ達の様子を見ても、嘘であるとは
考えがたいのである。
熊の敷物の上で胡坐を掻いているシャクシャインもまた、不機嫌そうにむっつりと唇を結び、腕組みをして
目を閉じたきり、何も言わない。今回の出来事は、言うなれば両者それぞれにとって、まさに予想外のことであったから、
(迷っているのだ)
庄太夫が時折そっと隣のカンリリカの顔を伺うと、彼もまた、まるで見計らったかのように同時に自分の顔を
見返してくる。気まずい思いで義兄と微苦笑を交し合った庄太夫の鼻に、明かり取りに使っているラッコの油の
焦げる匂いが強く漂ってきた。
それはつまり、
(そろそろ油が切れる)
ということで、
(明かりが消えてしまうのではないか…)
庄太夫がふと、この場とはまるで関係の無いことを思った時、
「そやつらの縄を切ってやれ」
シャクシャインの声が、響いた。それを聞いて、シュムクルアイヌ達の顔は輝き、逆にメナシクルアイヌ達の顔は
訝しげに歪む。
「聞こえないか。そやつらの縄を切れ」
シャクシャインが胡坐を解き、おもむろに立ち上がりながら繰り返すと、メナシクルの者達は不承不承マキリを手に取り、
シュムクルアイヌ達の縄を切った。
それにやや遅れて、カンリリカがはっとしたように腰を浮かせかける。それをシャクシャインは鋭い眼差しで
持って抑え、
「俺をハエへ案内しろ」
短くそれだけを告げつつ、壁にかけてあった弓を無造作に取って外へ出て行ったのである。
その後を、弾かれたように立ち上がった皆が追う。
「危険ではありませんか。彼らが言ったことがもしも嘘であったら」
同様に、急いで部族長の後を追いかけた庄太夫が、年老いて尚、広くがっしりとしたその背中に問うと、
「危険ではない」
短い答えを返しながら、シャクシャインはかすかに笑って娘婿を振り向いた。
「奴らは俺達に服従を誓ってもいい、と言ってきた。余程のことだと思う」
「……はい」
ある程度予測していた答えに納得して、庄太夫は頷いた。
蝦夷に住むアイヌの人々は、大自然の神々と共に生きる、誇り高い民族である。くどいようだが、
言葉を伝えるために文字を作る、ということをしなかった、それだけのために、和人などから、
「知恵の無い民族」
などと見下された。しかしそれはただ単にアイヌの人々が「言葉を文字で表す必要を認めない」という
習慣を持っているからに過ぎない。
「我らには自然と共に培ってきた、深い生活の知恵がある。れっきとした文化をなす一民族である」
それはただの見栄やハッタリなどではなく、事実なのだ。遠くは原始から続く素朴な生活を、時代が
数百年下ってもほぼ変えることなくずっと守り続けてきたのも、北の地に住む、「神と共に暮らす民族」としての
誇りからであり、
(その誇りを捨ててまで、長年敵対してきた種族に助けを求めるからには、余程のことだと、シャクシャインは
言いたかったのだろう)
そんな風に考えながら、大股で歩くシャクシャインの後を、庄太夫は息を切らせながらついていった。
シャクシャインの両隣をそれぞれ占めて歩きながら、
「親父。また戦いになるのではないか」
納得した庄太夫とは対照的に、カンリリカは心配そうに話しかけている。普段は「俺の親父は戦いばかりをしている」
と批判的な目で見ていても、やはりそこは親子で、
「親父を殺すための罠かもしれない」
と、カンリリカはシャクシャインのアミブの袖を引くのである。
「大丈夫だ。もとはといえば同じアイヌだ。奴らもやっと、俺達の本来の敵が誰であるのか悟った。そういうことだ」
息子の肩を二つ叩きながら言う、シャクシャインの額が、いつの間にか登ってきていた春の朝日に照り映えている。
そこに浮いている染みを見つめながら、
(今日も一日が始まった。長い長い一日が)
庄太夫は顔を引き締めた。
(果たして蝦夷アイヌ王国を創り上げられるかどうかが、これで決まる)
思いながら、コタンの外れまでシャクシャイン親子を見送って、
「では、手前はこれで」
商人である自分がついていっても何にもならぬから、というので、シャクシャイン父子と別れ、彼は
メナシクルコタンへと引き返した。
庄太夫の姿を認めるや否や、残っていたアイヌの若者達が、彼に意見を求めに群がってくる。それらを、
「今の時点では、俺からは何も言えぬから」
と追い払いつつ、
「市座小父」
シャクシャインの小屋の戸口にかかっている筵を跳ね除けて声をかけると、白髪頭がゆっくりと振り返る。
「いよいよ動き出します、アイヌ達が。ひょっとすると以前にお話した蝦夷アイヌ王国が成るかもしれません。
よってそのために、これからも市座小父のご協力を」
「お前は」
胸に抱いていた「計画」を話そうと、興奮しつつ膝を寄せた庄太夫を遮って、
「シャクシャイン殿が、お前と同じことを考えていると思っているのか」
「そうではないと? まさか」
市座衛門の言葉に、
(市座小父は、ここにきて怖気づいたのか)
むしろ驚いて庄太夫はその目を見つめた。
「今のアイヌの人々は、交易に名を借りた松前藩、つまり和人の『支配』を甘んじて受けている。アイヌと和人、
両者が対等な立場として認め合うには、アイヌの人々による王国を作るしかないではありませんか。違いますか」
熱を持って語る庄太夫の口元を、市座衛門はじっと見つめたきり、何も言わない。よって庄太夫は、
「きっとシャクシャイン殿も、同じとは言わぬまでも、似たことを考えているはずなのです。松前藩に勝てぬまでも、
彼らと同等の力があることを示せば、対等な立場に立てる。事実上の被支配者という立場から脱却できる。
シャクシャイン殿にはその力がある。他のコタンに住んでいるアイヌの人々にとっても、それは願ったり
叶ったりのはずです」
唾を飛ばして言いながら、焦れてますます膝を寄せたと思うと、
「どこへ行く?」
「シャクシャイン殿らの後を追います」
庄太夫は突然立ち上がった。
背後で市座衛門が大きく吐息をつく音を聞きながら外に出ると、待ち構えていたらしいアイヌたちが
再び彼を取り囲んだが、
「心配ならば、俺も後を追うから。今から長の後を追うつもりだから。大丈夫、今回は戦いにはならぬはずだ」
と微苦笑でもって言い言い、庄太夫は彼らを掻き分け掻き分け、コタンから外へ出た。彼自身も、シュムクル側の
言ってきたことは今はもう、
「嘘ではない」
と思っているし、なによりも、
(小父は、どうやら違う考えを持っているらしい)
市座衛門の連れてきた護衛と共に、静内川上流を指して歩きながら、
(シャクシャイン殿もまた、俺とは違う考えを持っているとは、どういうことだ。市座小父は俺の夢に
協力してくれぬつもりか)
彼はそのことを不満にも思い、不思議にも思って首を傾げているのだ。
松前藩が蝦夷に住む先住民族アイヌを事実上、「支配」していることは誰の目にも明らかであるし、アイヌの人々も
そのことに深い憤りを感じているはずなのである。幼い頃からそれを見ている庄太夫は、だからこそ、
(俺が誰よりも一番、アイヌの理解者である)
そんな風に、傲慢であると言われれば傲慢ではある考えを抱き、そしてメナシクルの長であり、全蝦夷では
一番の実力者であるところのシャクシャインもまた、
(いつかはきっと、蝦夷にアイヌだけの世界を築きたいと思っているはずなのだ)
というように「確信」していたのである。
そうなれば、
(やはり傍観者になっているわけにはいかない)
のである。
思い直してシャクシャインたちの後を追う庄太夫の耳元に吹く夜風は、皐月とはいえ未だに冷たい。しかし
不惑の年にはまだ間がある彼の心は、火に油を注いだように熱かった。

(これは違うだろう)
静内川上流、シュムクル系統のとあるコタンにある小屋である。シャクシャインによって、散り散りに
なってしまったオニビシの血縁の者達は、複雑な表情で彼を迎えた。
下流にあるメナシクルのチャシよりも、気温はさらに数段低い。その遺体を見せられたシャクシャインは、
肌寒さに思わずアミブの前を書き合わせながら、
(ウタフは毒を盛られたのではない)
即座にそう思った。
「これに触れたか」
尋ねると、シュムクルアイヌたちは「とんでもない」と即座に首を振る。触れたら自分も同じ目に遭うと
硬く信じているようで、
(それは間違いないが)
シャクシャインもその態度に苦笑しながら、幾重にもアットゥシが巻きつけてあるウタフの遺体を見下ろし、
その布の端を右手の人差し指と親指で少し摘んだ。
同時に、息を詰めて彼の様子を見守っていたシュムクルアイヌ達が一斉に仰け反る。カンリリカも同様な態度を
示すのへ、
「大丈夫だ。伝染する『毒』ではない」
再び苦笑しながら、シャクシャインは言った。
(そうだ、これは毒ではない)
そして心の中で一人頷きながら、
(こいつは、果たしてこんな顔をしていたか)
赤い斑点の浮き出たウタフの顔を、そこから生前の面影を探すようにとっくりと見やる。
そして今、横たえられたウタフの頭の右横にいるウタフの妻もまた、
「貴方もやはり、ウタフは毒を盛られたと思うのか。だとしたら、これほど悔しいことはない」
その猛々しさをすっかり気弱さに変えてしまったように、シャクシャインへ訴え、涙ぐむ。夫が殺されたということで、
目の前にいる人間が、ついこの間まで敵だったということを忘れてしまったようだ。
「……文四郎は」
その側に、いつもの相談役の姿が無いことに気付いて、シャクシャインは彼女へ尋ねた。オニビシを討ち果たした
あの夜、
(確か文四郎は行方知れずになったはずだが)
どうやらどさくさに紛れて逃げたらしい。
メナシクルアイヌの若者達に命じて、どんなに探させてもその姿が見えなかったので、てっきりシュムクルの
本拠地であるハエのほうへ向かったもの、と思いこんでいたのだが、
「知らぬ。あんな者のことなど、もうどうでも良い。捨て置いていい」
オニビシの姉は、吐き捨てるように言って、激しく首を振る。
(これも嘘ではない)
その様子を見て、シャクシャインは思わず苦笑した。属している部族の命運が危うくなったと見るや、
己だけさっさと逃げてしまう相談役など、確かに必要ではない。
(まこと、奇妙な縁よ)
思えばオニビシともウタフとも、そしてこのオニビシの姉とも、会う時は必ず戦いの時でしかなかったのである。
互いに互いの顔をじっくり見たことなど、八年前の松前藩が催した名ばかりの和睦の場でしかない。
(こんな形で話し合う時がくるとは思わなかった)
シャクシャインの胸にあったのは、敵がいなくなったという悲しみとも安堵ともつかぬ、何とも形容のしがたい
感慨である。
彼が思わず大きくため息を着くと、部屋の松明も同時に揺らいだ。
シュムクルとメナシクル、両アイヌ民族が、敵対していたことを互いにすっかり忘れて、どうなることかと
顔を見合わせていた時、
「メナシクル相談役、庄太夫です。通してください」
庄太夫の声が響いて、静まり返っていた砦はざわめいた。
「来たのか」
苦笑するシャクシャインの側へ、彼の娘婿はどっかりと腰を下ろして、
「……これは、『毒』を盛られたのですか」
アイヌ語で尋ねてくる。もちろん、そこには微妙な声のかげりがあって、
「そうだ」
シャクシャインもまた、独特な意味を込めて庄太夫に頷いた。その一言で、息を潜めてシャクシャインの様子を
見守っていたアイヌ達は、一斉にざわめきだす。
(これは、俺の母親もやられたバイカイ・カムイ(疱瘡)だ。だが)
そのざわめきを、いささか煩わしく感じながら、
「お前の夫は毒殺された。同行した者もウタフ同様、毒を盛られたのだ」
彼はオニビシの姉と庄太夫、二人に向かって頷いた。
シュムクルアイヌたちの言葉が、これによって嘘ではなかったと分かった。よって、
(この状況を利用させてもらう)
聡いシャクシャインは即座に思った。だから、
「これは、まちがいなく毒だ。ウタフは、松前藩のシサムらに毒を盛られたのだ」
シャクシャインは、その場にいたアイヌ達全員の方へ向き直り、彼らの視線を己の口元に感じながら、
三度そう断言したのである。
すでにシュムクルアイヌの中では「松前藩がウタフに毒を盛った」ということが、半ば事実として認識されていたらしい。
しかしさらにシャクシャインが、いわば駄目押しをすることで、ウタフの死因が毒殺であることがついに
確定されてしまった。
なるほど、確かに一応は助けを求めに行ったとはいっても、もともとアイヌ達が、シサムを心から
信頼しているわけではないのだ。そこへもってきて、これらの出来事…松前藩にとってはある意味、
不幸なタイミングといえるかもしれないが…が起きたのである。日頃から低く見られていることへの不満が、
メナシクル部族への憎しみを上回って爆発したのだろう。
(ご苦労だった。安らかに眠れ)
長年の敵の顔を、労わりを持って見つめるシャクシャインの袖を、
「親父どの、いえ、族長」
庄太夫が引いた。見ると松明の炎を映した彼の眼が、きらりと光っている。
(この機会を逃してはなりません)
庄太夫の無言の訴えは、シャクシャインにも確かに届いた。
(アイヌを一つにまとめる良い機会だ)
娘婿へ苦笑しながら頷いて、
シャクシャインは立ち上がり、
「松前藩は、誠意を尽くしてきた我々に、毒を盛って帰すことで答えた。なんの、奴らに真心なぞあるものか。
これでお前たちもようく分かったろう。奴らは、我々を利用しているだけなのだ。奴らは我々のことを、
良くて扱い易い人夫くらいにしか考えていない」
熱を込めて言い切って、彼を見上げているアイヌ達をぐるりと見回した。シャクシャインの顔が赤いのは、
傍らで燃えている松明に照らされているためばかりではあるまい。
「蝦夷全土のアイヌ達に伝えろ。今こそ武器を取って立ち上がる時だと」
 彼が宣言すると、小屋の中に瞬時に熱気がこもって、たちまち凄まじい喚声が小屋全体を揺るがした。



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