イランカラプテ 13




到着したばかりの市座衛門のおかげもあって、メナシクルコタンのアイヌ達が何とか今年一年、
過ごせそうなほどの得物は手に入った。
「さすがは小父です。助かりました。私一人なら、もっと安く買い叩かれていたに違いありませんから」
「いや何。これからメナシクルアイヌの相談役とやらになるための、ほんの手土産だよ」
ホッとしながら庄太夫が礼を述べても、市座衛門はそれを誇ったりしない。
「商売の底にあるものは、信頼だ」
庄太夫に案内されて、ついてきた護衛達と一緒に静内川河畔のコタンへ向かいながら、
「それがない取引は、いつか破綻する。どちらか一方が栄えたままなどありえない。栄えるとするなら…
それはもはや、対等な取引とは言えぬ」
歌うように、ぽつりぽつりと言うのみである。さすがに松前藩を憚って、はっきりとは言わないが、
(支配する者とされる者。小父も、今のアイヌと松前藩のことをそう思っているのだ。そして内心、
アイヌに同情しているに違いない)
思っているのでなければ、口にはしないであろう。庄太夫が確信しながら、
「小父、見えてきました。あれがシベチャリのチャシです。シャクシャイン殿はあそこにいるはずです。
その側に点在して見えるのがコタンでして。残念ながら、シュムクルとの争いは未だに続いていますが」
夕日を背に受け、そちらの方角を指して言った時、
「庄太夫! 遅かったではないか!」
カンリリカが走ってくるのが見えた。
庄太夫が手短に紹介した市座衛門の矮躯を抱き寄せ、老いた皺深い手をぐっと握って、
「イランカラプテ」
目を白黒させている市座衛門に、ともかくも丁寧な挨拶を返してくるが、よくよく見ると彼の目は血走り、
息が上がっている。
「何があった」
「親父が、シュムクルへ攻め入った。オニビシの奴を殺したらしい。俺も知らなかった」
両者の問答を、アイヌ語を知らぬ市座衛門とその護衛たちは、きょとんとした風に聞いている。しかし、
「庄太夫。何があった」
思わず血の気を引かせた庄太夫の様子を見て、何か不穏なことがあったことを察したらしい市座衛門が尋ねるのへ、
「…メナシクルとシュムクルの対立のことは、小父もお聞き及びでしょう。シャクシャイン殿が、あちらの首領の
オニビシを倒したそうです」
ようやく息を整えて、しかし震える声で庄太夫は答える。
「カンリリカ、落ち着いて話せ。お前の親父殿が、オニビシを殺したというのは事実か。お前はそれをきちんと
確かめたのか」
(いつかは来ると思っていたが、予想外に早い)
たちまち高鳴る胸の動悸を、意識的に深い呼吸をすることで落ち着けようとしながら、庄太夫がカンリリカの
両肩をつかんで揺すぶると、
「…ウン」
「義兄」は力なく頷いた。
「本当か」
その腕を取り、引っ張るようにしてコタンへ向かいながら、庄太夫は再び問う。二人の後を、要領が飲み込めぬながら、
緊張した面持ちで市座衛門と助之丞、そしてその配下の者達が続くのを感じつつ、
(これからだ。いよいよこれから、シャクシャイン殿の王国を創り上げるのだ)
考えた庄太夫の全身に震えが走ったのは、少なくとも怯えのためではない。
「それは噂ではないのか。真実か。お前はそれを誰から聞いた」
カンリリカに何度も問う声は、問うたび覚えず詰問口調になっていた。それに対して、
「…俺は、戻ってきたコタンの奴から話を聞いただけだ」
半ば呆然と、半ばうなだれて、カンリリカは小さな声で答える。己が力と頼む庄太夫に会って、力が抜けてしまったらしい。
(不甲斐ない。良い年をして)
幼馴染のこういったところは、時に歯がゆく思える。現部族長の子なら、もしかやってくるかもしれない
敵対勢力に備えて、コタンの防備を厚くしておく、戦いが起きている場所へコタンの者を使いにやって、
真実を確かめる、などなど、やることは山ほどあるはずなのだ。
「市座衛門殿も参られたことだ。とにかく落ち着いて話そう」
カンリリカの腕を握り締めた手に、励ますようにぐっと力を込めて庄太夫が言うと、カンリリカは再び力なく頷いた。
アイヌ、和人両側の伝承を引用すると、そもそもの起こりは、仲直りしたはずのシュムクルアイヌの一人を、
シャクシャインが殺したことから始まるらしい。
ここで、再びあの砂金堀文四郎の出番となる。文四郎はかつての戦いの後、
「手前は商人である。商人というものは、いくさには一切関与しないもの…」
松前藩の息もかかっているということも言外に匂わせながら、静内川の河口に近い、かのメナシクルチャシの
対岸に広がる原野に己の家を移させていた。
ご丁寧にも土塁で周りを固めたその「邸宅」は、当然ながら、メナシクルチャシからは一望の元である。
「我らを監視するためだろう。だが、手出しはならぬ」
着々と進む工事を見ながら、シャクシャインが苦笑して言ったように、文四郎の目的はメナシクルアイヌの動向を
探るために違いなく、
「シュムクルの奴らに、俺達が少しでも危害を加えるような素振りを見せたなら、すぐにでも松前藩に
報告するつもりなのだ」
だから行動を慎め、と言っていたはずのメナシクル部族長がしかし、シュムクルアイヌを殺害してしまったというのだ。
なぜそんなことをした、と問い詰めたカンリリカに、
「あれは我が部族の娘を犯した」
そっけなく答えて、シャクシャインは息子の顔を、当のアイヌがそこにいるかのように苦々しい表情で見つめたという。
あれ以来、戦に勝って「仲直りしてやった」という奢った意識のまま、シュムクルアイヌたちはたびたび
メナシクルアイヌの「生活領域」を侵した。むろん、叩きのめされたこちらに、対抗するだけの力がないと侮って…
事実そうだったのだが…いたからである。
こちらに力が無いまま相手側に攻撃したりすれば、相手はそれを口実にして得たりとばかりに攻めて来るに違いない。
そうなればメナシクルは全滅で、だからこそシャクシャインは「負けて」から、
「悔しくともこちらからは手出しをするな」
と言い聞かせていたのだが……。
「そのような理由があるのなら、致し方ないと俺も思った」
熊の敷物の上にがっくりと両手を付いて、カンリリカは大きくため息を着く。
アイヌの人々の間でも、殺人は最も大きな罪である。当然の結果として、オニビシは誠意ある謝罪を要求してきた。
しかしその使いを、シャクシャインはニベもなくはねつけたばかりか、その額へ向かって、得意の弓を満月のように
キリリと引き絞り、
「命だけは助けてやる。これが俺の返事だ」
とっととシュムクルコタンへ帰れ、と、脅したそうな。
これが寛文七(一六六七)年春のことである。こうして、両者は互いの「国境」で、再び戦闘を繰り返すことに
なってしまっていたのだ。
それから一年あまり経ったが、先ほど庄太夫が市座衛門に「シュムクルとの争いはまだ続いている」と言ったのは、
このことによる。
「それはしかし、ただの小競り合いだと私は思っていました。いつものように、またいつかなし崩しに収束するものだと」
と、そこで庄太夫は大きく一息ついた。
シュムクル側としても、そうそう何度も、「本当は心の底で嫌っている」松前藩に介入して欲しくはなかったろう。
そのことは、
「争いを避けるためにも、何某の金品をこちらに納めよ」
「我らは何度も文四郎と話し合って、和解の条件を定め直している。誠意を示している」
文四郎にでも含められたのか、そんなことを言い言い、和解を求める使いが七日に一回はメナシクルのチャシへ
やってきたことからも伺えるのである。
文四郎にしても、またも戦いになってしまっては、当たり前だが「安心して商売ができない」のだから、
そうなるまでの小競り合いの段階で、何とか止めたかったのに違いない。
しかし、その都度シャクシャインは使いを追い返した。追い返すときの語気の激しさは、息子のカンリリカはもちろん、
側で聞いている庄太夫さえハラハラするほどで、
「また大きな争いになるのではありませんか」
カンリリカがたまりかねて言っても、シャクシャインはただ、黙って笑うことでそれに答える。するとカンリリカは、
ぷいと父から顔を背け、砦を出て行ってしまう。そんな時、シャクシャインは決まって静内川の対岸を眺めた。
そこには、言わずと知れた文四郎の家がある。シャクシャインの横顔には、もう六十を越えて数年経とうかというのに尚、
精悍さが溢れていて、
(何をそんなにも熱心に眺めているのだろう)
それを見つめながら、庄太夫は思った。
シュムクルの相談役である文四郎の家には、当然かもしれないが、頻繁にオニビシが訪れる。メナシクルの砦から
その姿は丸見えで、
「俺を狙えるものなら狙ってみろ」
とばかりに、わずか数人の供を連れたのみで堂々とやってきては、時にこちらの砦を見上げて、
(お前たちには、こんな近い距離にいる俺を討つことも出来ぬ)
馬鹿にしたような笑みを浮かべさえする。近頃では、彼はどうやらこちらをすっかり侮っているらしく、時には
供も連れずに文四郎宅を訪れもする。
思わず自分の顔を見つめた庄太夫を、
「俺の考えを読み取ろうとしているかのようだ」
シャクシャインもまた、苦笑を浮かべながら見つめ返して、呟いたものだ。
「はい、ですが分かりません。何を考えているのですか?」
だもので、庄太夫は思い切ってこの義父に尋ねた。彼の黒々としていた髪は、いつか白いものが混じり始めたと
思っているうち、あっという間に全てその白さに覆われてしまっていたが、
「いいか、庄太夫。よく覚えておけ」
再び視線を文四郎の家に戻して語り始めたその声は、庄太夫が幼い頃に聞いたそれと寸分違わない。
「アイヌの部族の強さは、部族の長によって決まる」
今更ながらのことを言われて、刹那、庄太夫は面食らったが、
「……はい」
(この言葉にも、何か意味があるのだ)
そう考えて、その時は頷くに留めていたのだ……。
そこまで語り終えて庄太夫は、
「ここからは、お前の番だ。話せ」
と、傍らで暗い顔をしている義兄を振り返る。するとカンリリカはギクリと大きく肩を震わせた後、長く重い吐息を
一つついて、
「俺が知っているのは、文四郎の家に泊まっていたオニビシを、親父が殺したということだ。ただそれだけだ」
言い、再び重苦しい息を口から吐き出した。
その言葉だけで、
(ああ、そうだったのか)
庄太夫は悟り、カンリリカ同様、重苦しいため息を着いたのである。
つまり、シャクシャインがしつこいほどに文四郎の家を「監視」していたのは、オニビシが文四郎宅へ、安心しきって
一人でやってくる、その時をじっと待っていたからなのだ。
昨晩も、庄太夫は、オニビシが文四郎宅を訪れるところを目撃している。それは余りにも当たり前に
「ありふれた光景」になってしまっていたから、
「お前が商場に出かけた後、親父はオニビシを殺したのだ」
震える声でカンリリカが告げた言葉を、庄太夫は和人の言葉に直すことも忘れて、しばらく呆然としていた。
しばらくは、小屋の外を吹き渡っていく風の音だけが響いて、
(こういうことだったのか…部隊というものは、つまり率いている将さえ除いてしまえば、あっけなく崩壊する。
それをシャクシャインは言っていたのだ)
やがてバタリと大きな音を立てて、小屋の窓が閉まった。そこで我に帰った庄太夫は、あの時にシャクシャインが
自分に告げた言葉の意味を、ようやく悟ったのである。
「で、シュムクルのアイヌたちは今、どうしているのだ」
「オニビシの姉とウタフが攻め入ってきたが、親父がオニビシの首を掲げたら退散した。そこを俺達の部族が、な」
そこでカンリリカは、言いよどんで口をつぐんだ。自分たちの部族長が殺されたことが、真実であると知って動揺し、
逃げるシュムクルアイヌたちを、メナシクルアイヌたちは追いかけて散々に打ち破ったらしい。
「親父、もうやめましょう!」
声を枯らして叫ぶカンリリカの言葉も何のその、積もりに積った恨みをここで晴らしておかねばとばかりに、
シャクシャイン率いるメナシクルアイヌ達は、勢いに乗ってハエまで行ってしまったというのだ。
結果的には、オニビシを殺されたために、シュムクルアイヌのハエのチャシは全滅、酋長であるオニビシに
近い者達…その姉や、義兄のウタフも散り散りになって、命からがら味方のコタンへ逃げ延びていかねばならなくなった。
前回、自分たちがメナシクルアイヌへ仕掛けた、それ以上のことをされてしまったわけだ。
「…こういった次第になってしまいました」
主不在の、シャクシャインの館である。熊の皮の敷物を勧められ、それに腰を下ろした市座衛門は、庄太夫が
通訳するところのカンリリカの話を聞いて、思わず腕を組み、大きく息を吐いた。
やがて、
「シャクシャイン殿は私と同じ年頃であるはずだが」
ふっとほろ苦い微笑を浮かべ、
「いやはや、お若いお若い」
「小父」
「分かっておるさ。冗談ごとでは済まぬ。実際お前の親父は、そのことで命を落としておるのだから」
自分へ向かって膝を勧める若者へ、再び微苦笑を漏らして、市座衛門は口をつぐんだ。
(そろそろ縞梟がやってくる頃だ)
その前にしつらえた燭台の上で、蝋燭がわずかに揺れている。黙ったまま腕を組んでいる市座衛門の口元を見つめながら、
(八年前のあの時と同じだ)
庄太夫は息の詰まるような思いで、それが再び開くのを待った。
初老の市座衛門の身には、蝦夷の春風はやはりかなり冷たく感じられるらしい。窓や扉を全て閉め切っていても、
時折吹き込んでくるその風に、蝋燭の炎が消えかけて再び燃え上がった刹那、
「松前藩がどう動くか、だの」
ようやく市座衛門は口を開いたのである。この一言で、
(やはり市座小父は我らの味方だ。最初から我らの味方をするつもりで、日高へ来たのだ)
庄太夫は確信し、
「……はい」
市座衛門の次の言葉を待った。
「聞けば先ほどの戦いで、シュムクルとの仲立ちをしたという…松前藩は、シュムクルの味方なのだな」
「はい、われら、そう思うております」
その言葉に覚悟を決めたように頷く庄太夫へ、
「だが、我らには種子島がない」
目を閉じて答える市座衛門の脳裏に浮かんでいるのは、この時から数十年前に天草で勃発した、島原の戦いのことに
違いない。
その折には、少なくとも戦国時代の生き残りである武士達もいた。旧式とはいえ、少なからず種子島、すなわち
鉄砲も持っていた。何よりも強い信仰に結ばれていたから、幕府側の板垣さえも一時は敗退させることが
可能だったのである。
「商人である私が言うのも僭越だが…関が原の折に漏らしたという故福島公の言葉ではないが、もう十年ほど早ければ、
と思わざるを得ぬな」
側にいるカンリリカへ、庄太夫がアイヌ語で市座衛門の言葉を伝えると、カンリリカは暗い顔をしたまま吐息をつき、
頷いた。
「いつの世でも、血気に逸る若い者を抑えるのは容易なことではない。加えて、年老いたとは申せシャクシャイン殿もまた、
そのまま引き下がるような御方ではないようだ。我らに圧倒的に不利とは申せ、戦いを始めた以上は、
勝たねばならぬであろう」
「はい。今こそシャクシャイン殿を中心とする、蝦夷アイヌ王国を創り上げる時だと思います」
我が意を得たりとばかりに意気込んで、より膝を近づける庄太夫へ、
「しかしそれは、時期早尚というものだ」
市座衛門はわずかに苦笑して答える。
「まだ早いと仰るのか」
「そうだ。メナシクルアイヌはまだまだ弱い」
そこでふと、市座衛門は言葉を途切れさせ、扉を見つめた。他の二人も釣られてそちらを向くと、
「シャクシャイン殿!」
マタンプシやアミブは言うまでも無いことながら、ざんばらになった白髪にも茶色く変化した血をこびりつかせた
シャクシャインが、
「……我らの方が、圧倒的に不利だとおっしゃるか」
年老いても力を失っていない大きな目を、さらにぎらぎらと光らせながら、市座衛門を見下ろしている。
乱暴に開いた扉の後ろには、同じような格好をしたアイヌ達が、てんでに得物を持ってうろうろしているのが見え、
メナシクルコタンは一気にざわめきに包まれた。
誰もが興奮しているその空気の中、
「市座小父っ!」
「親父っ! なんということを」
「…答えられよ。何故にそう仰る。何ゆえに我らが弱い」
シャクシャインが、手にしていた槍を市座衛門の鼻先へ突きつける。カンリリカと庄太夫は思わず腰を浮かせた。
「左様」
しかし市座衛門は、慌てふためくことなく、静かにメナシクルの部族長を見上げる。どうやら彼は、言葉ではなく
感覚的にシャクシャインが言ったことを察したらしい。
庄太夫のほうを振り返って、「通訳をしろ」と言うように頷いた後、
「アイヌ同士でいつまでも争っていること。あなた方にとって本当の敵、共通の敵は何処にござりましょうや。
不毛な争いを繰り返している間にも、その敵は肥え太る。分かっていながら、感情のままに動いてばかりでどうにもならぬ。これがまず第一の敗因」
「…第二は」
「第二は」
青い顔をした庄太夫が、それでも自分の言葉を正確に伝えているらしいと思いながら、
「我らがあなた方のことを知る必要はないと思っているように、あなた方も我ら和人のことを知ろうとしない。
敵を深く知ろうとしないのが第二の敗因。和人憎しとばかりに、我らの言葉すら覚えようとしないあなた方は、
戦う前から負けている。だからあなた方は弱いと申しあげたのです」
突きつけられた槍の先へ頷いて、市座衛門は答える。
その言葉を庄太夫が伝え終わると、シャクシャインの目から発せられていた光がふと和んだ。
「…分かっている。和人の言葉、難しいこととなると皆目分からないが、庄太夫が話した貴方の言葉、この家の外で
聞いていて、本当は最もだと思っていた」
血のこびりついた槍を土間へ投げ捨て、シャクシャインは板の間へ上がった。扉から見て正面に敷いてある
熊の皮の上へどっかりと腰を下ろし、
「あなた方シサムから見ると、我らはさぞ愚かに見えるであろう。だが、理性では分かっていても、貴方が仰るように、
感情の上ではどうにもならぬ。あなた方にも分かるのではないか…同じ人間であるなら」
市座衛門へ苦笑を向けながら告げた言葉は、カンリリカと庄太夫が思わず顔を見合わせたほどに穏やかだった。
「分かります。同じ人間ですから」
市座衛門もまた、己と同い年のこの初老のアイヌを見つめながら頷く。そして、
「カンリリカ殿はどうやら反対のようですし」
と、庄太夫の隣にいる壮年のアイヌを見て、わずかに苦笑した。
「ずばりと言わせていただくが、実はこれからあなた方と松前藩との架け橋として、交易を始めようとしていた
手前個人にとっても、此度のメナシクル側からの攻撃は迷惑であるし、暴挙であったと思わざるを得ません。
シャクシャイン殿も、相手側の背後に、松前藩があることを十分に承知しておられたのであろうが…いやさ、これは
事が起こってしまった後で申しあげても、まことに詮無き事」
市座衛門が話し、庄太夫が伝えるその言葉を、シャクシャインは腕組みしながら目を閉じ、黙ったまま耳を傾けている。
その顔から、往年の精悍さと自尊心の高さが失われていないように見えるのは「さすがは」と思えるが、
(アイヌのポンヤウンペ…この方も、どこか疲れたような顔をしている)
今、庄太夫が見つめている彼の横顔には、蝋燭に照らされたためばかりではない、疲労の影が浮かんでいるような気がする。
(当たり前だが、この方も年老いたのだ)
シャクシャインのその顔を思わず凝視していた庄太夫は、
「過ぎたことをあれこれ悔やんでも致し方ない」
続く市座衛門の言葉にふと我に帰り、慌ててその言葉をアイヌ語に変えて他の二人に再び告げ続けた。
「向後は、松前藩がどう出てくるか…此度のメナシクル側の『不当な攻撃』を、シュムクルアイヌが誇張して
伝えぬはずがない。今、戦況は? オニビシは貴方の攻撃によって死亡したというが、オニビシの姉の夫…ウトマサ、
いや、ウタフと呼ばれているのですか」
「ウタフだ」
そこでシャクシャインは、閉じていた目をカッと開いた。同時に燃えるような眼差しを市座衛門へ注ぐ。
「左様、ウタフ」
それを受けながら、市座衛門は頷いた。
「実は先日、一艘の船に行き違いました。その船は、松前藩の本拠のある松前半島へ向かっているようだった。
ニシンの取引のために乗っている我ら和人の船かと思うたが、よくよく見るとその中に、あなた方アイヌとそっくり
同じ格好をしている人間が幾人か乗っているではないか。それにそれらの代表者らしき人物、髪や服は泥まみれ血まみれ、
これは尋常ではない事が起こっている、果たして何事が起きたのかと思うておりましたが、これで手前にも納得がいった」
「恐らくは我らのあることないこと、松前藩に訴えに行ったのであろう」
「そう、手前もそう思います。でありますから」
と、市座衛門はそこで大きく息を吐き出し、カンリリカと庄太夫を当分に見る。
「それに対してこちらも備えるべきだと、手前も考える。日高から福山までは少なくとも往復に一週間はかかるはず。
それまでにこちらとしても硬く硬く備えを」
その言葉を庄太夫がシャクシャインとカンリリカに伝えると、シャクシャインはむっつりと頷き、争うことには
あくまで反対であったカンリリカは、がっくりと肩を落とした。
日高に到着したばかりの市座衛門が述べたように、実にこの時、オニビシの義兄であり、シュムクルの副部族長であった
ウタフは、松前藩の本拠のある福山城へ向かっていたのだ。
むろん、松前藩にこの事態を訴え、助太刀を頼むか、それが出来ないまでも、最新式の武器なりなんなり
貸してもらえるように頼み込むためである。
ともあれ、再び始まった両部族間の争いは、こうして「はっきりと」抗争の形を取った。ウタフが松前藩へ出かけて
不在である間にも、シャクシャイン率いるメナシクルアイヌの攻撃は止むことが無く、八年前とは逆に、
今度はシュムクル側が追い詰められていったのである。




MAINへ ☆TOPへ