イランカラプテ 8



「オニビシの監視をやめさせろ。何の権利があって、俺達の川や海を和人の思うままにさせるのか。
長は何を考えているのか」
堪えるということを知らぬ若い者ほど血の気が多い、というのは、今も昔も変わらない。
繰り返すが、ことは自分たちの生死に関わる問題なのだ。先だって催した神魚迎え祭りの折にも
嘆かれた鮭の減少は、それから半年経っても留まる気配を見せない。
砂金堀による川の汚濁と、和人の乱獲によって鮭の数が激減しても、和人にはこれまでと変わらぬ本数の
鮭を干して交換しなければならぬ。となれば、アイヌの人々の口に入る鮭はほとんどなくなる、というのが道理であろう。
もちろん、アイヌの食糧は鮭ばかりではない。先述の鹿も熊もそうだし、海からはニシンや昆布なども
採れたわけなのだが、それも和人の飽くなき乱獲のせいで鮭同様、激減の憂き目を見ているのだ。
和人との度重なる戦いに負け、そのたびに屈辱的な支配を受けることを余儀なくされていったが、
「俺達がいなくなれば困るのは、シサム商人のほうではないか」
「俺達が和人へ、獲物を渡さぬようにすれば良い話ではないのか」
アイヌの若者達が言うように、もしもアイヌたち全員がそっぽを向いてしまったら、何より困るのは
松前藩とアイヌの仲介をしている商人たちであったろう。
「カムイ・チェプと、カムイ・ユク(鹿)ばかりではない。海の恵み山の恵みが減っていくのは全て、
和人と和人の侵入を許すシュムクルの奴らのせいだ」
若者達はそう叫び、部族長であるカモクタインと、副部族長であるシャクシャインへしばしば詰め寄っては、
「川上からシュムクルを追い出しましょう」
と訴えるようになった。訴えるばかりではなく、実際に各々が毒を塗った槍や弓を持ち、静内川へ
やってくるシュムクルアイヌや和人商人へ、攻撃も仕掛けた。
「シャクシャインもやっているのだ。俺達がやって悪いことはあるまい」
というわけである。
しかし、それでもカモクタインは首を縦に振らないばかりか、シュムクルアイヌへ攻撃を仕掛けることも禁じた。
すでにこの頃、松前藩は場所請負制に加えて、さらに自藩にばかり都合の良い「商場知行制」を設けていたにも
かかわらず、である。
これはやがて以前にも述べたように商人主導のものへと移行したし、ロシアやシベリアに住む人々との
自由交易権をも、アイヌの人々から奪った。それらの国の人々に限らず、どこのどんな国の人々とも、
アイヌの人々とは自由に交易することまかりならず、と、一方的に決められたのだ。
そのことを、庄左衛門などからいち早く聞き知っていたカモクタインは、
「俺達の共通の敵が誰なのか忘れたか。俺達の敵は西方人ではない、シサムなのだ」
そうはっきりと口に出したわけではないが、これと似たようなことを言って、若者達が詰め寄る都度、なだめようとした。
はっきりと口にしてしまえば、素朴なアイヌの若者達は、
「和人どもは全て敵だ」
とばかりに、交易へやってきている和人たちへ襲い掛かるだろう。
そうなれば、それこそシュムクルアイヌが得たりとばかりに松前藩へ「密告」し、最悪の場合は
松前藩の後ろ盾を得てメナシクルへ攻め入ってくるかも知れぬ。メナシクルアイヌ、というひとつの部族だけでは、
とうてい松前藩とその後ろにいる江戸幕府を相手には出来ないということを、カモクタインは悟っていたのである。
「時期早尚だ。まだ北や東にいるアイヌたちと密接な関係を結んでいない」
狩りに出るたび、心のうちを知っているシャクシャインにのみ、カモクタインはそう零したものだ。
他の地域のアイヌ達も、和人の度重なる搾取のせいで、自分たちが生きていくだけでも精一杯であり、
他のコタンと手を結んで和人へ立ち向かうなど、
「到底出来た相談ではない」
というわけで、カモクタインの言葉には最もだと頷きながら、はっきりした返事が出来ないでいる。またそのことを
カモクタインも良く承知していた。
(立ち上がるには、時間だけではなく、他の何かが足りないのだ)
その何かとは、何であるのかはカモクタインにも分からないが、
(俺に欠けているものはそれである。それが歯がゆい)
本当のところ、じりじりと焦がれるような怒りを抱いていたのは、他の誰でもなく彼自身だったに違いない。
この十年ほど前にキリシタン最大の戦いである島原の乱が起きていて、このことをカモクタインは
相談役から聞いて知っている。にも関わらず、
(俺達の神は大自然である)
異国の神を信じる者であるからという理由で、松前藩、というよりも、江戸幕府の体制に対して
共通に敵対する者同士でありながら、彼はせっかく金山へやってきているキリシタンたちと、
手を結ぶことを考えすらしなかった。
「キリシタンとはいえ所詮は和人だからな。あいつらは松前藩にかばわれている。松前藩の息が
かかっているのだから、信用できない」
というカモクタインの言葉に、シャクシャインも頷いたものだ。 
相談役同様、アイヌにとってキリシタンも所詮は和人であり、アイヌたちの味方であると確信を持って言えない。
さらに、蝦夷にいるキリシタンは、松前藩が幕府の目を盗んでかくまっている存在なのだ、ということを
アイヌの人々は知っていたからでもある。
相談役はあくまで商人で、商人が追及するのは利潤のみだ。
(メナシクルから美味い汁が吸えなくなると分かれば、シサム商人はこの部族をとっとと見捨てて、むしろ
松前藩側すなわちアイヌを滅ぼそうとする側へ付くだろう)
と、カモクタインらは、蝦夷で庄太夫という子まで成した庄左衛門をさえ、心の底からは信用していなかったのだ。
庄太夫と名乗っている庄左衛門の子は、蝦夷でアイヌと共に育ち、アイヌの大人たちからも可愛がられていた。
しかしカモクタインその他アイヌたちにとっては、やはり「和人は和人」なのである。
(不用意に俺が吐いた言葉を、どのように曲げて伝えられるか分からぬ)
というわけで、コタンの中にいる時には、部族のアイヌ達に告げる言葉はどうしても歯がゆい、遠まわしな
言い方になってしまう。従って、カモクタインの本当に言いたいことが若者達に伝わらない。
おまけに具合の悪いことにその時分―和人の暦では慶安元(一六四八)年頃のことであるが―初代慶広の代から
いささか危うかった松前藩の経営状態が、いよいよ深刻な状態に陥っていた。その折の藩主は、慶広から数えて
四代目の松前高弘である。
この頃になるといよいよ、和人たちが蝦夷の奥深くにまで大挙して押しかけてきた。彼らが手当たり次第に
鷹を取ったり、海辺においては船を繰り出して大網を広げ、鮭をごっそりと取っていったり、などということが、
当たり前のように繰り返されるようになってしまっている。
そしてメナシクルアイヌ達が抱く、そのような和人たちへの怒りは、カモクタインに抑えられている分、
「奴らはシサムの手先である」
彼らがそう思い込んでしまっているシュムクルアイヌたちへ、より一層強く向けられるようになったのだ。
「同じアイヌの癖に、シサムの力を嵩にきて、やりたい放題しおって。何故俺達のシャクシャインのように、
和人を追い払うなり何なりしないのか。だから舐められて、犬のようにこき使われるのだ」
怒りの矛先が、もともと敵対していた相手へほとんど向かってしまったのは、まことに奇妙なことであるが、
頷けぬ話ではない。言葉は悪いが、支配される弱者にありがちな考え方も、そこに混じっていなかったとは言えぬ。
そしてそのことこそ、
「蝦夷一、二の勢力を誇るメナシクル部族は、我等が蝦夷東方へ進出する際には、必ず目障りになろう」
と、シャクシャイン属する部族を実は密かに警戒していた松前藩には、願ったり叶ったりなことであったろう。
その後、生活圏を巡る両者の争いに、より陰湿な感情が加わったのは、当然の成り行きかもしれない。
静内川沿いで、鮭や鹿を巡っての川上人と川下人の争いが、以前よりもさらに多く見られるようになってしまったのだ。
それに対してカモクタインは、
「堪えろ。争うな。争いごとを起こすことは、大地のカムイに背くことだ」
としか、部族の者達には言わなかった。
部族の長の言うことは、部族の者には絶対である。だから、争うとはいっても、どうしても相手への攻撃は
弱いものにならざるを得ない。シュムクル部族長のオニビシも、そのことを知っているから、
「あいつらは弱腰になっている。松前藩が後ろにいる俺達を恐れているのだ」
とばかりにいささか調子に乗って、静内川へやってきている女子供にまで乱暴を働くようになった。
そうなると、当然ながら、若者達の怒りは部族長であるカモクタインにも向けられるようになる。
「長、部族の者が傷つけられているというのに、貴方は平気なのか」
コタンの若者達が集って、カモクタインの家へ押しかけてきたのは、それから五年も経った慶安五(一六五三)年
春の夜こと。若い男達の肌が発する独特の熱気がこもって、狭い小屋の中は一気に獣臭くなった。
部族の長の家とはいっても、他のアイヌ達のそれと変わらぬ、素朴な藁の小屋である。今年の春は例年と違って
いやに暖かく、もうクンネレキカムイ(縞梟)が鳴いている。せっかく梟神が熊か鹿の来訪を告げているというのに、
誰もそれを迎えに(狩りに)行こうとは言い出さない。
上座で腕組みをし、口を結んだまま目を閉じているカモクタインの両側には、越後の庄左衛門とシャクシャインが
同じように黙ったまま控えている。
「長がやらねば、我々だけでもシュムクルの奴らを懲らしめに行く」
縞梟が鳴き終えた後、カモクタインの目の前にいた若者が立ち上がった。そこでようやくカモクタインは両目を開き、
「嘘を吐かすな。お前達はもう、ウタフに係わりのある奴らと揉め事を起こしているのだろう。俺は
庄左衛門殿の物見から、全てを聞いているのだ。ウタフは既に、その妻や部下の奴らを連れて、新冠からこちらへ
向かっているそうではないか」
つられて立ち上がった若者達を、鋭く叱咤したのである。途端に、素直な驚きが彼ら全員の顔に浮かんで、
「シュムクルの下っ端の奴らならともかく、ウタフの息がかかった奴となると、いくら知らなかったこととはいえ、
奴らは俺がお前たちに命じたと思うだろう。まことに時期早尚だが、致し方ない」
それへ苦笑いしながら、カモクタインも立てた片膝へ同じ側の手を置き、思い切りよく立ち上がった。
「我らのシベチャリを護れ。シュムクルの奴らを川上から追い出せ!」
彼が叫ぶと、待っていたとばかりに若者達もどよめいて、てんでに各々の家へ書け去っていく。それぞれの得物を
携えるつもりなのであろう。
若者達が去っても、こもった熱気はなかなか去っては行かない。彼らの背中を険しい表情で見送っている
カモクタインへ、
「長、良いのか」
その横顔を見上げながらシャクシャインが問うと、
「こちらの部族の者多数が、ウタフの妻に殺されているらしい。そうですな、庄左衛門」
カモクタインは、言いながら傍らの鷹待を振り返る。
すると庄左衛門は重々しく頷いて、
「まことに残念なことです。血気に逸る部族の若い方々が、シベチャリに来ていたウタフの子をそれと知らずに
殺したものだから、ウタフも妻も逆上してしまったのです。今頃は怒涛の勢いでシベチャリを下ってきているのでは
なかろうか」
たどたどしいアイヌ語で告げた。
「よく分かりました」
シャクシャインよりも一回り年上の彼へ、
「イランカラプテ」
カモクタインは丁寧に言葉を返してその肩を抱き、空いた方の片手で握手を求めた。
その挨拶が終わった後、
「そういうわけだ」
カモクタインはシャクシャインへ向かってほろ苦い笑みを浮かべながら、壁にかけてあった槍を二つとり、
一つをシャクシャインへ渡す。
「残念だ。こうなるにはまだ早かった。せめて東のアイヌと確実に手を結べてさえいれば、シュムクルの奴らも
攻撃を仕掛けてこなかったかもしれない。実に残念だ」
繰り返し言いながら、カモクタインは美しい刺繍の入ったマタンプシ(鉢巻)を締める。腰にはこれも柄に
模様が彫られたマキリ(小刀)を刺し、
「もしも俺がくたばっても、お前は生きろ。生きて部族の者をまとめろ」
「縁起でもないことを言うな」
思わず立ち上がったシャクシャインを見上げて、
「俺はもう、いつイルラ・カムイに送られてもいい老いぼれだよ」
現メナシクル部族長は寂しげに笑った。そしてシャクシャインの槍を握ったほうの右腕を、情愛を込めて乱暴に
二つばかり叩く。
「シュムクルの奴らもな。俺達がアイヌ同士で争うことの愚かさを悟れば良かったのだか」
小屋の入口へ向かいながら、カモクタインが大きなため息と共に漏らした言葉を、
(しかしそれは無理な相談というものだ)
その後につき従いながら、シャクシャインもまたほろ苦い笑みを浮かべて考えた。
シュムクルアイヌどころか、メナシクル部族の若者や、カモクタインの考えをただ一人聞き知っていた
シャクシャインでさえ、どうしても目先の敵への憎悪のほうを強く感じてしまうのだ。
それに、今まさに部族へ攻め入ってこようとしている相手へ、「視野を広く持て」といったところで通じるわけが
ないのだが、
(そんなことは、長のほうが百も承知なのだろう)
聡明なシャクシャインはそう察して、黙って頷いた。
少年の頃は、
「優柔不断で、ぐずぐずと決断の遅い部族長」
と、心の隅で思いながら、それでもやはり大きく、頼もしいと思えていた部族長、カモクタインの体は、
いつの間にか己よりも小さくなってしまっている。しかし、村の広場に緊張した顔で集まった部族の者たちへ、
「いいか、お前達」
その小さな体から発する声は変わらず太く、腹の底までよく響く。
「俺はシベチャリのチャシ(砦)からお前達の働きを見ている。あのチャシを落とされたら、俺達のコタンは
もうおしまいだ。だが」
そこで一息ついて、カモクタインは少し咳き込んだ。久々の大音量で声を発したため、一気に喉を痛めたらしい。
背中をさすろうとしたシャクシャインの手へ、皺を深く刻んだ老いた手を添えてそっと退けさせ、
「…だが、忘れるな。俺達は、俺達の生活を護るために戦うのだ。決してシュムクルの奴らが憎いから
戦うのではない。さすれば我らアイヌのカムイが護ってくれよう」
(長は己にも言い聞かせているのだ)
カモクタインは、シャクシャインにもそれと分かる言葉を続けて叫んだ。
「長! 奴らが来た!」
そこへ、様子を見に行っていたらしい部族の若者が息せき切って報せに来る。
「全員、チャシヘ迎え!」
それへ頷いて、カモクタインは手にしていた槍を夜の空へ向かって掲げた。シャクシャインもそれに釣られて
空を見上げる。
春の夜空には、静内川の川面から発せられた蒸気が篭っていて、
(星の神が見えない。俺達は間に合わなかったのではないか)
ふと不吉な予感に囚われながら、シャクシャインもまた、カモクタインに従って砦へ向かって行った。




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