イランカラプテ 7



そのことをカモクタインの側で聞いていて、
(オニビシの奴が)
シャクシャインは舌打ちしたい気持ちで思ったものだ。
(まことに厄介な奴が相手になったものだ)
オニビシ自身だけではなくて、その姉も彼に劣らず激しい性格をしていると聞く。シャクシャインが実際に
会ったことはもちろんないが、彼女は同部族のウタフという男を婿にする前の少女時代、男と同じように
弓を手にして、シュムクルが勢力を張る新冠川の周囲を駆け巡っていたというのだ。ゆえに、もしもそれで
男であったら、ひょっとするとオニビシよりも好戦的であろうし、悪くするとメナシクルへも
攻め入ってきたかもしれぬ。
シュムクルばかりではなく、近頃は和人の姿も、そこかしこで毎日のように目に付く。それがたまさか、
メナシクル部族の者へ危害を加えようとさえするのを追い払い、威嚇しながらの狩りは、大変にくたびれる。
一日駆け回ってようやく得た一頭の鹿を部族の者で分配し、家へ帰りながら、シャクシャインは
大きくため息を着いた。
戸口にかかっている筵を払って中に入ると、燃えている火の暖かさに強張っている肌と心がふと解ける。
炉辺の側で袖口に刺繍をしていた妻は、彼を見上げて微笑んだ。
アイヌの慣習で、妻は口の周りに小さな刺青を彫っている。その小さな口元を見ていると、彼のいかつい唇にも
笑みが浮かぶ。歓声を上げながら彼にまといついてくる長男、カンリリカや、そのすぐ後に出来た娘の頭を撫でながら、
(奴と一対一なら、決して負けることはないのだが)
シャクシャインは妻の傍らへどっかりと腰を下ろした。途端に、期せずして大きなため息が漏れる。
燃える火を無意識に見つめながら腕組みをし、彼は考えた。
(俺に出来るか。厳しい)
西の隣人と戦わずにいられることが、である。彼の妻もまた、似たもの夫婦というのか、大変に気が強い。
夫に向かって常々、
「貴方が戦に出た後は私が守る。もしも貴方が倒れたなら、貴方の後を私が継いで戦いもしよう」
と言っているのだ。
実際、オニビシがシュムクルの長になった直後といっていい時から、両部族間での生活手段を巡る争いは、
さらに激しさを増した。それでも生活に関わる問題だけであったなら、シャクシャインもあるいは早くから
手を結ぼうと思ったかもしれない。
(まことに、不毛な戦い……早くアイヌの民を一つにせねばならん。和人の流入をこれ以上許してはならん)
シャクシャインがそう思い、実は心の中で焦っているように、アイヌの人々が部族同士で争っている間にも
年月は流れていく。和人の流入もまた、ますます目に余るようになっていく。それと比例して、
「出かける」
狩りが終わった後、シャクシャインが蝦夷東方へ出ていくことが多くなっていた。昼夜を厭わず、である。
そんな春の一日、
「これからまた、何処ぞへお出かけか。今日はまた、どこぞのカムイをお迎えする祭りの日ではなかったですか」
松前藩の使いとして、弘前藩へ行っていた庄左衛門や助之丞が苦笑しながら声をかけると、彼よりも
一回り以上背丈も肩幅も大きくなったシャクシャインは、この鷹待をちらりと見たきり、無言で大股に
歩き去って行く。
「気をつけて行かれよ」
庄左衛門は、その広い背中に再び声をかけながら、
「疱瘡がようやく収束したばかりだというのに、大したものだ」
「まったく」
同行していた助之丞と顔を見合わせて頷きあったものだ。
松前藩も、一応は法令を出してアイヌの人々の生活権を守るとは言っている。だが、当然ながら
現場において、そんな法令などは守られておらず、
(彼は、そんなアイヌの人々を守っているのだ)
見渡す限りの草原を、太陽は照らす。その光に照らされながら小さくなっていくシャクシャインの
後ろ姿を見て、感嘆せずにはいられない。
もちろん、庄左衛門や助之丞もまた、商場においてメナシクルコタンに少しでも有利になるような
取引を心がけているし、釧路や十勝の和人商人の中にも、二人と同じようにアイヌの人々に同情的な
人間はいる。しかし、
(アイヌの人々が最終的に頼るのは、当たり前だが同じアイヌだろう。疱瘡神に打ち勝ち、アイヌの人々を
不当に扱う和人から、アイヌの人々の生活を守り……俺には出来ない)
加えてアイヌの人々の中でも、見上げるような背丈とたくましい体躯をしている彼が、アイヌ伝承の中での
ポンヤウンペと称されるのも、当然のことと思える。和人に逆らうことをあまりしない、おとなしい羊の
群れのような人々の中にあって、シャクシャインの行動は確かに際立って見えるのだ。
もっとも庄左衛門は冷静に、
(だが、ただ際立って見えるだけのことだ)
(その英雄性は、アイヌの人々に限ってのみ発揮されるものだ)
右のようにも思っている。
この列島中を巻き込むような戦が起こらぬ太平の世なればこそ、そして、
「立場の弱いアイヌが、臆することなく和人に抵抗する」
といった、和人からすれば「有り得ぬ」状況であるからこそ、そういったちっぽけなことも、大いに
喧伝されるのだ。戦国時代であれば、問題にもされぬ行為に入るだろう。
「……尾張の市座も言っていたが、鮭は少なくなりましたな」
「そうですな」
やがて、どちらが先にというわけでもなく、メナシクルの砦がある静内川へ向かって歩き出しながら、
二人はぽつりぽつりと話し始めた。ここでも改めて述べるが、「尾張の市座」というのは、尾張の商人、
市座衛門のことである。庄左衛門と彼、双方の父の代からの商取引相手で、この時点では主に本州で、
メナシクル部族が獲る蝦夷の物産の商取引を担っていた。
つまり、まだ「本格的」にメナシクル部族に関わっているわけではなかったのだが、
(その市座衛門でさえ、鮭が少なくなっていると気づいている……)
庄左衛門が思い、暗澹たる吐息をつくと、
「それはさておいて、庄太夫は貴方の後を継ぐと言っていますが……いや、よく出来たご子息で、
まことにお羨ましい」
それと察して、助之丞が話題を変える。
「ははは、まだまだモノにならぬヒヨッ子でございますよ」
庄左衛門は「お前もじっくりとこの現場を見ておけ」と、日高の商場に残してきた若い息子を
思い浮かべて、照れた。
「私も最上に残してきた息子に声をかけているのだが、蝦夷へ来るのはどうしても嫌だと言い張りましてな」
「ははは……いやさ、蝦夷に来るまでは、誰もがそう申すもの。ここは、まことに良いところだ」
「左様、まことに左様。この景色を見ていると、こちらの心まで大きくなるような」
そこで二人は、日高山脈を見上げて大きく息を吸い込んだ。彼らの後ろでは、配下の者たちが荷車を引いている。
それには、今日の取引で得た物資が積まれているのだ。
ちらりとそれを振り返りながら、
「だが、庄太夫が一人前になるまで、果たして鮭の数が変わらずにあるものやら」
「……ふむ」
しかし、二人の表情はすぐ、少し暗く変わる。
それきり、しばらく無言で歩き続けていると、水面が見えてきた。静内川は、人の営みなどそ知らぬ顔で、
今日もゆったりと流れ続ける。岸辺に沿って少し上流へ進むと、川の神に向かって祈りをささげる
カモクタインの声が聞こえてきた。しばらくして、子供たちが戯れる声も聞こえてきて、
(月日の経つのは早いものだ)
疱瘡の流行のため、その数は減ってしまったが、やはり元気の良い子供たちの姿を見ていると心が和む。
荷車を見ながら、
「神にささげる供物、間に合いましたようで」
「ははは、そのようですな」
商人二人は顔を見合わせ、思わず口元を緩めた。
その時、
「シベチャリに泥が!」
突然、流れの中ほどにいた人々が騒ぎ始めた。彼らが釣られてそちらを見ると、いつ戻ってきたのか、
シャクシャインもまた、ザブザブと派手に水音を立てながらその場所へ向かっているところで、
(なんと、これは)
庄左衛門と助之丞が立っているところからも、向こう岸に近いその場所が、泥に汚されているのが分かる。
いつもは遠くからでも底まで見える澄んだ静内川に、汚らしい泥にまみれた水があとからあとから流れてくるのだ。
泥の中には、日差しを受けてキラリと光る金色のものも見えて、
「長、ただいま戻りましたが……これは一体」
「砂金ですな」
庄左衛門らに気づいて、その側までやってきたカモクタインは、呻くように言った。
和人の砂金採取は、今に始まったことではないし、カモクタインも相談役である庄左衛門らから、
松前藩が近々砂金採取に本腰を入れるだろうことを聞いていた。しかし、松前藩のやり方が、これほどまでに
徹底したものであるとは予測できなかったのだ。
「シサムの近江商人め」
汚泥は上流から絶え間なく流れ込んでは、澄んだ川面を汚す。その様子を見つめながら、さすがに
カモクタインも苦々しげにそう吐き出した。
かつて松前初代藩主慶広が、田付と建部、二人の近江商人を招いたことは先に述べた。その二人が
経営している両浜組は、自分たちだけではなくて、知り合いの近江商人、例えば井筒屋の大橋久右衛門や
近江屋の西川市左衛門その他を呼び寄せて、さらにその足元を固めて、ちょっとした「蝦夷の商人王国」
のようなものを築き上げつつある。
それから二十数年が過ぎたこの頃になると、彼らはアイヌとの交易全般だけでなく、金貸し業をも
請け負っていた。従って藩へ献上する商売税であるところの運上金は、初代慶広の頃と比べると、
格段に多くなっているはずなのだ。
一般商人には、藩の財政事情は固く秘されて知らされる由もない。しかし、
(このようにしつこく砂金を掘りに来るということは、実は松前藩の内実がかなり苦しいということに
他ならないのではないか)
庄左衛門がその考えを訴えようと、カモクタインを見て口を開きかけると、川の様子を黙って見ていた
部族長は、村のほうへ踵を返した。
「荷はいつものように、手前どもで解いておきます」
庄左衛門がかけた声に、カモクタインは背中を向けたまま頷く。
「長、どうするのだ」
その後を追いながら、川から上がってきたシャクシャインが問いかけた。それへ、 
「オニビシの奴についているのは、砂金堀だったな」
カモクタインは、まるでとんちんかんな答えを返した。
砂金堀は、鷹待ちとはまた違う性質のシサム商人である。和人の中でも特にあくどく利益を追求すると、
和人武士にでさえ、心の中では最も毛嫌いされていた種類の近江商人だったらしい。
「文四郎、という名のシサムだそうだ」
彼ら二人を心配そうに見送る庄左衛門らをちらりと振り返り、シャクシャインが答えると、
「うん」
カモクタインも頷いて同様に振り返った後、
「俺も、庄左衛門殿らから聞いた。松前藩が、シベチャリの上流の砂金堀を保護するために、
オニビシの奴を川の監視につかせたそうだ。事前に知ってはいても、事実をこの目で確かめるのは辛いものだな」
言った。老いた白髪を秋の風に吹かせながら、皺だらけの顔をさらに歪める。今回ばかりは、この温厚な
部族長もさすがに腹に据えかねたらしい。
「砂金を無断で採りに来る輩を取り締まるためばかりではあるまい。我々への牽制の意味もあろうよ」
「ああ、そうだな」
シャクシャインが力強く頷き返すと、カモクタインは立ち止まって少し考え込んだ。
(いよいよ長も蜂起を呼びかけるか)
彼が期待しながらその様子を見守っていると、
「…今はまだ堪えよ」
やがて顔を上げたカモクタインは、決然と告げる。
「長」
「この調子で行けば、いずれ砂金などというただの砂粒は無くなる。そうすればオニビシだとて用済みだ。
争わぬに越したことはない。そうなればシベチャリも元の澄んだ水を取り戻す。カムイ・チェプも戻ってくる」
「しかし」
「前の部族長だった父を殺されたのは俺だ。お前ではない。部族の奴らは色々言っているが、お前も、
俺がまるきり堪えていないと思っているのか。憎しみは何も生まない。出来ることなら俺は、俺の代で
アイヌ同士が戦う、この不毛な状態を終わりにしたいのだ。だが時は限られている。それが悔しい」
言い募ろうとしたシャクシャインを、意外に強いカモクタインの言葉が抑えた。
「綺麗事と言わば言え。俺の父を殺したのはシュムクルの奴らではない。その後ろにいる和人(シサム)だ。
お前だから明かすが、和人の侵入が父を殺したのだと俺は思っている」
(確かにそれは道理だ)
黙ってしまったシャクシャインを見て、カモクタインは少し言葉を和らげ、
「アイヌ同士で争うと、我らの力はますます消耗する。そのことで喜ぶのは松前藩だけだろう。
ここは堪えて北と東へ勢力を伸ばせ」
「北と東へ?」
「そうだ。俺たちのように、松前藩からなるだけ遠いところにいるアイヌと、もっと親交を深くしておく。
これまでも、東の食糧危機の折には鮭を届けたり、北で和人の理不尽な仕打ちを受けるコタンへ
我が部族の者を派遣したり……お前のように表立ってはやらなかったが、な」
(知っていたのか)
思いながら、
「なぜだ」
シャクシャインがそこで改めて問うと、
(いつの間にか俺よりも一回り以上背が伸びた。肩幅も腰回りもどっしりと太い。良い青年になった)
頼もしく成長した彼を惚れ惚れと見上げながら、カモクタインは彼に向かって手招きをした。
背が高すぎるせいで、カモクタインの口元へ耳を近づけるために、シャクシャインは背をかなりかがめねばならぬ。
その耳元へカモクタインは、
「お前はいつか立ち上がるつもりだろう。その時に備えるためだ。残念ながら俺はお前のような
勇気を持てぬまま、老いぼれた。だからその代わりに頭を働かせた」
囁いて、微笑でもって見上げる。
「お前が立ち上がる時分には俺はもう、カムイの元に召されておるだろうよ。蝦夷全土のアイヌと団結して、
和人に立ち向かう。その根回しのために俺の半生近くの年月がかかった。覚えておけ」
そこで一息ついて己よりも信望や行動力のある跡継ぎを見上げると、この青年はなんとも驚いた顔をしている。
副部族長であり、子らの父親であり、そしてもう良い年であるはずのその顔は、今のように驚くと、
狩りに出かけてシュムクルや和人と出会うたび、必ず諍いを起こして帰ってきた少年時代の面影を髣髴とさせる。
それを見てカモクタインは、
(こいつは、昔からそうだった)
そう思って、笑った。こういうところも、シャクシャインが人をたまらなく魅了する点の一つなのだ。
だからこそ、カモクタインは自分の後継者として、彼を副部族長にしたのである。
知られていないと思っていたらしいが、メナシクルの領域へ我が物顔に侵入してくる和人やシュムクルアイヌを、
シャクシャインが少年時代と変わらず、威嚇でもって追い払っていること、そしてまたそのために、
長である自分の目を盗んで遠くは十勝、釧路まで出かけて、そこに住むアイヌ達を助けている事を、
カモクタイン自身は良く知っている。変わったのは、シャクシャインの少年時代と違って、その威嚇が
威力を増したため、彼の姿を見ただけで和人やシュムクルが逃げるようになっている、ということか。
争いになっても、決して引くことをしない。「侵入者」を最後には必ず追い払うのだから、今では
「メナシクルのシャクシャイン」の名は、シュムクルにだけではなく、和人や蝦夷の他地域に住む
アイヌにまで知られていると言って良い。庄左衛門が思っていたようにその名は次第に、
「彼はアイヌのポンヤウンペだ」
大げさではなく、昔、アイヌの危機を救った伝説の英雄と並び、称されるようになっていったのだ。
むろんこのことは、シャクシャイン自身が特に望んでいたわけではない。
得意の弓には少々劣るが、その他の武器を扱わせても決して部族の他の者にひけは取らない。見る者を
圧倒する部族一の背丈と体格を持ち、頬を濃い髭で覆って他の者を鋭い眼光で睥睨しながら、
それでいて愛する部族の者達にはこのような無防備な表情を見せる。そんなシャクシャインは、
(俺に代わってきっと、部族を護ってくれる。もしかすると蝦夷をもう一度、我らだけで平和に住める
大地にしてくれるかもしれぬ)
カモクタインにとっても十分に信頼するに足る。
「覚えておけ。争って己の力を示すばかりでは、周りを承服させることにはならない。俺がいなくなったら
お前が跡継ぎだ。良く考えろ」
カモクタインが発する言葉は断片的だが、その裏には深い意味が込められている。そのことをつい最近、
ようやく悟ったので、
「了解した」
シャクシャインはそう言いながら頷いたのだが、
「長は俺達に食うなといっているのか」
部族の他の若い者達は、当然ながら黙ってはいなかった。



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