蒼天の雲 10



翌日は、下河辺荘一帯に初霜が降りた。雲ひとつない晴天の中を、公方側の迎えと自身の水軍とに護られながら、
花嫁を乗せた船は静かに関宿城の側の岸に到着した。 
 水夫が船と岸を板でつなぐ。簗田高助が関宿城の家臣をほぼ全て連れて迎えに出た中を、 
「おお、これは松田殿か。遠路はるばるご苦労にござる」 
北条方が船内から出てくるのが続々と見える。その先頭にまず、顔見知りの北条の老臣が
立っているのを見て、高助が声をかけると、 
「これは簗田殿。こちらこそ、お家よりの迎えの水軍、ありがたく存知まする。それのみにても
お心苦しゅう思うておりまいたのに、高助殿自ら我らを岸までお迎えとは」 
「いや、何」 
 恐縮したように松田左衛門が頭を下げるので、高助は公方家の重臣らしく、鷹揚に笑って言った。 
「下河辺荘は朝晩が冷える。昨晩も非常な寒さで、船の中の姫君は如何なされておいでかと
案じておったのじゃ。何分、我らが懇望した姫君なれば」 
「ほ、これは大層なお気遣い。ますます恐れ入りまする」 
「して、姫君は大事無いかの。寒さでお風邪など召されなんだか。手前どもの城の門まで、
籠を用意してござるが…どちらへおわす」 
「は、こちらのお方にて」 
「格下」の姫を迎えるにしては、予想外の丁重さである。左衛門が額に汗して掌を上にし、
派手ではないが趣味の良い小袖を被ったとある女性が岸へ降り立つのを助けるのを見て、 
「おお、こちらが。なんと清(すが)しい姫君ではないか」 
高助は感嘆の声を上げた。 
「はい、我らが掌中の珠、志保様にござりまする。我らが申すのも異なことながら、
まことに聡明で愛らしく、かつしっかりしたお方にて」 
 すると、左衛門は他愛なく顔を崩す。それを見ながら、 
「左衛門。それを『親馬鹿』と申すのじゃ」 
志保は苦笑して、思わず口を出していた。二人の会話を聞いていた双方の家臣から、途端にどっと好意の笑いが漏れた。 
(これは、なかなか面白い姫君じゃ) 
高助もまた、好意の目でもって改めて志保を見る。 
(清々しい瞳をしておりながら、なるほど、己から戦へ出たいと言うただけあって、気性も勝っておるようだの) 
 そう思いながら、 
「さてさて、遠路はるばる、お疲れであろ。部屋を用意しまいたゆえ、そちらでゆるりと休まれたがよい」 
「はい、ありがとうござりまする」 
促すと、志保は「公方家の重臣」を見上げて、怖じることなくはきはきと礼を述べた。それがいよいよ「面白く…」思え、 
「どうじゃな、姫君…志保殿は」 
自分から立って、志保を用意の籠へ案内しながら、高助は慎ましく半歩遅れて付いてくる志保を振り返り、話しかけた。 
「あの水流を、遡ってこられたのであろ。この坂東は、こなたの御目にどう映られたかの」 
「はい」 
すると、志保はこっくりと頷いて、 
「すばらしい眺めでござりまいた。伊豆は、海がすぐ山の近くに迫っておりまするゆえ、
志保はこれほどの平野を見たのは初めてにござりまする。耕地にも不自由せぬであろうと」 
「ふむ」 
「まさに、天然の要害でござりまするなあ。いざとなれば、この網のような水路が護うてくれましょう。
さすがは、初代成氏様が選ばれた土地。民百姓も安んじて畑仕事に精を出せておりましょう」 
「…ふゥむ…」 
(うむ、気に入った! これはまっこと、面白い姫じゃ) 
 初対面で物怖じせずに、公方家の重臣である自分へこれだけのことを述べられる人間は他にいない。
  香を嗅ぎ分け、茶を点てる姫ならば、他にもいくらでもいるであろうが、 
(こういう姫こそが、これからの公方家に必要なのではないか…) 
いつでも、どこから攻めて来られてもおかしくない時代に移りつつある。ましてや今、古河公方は小弓公方
という自家製の爆弾を懐に抱えているのだ。 
「ささ、こちらへ」 
 そして志保が通されたのは、小ぢんまりとしていながら、さやさやと木の葉の音も快い、関宿城の南の一室であった。 
「ゆるりとくつろがれよ」 
言い置いて、上機嫌で高助は去っていく。北条より付き従ってきた八重たち侍女が、早速荷解きなど始める中を、
志保は独り、縁へ立って庭を眺めた。 
(万事、贅沢な造りであるかと思うたが) 
京ぶりに憧れて、けれど京には一度囚われの身として行ったきり、二度とゆくことが出来なかった公方家初代、
成氏の好みを反映して、この関宿城も贅沢を凝らした作りかと思っていた志保は、奥へ小さい築山が築かれ、
川を模した白砂の敷かれた上に紅葉の散る庭を見渡して微笑を漏らした。 
 そこへ、 
「おやおや。これはどちらのお子でいらせられるのかの」 
かむろ姿に、草履などを履かぬ白足袋のまま、土を踏んで幼い童子がこちらへ駆けてくる。見たところは二、
三歳といった幼さで、志保が声をかけると、驚いたようにつぶらな瞳を見張り、物珍しそうに縁へ近づいてきた。 
「おお、良いお子じゃ。御名を聞かせたまわれ」 
 小さな手が、その目の高さに合わせてかがんだ志保の頬を軽く叩く。 
(お千代殿が赤子であった頃のような) 
その愛らしさに、志保が目を細めていると、 
「幸千代王と申す」 
縁の角を曲がり、太い声の主が姿を現した。 
「そこもとが志保殿か。余が古河三代目、高基じゃ」 
「貴方様が。これは失礼を仕りました」 
 縁の会話を聞きつけたのだろう。慌てて侍女どもも部屋の中から出てきて、志保と同じように高基の前へ手を仕えた。 
「遠路、まことにご苦労であった。お疲れであろ」 
「いえ…」 
 関東の将軍家だからと尊大に構えていようと予想していたが、案外に物腰は柔らかい。 
(少し太り肉におわすの…) 
年のころは、父氏綱とさほど変わらぬと聞いた。しかし、高基の顎は父よりも多く肉を蓄えている。
それは腹の周りも同様で、全体的にどこか丸っこい。 
「どこまでも広がる平原の、すばらしい景色を楽しみながら参りまいた」 
「ふむ」 
 高基は志保の答えを聞いて、さもあらん、とばかりに満足そうに頷く。 
「これはの、余の孫じゃ」 
 そして、彼の側へ駆け寄ったかの幼子の頭へ手を載せながら、 
「余の世継ぎ、晴氏と高助の娘との間の子での」 
「ああ、左様でござりましたか」 
「今日はな、そこもとを始め、北条のものを驚かせようと思うて関宿へ参った」 
「まあ…それはもう、十分に驚きまいた」 
「そうか、そうか。ははは」 
「ふふふ」 
 そしてこの、代々の古河公方の中で、唯一その名に「氏」を持たぬ現当主は、その代わりにいささかの茶目っ気と、
  らしからぬ腰の軽さを持ち合わせているらしい。 
 志保の前へどっかりと腰を下ろした高基と二人、声を合わせて笑いあっていると、高基来訪を知らされたらしい
  松田左衛門が、あたふたと廊下へ姿を現して、 
「これはこれは、高基様。公方御自ら足をお運びくださいますとは」 
上機嫌の高基を前に、また汗を掻いている。 
「よいよい。余がそうしたいからそうした。気遣いは無用じゃ。それにしてものう」 
「は」 
 限りなく恐縮する左衛門の隣を、幸千代王丸が通り抜けて志保の前に立った。再び彼女の頬を小さい手が触れる。
  思わずにっこりと笑った志保と孫息子の様子に目を細めながら、 
「北条の姫は、肝が据わっておるの」 
「は、いやはや、これはどうも」 
 すると、左衛門はますます身を縮こまらせて恐縮する。そんな、北条家の顔見知りの家臣を、手にした扇で口元を
  隠しながら、高基は面白そうに見やった。 
「そうじゃ、八重。あれを持ちや」 
「はい」 
 幸千代王丸に己の頬をなすがままにさせて、志保は後ろへ控えていた八重へ言いつけた。 
「小田原より、幸千代王様へ土産を持参いたしました」 
「ほう。それはお心使いの細やかなこと」 
 程なく戻ってきた八重から張子の虎を受け取って、 
「幸千代様。これはこの志保が、幸千代様にと思うて持って参ったお土産にござりまする。お気に召して頂けると嬉しいのですがの」 
言いながら、彼女は幸千代王丸の小さな手へそれを渡した。 
「父氏綱が京より呼び寄せた職人に、特別に作らせまいた玩具にござりまする」 
 渡された途端、歓声を上げた幸千代王丸を、志保は目を細めて見つめる。 
「お気に召して頂けたようでござりまするなあ。なんと、おかわいらしい」 
「うむ、うむ」 
(肝が据わっておるだけでなく、よく気の付く姫御前…) 
同じように再び目を細めて、孫と新しい嫁を見やりながら、高基は満足の吐息を漏らした。 
(さすがは高助。目の付け所が違うわい) 
 代々、簗田の娘をもらう慣習を蹴って、宇都宮氏の娘を正室にした高基である。なのに、
  簗田高助はその自分に不満を抱くどころか、家の将来を案じて次代公方に素晴らしい嫁を見つけた。 
(となると問題は、晴氏だけじゃの) 
 実の息子を思い、高基は膨らませて丸くした鼻の穴から、ふうっと息を吐き出す。小弓公方と一触即発のこの時期、
  せっかく北条からの力添えをも得られるようになったというのに、父子の心が一つでないというのは、真に困るのだ。 
 高基自身も、永正九年にその父政氏を古河から追って、家臣である小山氏の元へ走らせた経歴を持っている。
  永正十一年に政氏は、小山、佐竹、岩城などの味方の豪族と共に古河へ迫ったのだが、高基側にやはり
  宇都宮氏の娘を妻とし、名将として名高かった結城政朝が味方について政氏側をさんざんに打ち破ったため
  (高林合戦)、高基が古河公方の地位につくことがほぼ決まったのである。その二年後には、小山氏も高基側へ寝返り
  、政氏はやむなく高基へ公方の地位を譲って武蔵久喜館へ引退したのだが…。 
せめてこれ以上、親子で争う愚を繰り返すまいと、昨年も高基は古河へ父政氏を招いて対面の座を設けた。だが、 
(やはり、父子で争うというのは、後味の悪いもの…) 
目指したものは同じなのだ。だが、双方の考えは、一旦かけちがうとどこまでも間が悪く食い違っていく。
親子喧嘩でという言葉で片付けてしまうには、公方という家はあまりにも大きすぎた。 
「これだけではござりませぬぞ。まだまだたんと用意してござるゆえ、他にもお気に入りを見つけてくだされませ」 
 考え込む高基の前で、志保が幸千代王へ微笑んで、八重が側に置いた大きな箱を手前に引き寄せる。 
(だが、これほどの嫁ならば) 
 今日、高基が息子の先妻の子を連れ、突然関宿を訪れたのは、悪く言えば北条の姫が「先妻の子…」
  を見て、どのような顔をするかを試みるためである。 
 貴人は、側女を持つのが当たり前。公方の家に嫁いでくるからには、夫たる人間の、他の妻の子が何人いよう
と平気の平左であるという表情を、分別のある女性なら作ることが出来よう。また、そうするのが当たり前である。
だが今、幸千代王へ笑いかける志保の表情は、決して作り物などではないのが、高基だけでなく、
その場にいたたれが見ても分かった。 
「幸千代はのう、そこもとを気に入ったようじゃ」 
「まことでござりまするか。それはうれしゅうござりまする。なあ、幸千代様。私がこれよりは、
こなた様の母。仲ようしてくだされや」 
 高基と志保の言葉で、周囲の人間の間にも和やかな空気が流れる。だが、そこへ、 
「川の砂に飽かして京から呼び寄せた職人どもに作らせたにしては、まこと、しみったれた玩具よの。
子供だましとはよう言うたものじゃ」 
 どかどかと荒い足音がしたかと思うと、庭先から新しい人物が姿を現した。 
「我らが京へ参ったことが無いゆえ知らぬと思うて、馬鹿にしておる」 
「晴氏!」 
「おお、父上もこれにござったか。これは失礼。晴氏、ただ今到着してござる」 
 その若い人物は、そこで初めて気づいたように、高基を見た。 
「こなた、こちらへは参らぬと臍を曲げておったではないか」 
「これはいつもの気まぐれにて、平にご容赦を…さても」 
そして、黒い烏帽子に上等な青い水干姿のこの若者が、次代公方、晴氏らしい。制止しようと
勤めたらしい数人の供が、一斉にその後ろ地面へ膝をつく。 
 晴氏は、手にした扇をぴたりと口元につけ、頭を下げている志保をじろりと見やった。 
「北条の故入道は、一にも二にも節約を説いておざったそうなが、嫁入りにも金をかけぬ習わしか」 
「これ、控えぬかッ」 
こちらは、あまりといえばあまりな初対面の挨拶である。高基が思わず腰を浮かしかけて叱咤しても、
晴氏は平然とした顔で、 
「公方家へ嫁入るにしては、長持ちその他、手土産や付いておる家来の者どもらまで地味じゃのうと
思いましたゆえ。我らではのうて、我等に仕える家の子のたれぞに嫁に参られたか」 
「晴氏っ! 良い加減にせぬと」 
「晴氏様」 
 暴言を吐き続ける息子を再び叱り付けようと、高基が口を開きかけた時、志保がすっと顔を上げ、にこ、と笑った。 
「お初にお目もじ致しまする。北条の志保にござりまする」 
「…ふむ」 
 きっと泣くか、ただ涙を堪えて俯くか、どちらかであろうと思っていた晴氏は、彼が今まで接したことのある
  「常のおなご」とは違う意外な反応に、毒気を抜かれたらしい。辛うじて鼻で返事をすると、 
「晴氏様は、賑やかさがお好きでござりましたか。そこまでは私ども、気づきませなんだ。お許しくださりませ」 
「…」 
「上に立つもの、華美に走って民を苦しめてはならぬ…これは北条初代、早雲の訓示。ですが、
我らが古河へ持ち運びましたこれらの道具は、すべて父氏綱が小田原へ招いた京職人に新たに作らせまいたもの。
将軍家のご連枝に嫁入っても恥ずかしゅうないものをと、職人どもも張り切って作ってくれました。
金銀綾などで飾りたててはおりませぬが、手間と心は存分に込めておりますつもりにおざりまする」 
 志保は、あくまでにこやかに話し続ける。息子の暴言にハラハラしていた高基は、少しホッとしたような顔をして
  腕組みをし、志保の言葉に頷いていた。張り詰めていた空気も、再び少しだけ緩む。 
「…成り上がりじゃに、にくいことを申す」 
 いかな北条との縁組に乗り気でなかった晴氏とて、このように父や相手、そして両家の家臣が居並ぶ面前で、
本気でさきほどの言葉を吐いたわけではない。ただ、 
(父でさえ、己の正室を己自身で決めたものを) 
自分には、それが慣わしだからと簗田の娘を押し付けた。そしてそれが死ねばまた、勝手に探してきた娘を
お家のためだからと押し付ける。新興勢力の力など借りずとも、公方と公方に従う古くからの味方の力だけで、
公方家の名誉や権威回復はなるという己の主張は、北条の姫を迎え入れることで返事とされてしまった。
北条の姫自身に何らこだわりも恨みも無いが、ただ己の言い分に耳を貸されぬことがまことに気に食わぬ…
彼の胸のうちに澱のように積もった意地が、そう言わせたのである。 
「北条は、民とともに生きる…これもまた、故早雲より受け継いだ教え」 
 しかし、志保は怒らない。 
(短気になってはならぬ。焦らずに待て…) 
 ましてや、己は公方の家の心をしっかと北条へ向けねばならぬ重責を負っているのだ。 
(力任せに押せばよいだけの戦ではない。人の心を獲る為の戦ゆえ。焦ってはならぬ)  
祖父の言葉を胸のうちで繰り返しながら、 
「我らが民のことを考えると、民もまた、それに応えてくれまする。民とともに生き、汗を流す、
それが北条の強さ…それを成り上がりとおっしゃられるのなら、志保が晴氏様へ差し上ぐることの出来る一番の土産は、
志保が祖父早雲よりこの身に受け継いだ『成り上がり精神』かと存知上げまする」 …続く。

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