蒼天の雲 1
永正十三年七月十日の暮れ、志保は伊勢軍と三浦軍が最後の戦いに入った陣を離れた。
住まいである小田原城への道を、荒木兵庫頭と共に馬で駆けること四日、しかし彼女は、
そのまま城へは戻らなかったのである。
(たれかに、許して欲しい)
祖父の側から離れてみると、ただ無性に「許し」が欲しくなる。兵庫頭のみを無理に
小田原城へ行かせ、救いを求めて彼女は箱根権現へ馬を走らせた。その背から滑り
降りるように地面へ力なく降り立ち、よろめくように石段を上った華奢な両足は、
ようやく「身近な人間が死んだ」ということが実感として湧き上がってきて、
「しょう様」
「八重…。市右衛門は、のう」
境内の木陰に佇んでいた乳姉妹の姿に直面して限りなく震えている。普段ならば
当たり前のようにしてその隣にあったもう一人の友の影は、今はもう無いのだ。
周りの木々から、蝉の大合唱が聞こえる中、額からはじっとりと汗が滲み出ているのに、
手足の先はしんしんと冷えていく。
「お味方の勝利は間違いないとか…おめでとう存じまする」
乳姉妹が慇懃に地面に膝を着き、頭を下げるのを見ながら、志保はただその両手を握り締めることしか出来なかった。
彼女は『北条』二代目、新九郎氏綱の娘であり、永正元年(一五0四)小田原で生まれた。
同腹の弟に『三代目』千代丸(後の氏康)がいる。後に古河公方足利晴氏の継室(後添い)となり、
これより三十年の後、僧門に入って芳春院と号するに至る。
一部 小田原
1
彼女が産声を上げた永正元年は、京将軍家で政所執事の補佐をしていたその祖父入道が、
さまざまな経緯を経て東国へ下り、今川氏の城であった興国寺城を預かってから三十年余り、
そして入道が前城主大森氏を追い出して城を奪ってから十年余りの頃。彼女の一族が伊豆にようやく根を下ろした時分である。
祖父は、小田原城を奪取したちょうど同じ頃に頭を丸めて法体となり、早雲庵宗端と名乗っていた。
入道となる前は伊勢新九郎長氏といい、元々は、桓武伊勢平氏の流れを汲む備中国(岡山)
荏原荘領主の次男である。それが、幕府の中央で政所執事をしていた伯父、伊勢貞親の命令で京へ上ったのだが、
それはこの頃やっと、遠い昔のようなことになった応仁の乱が起きた少し前のこと…。
「生まれやったか!」
そして今、入道は小田原城を自分の息子の「氏綱どのへ任せた…」とばかりに、自身で
初めて築いた韮山を根拠地としたまま、小田原へはたまさかに訪れるだけであったのに、
「まだお生まれにならぬか…」
と、一週間ほど前に「嫁、出産間近」の報せを受けてより文字通り飛ぶようにしてやってきて、
そのまま桜の植わっている庭を臨むこの部屋に詰めきっているのである。
「姫か。…まあ、よいよい」
やがて女児出産の報せを別室で受け取ると、瞬間、落胆したような表情を見せたその顔は、
しかしすぐに笑顔になり、
「元気によう泣いておるの。ここまで泣き声が聞こえてくるわ」
と、傍らの松田左衛門を振り向いた。左衛門は小田原近くの松田城城主である。
小田原城を落とした長氏の手際の鮮やかさに心服し、それより伊勢一族に従った伊豆土着の武士で、
性情はまさに謹厳実直そのものであった。氏綱の付家老として長氏から特に氏綱を任せられた者でもある。
よって氏綱の娘が生まれた今は、そのお守り役も果たさねばならぬだろうと、
今からあれやこれやと心配し始めているらしい。正直者ゆえにその表情にすぐに出るので分かるのだ。
「いや、お元気が何より。おめでとう存じまする」
「そうじゃなア。太郎であれ姫であれ、お子が元気ならばそれでよい」
君臣共に、にこりと笑いあったところへ、侍女が懐に白い産着にくるんだ赤子を見せに来る。
「古河高基様からもお祝いのお品が届いてござりまする。お方様のおわす次の間に、山と」
と、その赤子を「祖父」に差し出しながら乳母が言うのへ、
「なんと、のう。お気遣いの早いことよ」
長氏は大事そうに受け取った。まるで待ち構えていたかのような古河殿からの「祝い」
に苦笑した祖父の鼻は、その拍子に横に大きく広がる。
祖父の手に抱かれると、赤子は少し驚いたようにまだ見えぬ眼を見張り、しかし泣き止んで
たちまち健やかな寝息を立て始める。若い頃より鍛えた祖父の腕は、法衣に包まれているが
未だに頑健そのものであり、それが赤子にとってはこの上ない安心感をもたらされるらしい。
『人生五十年』といわれていたこの時代、齢八十を越えてなお腰もしゃんと伸びたまま、
自ら戦の先頭に立つだけの精神と体力があったというのは、彼以外になかったと言ってよい。
いわゆる鷲鼻、というのであろう。大きく横に張った彼のそれは、彼の顔の中央に確たる自信を持って
座しているように見え、それが強い意志に結ばれた唇や少し出ている額とあいまって、
「うむ。別嬪じゃ。こなた様がこの爺に似ぬでよかったのう」
と、今、赤子に向かって冗談交じりに言ったように、決して美男とは言えぬが何ともいえぬ愛嬌をかもしだしているのだ。
「こなたのな、ほれ、娘」
むぐむぐと口を動かすその寝顔を、目を細めて眺めながら、長氏は乳母へ話しかけた。
「何と申したかな、そうそう、八重であったな」
「はい」
「元気に育っておるかな」
「おかげさまを持ちまして」
この乳母は、古くからの家臣の一人である多目権兵衛の娘であり、主君の孫娘に先立つこと三ヶ月、
やはり女児をあげたばかりである。
「これのな、遊び相手にどうかのう」
「恐れ入りまする」
「高基様のところにも、若君がおわしたのう。これより二、三歳ほど上になるか」
乳母が手をつかえて頭を下げるのを見ながら、長氏は独り言のように呟いた。
古河高基とは、関東公方、足利高基のことであり、室町幕府初代将軍尊氏の次男、
基氏を祖としている。
関東は、いわゆる関東公方を頂点とした鎌倉府によって治められていた。足利将軍家の
関東出張所のようなものであり、文字通り関東一帯の政治、軍事を管轄している。
武家の棟梁である将軍の連枝を公方(公家)、と呼ぶのもまた奇妙な「はなし」ではあるが、
これは足利三代目将軍、義満に負うところが大きい。彼が武家の棟梁である征夷大将軍と
公家の頂点である太政大臣をかねたところから、その親戚筋に当たる鎌倉府の長も同様に
人々はそう呼ぶようになったのだ。
そして永享十一(一四三九)年、三代義満がみまかって後を継いだ四代目義教の代に、
とみに衰えを見せ始めていた幕府の権威を、当時の関東公方、古河持氏は侮った。
そして義教及び関東管領の上杉憲実とついに対立、結果、持氏は討たれるという争いが起きている(永享の乱)。
さらにはその翌年、結城氏朝らが持氏の遺児である春王・安王の二人の子らを守って
管領方の上杉清方に攻め滅ぼされ(結城合戦)、その後辛うじて末子であった成氏が
その後を襲うことによって、ようやく安定するかに見えた『鎌倉府』は、享徳三(一四五四)年
成氏が関東管領の上杉憲忠を殺したことにより、再び戦いの渦に巻き込まれることになる(享徳の乱)。
幕府は、これも将軍家の遠縁に当たる今川範忠を上杉方の援軍として差し向けた。
長氏の妹婿の父である今川範忠は分倍河原の戦い、小栗城の戦いなどを経て、最終的には
鎌倉をその手に奪うことに成功した。その時、上杉勢を追って鎌倉府を留守にしていた成氏は、
「空き巣狙いに不意を突かれた。我が家に備えを残しておかなんだのは、我らが不覚ではあるが」
…先だっての戦いでは勝っていながら、と、ほぞを噛んで悔しがったそうな。
鎌倉を追われ、彼は、新たに下総古河を根拠とした。以降の鎌倉府の長を「古河殿」
と呼ぶのはここからきている。
ちなみに、関東へ八代将軍義政の弟、足利政知が「古河殿」を牽制する目的で新たに
公方として派遣されてきたのは、これより四年ほどのち、長禄二年(一四五八)のこと。
結果的には足利政知は、『古河公方』に阻まれて関東の奥深くに入ることは叶わず、
堀越で足止めを余儀なくされた。よってその場所を拠点とし、それがために『堀越公方』と呼ばれたのだが、
それより両者はなんと三十年の長きに渡ってあい争い続けたのである。
さらに公方を補佐しなければならない役目を負うはずの関東管領、上杉家さえも…
そもそも彼らは扇谷、山内の二つの家が交代にお役目を継いでいたのだが…袂を分かって
前者は古河、後者は堀越、それぞれの公方の元で争い始め、関東の情勢は混乱を極めた。
こういった一連の出来事を見ていると、関東の混乱は成氏によってもたらされたと言えなくも無い。
それに一つの区切りをつけたのが、いましがた生まれたばかりの赤子の祖父、新九郎長氏である。
彼の伊豆進出の格好な口実となったのが、堀越公方のいわゆる『お家騒動』。
実の父と側室、円満院及び腹違いの弟である潤童子を切り捨てた堀越茶々丸を、
幕府の勅許を得ぬまま攻め滅ぼしたのである。茶々丸もまた、父政知を殺して後を襲ったのはいいが、
女と見れば伽を命じたり、無辜の民をむやみに切り捨てたり、またそれを諫めた老臣に切腹を
命じるなど、およそ領主としてふさわしからぬと領内の民衆から怨嗟の声を浴びていたのだ…。
よって長氏の行動は幕府によってお咎めなしとなり、古河公方側もまた、『目と鼻の先の腫れ物』
を長氏が滅ぼしてくれたということで、
「してやったり…」
と手を叩きながら、心の片隅にでも『北条』へいささかの好意を持ったかもしれない。そ
れは長氏が小田原城を奪取しても…扇谷上杉と縁があった前城主、大森藤頼が城から追わ
れてそちらへ逃げたという事実はあっても…『鎌倉府』からは何の苦情も寄越されなかっ
たことで伺えたのである。
時は移って、鎌倉府は永正元年現在、ひとまずは成氏の子である政氏がその長となっている。
伊勢入道はこの年、武蔵立河原で政氏と戦ったばかりであり、その嫡子である古河高基から
形ばかりとはいえ「出産祝い」が贈られてきたのには、
「これは、まあ…高基様からというよりも簗田どののお心遣いであろうがなあ」
入道が苦笑しながら言うように、高基側近の力が働いたのであろう。
成氏から政氏、高基と辛うじて続く「格式の高い…」関東公方のお家では、懲りずにまた政氏、
高基が父子で争いはじめる気配を見せている。つい先だって、
「我らがお味方申し上げる」
と、伊勢入道、長氏が高基側の家臣である簗田高助へ申し送ったことにより、拮抗していた力関係は
若い高基のほうへやや傾いたようなのだが、やはり決着はつかぬままらしい。
「こちらからも答礼せねばなるまい。其許、ご足労であるが古河へ参ってくれるかの」
腕にしっかりと抱いた赤子の寝顔に顔をほころばせながら、長氏は左衛門を振り返った。
この左衛門、先だって伊勢氏が小田原を奪取した際、古河公方への伊勢の叛意無き旨を述べに
使者として参っている。先方も、顔見知りの彼のほうが心安かろうと長氏は考えたのだ。
早速、左衛門がいそいそとその部屋を出て行くと、入れ替わるように氏綱が姿を現した。
「…こちらにおわしまいたか。氏綱、ただ今ご挨拶に伺いました」
「何じゃこなた、まだ姫を抱いておらなんだのか」
「は…なにさま、こればかりは女どもの領分にて」
産室となった部屋を追い出されたのだと苦笑する入道の息子は、父の側へ腰を下ろして慇懃に頭を下げた。
父に似てはいるのだが、彼の父ほどに頬はそそけだってはいない『氏綱どの』は、今のように
顎を引くと少しであるがその首の肉が押されて盛り上がり、その辺りに皺が出来る。どちらかといえば
幾分おっとりした面差しをしているように見える。
その氏綱殿へ…伊勢氏は将軍家より『大名』として正式に任じられたわけではないので、このような
名称を使うのは少々おかしいのだが…入道は家督を譲っていなかった。彼にしてみれば、息子である
『氏綱どの』はまだまだ頼りない。彼の命のあるうちに、将来彼の息子の前に立ちはだかるだろう
諸々の強敵を、彼自身の手で滅ぼしておくつもりだったのだろう。若い氏綱にはいささか不満もあっただろうが、
長氏がいかに一族の行く末を案じていたかが伺える。
「そうかそうか。ではこなた様を抱いた男どもの中では、この『爺』が嫁御前や乳母殿を除いて一番槍か」
長氏は初孫を抱いて他愛なく目じりを垂れ下がらせている。その様子を見て微苦笑をもらしながら、
氏綱もまたその場に座った。
「これ、この子のな…こなたの母御に似ておるわえ。うむ、やはり別嬪じゃ」
息子が座るのを待ちかねて、入道は腕に抱いた赤子をそちらへ示す。彼の正室は、長氏より三十は
歳が離れている小笠原政清の娘、依姫である。世子の氏綱と共に小田原へ置かれたその女房どのは、
今日は嫁の産室で何くれと世話を焼くのに忙しいらしい。ちなみに、赤子の母となった氏綱の正室もまた
小笠原家より迎えているので、「祖母殿」にとっては満更赤の他人でもないのだ。
「生まれたばかりでまだ何とも申せませぬでしょうが」
小笠原氏とは無論、礼法を司る京の「公家武士」、小笠原流の宗家のことである。
祖父、長氏の一族である伊勢氏もまた、遠くは桓武天皇を祖先とする桓武伊勢平氏の出であり、
同じように礼儀作法を司る名門である。壮年であった頃の祖父が京で申次衆をしていた間、
彼の従兄弟であった伊勢貞守が、
「…小笠原の娘をご存知か」
と、その時五十歳を過ぎても独り身でいた入道へと「はなし」を持ちかけたのだそうな。
依姫は、高貴の出らしく頬はふっくらと、肌は触れれば吸い付くように白く、まさに手弱女、
と呼ぶに相応しかった。しかし「今川の後継問題を収束させよ」との幕府の命を受けた長氏と
共に東国へ下り、まだ幼かった「今川の正統な後継者」を夫の妹、故北川殿とともに逃れ隠れた所の長者、
小川の法永の館(小川城)で守り通した芯の強さは、やはり尋常な公家武士の娘のそれではない。
見た目ははんなりとしていながら、並みの男性より余程肝が据わっているのである。
「いや、別嬪に違いないのじゃ。のう…こなた様は、この爺が名をつけて差し上げる。
『志保』とのう。良い名であろうが」
その母にあまり似られても困ると氏綱が苦笑するのに構わず、長氏は赤子へ話し続けた。
「そうじゃ。こなた様の指導はな、箱根の海実殿へお任せしよう。菊寿と共に権現様で
学ぶようにすればよい。菊寿はこなたの父御や我らよりずんと頭が良いでなあ。こなた様が
ようよう片言を話し出す頃には戻ってこよう。戻ってきたなら、こなた様の面倒もみてくれよう」
菊寿丸、母は「あに」とは異なり、父の側室である葛山氏の娘。後の『北条』幻庵宗哲、長綱である。
幼い頃より僧門を叩いて箱根権現寺へ入り、長じては父と同じように京へ向かった。今頃は三井寺で修行の最中であろう。
僧でありながら、武術のほうも父や兄に引けは取らぬ。
「これからはのう」
先走る父にただ苦笑する息子に、変わらずにこにこと笑いかけながら、入道は赤子を抱いたまま
庭先へ立った。庭に植わっている桜が、春ののどかな光の中で静かに薄桃色の花弁を散らしており、
「生まれてくるお子には、男であるから、女であるからと区別せずにお育て申し上げる時がやってくる。
菊寿にも、よっくとそのことを申し述べてのう」
それを見上げる祖父入道の腕の中で、赤子は春の日差しのまぶしさに顔を時折しかめながらも、
やはりすやすやと眠っていたのである。
赤子の祖父入道は、まことに多忙であった。
敵対していた扇谷、山内両上杉が手を組んだのがその後の永正三年。同時期、古河政氏、高基父子の
対立がいよいよ表面化し、高基は古河より下野宇都宮へその居を移している。
父子の仲たがいは、山内顕定の斡旋により、永正六年に高基が古河へ戻ることで一時的には収まるかのように見えたのだが…。
その両上杉を一度に相手にするのは得策でないと、永正六年八月には山内顕定、
扇谷朝良が共に越後へ出陣した隙をついて、入道は扇谷朝良の本拠である江戸城へ迫ったのである。
だが、それを聞き知った扇谷朝良が上野国より直ちに兵を返したため、翌永正七年まで武蔵、
相模国で戦わねばならぬ羽目になった。ちなみに、公方父子の仲裁をした山内顕定は
そのまま攻め入った先の越後で戦死している。
その報せが関東に伝わると同時に、古河高基は再び古河を離れて、重臣である簗田高助の関宿城へ移っており、
再び親子間で争いが起きる兆しが見え始めていた。
「おじじ様」
「おお、おお」
祖父入道がようよう小田原で落ち着いたのは、志保が箱根権現で学問を始めた永正七年の秋のことである。
習い終えたのだというつたない字を書いた紙を手に駆け寄ってくる孫娘へ、ホッとしたような顔をしながら、
長氏は続いて出てきた別当の海実へ慇懃に頭を下げた。
「本日も読経を?」
海実が、一渡り彼の孫姫の頭のよさを褒め上げてから、いつものごとくそう尋ねるのへ、
「はは、まあ…己の自己満足のためでおざるよ」
入道はほろ苦く笑った。
「ではどうぞ、こちらへ」
掌を上へ向け、海実は長氏入道を導く。海実の傍らには、入道の第三子、菊寿丸も迎えに立っていて、
かすかな笑みを浮かべて彼に頭を下げた。すりよってくる小さな孫娘の手をぐっと握り締め、
「参ろうかの」
それこそ、孫に見まごう年齢の息子へ声をかけながら、入道は濡れ縁から中へ入る。
「ささ、お座りなされ」
本堂の中央に安置されている仏の前へ、長氏は孫娘を膝に抱いて座した。
戦から帰ってくると、祖父入道はこうして志保と共に仏前に額いて香を焚き、
華を手向けるのが常だった。すると志保もまた、無心に小さな両手を仏へ向かって合わせるのだ。
「苦しい戦いであったと耳に挟みまいた」
やがてその「いつもの儀式」が終わる頃を見計らい、海実が熱い茶を運んできた。
それへ軽く頭を下げて湯飲みを押し頂きながら、
「うむ…十年ぶりの出陣であったのだがのう。虫食いだとばかり思うていた杉でも、がっちり組むと、
意外に丈夫なものよ。政盛にはまっこと、申し訳ないことをした」
入道もまた、ほろ苦く笑う。扇谷、山内上杉は、伊勢入道側に味方すると言っていた扇谷上杉方の
武将であった権現山城城主の上田政盛を攻めて城を落城させたのである。当然ながら政盛は自害して果て、
一族は苦しい立場に追い込まれた。
「今度は、まさもり、というお方が、お亡くなりになったのですか? それゆえ、おじじ様は
お経をあげに来られたのでおざりまするか?」
「ふむ…そればかりではないが」
(知らぬうちに「わけ知り」になったものよ…)
膝の上の孫娘が発した言葉に、祖父入道は一瞬目を丸くして、それからさらに苦い顔をしつつも正直に頷いた。
せっかく離反させた上田政盛を見殺しにした結果になったばかりではなく、扇谷縁故の三浦道寸までもが
出てきて住吉要害を奪ったのである。これに対して入道は、扇谷上杉との和睦でやっと切り抜けたという、
手痛い敗北を喫したばかりなのだ。
「…志保殿。この戦ではなあ」
と、そこでむっと唇を結び、鼻の穴から大きく意気を吐き出して、祖父は再び続ける。
「爺は失わずとも良い命をたくさん失のうた。我らに味方してくれた家の子、郎党どもだけでのうてな、
我らの手にかかった相手の者どものための読経でもある」
「ふうン…?」
祖父は、志保がどんな問いを発しても真摯に応える。決して茶化したりはしないその答えは、
(なにゆえに、敵のためにまでおじじ様は)
しかしやはり幼い彼女にはまだ難しく、肩でそろえられた切り髪が頷く動きに合わせて二、三、軽く揺れた。
同時に、細く白い筋を引く香の煙が風に吹かれる。それが強く志保の鼻をついたと思うと、
「父上。生き延びまいた味方の者ども、全て無事に小田原以西へ引き上げてござりまする」
その風は、どうやら氏綱によって吹かせられたものらしい。黒烏帽子に鎧姿のままで
濡れ縁から上がってどっかと寺の床へあぐらをかき、志保の父は入道へ向かって頭を下げる。
「さようか。ご苦労であったなア」
「は、それは…そのようなことよりも」
氏綱もまた、ほろ苦く笑って眼前の仏を見上げる。
「父上。一言、よろしいか」
「うむ」
「父上が戦よりご帰還のたびに、こうして読経されるのは、散ったお味方のためばかりではない
…我らの前に立ちはだかる敵のためでもあると」
「おお、そうじゃ」
入道は謎のような笑みを湛えて頷いた。氏綱の前へも、海実が熱い茶を運ぶ。
しかし、氏綱はそれへ軽く頭を下げたのみで手をつけず、
「以前より思うておりまいたが、なにゆえ父上は、我らが敵のためにも読経されるのでござりましょうや」
「ああ…ふむ」
「父上の読経のお姿を拝見するだに、僭越ながら思うておりました。猫が、己の糧とするために
殺した鼠を食いながら、『彼が哀れである』と申しておるのと同じではないかと」
戦場から還ってきたばかりで、どうやらまだ興奮が冷め切っていないらしい志保の父は、
唇を苦々しく歪めて彼の父をなじった。おまけにこの度は負け戦の後なのだ。
まだ若い氏綱が苛立って声を荒げるのも無理はないのだが、
「父上は、おじじ様がお嫌いなのでござりまするか?」
「…失礼致す」
そこで発せられた幼い我が娘の無邪気な問いに、氏綱はぱっと顔を赤らめた。娘の前で
(父をなじってしまった…)
のが、日ごろより「理性の勝ったお方よ」と常々家中で噂されるのが心ひそかに自慢である彼には、
瞬時に恥じられたらしい。
「先に小田原へ帰っており申す。志保はお任せしても」
「ああ、よいよい」
「では、これにて」
そのまま立ち上がってそそくさと出て行く息子の後ろ姿へ、
「無理もないのう。こたびは負けも負け、綺麗さっぱり負け申した故」
呟くように言って、
「志保殿、助太刀感謝いたす」
長氏が膝の孫娘を苦笑しながら見やると、海実も同様に苦笑した。氏綱に言われるまでもなく、
入道自身も内心、忸怩たる思いを抱いているのだ。
その祖父の顔を見上げながら、
「おじじ様。父上は、おじじ様がお嫌いなのでござりまするか?」
「いや…そうではないのじゃ。違いよ、考えの違いじゃ」
澄んだ大きな瞳で繰り返し尋ねた孫娘の頭を、皺深い手で軽くたたきながら、祖父入道は大きく嘆息する。
「いずれ、なあ。全てはいずれ、大きゅうなられたら志保殿にもお分かりになる。
こなた様の父が爺へあのように申した理由も、爺がこうして敵にも経を捧げる理由ものう」
「…はい…?」
「ははは。さァて、ぼつぼつ小田原の城へ戻りましょうぞ」
まだ要領を得ないように彼を見上げる無邪気な顔は、大変に愛らしい。
ささくれた心を少し慰められたような思いで、祖父入道は志保の小さな手をぐっと握った。
「あまりに遅うなりまいたら、それこそこなた様の父御に叱られましょうでな。
戻りまいたら、爺のお拾いに付き合いなされ」
「はい」
こっくりと、幼い頬が再び頷いた。
ようよう柔らかくなりかけたの初秋日差しが、社の階段を降りてゆく祖父と孫娘の背中を照らす。
「気をつけられて…」
それへまた、権現別当の海実が声をかけ、菊寿丸と共に微笑でもって見送るのも「いつもの景色」になっている。
実際、入道にとってはこのようなひと時が大変に貴重なものだった。重い鎧を厭うて軽い法衣をまとい
、頭巾を被ったのみのいでたちで戦いに明け暮れては、箱根権現へ学問に通う孫姫の元へ戻り、散策へ出かける。
その光景が当たり前になり始めて久しく、まさに「気がつけば」成長していた孫娘へ
縁談が持ち込まれたのは、彼女が数え年十三、実年齢は十一か十二になったばかりの春のことだった。
…続く。
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