追悼の波 3



鳥取県に吹く風は強い。特に春先はともすれば大学のほうにまで、海岸にある砂が
吹き上げられたりもする。
 その中で、
「…」
大学へと戻りながら、柳川はスケジュール表を見て難しい顔をして歩き続けた。
「おい、危ないぞ」
「あ、ああ、うん。ありがとう」
 前を見て歩かないものだから、時折電柱にぶつかりそうになったりする。それを石崎が
  慌てて彼女の二の腕を掴んで引き寄せることで、辛うじて防いだりもしながら、
「今度は、農学部学生課」
「おい、柳川」
ふと顔を上げてスケジュール表を閉じ、ため息とともに言った柳川へ、石崎は呆れて話しかけた。
「そもそもお前、なんで川村が自殺じゃないって思うんだ」
「んー? ああ、『なんとなく』…」
「…」
「じゃ、理由にはならへんよな、分かってる」
 渋面を作った石崎へ柳川は苦笑して、
「川村君の性格」
短く答えて歩き続けた。
(川村の、性格?)
確かに、自殺するようなタマではない、と、彼女は言ったし、石崎もそう思っていないこともない。
「もっと詳しく言え。なんで性格が自殺するのとしないのとに関係があるんだ」
「…ん。後で」
 しかし、柳川に食い下がっても帰ってくる答えは相変わらずつかみどころのないそれである。
  諦めて苦笑し、石崎は懐かしい構内を見回しながら、柳川と並んで農学部へ戻っていった。
 農学部の建物は緑の木立に包まれて、大学正門から一番遠い場所にある。研究室へ戻るのかと
  思うとそうではないらしい。先ほどの呟き通り、
「すみません。卒業生の柳川ですが」
農学部の正面玄関から入って行ったかと思うと、学生課窓口へつかつかと近寄り、
「作物機能制御学の川村君の成績表なんかがあったら渡してくれませんか。先生に言い付かったんです、
遺族の方へお渡しするようにって。あ、出来ましたら入試の時の成績から、今までのを全部」
(…まただ)
 柳川が、すらっと言った「ありもしないこと」を、窓口の女性は信じたらしい。もはや呆れるのを
  通り越して感心しながら、石崎は柳川の行動を見守っていた。
 真剣な顔をして川村の成績表が入った茶色い封筒を受け取って、柳川は女性へぺこりと頭を下げ、
  学生課を出て行く。
 今度こそ研究室に戻るのかと思えば、その途中にある「農学部大講義室」の扉を開き、柳川は
  その中へ入っていった。
 普段は、受講生の多い講義に使われるこの部屋も、今は誰もいなくてしんと静まり返っている。
(懐かしいな)
 石崎がぐるりと教室の中を見回していると、幾度となく講義を受けたこの教室の教壇の前へ、
  柳川は無造作に腰を下ろした。何をするのかと見ていると、彼女は今しがた受け取ったばかりの
  封筒の封を器用にぺろりと剥がしたのである。
「…おいっ!!」
「やっぱりな」
 遺族へ渡すのではなかったのかと、咎めた響きを含んだ石崎の叫びは、
「石崎君も見る?」
「…」
柳川が、その鼻先へ川村の成績表らしき紙を突きつけることで止められてしまった。
 これはさすがにいい気分はしない。ムッとしながらも石崎は「親友」の成績表へ目を通して、
「…これが何か問題あるのか?」
呟き、柳川の座っている机の上へ、二本の指で押し返すように置いた。
 大学の成績は、「優、良、可、不可」という四段階に通常分類されている。その中で川村の成績は、
「確かに酷いけど、問題になるほどのもんじゃないだろう」
ほとんど全てが「可」ばかりである。それも不可をくらって追試を受けて、やっとのことでもらえた
「可」、といったものだったのだが、石崎の言うとおり、これだけなら特に問題になるほどの成績でもない。
「大学入試の時と、院入試の時の成績も見てみたら?」
柳川が言うので、しぶしぶそれへも目を通した石崎は、思わず眉をしかめていた。
(これでよくウチの大学、通ったな。院も)
 T大学は、国立とはいえやはり田舎の大学である。偏差値は良くも無ければ悪くも無い。
  いうなれば「そこそこの」程度なのだが、しかしそこに記してある川村の成績は、
  いずれも酷いものだった。
「ウチの大学も、そこまで酷ないやろ? 大体、おかしいと思てたんや」
石崎の手からそっと成績表を取って茶封筒へ戻しながら、柳川は立ち上がった。
「なんで川村君がそんな成績で入れたんか、そんで、留年もせんと「無事に」院まで現役で
行けたんか。ドイツ語の講義かて一緒に受けてたんやから、川村君の大体の学力のレベルは
分かるしな。酷いもんやったで? 発音も何もかも滅茶苦茶やった」
「…ああ」
 柳川の容赦のない言い方に苦笑しながら、石崎の脳裏にかつて川村が彼へ発した言葉の数々が浮かび上がる。
『石崎、講義の代返頼む』『石崎、ノート貸してくれ』『カンペ作るから協力してくれ』…。
(調子のいい奴だった。女にモテて、レポートだってそんな女に手伝ってもらって…けど、
何だか憎めない奴で)
「石崎君? 私、研究室に戻るよ?」
「あ? ああ」
 しかし、彼の「パートナー」は、感傷に耽ってはいないらしい。言い捨てて講義室の扉を開き、
  そのまま廊下を右へ折れて階段へ向かう。
(川村の性格、か)
 その後をついて階段を上がりながら、柳川が言ったその意味が何となくわかりかけてきたような気がして、
「川村がああいう性格だから、自殺はしないって思ったのか、お前」
「…それもある」
先に階段を上がる彼女へ話しかけると、一瞬、石崎が思わずどきりとしたほどに、
振り返った柳川は悲しい目をした。

2  古い記憶

  *   *    *
 それは、もはや半世紀ほど前の春のこと。
窓の外には、もう夕暮れが迫っていた。
T大学農学部研究室の、実験器具がつみあげられた部屋の中、
「お前、これはどういうことだ?」
乱暴にその部屋の扉を開けて飛び込んできた白衣を着た青年が、部屋にいた
もう一人の青年へいきなり食って掛かる。
「これは俺がやっていた研究の成果だろう。なのにどうしてお前がやったことになっている?」
「そんなつもりじゃなかったんだ! 僕はちゃんと教授にそのことを言ったんだけれど」
それに対して、左記に部屋にいた眼鏡の青年は、必死に弁解をしようとする。すると、
「言い訳はいい! …まあいいさ。僕は別に、この大学の大学院に未練も愛着もないからな」
後からやってきた青年は、叫んで遮る。髪を短くかった、意志の強そうな太い眉の持ち主は、
研究者というよりもむしろスポーツ選手や登山家、といった形容が相応しいかもしれない。
「いいさ。その成果だって、ほとんど偶然みたいなものだったんだ。僕の実験の、
いわば副産物みたいなものだ。お前に渡してやるよ」
「あ…すまない」
 フン、と、鼻を鳴らして言い放ったスポーツ刈りの青年が言うと、眼鏡の青年は
  救われたように意気を着く。だが、
「ああ、いいとも。お前の研究の成果だってことにしてやるよ。これを発表したら、
きっとお前、博士課程を卒業と同時に助手就任だ。だけど、その代わり…」
 窓の外で、桜の花びらが一枚はらりと散る。眼鏡の青年へ、彼の要求したものが
何であったのか…今は誰も知らない。
  *   *    *

 そして現在も、その桜は同じところに植わっている。
「ああ、はい。私はあと二泊していこうかなって」
 再び二人が研究室へ戻ってくると、同期生達が待機している院生室の入り口には中谷がいて、
「塚口先生!」
「お久しぶりです」
「おお、君らか!」
石崎と柳川に背を向けて中谷と話していた中肉中背の講師は、彼らが声をかけると
眼鏡を太い指で押し上げながら振り向いて、懐かしげに声を上げた。
「…元気やったんか?」
「はい…すみません」
 そして塚口は、柳川へ向かって労わるような目でそう尋ねる。すると柳川もすっと
  目を伏せて申し訳なさそうに頭を下げた。
「津山先生も心配してたで」
「…はい。本当に津山先生にも申し訳なく思ってます」
鳥取県出身で、「地元弁」丸出しのこの講師が、責めるような口調でもなく言うのを聞きながら、
石崎はその側を通り抜けて院生室へ入っていった。
 柳川は、津山教授の口ぞえもあって、T大学を卒業すると同時に彼女の実家近くにある
  O大農学部大学院へ入学した。しかし、その後色々あって、せっかく入れた修士課程を一年で…
  去年の春にやめてしまったのだとは聞いていた。
(俺には関係ないことだったからな)
 まさに「関係ない」ことだった。こうやって彼女と改めて話し合うまでは。
「あ、純ちゃん。私はこっちにしあさってまで残るけど、キャップとメガネ君は帰るんだって。
コロちゃんは実家がこっちやから、一旦は帰るけどちょくちょく様子は見に来るって」
 のっそりと中へ入ろうとする彼のために通路を開けながら、中谷が話しかけてくる。その声に、
  森川と太田も石崎を見ながらそろって頷いて、
「そうか」
石崎もそちらへ頷き返した。
「純ちゃん、どうするの?」
「俺か? 俺は…」
尋ねられて、咄嗟に返答に困った。有給はとりあえず一週間はある。
(柳川は、どうするんだろう)
 塚口講師に頭を下げた彼女をちらりと見やると、
「ほんなら塚口先生、川村君のパソコン、借りていいですか? 調べものがあって」
「ん? ああ、おお、構わんで。警察もまだ持っていってないからな。ほら、その机。まだ残っとるやろ」
「はい、ありがとうございます」
「まあ…なあ」
再び頭を下げて、柳川が院生室に入ってくる。戸口に立ったまま、塚口講師は少し潤んだような声で、
「俺も夢に見そうやけど、君らもあんまり気にすんなや?」
それだけを言い、顔を引っ込めた。
 ぶっきらぼうではあるが、暖かい性格の持ち主である「兄貴分」塚口が消えてしまうと、
  再び院生室には沈黙が訪れる。しかも塚口は川村の実質上の指導担当教官だったのだ。
  「夢に見そうだ」というのもあながち無理もないかもしれない。
その空気を気にも留めていない様子で柳川は、
「キャップ、ちょっとごめん」
川村の机だった場所の前の椅子に座っている森川へ声を描け、パソコンを起動させた。
「…何を調べるの?」
 柳川と一番親しい中谷が、早速近づいていって声をかける。
「ん…メール」
柳川の、そんな愛想のない短い答えにも、どうやら中谷は慣れっこになっているらしい。
「川村君の受信暦とか?」
「そんなとこ」
「調べてどうするの?」
「…ん…今朝…私宛に来たメールが、どこから来たんかなーって」
「ふーん?」
中谷が食い下がって尋ねると、柳川も別に気に触った様子もなく、半分以上は上の空では
あるらしいが返事をしている。中谷も、柳川がこうなったら、悪気ではないがまともな返事をしないと
いうことを知っているので、
「まあ、何か新しいことが分かったら教えてね?」
それだけを言い置いて、廊下へ出て行った。廊下を挟んで向こうの、研究室の人間の溜まり場もある、
大学三、四年生のいる部屋へ行くつもりらしい。そこは卒業生、「勝手知ったる」なんとやらなので、
「純ちゃん、コーヒー淹れて来ようか? 皆の分も淹れてくるから」
「ああ、頼む」
 石崎が答えると、「コロちゃん」伊原も手伝うといって立ち上がる。残った男どもは、
  ただ無言でパソコンが立てるかすかな音を聞きながら、柳川の表情とを見守っていた。
 廊下を隔てた向こうの「溜まり場」からは、中谷や伊原と、現在大学三、四年生であるところの
  学生達が話をしているらしい声が聞こえてくる。時折それへなんとなしに耳を傾けながら、
「…これか」
ちょうど中谷や伊原が、湯気の立つコーヒーカップを人数分、盆に載せて戻ってきたのと同時に、
柳川が呟いたのへ石崎は思わず腰を浮かした。
「…見つかったのか?」
「うん…」
 足に小さな車輪の付いている、いわゆる回転椅子に座ったまま、石崎は柳川の…川村の使っていた
  机の前に移動する。柳川が真剣な顔をしてキーボードを叩いていたパソコンのディスプレイには、
  「ドライブCフォルダ」と銘打たれている、小さな書類フォルダのアイコンが映っていて、
「ここの…奥の奥の階層。このパソコン、『削除』したところで、どこかの隠しフォルダに
プールする場合が多いから、もしかしたら思ててんやけどね」
 何故だか、「お目当てのメールが見つかった」のに、嬉しくもなさそうな、反って沈痛な面持ちで
  柳川は無機質に言い、何事か分からないまま心配そうに中谷が差し出すコーヒーカップを軽く頭を下げながら受け取る。
 そのカップを両手で包むようにしながら、椅子の背にもたれるようにして天井を仰ぐ柳川と
  入れ替わるように、石崎はそのディスプレイの前へ移動した。
 柳川が言うように、ドライブCのフォルダの、かなり階層を経たところに川村が彼女に宛てたかもしれないメールがあり、
(あの化学式だ…)
そのメールを開いてみると、確かにそこには柳川が石崎へ示した化学反応式が記されている。


…続く。

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