T大教養308号室



CASE2 待つ女 その1

幸いっちゃなんだけど、論文は仕上げたばかりだし、特にこれといって出張しなきゃ
ならない用事もない、ってなわけで、私は、
「向こうから『付き合おう』なんて言ってきたのに!」
なんて言いながら号泣する彼女の相手をすることにしたのだ…だって一応ヒマだし。
こっちが何も言わなくても、彼女は、
「二、三回デートして私も好きになって、えっちして、それから『私も好き』って言ったら、
『元カノのことが忘れられない』なんて言うんですよ!」
勝手にべらべら事情をしゃべっては泣きじゃくる。まあ、尋ねる手間が省けるってもんだ。
に、したって。
(まあ何ていうか…これが『イマドキの子』って奴なのかね)
ソファに座ったまま、両手で顔を覆って泣きじゃくるこの子を、茶色に染めてる頭の上から
派手なネイルアートから今流行りのブーツから、失礼だけど何からかにからとっくり見下ろして、
失礼なんだけど私はそんな風に思ってた。
泣きじゃくるもんだから、ふっさりはやしてる睫だって、墨だっけ?なんだっけが取れちゃって
目の周りも真っ黒になっちゃってて、
「…落ち着いた?」
やがて一通り泣きじゃくったのか、号泣ではなくなった頃を見計らって、私が顔を覗きこむみたいにして
彼女に声をかけたら、
「…はい…すみません」
可愛らしいピンクのタオルハンカチからやっとこ顔を離して、彼女は照れくさそうに笑った。
「メイク落としとか使う? 持ってんだけどもさ。そこのほれ、隅っこに洗面台あるでしょ?
そこで一旦、メイクとか落とすんなら落としたらいいし、ね?」
「あ、ホントですか? ありがとうございます。でも」
私が言うと、彼女はまた照れたみたいに笑って、
「もうちょっとだけ、話を聞いてもらえませんか?」
鼻をすすったんである。
私もとりあえず、
「伊集院先生ンとこは? 行かないの?」
そう聞いたんだけれども、
「伊集院先生は美人ですから」
「は?」
「美人だから、きっと彼と別れたって、すぐにまた新しい彼が出来ると思うし、
だから私の気持ちなんて分かってくれないと思って…だけど小川先生だったら、そういうとこ、
分かってくれそうな気がして」
「あー、そうかいそうかい。どうせ私はブサイクだよっ」
思わず怒鳴ってしまったら、秋本さんは「わ、ごめんなさい!」なんて言いながら、
ちょっと肩をすくめた。
…どいつもこいつも、本当に失礼な奴ばかりだ。まあ、正直、当たってそうな気がしないでもないから、
余計に悔しい。
でも、
「まあ、いいよ。聞いたげるよ」
私が結局そう頷いてたのは、多分彼女の態度が一応は礼儀をわきまえてたからだろう。
こういうとこ、自分もまだ二十八の若造の癖して、ちょっと頭が固いっつーか偉そうっつーか、とは
思うんだけれども、
「聞くだけしか出来ないけどさ」
「それでもいいです! ありがとうございます!」
私が言うと、秋本さんはぱあっと顔を輝かせて、
「小川先生の研究室に来たら、皆が勇気と新しい彼がもらえるっていうから。だから私も
それにあやかりたいな、って。よろしくお願いします!」
…話を聞くだけでそんなに「霊験」あらたかなのかね、私は。
「ま、ゆっくりでいいからね」
馬鹿ばかしいったらありゃしない。だけどともかく、一旦ソファから立ち上がってコーヒーを
二つのカップへ淹れて、そのひとつを彼女へ渡しながら私は促したのだ。

話によると、彼女…文学部英文学科の秋本里奈さんと、その彼氏である山本順平君とかいうのは、
同じ文学部の同じクラスらしい。
彼女はもともと誰とも付き合ってなかったんだけれども、
「…俺と付き合ってくれ」
とある日のとある講義、次の講義室へ行く準備に手間取っていた彼女へ、彼の方から声をかけてきたんだと。
で、秋本さんは、山本君が前の彼女であるところの教育学部の女の子と別れたばかりだってのは
もちろん知ってて、
「だから、大丈夫だって思ったんです。ちゃんと『切れてる』って思ってた」
だから、山本君と付き合い始めたということらしい。
(まあ何だ)
ちょっとだけ温くなっちゃったコーヒーをすすりながら、私は思ったさ。
(えっちしたとか、平気の平左で『教諭』に告白できるところなんざ、やっぱイマドキの女のコな
わけだけどもさ)
そのカレシにしたって、フタマタかけてたわけじゃない、ってとこ『だけ』は評価は出来るな、ってさ。
「それに声をかけてきたのは、彼の方からだったのに…だってえっちまでしたのに…
私、彼が初めてだったんです…そこまで出来るなら、普通、友達以上の気持ちを抱いてるって
考えませんか?」
「んー、まあ、そう、かもねえ」
話を振られて、私は曖昧に頷く。確かに肌まで重ねたら、女のコの場合は誤解しちゃったって
無理もないかもしれない。
だけど今の時代、向こうから付き合おうって声をかけられたからって、それが即「恋人同士になろう」
ってことには、どうもならないっぽいってのは、
(恋人相談所でカレを手に入れた友達の例もあるしなぁ)
確かなのだ。
私の友達も、とにかくカレと名のつくものを手に入れようってんで、ネット恋人相談所みたいな
サイトの(もちろんタダんとこだ)会員に登録していたけれども、向こうから熱心に「会おう会おう」
なんてあんまりにも言われるもんだから、いっぺん会ってみて、
「イメージと違う」
てんでフラれた、ってこともあるらしいもん。
いや、その場合と、今の秋本さんの場合とはちょっと違うかもしれないけど、
「それって要するにさ、アレでしょ? 悪いんだけど山本君とやらは、その元カノをふっきるために、
アナタを選んだとも言えるね?」
そこんとこは、ネットも現実も同じだと思うんだよね。
んで、ついそう言っちゃって、(ヤバい)とか思った。したらば案の定、
「…そう、でしょうか、やっぱり…だけど、だけど」
また目にじわりと光るものを滲ませて、秋本さんは泣きじゃくり始めてしまったんである。
「『もう迷惑ならメールやめるから』って言っても、『迷惑じゃない』って言うんですよ!?
『またメールしてよ』って…一体どういうことなんですか? 『また会える?』って聞いたら、
『当然!』っていう返事が返ってきて。なのに私は恋人じゃないんですか…?」
「うーん…」
もちろん、これだけを秋本さんが一気に言えたわけじゃない。途切れ途切れ、つっかえつっかえ、
んでもってところどころしゃくりあげながら、だから、聞き取り辛いことこの上なかったんだけれども、
「『迷惑じゃないから連絡し続けてくれてもいいけど、やっぱり友達以上には思えない。
会うときも友達として、皆で会う』って…『俺のことはもう軽蔑してくれてもいい』って。
だけど軽蔑だなんて、出来るわけないでしょ? いくら元カノだって彼と別れて、全然他人じゃないですか。
だから、私のところへ戻ってきてくれるなら、どんなに長い時間をかけても待とうって思ってたのに、
軽蔑してくれてもいい、なんて言われたら、どうしていいか…。辛くてたまらないんです。
小川先生なら分かってくれますよね?」
言いたいことは普遍的には分かる。私だって木石じゃないから、恋愛小説のひとつや二つ、
恋愛理論に関する文献の一つや二つは読んだことがあるし、こういった事例も話には聞いたことだって
あるから、分かるっちゃ分かるんだけども、それはあくまで表面的なことだ。
(分かってくれますよねも何も、講義を受けてくれてるわけじゃなし、研究室の人間でも
ないんだけどねえ)
一応は、これで全部なんだろう。ちょっと冷たいかもしれないことを思いながら、
「で、アナタはどうしたいの?」
私は改めて尋ねた。
悪いんだけど、「分かってくれますよね?」なんて言われたところで、私は彼女のことを
これっぽっちも知らないのだ。初めて出会ったばかりの人間に、しかもそういったことを
仕事にしてない人間(心理学担当で、カウンセラーの伊集院先生ならともかく)に聞かれたところで、
そういったことしか言えないのも、仕方ないと思う。
すると、膝の上で両手を握り締めてた秋本さんは、ぴくりと肩を動かして、ぐっと唇を結ぶ。
ちょっと気まずいような沈黙が流れたけど、
「私に、客観的に判断して欲しい? 彼がアナタのことをどう思ってるかとか、さ」
私は構わずに言った。
秋本さんは、自分で彼にそのことを聞くのが怖いのだ。
聞いて、「決定的」になってしまうことが本当に怖くてたまらないのだ。その気持ちはすごく分かる。
だけど、他のことならともかく、恋愛ってのはどっちか片っぽだけじゃ…一人じゃ出来ないものなのだ。
「このまんまじゃいけないと思ったからさ、ほんっとーにアカの他人の私にまで相談しにきたんでしょ?」
「…はい。私、本当に本当に、私には山本君だけだと思ってたから。彼を放したら、次の人を
好きになるなんて考えられないし…私に何か悪いところがあったんじゃないかって思ったから、
また他の人を好きになるなんて、怖くて出来ないです」
(…あんだって?)
それにどうしてこう、「友達以上にはなれない」なんて言ってる人に、いつまでも未練がましく
しがみつくのかね。
半分呆れながら、
「…友達以上になれないって言われたんでしょ? それでも待つの? 待てんの?」
私が言うと、秋本さんはまた俯いて、しばらく泣いていた。
結局、こういうことって最終的には「自分がどうしたいか」なのだ。
他人に相談したって、何したって、自分で決めなきゃならないことで、他人がああだこうだ言ったところで
どうしようもないんだよね。
「…分かってるよね? 私さ、『中国文学』専攻なんだよね。他の子たちはどう言ってるか
知らないけれども、当然ながら魔法使いじゃないし、占い師でもないし、だからアナタが
決めなきゃいけないことにまでクチバシを突っ込んで、責任まで取れないんだよ」
私が懇々と諭すと、秋本さんは肩を震わせながら頷いて、
「ありがとうございます。でもやっぱり、聞いてもらえて嬉しかったです」
「はいはい、こっちとしてもお役に立てたんならそれでいいよ」
健気に答えられるもんだから、私も慌てた。、
(何だか妙に良心が痛むんだよね…)
「で? その山本君とやらは今はどうしてんの? アナタとはどういう風になったって?」
ちょっと泣かせすぎたかもしれない、なんて罪悪感を抱きながら私が尋ねたら、
「メールだけはしてます。だけどメールもこっちからしないと返してくれないし、
ずっと避けられていて…二人で会ってもらえたら、もう一度私の事、好きになってくれるように
努力できるのに」
深々とため息を着いて、秋本さんはのたまったのだった。

(ため息を着きたいのはこっちだっつーの)
ソファとセットになってるガラステーブルの上には、結局手付かずのままのコーヒーカップが載っている。
それを持って立ち上がって、私の机の側からふと窓の外を見たら、
(おやおや)
これから講義に出るのだ、と言って部屋を出て行った秋本さんの姿が、しばらくして
教養部棟の近くの電話ボックスに現れるのが見えた。
今の大学生のほとんどが携帯電話を持ってるから、大学構内にある電話ボックスは次々に撤去されちゃって、
残ってるのっていったら教養部棟と教育学部棟の間にある、その一つだけなんだよね。
俯いて、足早に文学部棟へ向かっていく秋本さんの背中を見ながら、
(ま、彼女はまたウチに来るだろうね)
私はやっとこ白衣へ袖を通しながら、両方の肩をぐるぐる回したもんだ。
相手に未練がありすぎて、元に戻って欲しい、彼の気持ちをもう一度向けるにはどうしたらいいか、
なんて相談をしてくる輩ってのは、男女問わず、自分の意見…希望的観測とも言うけど…に
沿ったアドバイスをもらえるまで、あるいは相手からはそんなアドバイスがもらえないのだと
分かるまで、何度も同じことを尋ねて来るもんだってこと、
(今までの、したくもなかった経験で分かるもんなあ)
思いながら、私は大きくアクビをして、机の上のパソコンの電源を入れる。



to be continued…


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