T大教養308号室



CASE1 モテる男 その2


んで、その翌日の午後のことだ。
「はい、天安門で毛沢東が詠んだ詩があります」
そこで私が言葉を区切って、小さな講義室をぐるりと見回すと、学生たちが「ええ?」ってな風に
目を丸くする。まあなんて可愛らしい。
「あるんですよ、これが。あのスケベじじいでもね、いっちょまえに律詩なんて作ってるんです」
私が続けると、講義室は笑いに包まれた。
「今、皆さんにお渡ししたのがそれですよ。この和訳が、次の授業までのレポート。これについての
自分なりの解釈も加えて提出のこと。以上!」
(いつもこんなだったらいいんだけどねえ)
「うへえ」なんて言いながら教室を出て行く子たちを見送って、私は微笑う。
で、週一回の和やかな講義は終わった。部屋に戻ったら、今度は義彦さんがメールで送ってくれた
新しい殷墟の碑文を解読して、そんでもってそれについての論文を…って考えてたら、
(またか)
昨日、午後八時にやっとこ帰ったあのデブ…もとい、秋田川君が私の研究室の前で待っていた。
まあ、私も辛うじて家に帰ることが出来たから良かったんだけれども、
「小川先生、こんにちは」
「はいはいこんにちは、どうもね。んで? 中国文学についての興味が出てきたってか?」
頬を相変わらずたぷんたぷん言わせながら、軽く頭を下げる彼に私はそう言う。答えの分かりきってる
問いを発するほど、馬鹿げたことはないんだけどもね。
多分、身体をかがめるだけでも辛いんだろう。頭を上げた時に思いっきり「ふうー」なんて
でかいため息を着いて、
「いや、もちろん違います。昨日の続きです」
(いっぺん殴ったろかいコイツ)
予想通り、彼は思わず私に殺意まで覚えさせる台詞をのたまったんであった。
全く、ツッコミどころ満載の失礼な台詞だ。こっちに時間があるのが当然、ってな顔をしているのも
すごく癪に障る。
「ごめんねえ。アンタがモテない理由は私、はっきり言ったつもりだけど? それに今さ、
ホント忙しいんだわ。学内にも伊集院先生のカウンセリングルーム、あったでしょうが。
そこへ行きなって」
だけど相手は学生だ。怒りを隠してなるだけ素っ気無く私は言った。
学生御用達のカウンセリング担当教員は、伊集院はるか先生っつって、私よか二つばかり年下だし、まだ助手だけど、
私よかずっと恋愛の経験も積んでるはずだし、ちゃんと心理学も学んでる。
「そっちへ行ったほうがよっぽど時間の無駄が無いと思うんだけどさ、お互いにね」
私も論文に着手したいもんだから、ついつい言葉がまた剣呑なものになる。言ってしまってからまた、
(しまった)とか思ったんだけれども、
「伊集院先生んとこにももちろん行きました。だけど週二回程度で三ヶ月くらい行ったら、後はまた
半年後に来てって言われて…初めて行った時には、『またいつでも来てね』って言ってたのに」
「…」
(伊集院先生…)
何かの拍子で知り合って、一、二度飲んだことがあるっていう程度のお知り合いだけど、私は私よか
よっぽど美人でスタイルもいい彼女を思い浮かべて、ちょっとため息を着いた。
要するに、アレだ。学生の間で、わりかし評判のいい彼女でも、このデ…秋田川君をもてあましたというわけだ。
専門家の伊集院先生がサジを投げた人間を、ど素人の私がどうこうできるわけがないじゃないのさ。
仕事じゃなきゃ、確かにやってられんわなぁ。
「先生は、僕がモテない理由を言ってくれましたけど、でもそれ、違ってると思うから」
で、もてあました原因は、このデ…いやいや秋田川君のこういったところなのだ、多分。
「…悪いね、ホント忙しいんだ。恋愛問題に付き合ってられないんだよ。だからまたね」
「え、でも…そんな、冷たいっすよ、先生」
「だから、私の専門は中国文学なの! 分かったか! 全然無関係な質問をしてくるんだったら、
少しは私の講義も受けてみな!」
言い捨てると、さすがにこの子も恥を知ってるのか、顔を赤くして「すみません」なんて言いながら、
大儀そうに頭をさげて、えっちらおっちら去っていった…。
で、さすがの私も相当気が立っていたらしい。乱暴に扉を閉めて椅子に座ったはいいけども、
「あの、先生…?」
「何っ!? また惚れた腫れた?」
隣の研究室に続く扉から顔を覗かせた女の子へ、ついそんな風に噛み付いてしまった…たはは。
「いえ、あの…ここの略字がちょっと分からないんで、す…けど」
「ああ、はいはい。ごめんなさい。ちょっと見せて」
ビビらせちゃって悪かった、なんて、ものすごく恥ずかしくなってしまって、私は慌てて
その子が持ってるプリントを覗き込む。
「あ、はいはい、これならこの辞書使って? ここに全部載ってるからさ」
「は、はい、ありがとうございます」
辞書を渡したら、その子はぺこりと頭を下げて研究室のほうへ行こうとして、
「あの、先生」
「はい、何?」
「私、先生から励ましてもらって、本当に感謝してますから…ありがとうございます」
「あー、いやいや、そのことは、ね。ほらほら、時間が勿体無いよ?」
もう一度頭を下げてくれちゃったりしたもんだから、私はもっと慌てて扉を閉めた。
さっきの騒ぎ、隣接してる研究室にまで響いていないほうがおかしいんだよねえ、参ったな。
(でもまあ、あの子はまだ素直だったから見込みはあったもんねえ)
秋田川君タイプの人間が、一度自分をこうだと思いこんでしまうと、それを他人が変えるのは本当に難しいのだ。
逆に、ただ単純に「外見が可愛くないんです…」なんて嘆いてる女の子や、「どうしたらいいんでしょう」なんて
尋ねてきて、素直に実践する子って、よっぽどその子自身に問題が無い限り、すぐにカレシカノジョが出来たりするんだよね。
昨日秋田川君の前に訪ねてきた男の子も、素直だったから良かったんだけれども、
「…先生…」
「あん?」
さっきから、扉の向こうの廊下でゴツい影がうろうろしてるなー、なんて思ってたら、案の定また
扉が開いて、
「さっきの言葉、すみませんでした。謝りますからせめてもう少しだけ」
片側の扉が一杯一杯開いているにもかかわらず、まだ入りきらないらしい身体をちょっと斜めにしながら、
再びやってきた秋田川君は頭を下げる。
「僕の名誉のためにも、先生の僕に対する思い込みを訂正させてください。お願いします! 伊集院先生も
僕のことを誤解したんですけど、先生ならきっと分かってくれると思うんで!」
(…駄目だこりゃ)
椅子に座ったまま、私は思わず天井を仰いだ。でもまあ、この子をこのまま戸口に置いとくと、
今、教養部の三階を通り過ぎてる学生から、色んな意味で注目を浴びることは間違いないから、
「…分かったから入れば?」
ついに腹をくくって、私はそう言ったんである。
「ただし、忙しいんで、論文を製作しながらになるけどね。いい?」
「いいっす! ちゃんと聞いてくれてるんなら、それでも全然いいっす!」
というわけで、私は二日続けて彼の自分自慢を聞くことになったんであった。
こうなったらもう、彼の言うことは右から左へ聞き流すしかない…と決めてたはずなんだけど、
秋田川君の、
「僕ってちょっと癒し系だから、流行りだと思うんだけどなあ」
とか、
「成績だって悪くないんですよ? カンニングだって一回もしたことないし、単位だって
今まで一度も落としたこと無いし」
とか、
「僕って顔も悪くないし、性格だって人懐っこくて親しみやすいって言われるから、
多分近寄りがたいのかも。あ、一応これでも鍛えてるんですよ。これは筋肉ですよ筋肉」
とか言ってるのが、当たり前だけど嫌でも耳に入ってくる。
あんまりにもツッコミどころ満載なもんだから、ついついキーボードを叩く指も止まるんだよね。
(そりゃまあ、これじゃ、確かにあの伊集院先生も見捨てるわ)
「ふうん」「へえ」「そう」なんて上っ面でさらっと流す風を装いながら、
(いっぺんでもいいから、自分の外見を客観的に見てみな)
言いたいのをぐっと堪えつつ、
「ね? 先生もやっぱ、僕がモテないはずないって思うでしょ?」
「…そうだねえ」
(悪いんだけどもうホント、お腹抱えて笑いたいんだけどねえ)
悲観して自殺でもされたらコトだから、尋ねられたら頷かなきゃならんこの辛さ。確かにこれを密室で延々やられたら、
どこぞの宗教じゃないけれども、しまいにゃ洗脳されそうだ。
「ま、そうなんだろうねえ」
ともかく、いつまでも部屋に居座られてちゃ迷惑だし、そんで早く追い払う方法って秋田川君の
話を最後まで聞いてやることしかない(多分)んだろうから、そう言って仕方なしに頷いたんだけれどもさ。
そしたら何と彼は、
「そう、そうですよね、やっぱり! さすが小川先生です! 分かる人にはやっぱ、分かってるんですよね!」
ソファを思いっきりきしませて勢い良く立ち上がり、
「これで分かった。やっぱりウチの大学の女性って、見る目がないってことだ」
顔をぱぁーっとばかりに輝かせてのたまったんである。
で、そこで彼はやっとこさ満足したらしい。「ありがとうございました! 自信が出ました!」なんて、
やっぱり頬をたぷんたぷん言わせながら頭を下げて、部屋からえっちらおっちら出て行こうとして、そこで何を
思ったか振り返って一言、
「いっそのこと、バイトでホストでもやってみようかなって思うんですけど、どうでしょう」
冗談じゃないんだってことは、その顔を見て分かった。
「…いいんじゃないの?」
だもんで、私はもう彼の顔を見ずに答えたんだよね。
「頑張ります! ホストになれたら報告しに来ますから」
ま、それはそれで人の自由だ。私が口を出せるこっちゃない。
この167センチ107キロ、自称モテる男が、果たしてホストでどこまで通用するのか。いや、そもそも
彼をホストとして雇ってくれる奇特な店があるのかどうか…って、私も彼にちょっと毒されたらしい。
(…やれやれ、いつその痛いカンチガイに気付くのやら)
「別に報告もお礼も要らないから、人生頑張って生きてちょうだい」
ゲッソリしながら手を振ったら、
「はい、では報告の必要なしということで…ありがとうございました!」
秋田川君も元気良く、ムチムチの片手を上げてやっとこ出て行った。
(結局、てめえの話を聞いて欲しかっただけじゃん)
両手を組み合わせて大きく伸びとあくびをしながら、私は時計を見た。やっぱり午後八時。
あの子、ちゃんと友達いるんだろうか。あの調子で周りにもやってたら、もしも今はいてくれたとしても、
いずれ一人になっちゃうんじゃなかろうか。
でもまあ、それも彼の人生だ。そうなって初めて、自分ってのがどんな風だったのか気付くんだろうな。
(さて)
ともかく、これで彼とのかかわりはおしまいだ。自分で両方のほっぺたを叩いて気合を入れなおしてから、
私は資料をもう一度、左の手に持ち直す。
結局論文は予定の半分しか進んでない。
「ふうー」なんてオバハンみたいなでっかいため息を着きながら、私はパソコンヘ向かう。
(虞兮虞兮如何汝…えー、なんだっけか、合ってたっけ?)
資料を左手に、右手でキーボードを叩いていたら、充電してる携帯電話が光ってるのに気付いた。
(おっ、義彦さんかな)
どうやら日本に帰ってきたらしい。蓋を開いてみるとメールが一件。
(今、空港です。これから家に向かうからね、か)
発信時間を見てみたら、午後の五時だった。
(あちゃー)
帰ってくる日が分かっていたのに、ご飯の用意も出来てない。仕事だったとはいっても
奥さんとしてはちょっとまずいな、なんて思いながら、
(結局、全然書けなかったんだから一緒だ)
私はパソコンの電源を切って椅子から立ち上がったのだ。

「じゃあ、またね。午後六時になったら電話して。研究が長引くようだったら、適当に惣菜でも買っておくから、
俺のほうは心配しないで」
「うん。ごめんね」
地下鉄の入口で、私たちはそう言い合って別れた。
S大勤務の義彦さんが帰ってきて三日後。吹いてくる木枯らしにマフラーの中の首をすくめながら、
私はT大へ向かって歩く。
やっぱり旦那さんが家に帰ってきてくれて、大学から家に帰ると側にいるってこと、
(すごく安心するなあ)
精神的にも全然違うってこと、現金だとは思うけど自分の機嫌がかなりよくなってることが
分かって、私はちょっと苦笑しながらT大教養部の三階にある、自分の研究室へ向かったわけだ。
で、
「あ、小川先生ですか? おはようございます!」
部屋の扉の前の廊下に、うずくまるみたいにして座っていた女の子が、私に気付いて
勢い良く立ち上がる。それが全然見覚えの無い女の子だったから、
「…はい、おはよう」
(またか)
なんて思いながら、とりあえず挨拶を返したら、
「あの、あの、朝からごめんなさい! お時間、頂けないでしょうか…本当に、ごめんなさい…」
「わ、えっとあの、こんなところで泣かないで!」
朝っぱらからいきなり泣かれて、私は限り無く焦った。
慌てて鍵を開けて、
「何があったのか知らないけど、ほら、寒いから入って入って! あったかいコーヒーも淹れるから!」
女の子の肩をぽんぽん叩きながら、部屋の中のファンヒーターのスイッチも入れた。
「はいはい、そこに座って。何があったの?」
野郎が泣くと「泣くなみっともない」とか思っちゃうんだけど、女の子に泣かれるとやっぱり
焦ってしまう。
湯気の立つコーヒーカップを女の子に渡しながら尋ねたら、女の子は「ありがとうございます」
なんて小さな声で言いながらそのカップを受けとって、
「…カレが、元カノとのことを忘れられないって…私と付き合ったけど、その子のことが
吹っ切れないから、私とは付き合えないって言うんです。どうしたらいいんですか…!」
しゃくりあげながら言って、号泣し始めたんである…。


CASE 1 終了 CASE2へ続く…。

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