Last Stage 31



…これで荷物は終わりだ。
ちょっと汗ばむほどの三月下旬の日差しを見上げて、私は額にうっすらと滲んだ汗を
拳で擦った。
T市へ来て、とうとう四回目の春がやってきた。
「ありがとう、もういいよ」
ダンボールを階段の下へ置いた私に、天田さんが声をかけてくる。
「いよいよ、ですね」
「うん」
私が彼を見上げながら言うと、彼も少しだけ寂しそうな顔で笑った。
私より一足先に卒業してしまう彼。彼の四年間の思い出が一杯詰まったこの下宿は、
「次、どんな子が住むのかな」
「そうですね…」
こうやって色々な人が住んできたから、お世辞にも綺麗だとはいえない。むしろ痛んで
ボロボロで、だけど、
「忘れないよ、俺」
その言葉に、私は黙って頷いて、彼と同じように彼の部屋の窓を見上げる。
「俺が出て行ったら…泣く?」
「もう!」
手をつないで部屋へ戻ると、天田さんはいたずらっぽく言う。テレビや冷蔵庫や
一人用の食器棚なんかでひしめきあっていたその部屋は、今はコタツや布団や…
必要最低限のものしかなくなっていて、がらんとしていた。
「卒業、おめでとうございます」
「…ありがとう」
T大の卒業式はもう3月1日には終わってる。だけど、実際には卒業論文を書かなきゃいけないから、
その日程はあくまでも便宜上のもので、
「ものすごく立ち去りがたい」
三月中旬。まだまだT市に本格的な春が来るには早い。一緒にコタツに入って、天田さんは苦笑した。
「色んなことがあったけど…やっぱり楽しかった。君は、本当に一人で大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
同じ場所に二人で座って、後ろから私を抱き締めながら天田さんは言う。
彼の肩へことりと頭の後ろをぶつけて、私も少しだけ笑った。
「大丈夫。皆がいるもの」
「…うん」
しばらくの間、まだ部屋に残っている電気ポットのお湯が沸く音だけが響いて、
「…今夜は、ずっとここにいてくれ」
耳元でぽつりと彼が呟いた言葉に、私はまた黙って頷いた。
いよいよ明日、天田さんはT市から去って行ってしまう。
「もっと早く…出会いたかったなぁって思います」
「はは…うん」
二年半も一緒にいられたら十分だ、って言われるだろう。だけど、私がむやみに
男の人を怖がってばかりいなかったら、もしかして、
「最初から演劇部に入っていて、前の騒ぎにもちゃんと対処できたかも」
私が言うと、天田さんはまた少し笑って、
「でも、もしも君がそんな風じゃなかったら、演劇部には入らなかったかもしれないよ」
「ふふ、そうかもしれないですね」
足元だけコタツに入ったまま、私たちは畳の上へゆっくり身体を横たえる。
「…そしたら、俺たちは出会わなかった」
「うん、本当に不思議」
何度も軽いキスを交わしながら、私たちは笑った。
(明日)
そのキスが肌の上へも落ちてくるのを感じながら、私は目を閉じる。
(泣かないでこの人を見送ることが出来るだろうか)
彼の身体へ手を回して、ぎゅっと抱き着きながら私は思った。去っていくよりも、
去られることのほうがずっとずっと切ない。
(奥井君は、平気だったのかな…皆が出ていっちゃったのに)
そして私には、私に色んなものを与えてくれた演劇部をどうしても忘れることが出来ない。
私にはまだ後一年残ってる。その間…卒業論文のための研究と、大学院入試のための
勉強をしている間もきっと、演劇部のことと部室のことを思い出して、
「…亜紀?」
今、私の名前を苦笑しながら呼んで、彼が私の頬へ口付けたように、私は泣くのだろう。
「…急に冷えてきたと思ったら」
「あ」
しばらくして、私の髪の毛を撫でていた彼が少しだけ身体を起こした。窓の外は
いつの間にか暗くなっていて、窓ガラスに白いものが張り付き始めている。
「最後の雪だよ、多分」
私の体を起こして、また後ろから抱き締めてくれながら、天田さんは言った。
「…一人で、大丈夫?」
その問いかけに、私は黙って笑って、私を抱き締めている彼の手へ自分の手を添える。
「電話も、メールもします、一杯一杯。中学校の授業中は無理だから、晩御飯の前とか。そう、
モーニングコールとか!」
「ははは。そりゃいいな。だけど君、起きられる?」
「大丈夫ですよぉ。演劇部じゃ、一、二を争う『早起き』だったんですから」
「はは、朝の十時が早起きかぁ」
「しょうがないじゃないですか! 朝の五時が就寝時刻なら、どうしたってそうなっちゃいますよ」
私が口を尖らせると、天田さんはやっと安心したみたいに笑う。
…私と天田さんがT市で過ごした最後の晩、降った雪は積ることなく消えた。そして天田さんは…
私のカレは、翌朝午前十時発のO県行き特急に乗って、T駅から去っていったのだ。

「あっちゃん、ちょっと相談があるんだ」
美帆ちゃんが深刻な顔をして、私に相談してきたのがそれから半年後のことだった。
「…何事?」
今日もまた、朝から暑い。おまけに今年の夏も全然雨が降らなかった。果物は水っ気が抜けて美味しく
なってるかもしれないけど、こうやって「農地開墾」するにはちょっと厳しい。
で、私の卒業論文は平たく言えば「暖かいところに生える牧草が、日本でも栽培できる可能性について」。
美帆ちゃんも私と同じ研究室に入ってきて、私の研究を手伝ってくれている。
「あの、あのね」
で、今日も一緒に麦藁帽子を被って畑に出ていたわけなんだけれど、
「一体どうしたの? 何があった?」
「病院、行ってきたの…それで、ね」
なんだかいつもの美帆ちゃんとは全然違う、歯切れの悪い口調なもんだから、すぐにピンと来た。
あれからも、彼女と今村君は付き合っているらしい。私の下宿にはほとんど帰ってこなくて、
何をやってんだか、とか思ってたんだけれど、
「…来ないんだ」
美帆ちゃんが言った言葉に、私の足元がぐらっと揺れたような気がした。
「もともと不順だったんだよ。だけど、一ヶ月以上も…だから、おかしいと思って。ごめんなさい」
「…それで…今村君は? これから、どうするの?」
「それをあっちゃんに相談したかったんだよ。こんな時ばっかり頼って、本当にごめん」
そこで俯いて、美帆ちゃんは目を擦る。
「けんちゃん…その話をすると怒るんだ。だから私も売り言葉に買い言葉で、別れてきちゃった」
「何やってんの! ちゃんと話をしなきゃだめじゃない!」
ついに私は怒鳴っていた。広い農場だから私たちの話し声は聞こえていないだろうけど、私の声に
驚いたらいいスズメが二、三羽、飛び立っていくのが見えた。
「…彼の研究室は? 今、彼、いんの?」
「環境土壌学…だけど、あ、あっちゃん!待ってよ!」
考えるより先に、行動が立った。地面を引っかくために持ってた鍬(笑っちゃうけど)を打ち捨てて、
私は農作業姿のまま、農学部の校舎へ向かう。後から美帆ちゃんも慌てたみたいについてくる。
「あの、あんまり彼に酷いことは言わないで! お願いだから」
「アンタはそれ以上に酷いことをされたんでしょうが!」
偶然すれ違った同じ研究室の子が、目を丸くして私たちの「喧嘩」を見た。そりゃそうだろう。
日頃本当に仲が良くて、本当の姉妹みたいな私たちだったんだもの。
環境土壌学の研究室前で、私は今村君を呼んだ。すると彼は私を見て一瞬ハッとして、それから
フテ腐れた風にしぶしぶやってくる。その顔を見て、ついに私の怒りは爆発した。
「…あっちゃん!」
多分170センチはなかったろう。私とさほど変わらない目線の彼の頬へ、私は思い切り
往復ビンタを食らわせていた。美帆ちゃんの悲鳴を後ろで聞きながら、
「なんで叩かれたか分かるよね?」
今村君の袖を捕らえて廊下へ引っ張り出す。
「…どうせ堕ろさせるんでしょ? だったらそれ相応の費用をアンタが出しなさい」
低い声で言うと、今村君は壁にもたれかかるみたいに蹲って、私を睨み上げてくる。
「そういう行為をする時に、男のアンタがちゃんと配慮するべきだよね。そんなので私を鬱陶しがれるなんて、
片腹痛いよ」
…気持ちは分からないでもないのだ。私だって「カレ」とそういうことを、二回だけどした。
天田さんはそういう配慮をしてくれたから、私が美帆ちゃんのような目にあうことはなかったし、
だからといってこの二人と同じことをした私が、今村君を責められるほど偉くもないかもしれないけれど、
「…奥井君だってそういうこと、スジが通らないって言うよ。もしも一人で費用を用意できないなら、
アンタが信奉している奥井君にも頼ったらどう?」
結局、奥井君だってそれだけの男だったのだ。そう思ったら、やっと吹っ切れたような気がして、
「女の子を傷つけてうっちゃって平気な男がいるサークルに、OBとして在籍していたくないから」
廊下に『うんこ座り』をしたまま、いつの間にかうつむいている今村君に、
「…除名するように言って。費用は一週間以内に私らの研究室へアンタが持って来るんだよ?」
私は頭に血が上ったままの状態でそう告げたのだ。
結局、美帆ちゃんはまた病院へ行くことになった。
…私は今、大学の講義がテストだけになっていることにつくづく感謝していた。でなかったら、
体調を崩してる彼女は講義に出ることなんて出来なかったろう。辛うじてテストだけを
受けた美帆ちゃんの顔は、全部のテストが終わってもまだ青くて、
「…もう秋休みに入るんだから、ゆっくり寝てなよね?」
「うん…」
研究室に行く以外は下宿の部屋の、布団の中にこもっている彼女へ、私はおかゆを作りながら
そう言うのだ。
「伯母ちゃんにも言わない。他の誰にも言わないから」
「うん」
枕元へご飯を載せたお盆をそっと置いても、美帆ちゃんはもっと深く布団へ篭ってしまうばかりで、
(無理もないよね)
当たり前だけど、心も身体も本当に深く傷ついたに違いない。
「側にいようか?」
「うん」
何を言っても帰ってくる言葉は「うん」ばかりだから、それを良いことに私は彼女の側にいて、
コタツに入りながらリンゴを剥いていた。やがて、
「…あっちゃん」
小さな小さな声が聞こえてくる。
「ん? どうした? トイレ? だったら支えるよ」
「違うよ」
私が言うと、美帆ちゃんが布団の中で軽く失笑する声が聞こえて、
「けんちゃんをあまり責めないでね?」
「…分かった」
その言葉で、もう美帆ちゃんの中ではケリがついてる…美帆ちゃんがケリをつけようとしているのが
分かったし、傷ついたのは私よりも当人である美帆ちゃんのほうなんだから、
「私も忘れるよ」
私が頷くと、やっと美帆ちゃんは布団の中から顔を出して、真っ赤な目をしたまま笑ったのだ。
そして私は、私の「希望」どおり、T大演劇部から除名されたのだという。
今村君は多分、『本当のこと』を言っていないに違いない。だけどもうそれでいい。
九月に入って、私はT大じゃなくて、地元のH県にある大学の農学部大学院を受験することになった。
天田さんのいるO県と隣接しているから、
(受かったら、また会えるよね)
そんな風に考えて、ちょっと心が浮き立って…でも美帆ちゃんのことを思い出して、そんな自分に
苦笑したものだ。
それから半年…卒業論文で忙しくて、お正月でさえ実家に帰ることが出来なかった慌しい冬が過ぎて
春が来て、
「あっちゃん、おめでとう」
「はは、ありがとう」
いつの間にか、私は卒業することになっていた。
落とした必須単位もない。卒業論文の発表も、緊張したけど上手く行った。H大農学部大学院研究科にも
無事に合格した。
(もう、何もいうことないはずなのにな)
卒業式の日である今日は、幸いなことに晴れていた。お母さんは昼にT市に到着するってことだから、
式本番には間に合わないだろう。
(少しだけ…見るくらいはいいよね)
式の開始時刻にもまだ間がある。だから、私は学生会館の隣のあの坂を下った。
当たり前だけど、まだ桜の開花には早い。
春が来るたびに魅せられたその桜並木をゆっくりと下って、懐かしいクラブハウス、プレハブ小屋の
合間の道を通って、『共練』の扉の前へ到着する。
そこは相変わらず古臭い南京錠で閉じられていたけれど、
(懐かしいなあ)
ここにはかつて、確かに私も居た。小さな階段を上って、その扉へそっと片手で触れて、私は目を閉じる。
そこへ、
「わ!」
いきなり肩に手を置かれた。びっくりして振り向いたら、そこには、
「…いつこっちに来ていたんですか?」
「今朝早く」
私のカレがいた。
「仕事は…いいんですか? 生徒さんたち、大丈夫なんですか?」
「サボってきた。うん、有給もらった」
「わあ、悪い先生」
「はは、冗談。今日は土曜日だよ? 先生はお休み」
「あ、そっか」
笑いながら、たちまち目が潤む。
「きっとここにいると思った。だから、ね」
彼は、初めてそうした時のように、私へ向かっておずおずと両手を広げる。学生の時とは
全然違う、スーツにネクタイで「キメた」格好だったけれど、
「…卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
抱き締めた時の温もりはそのままだった。
「そろそろ式、始まるんじゃない?」
「あ、そうだ」
しばらくして、我に帰ったように天田さんが言う。だから私も慌てて来た道を一緒に戻っていこうとして、
(ありがとう…さよなら)
もう一度だけ『共練』を振り返って、小さく手を振った。
彼と手をつないで坂を上りながら閉じた目に浮かんだのは、
(私たちの、舞台)
泣きたくて、嬉しくて…これからもきっと、そんな気持ちと一緒に思い出せるLast Stage。

〜FIN

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