追悼の波 2



「はい…私が発見、しました…」
 石崎と柳川が研究室へ戻ってくると、そこにはすでにT県警がいて、
「どういう状況だったのか、もう一度詳しく教えてくれませんか」
研究室の椅子に座ったままの二人の後輩を、やはり二人の刑事らしき人物が
左右に立って詰問していた。
 入り口でたたらを踏んだ石崎と柳川へ、
「純ちゃん、あきらん」
 中谷がそっと声をかけ、目配せをしてとある部屋を示す。他の仲間たちは、
  どうやら下を挟んで向かい側にある院生専用研究室へ「退避」しているらしい。
「…いつから『ああ』なんだ?」
「純ちゃんが帰ってくる少し前からだよ」
 石崎がそちらへ向かって歩き出しながらそっと尋ねると、中谷も声を潜めて囁き返した。
「同じことばかり何度も何度も…かわいそうだよね、吉元さんも」
「そうだな…」
 吉元美紀。彼らの一学年下で、死んだ川本の恋人でもあった。川村の好みらしい、
  色白で肩まで延びた黒い髪の、いわゆる「女の子らしい女の子」…。
 今回も、電話はしたが中々出てこない川本を心配した助手、塚口武雄に頼まれて
下宿先へ行ったところを、
「…首つってたのを発見したのが、川村君の恋人だなんて」
「ああ」
彼女が一番に、「自殺」していた彼を発見したというところらしい。
 中谷が、少しそばかすの浮いた頬で俯く。つられるようにしてがっしりした
  腕を組んでため息をつきかけて、
「おい、柳川」
彼は、てっきり側にいるものと思い込んでいた「研究室の問題児」がまだ入り口の扉に
張り付いているのを発見し、呆れて声をかけた。
「何してるんだ、不謹慎だぞ」
 そっと近づいていって二の腕を取ろうとすると、彼女はすっと目を細めて彼を見、
  「来るな」と言った風に左手を上げた。
 それに気おされるようにたたらを踏んで、
(まただ)
石崎は苦笑した。
 こうなると、柳川はこちらの言うことなど聞きもしない。無視もしないかわりに返事もせず、
  従ってこちらのいうことがちゃんと彼女の頭の中に届いているのかいないのか、
「お前なあ」
 しばらくして、そちら側の部屋の空気が動く気配がした。ようやく警察は吉元を
  解放する気になったらしい。それと同時にやっと柳川も納得した様子で石崎と中谷のほうへ向かってきて、
「お前、吉元の気持ちとか考えないわけ?」
「…考えてるからこうしてるんやって」
早速食って掛かった彼へ、柳川はしれっとした顔で言い返すのだ。
「ま、色んなことが分かった。最近の刑事さんって、わりにおしゃべりなんやなあ」
 小さなチェックの入った、どうやら今年の予定表らしいメモ帳備え付けの鉛筆を、
  その背表紙のところへ引っ掛けながら院生室へ入ろうとする彼女を引き止めて、
「…何が分かったって言うんだ」
「とにかく入らせてえな。入ったら言うから」
詰問する石崎へ、柳川は苦笑したのである。
「…死亡推定時刻、三月十一日午前六時半。死因は縊死。要するに首吊り自殺…」
 そして彼女が院生室へ入ると何となく、柳川が報告する形になる。コロちゃん伊原や、メ
  ガネの太田、キャプテン森川が、いとも無造作に「発表」していく柳川の言葉に一様に
  顔を険しくするのを意識しているのかいないのか、
「…遺書はなし。ただし最近は修士としての研究が進まないこと、つまり研究結果の
データが上手く取れなかったことを大変に苦にしており、塚口助手から『このデータだと
修士の資格を与えることが出来ない』と言われたことによる就職内定の取り消しも、彼の
『自殺』の直接の死因となったと見られる。以上」
淡々と柳川は続けて、そこで「メモ」を閉じた。
「『自殺』ってことになりそうやね、どうやらね」
「お前っ!」
(…あ…?)
 そこで言い終えて席に着いた柳川へ、「お前は自殺じゃないと言っていただろう」と
  言いかけた石崎は、何かを訴えるような柳川の目に気づいて口をつぐむ。
「私たち出来ることは、本当に何も無いんだ…本当に川村君、死んじゃったんだね」
 中谷が寂しそうにため息をつく。それは他の面々も同じで、何とも言えない顔をして
  腕を組んだり、ため息を着いたりしている。
「…そういうわけやから、私はこれで」
 すると、その沈痛な空気の流れる院生室にいたたまれなくなったのかどうかは知らないが、
  柳川が素っ気無くそういって立ち上がった。
(またか)
 そのまま出て行く彼女を、しかし今回は止めることもなく、
「俺もちょっと席を外すよ。悪いな」
石崎もまた仲間たちに言い置いて、柳川へ続いてその部屋を出た。
 てっきりそのまま研究棟を出るのかと思っていた柳川は、意外なことに向かい側の
  研究生待機室へ入っていく。そこの大きな机の側の椅子には、まだ吉元が呆然と
  座ったまま、窓の外を見ていて、
「よっちゃん?」
柳川が近づいて吉元のあだ名で呼ぶと、びくりと肩を波打たせて振り向いた。
「…柳川さん…」
 柳川の姿を認めると、この色白の後輩は柳川へ抱きついて泣きじゃくり始める。
(…こいつは、後輩には慕われてたんだよな)
その光景を見て、石崎はまた苦笑した。
「…聞きたいことがあるんや。立ち入ったことやけれども、正直に答えて欲しい」
「…はい」
 吉元が座った椅子の前にしゃがんで、俯いた彼女の顔を見上げるように
しながら、柳川は、
「…よっちゃんは、永山君がカレやったから、一緒にウチの研究室に入ったんやよな?」
吉元が「以前付き合っていた」恋人の名前を持ち出したのである。
 たちまち顔を凍りつかせる吉元に、柳川は続けて、
「永山君が、川村君とアンタを恨んでたってことはないよな? ウチの大学の研究室は、
入ったら途中変更効かんから。永山君がアンタと分かれて、自分の目の前で川村君と
付き合い始めたってこと、永山君はどう思ってたんかな」
「永山君は…関係ありませんっ! 彼は卒業したら会社に就職しましたから…それに
私と永山君は、ちゃんと話し合って別れて」
「うん。それやったらええ」
 聞きながら、よほど二人の間に割って入って柳川を怒鳴りつけようと思った石崎だったが、
「死ぬ前に、アンタに川村君が送ったものとか何か無かったか?」
「…それもありません…」
「そうか…悔しかったよな。恋人やのに何も相談してくれへんまま、勝手に逝ってしもたもんな、川村君は」
「はい…はいっ!」
 再び泣きじゃくり始めた吉元の髪へそっと手を伸ばして、「よしよし」といった風に
  撫でている柳川を見て、辛うじて思いとどまった。
(…ということは、川村があの化学式を送ったのは柳川だけ…)
 警察が出した午前六時半という死亡推定時刻と、柳川へ送られてきた川村からのメールの
  午前六時五十八分という時刻のずれもさることながら、
(なんで俺や他の…中谷とかじゃなくて、柳川に)
今更ながらそのことに思い当たって石崎は愕然としたのである。
(…あ)
話を終えたらしい柳川は泣きじゃくる吉元の肩を軽く二回叩いてそのまま立ち上がり、
こちらとすれ違おうとする。それを思わず避けながら、石崎は何故か焦っていた。
(俺が立ち聞きしていたのに、こいつは気を悪くしないのか?)
そして柳川は、同期の連中がいる院生室にはやはり戻ろうとせず、そのまま近くの入り
口から外へ出て行く。
なんとなく、その後について歩きながら、
(ひょっとして俺が逆だったら)
もしも彼女が立ち聞きしていたら、やはり激怒したかもしれないと、石崎は思って苦笑し
ていた。
…やはりどうやら、柳川の思考回路は自分たちとは少し違うらしい。
というよりも、そもそも石崎が聞いていようが聞いていまいが、彼女には「どうでもい
いこと」なのだろう。
(それにしても、どこへ行くんだろう)
 どこからかいい匂いが漂ってくるのは、大学のキャンパスの中で梅が咲いているせいかも
  しれない。そのキャンパスを素通りして、大学正門を出、何のためらいもなく左へ
曲がった彼女の後姿を見ながら、
(川村の下宿先か?)
ようやくそれに思い当たって石崎は足を速め、柳川の隣に並んだ。
試験も終わって、実質上の春休みに入っているせいか、大学の前の通りに学生の姿は少ない。
その道を柳川と並んでしばらく黙って歩いていた石崎は、
「…なんで俺がお前についていくのか、聞かないのか?」
やがて右手前に川村の下宿先…少しこぎれいなワンルームマンションを見て、たまりかねて声をかけた。
すると、光加減で茶色く見える切れ長の目で、柳川は彼を振り仰いで、
「…聞いて欲しかったん?」
(こいつ…!)
その言い方に、思わずまた頭に血が上りかけた石崎だったが、柳川のきょとんとした、心
底驚いているような目を見て、
(本当に、こいつに悪気はないんだ)
たちまち上りかけた血が引いていくのが自分でも分かった。
彼女は本当に驚いて尋ねているのだ。
思わず返す言葉を失った石崎へ、
「私に、ジブンの行動を制限する権利はないやろ? ジブンが私について来たいんやったら、
そないしたらええやん? 何か他に用事があるんやったら、そっちへ行ったらええ。
何も私、石崎君について来てくれ、言うてへんよ?」
「…分かった」
(参った。俺の負けだ)
言葉だけを聞いていれば、「ムカつく」ことこの上ない台詞ばかりだ。
だが、彼女のとぼけたような顔を見ていれば、それが底意地の悪さから発せられた言葉ではなくて、
心底そう思っているからのものだということが良く分かる。
 だもので、
「分かった。俺はお前に付いて来たかったんだ。川村の下宿に行くんなら、俺も付き合う」
両手を挙げて「降参」の意を示しながら、石崎は苦笑していた。
「そう? ならどうぞ」
 すると柳川はかすかに笑って前を向く。
(こういう奴だったんだ。新発見だな)
 再び、今度は彼女の歩調に合わせて歩きながら、今更ながら彼は驚いていた。
 考えてみれば、柳川とだけは在学中、同じ研究室にいながら五分も話をしなかった。こうして
  曲がりなりにも彼女とまともに話をしたのは、これが初めてだったのだ。
 そして、
『あきらんはね、悪い子じゃないよ?』
中谷の言葉が石崎の脳裏によみがえった。
(つまり、徹底的に他人に干渉しないけれど、自分が干渉されるのはどうでもいい。コイツの中では
色んなことがちゃんと『取捨選択』されてるんだ)
 冷たい、というのとはまた違うのだと、彼は彼なりに柳川を少しだけ見直したような気分になる。
「あ。刑事さん来てんなあ、やっぱり」
 赤い屋根の二階建てワンルームの前で、柳川はぴたりと足を止めた。
「…ここで『研究室の仲間でした』なんて言うて入っていっても、現場は見せてくれへんかな。
彼に貸したものがあるんですーとか言うて」
「あのなあ」
「そやかて、あんな、明日の新聞にも載るようなことだけ聞かされても、結局のところ、
ホンマのことは私らには何も分からんのやで? 新聞に載ってもOKやから刑事さんかて、
よっちゃんと他の研究室の子らが聞いても、差し支えのないことだけしゃべらはったんやから」
「お前、詳しいな」
「そら、サスペンスとか読むし、見るもん」
 そこで「くくっ」などと、まるで猫が笑うような表情で瞼を閉じて少し顎を引きながら柳川は笑い、
「こういう場合、刑事さんは大抵、頭から『自殺』いうセンで調べはるからなぁ。…イケるか」
と呟いたかと思うと次の瞬間、石崎が止める間もなく、貼り渡してある黄色いテープを
ひょいとくぐって向こう側へ行ってしまった。
(おいおい)
石崎が苦笑しながら、それでも柳川の後についていくと、
「君たち、一体何だね」
案の定、開けっ放しの部屋の入り口の前では一人ではあるが刑事が見張っていて、
ぺこりと頭を下げた柳川を見て目を剥いた。
「川村君と研究室が一緒だった学生です。彼を偲びたいので、部屋を見る許可をもらえませんか」
「あのねえ」
柳川が言うと、まるででこぼこのジャガイモを連想させる顔のその刑事は、さらに
どんぐりのような大きな目を剥いて、
「遺族もまだ来てないの。一通り部屋の調査は済んだけれども、他人を先に入れたら遺族の方々が気を悪くするだろうが」
「荒らさないように見ます。少しだけ、お願いします!」
しかし横柄な態度のその刑事に負けずに柳川は食い下がって、
「私、私も実は川村君が好きだったんです」
(…あのな)
なんと石崎も「びっくり」の驚くべき台詞を吐いたのである。
「ですからお願いです…どうか、お願いですから…」
そして、両手に顔を当てて泣き声さえ立ててみせる。するとその刑事も満更情の強い人間でもないらしく、
逆に慌てて、
「あ、泣かないでよ、弱ったなあ」
救いを求めるように石崎を見て、頭を掻いたりしていたが、石崎もただ肩をすくめるばかりなので、
「じゃあ、少しだけ。少しだけだから。ほら、泣かないで」
「…ありがとうございます…」
ジャガイモのような顔に似つかわしい、岩の板のような体をずらして、柳川を中へ通したのである。
「…五分だけだからね」
「はい!」
苦虫を噛み潰したようなその刑事へ明るく返事を返して、柳川は靴を脱ぎ、フローリングの床へ
上がった。石崎も呆れてため息を着きながら続いて上がると、
「…」
先ほどの「嘘泣き」は一転、すっと切れ長の目を細めた厳しい表情で、柳川はロフトの柱から
ぶらさがっているロープを見つめた。
(これか…このロープで、川村は)
川村が下宿していたワンルームマンションは、いわゆる「ロフトつき」で、中二階建て風になっている。
ロフトの上をベッドにしていたらしく、柵から覗く白い布団が石崎の目に痛ましく映る。
なるほど、この高さなら、183センチと高身長だった川村の足も届かず、「無事に」首をつることが出来たろう。
石崎が感傷を抱きながら、何度か訪問したことのある川村の部屋を見回している隣で、
柳川はすっと身をかがめてそのロープの真下を見つめ、
「…濡れて、乾いた後か…」
呟いたりなどしている。
サスペンスドラマでもよく見る、縊死にありがちな失禁のことを言っているらしいと苦笑しながら、
それでも石崎が黙って見ていると、
「パソコン、は…押収されへんかった、と」
言いながら、柳川は部屋の隅にあった机の上のパソコンの電源を勝手に入れた。
「おい」
「これ」
思わず止めようとした石崎の目の前へ、あの化学式の紙をつきつけて、
「どこから発信されたんか、確かめたい。もしもここからと違うかったんやったら…」
柳川はそれきり口をつぐんだ。
「違うんだったら?」
「ん…」
聞き返す石崎にはもはや答えず、彼女はメールフォルダを開く。
「…ない」
その中には受信、送信、削除済み、などというコンテンツがあり、それらをざっと見て、
柳川は少し首をかしげて呟いた。
そしてそのままパソコンの電源を切り、部屋を横切って玄関へ向かったと思うと、
「すみませんでした…気が済みましたから」
と、靴を履きながら件の刑事へ向かって殊勝気に頭を下げたのである。
その彼女の後に、慌てて石崎も続いた。
「それじゃ、失礼します。ありがとうございました」
もう一度ぺこりと頭を下げる柳川へ、「うむ」という風に頷いた刑事は、
「あ、待ちなさい君」
去ろうとする二人を呼び止めて、
「あー、私、こういう者でね。何かあったら、尋ねてきて」
と、名刺を一枚ずつ渡したのである。
彼らが思わずその顔を見つめなおすと、その刑事は照れたようにごつい手で後頭部をガリガリと掻き、
「まあ…実は私ね、川村君だかの死に不審を抱いておるんだわ。もしも何か変わったことがあったら、タレこんでくれんかな」
照れたように言った。


…続く。

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