追悼の波 1



 序

 波の音が、今朝は一段と近い。
 カーテンから漏れる朝の光が瞼を刺激して、石崎はふと目を覚ました。
(…六時半か)
 K税関へ勤める公務員のための寮である。
 去年の春、T 大農学部を卒業してほぼ1年、
(あいつら、どうしてるのかな)
 慣れない仕事を覚えるのに精一杯で、思い出すことも稀になっていた大学研究室
  の仲間たちのことをその時ふと、思い出したのもあの事件の前触れだったのかもしれない。
(眠れない)
 石崎は体質的に、一度眠りから覚めてしまうと、再び眠りに付くことが出来ない。
  苦笑しつつ備え付けのベッドへ半身を起こし、枕もとのタバコへ手をやったところで、
(…誰だ、朝っぱらから)
 電話のディスプレイが光った。それが『同期の仲間』の一人の電話番号であることを確かめて、
「もしもし」
「ああ、純ちゃん? 私、かおり! 研究室から電話があってね…」
 受話器を取った石崎の顔は、次第に強張っていった。


…200×年3月11日午前7時のことである。



    1  再会の叙


「川村君が、下宿先で首吊り自殺したんだって。だから、塚口先生が大至急、
私達の間に報せて回すようにって」
(…川村)
とるものもとりあえず、JRのS駅からT県行きの特急列車に飛び乗った石崎の頭に、
訃報を報せた中谷かおりの声と『親友』の顔が交互に浮かぶ。
 勤め先の税関へは、すぐに電話して有給を取ったものの、
(良く考えれば、俺が行ったところで何か出来るわけでもないな…)
苦笑しながら、石崎は列車の座席にぐったりと背を沈めた。
 川村幸信。石崎の「大の親友」だった。大学の研究室の中でも、なんとなく二人で
  同期の連中のまとめ役のようなことをやり、教授からの信頼も厚かった。
 卒業後、川村はそのままT大農学部の大学院へ進み、自分はK税関へ就職したが、
(全然そんな風に見えなかったのにな)
研究の上での行き詰まりや、何かプライベートで悩んでいるという風にも見えなかった。
生来が能天気で明るくて『お調子者』で…
(俺より女にモテた)
その彼が首をつったとは、とても信じられない。
 何よりも、二十三歳という若さなのだ。もう『正式な喪服』がいるようになるなんて、
  と、苦笑したところで、列車のアナウンスがT駅に着いたことを告げた。
 短く刈った髪をなんとなしに掻きながら、石崎が網棚に載せていた自分の荷物を下ろすと、
(あれ、あいつ…来たのか)
窓の外に、同期だった「あいつ」の姿を見つけて彼は再び苦笑した。
 どうやら同じ列車だったらしい。石崎には気づいた風も無く、ボストンバッグを
  肩から提げてとっとと改札のある階段へと向かっていく。
 長かった髪の毛は、どうやら短く切ったらしい。
(あいつの態度で、俺が興奮しないでいられるかどうかがキモだな)
 気を取り直すように大きく息をつき、同じように荷物を肩から下げて、石崎もまたホームへ降り立った。

 初春のT県は、彼が卒業した時と同じ、柔らかい日差しに包まれている。
 T大の研究室に入っていくと、8人いた同期の仲間たちはすでに4人が揃っていて、
「純一郎ちゃん」
 中央の大きな机の一端に座っていた中谷が彼を認め、声をかけてきた。
 中谷の話では、
「とりあえず、私たち同期の人間で、集まれる人間はすぐに研究室に集まるって言ってたけど」
とのことらしいが、
「あいつは?」
 かつて徹夜で酒盛りをしたこともあるその机の周りには、石崎が少し苦手意識を
  持っていた「あいつ」…柳川晶の姿は無かった。
「大学院生研究室の部屋へ行って、川村君の机にお花をあげてから、また出て行ったよ」
 中谷もまた、少し顔をしかめた石崎の顔を見て苦笑する。
 石崎の認識では、中谷も、そしてその側で椅子に座っている「眼鏡の太田」や
  「キャプテン森川」も、「コロちゃん伊原」も、全て等しく「友達」であり、
  卒業してからも何かと連絡を取っていたのだが、
「あきらんもね、悪い子じゃないよ、純ちゃん」
柳川のニックネームを口にして、中谷はとりなすように言った。
「まあ、な」
 柳川とだけは、連絡を取らなかった。取る気になれなかった、といった方が正しい。
「どこへ行った?」
「さあ」
そして石崎の問いに答えられるものも、大学在学当時と同じように、いない。
 中谷が少し肩をすくめて首を振るのを、
「世話の焼けるやつ」
むしろ腹正しい思いで見ながら、石崎は乱暴に自分の荷物をその机の一方へ置き、
「探してくる」
言い捨てて、研究室を出て行ったのである。

(行き先は大抵決まってる)
なんだかんだで、大学の同じ時間を過ごした「仲間」である。柳川が好みそうな場所も
中谷に聞いて知っていたし、石崎自身もその場所に彼女がいたのをたびたび目撃していた。
だもので、
「柳川!」
鳥取砂丘に吹き付ける風は、今日も強い。切り立った断崖のように見えるが、その実砂
が堆積して出来た「崖」の先に、ぽつねんと座っている人影を見つけて、石崎は声をかけ
た。
シーズンオフでもあるので、人はまばらである。風の音で聞こえないのか、
「柳川! おい、柳川!」
石崎が砂紋を踏みながら近づいていって、何度か声をかけたところでやっと彼女は振り
向いた。
「ああ、石崎君」
「ああ、じゃない」
彼を認めて、口元にわずかな笑みを浮かべる。思えば、彼女はいつもこうだった。
石崎が露骨に顔をしかめても、柳川はどこかとぼけたような表情を崩さない。
「久しぶり。元気そうやな」
「…お前、こんなとこで何してる」
そして相変わらず人を食ったような「関西弁」は健在らしい。
もっとも、彼女は関西生まれ関西育ち、それを他のイントネーションに改めろといわれ
ても無理な話だろうが。
「ん…まあ…独りになりたかっただけや」
「独りにって、お前」
石崎の責めるような口調も、相変わらず彼女には通じない。ちらりと背後の彼を見上げ
ただけで、柳川はすぐにその視線を砂の崖の下に広がる海へ落とした。
忌々しい気分で石崎もそちらへ目をやると、
(…花)
白く泡立つ波の間に、色とりどりの花が見える。ふと柳川の手へ目をやると、赤いリ
ボンが隠すように握られていて、
(ああ、こいつは)
こういうヤツだったのだと、改めて石崎は苦笑した。
柳川晶。彼が今まで生きてきた中で、唯一理解不能な人間。
協調性はまるっきりない、というわけではないらしい。中谷や伊原に言われれば、きち
んと研究室の共同作業には出てきたし、農学専門英語ゼミへの出席も欠かさなかった。
だが、いつだって彼女の目は研究室の仲間でも、やっていた研究内容でもなく、
どこか遠くを見ていたようで…。
「お前な」
 軽く舌打ちして、石崎は忌々しさと一緒に彼女の隣へどっかりと腰を下ろし、あぐらをかく。
「皆、研究室にいるんだぞ。塚口先生だってもうすぐ来る。なのになんでいつだって
お前だけ、独りでいようとするんだ」
すると彼女はまた、かすかに笑って言うのだ。
「…湿っぽいのは嫌いや。大学にも警察、来てるやろ。警察なんかに
根掘り葉掘り聞かれるのはもっと嫌や」
「…」
「皆と一緒に何かするってのも苦手や。それはアンタかて知ってたやろ?
…今回かて、川村君が死んだからて、皆と一緒になって泣く、て…ウソみたいになるって思たからな」
「なんで、何がウソになるんだよ」
「んー…なんとなく」
「なんだよそれ。訳が分からないこと言うな」
ここで彼女に怒ると『負け』だと分かっていながら、どうしても石崎の声は大きくなる。
(理解不能…理解不能)
 頭の中で、またそんな声が響く。
「とにかく、お前も研究室の一員だったんだから、戻れ。俺は行く。警察に
根掘り葉掘り聞かれるのが嫌だって、それはお前のわがままだ」
 濃紺のGパンについた砂を払いながら、石崎は立ち上がった。
「ん…分かってるけどなぁ。うん、分かってるけど」
 すると、彼女も同じように、明るい水色のGパンを払って立ち上がる。
「実家にも警察が押しかけてきて、散々聞かれた」
「ああ…まあ、そりゃ当然だろ。一応はお前も、川村と付き合いはあったんだし」
「一緒に情報交換しようや、って言うてた、川村君」
「そうか」
素っ気無く言って足早に歩き出すと、柳川はそれを気にした風もなく、マイペースに、
しかし彼の足の速さに合わせて付いてくる。
「今朝、川村君から私のパソコンにメールが来てた」
 なんとなく、並んで歩くのが嫌でより速くなっていた石崎の足が、そこでざくっと
  音を立てて砂を踏んだ。
「…なんだって?」
「日付は三月十一日午前六時五八分。…見るか?」
「寄越せ」
「ん」
石崎が言うと、柳川はかすかに笑って頷き、Gパンの尻ポケットから四つに折りたたんだ紙切れを差し出す。
 ひったくるようにそれを受け取り、広げて、
「…何だこれ」
「ベンゼン環やろ。そやけど私も見たことのない化学式や」
 わざわざプリンターから打ち出したらしい。石崎の横から伸びた柳川の白い指が、炭素
記号の並んだ化学反応式を示す。
「警察には?」
「こっちから言うまでもなかった。O県警の人らがウチに来て、ヒトのパソコン、隅から
隅まで全部ひっくり返して見て行きよった。しまいめにはパソコンごと取られてしもて。
後で返すて言うてたけど、警察の『後』って、何年後やら。そう思たから」
そこで柳川は石崎の手から紙切れをひょいと取り上げ、
「これだけは、警察の人間の目を盗んで打ち出しといた」
ニヤリと笑って言ったのである。
「川村君は、自殺とちゃう。石崎君、アンタかて信じてへんやろ?」
「なんでそう思うんだよ」
「はは」
 彼が思わず突っかかるように言うと、柳川は白い歯を見せて少し笑い、
「私がここへ帰ってきたんは」
再び紙切れを4つにたたんで無造作に自分の尻ポケットへ入れ、石崎に先んじて大学へ向
かって歩き出した。
「それを確かめるためと、まあ…『逃げる』ためやな」
「え?」
「なんでもない。研究室、戻るんやろ?」
言い捨てて、くるりと彼女は背中を向ける。背中の真ん中辺りまで伸びていた彼女の茶
色い髪は、襟足まで見えるほどに短く切られていて、
(『逃げる』ため…何があったんだろう)
 それを見ながら一瞬、彼はそう思い、けれど、
(俺には関係ない)
どうせそう考えて『やった』ところで、柳川からはそれこそ砂の粒ほどでも関心が向けら
れるわけでもないと思いなおして、石崎も研究室へ戻っていったのである。


…続く。

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