Last Stage M




結局その夜、本当に美帆ちゃんは下宿に帰ってこなかった。
幸い、私の熱は天田さんが気遣ってくれたせいか、一晩で下がったのだけれど、
(うーん…)
せっかく行った大学。今日は午前中の講義は休講で、午後の実験だけ。帰ろうと思って
(部室にでも)
と思いかけたけど、まだ少しどこか身体がだるいし、それに今日は誰とも
顔を合わせたくない気分なのだ。
(演劇部、サボッちゃおっかな)
ふとそう思った。私の出番ってば極端に少ないし、小道具なんて作る必要ないし、
だったらもう一日くらい「大事をとって」サボったところで、何の支障もないもの。
それに何より、天田さんに言われて気付いてしまった。『親戚は当てにはならない』。
本当の姉妹みたいに仲良くしてきたっていうのは、私だけが思ってることかもしれないし、
私が思ってるんだから美帆ちゃんにも私のことを心配しろ、っていうのは押し付けにしか過ぎない。
だから、こっちも、
(やーめたやめた! 美帆ちゃんの面倒見て、心配するのはこれっきり!)
それでいいのかもしれない。
部室へ行く気にもならないし、午後の授業まで本当に4時間くらいはあるけれど、下宿に帰る気にも
ならない。
(天田さん、来てるかな)
だから、私の足はまた自然に教育学部棟へ向かった。まだまだ一限目が始まったばかりだし、
三年生で、しかも教職を目指してるっていったら、それ専門の講義でびっしり詰まってるんだろうから、
いくらなんでも朝からピアノ室にいないだろうって思うけれど、
(あれが熱に浮かされてみた夢じゃないなら、ちゃんと返事しなきゃ)
…私も、貴方が好きですって。
(うわあ…どうしよう)
考えたら、また熱が出てきたみたいに頭がぼーっとなった。今まで男の人をそういう風に見ていなかった分、
「利子」がついたのかも。
結局、学館へ戻って、お茶でもしようかって思いながら踵を返したとき、
(あ、ケータイ)
カバンの中の携帯電話が鳴った。そのディスプレイに並んでいる文字を見て、
(天田さん)
また顔に血が上る。震える手でそれを開いて、
「えー、あの、もしもーし…」
「やあ、えー、はい、天田です」
お互いにおずおずしながら言ってるのが丸分かりで、そう言い合った途端、二人とも爆笑していた。
だけどそのおかげで、緊張が少し解けたみたい。
「今、講義が終わったんだ。で、次の時間が休講になっちゃってさ。ほら、上見て、上」
「上?」
あれ?なんて思いながら、携帯を耳へ当てたまま教育学部棟を見上げたら、
「あはは! なぁんだ、そこから見えてたんですね」
「うん。たまたま通りがかったら君が歩いてるのが見えたから。これは!と思った」
教育学部棟の三階。その窓から天田さんが笑いながら手を振っている。
「お嬢さん、今ヒマ? ならお茶でもしませんか」
「あはは、はい、ナンパされました。お茶しましょう」
見ていたら、天田さんはカバンを背負いなおしながら、窓際にある階段を降りてくる。
「ナンパか、確かに。はははは」
「ふふふふ」
しゃべっているうちに、熱もどこかに吹っ飛んだらしい。今日のT市は、梅雨時のこの市にしたら珍しく
ピーカン晴れで、
「講義がなかったら、K港にでも行くんだけどなあ」
「K港?」
「うん」
降りてきた天田さんとT大生御用達『K銀座』へ並んで向かいながら、なんとなく自然に会話は始まっている。
「一度、漁師のアルバイトやったことがあってさ。その時に、『T大生さんだから』っていうんで、
バイト代の他に魚、いっぱいもらったんだ」
「へえ…あ、なんだか似合ってそうですね」
「こら、君って意外と失礼だなぁ」
「あ、ごめんなさい」
「いやいや。だけど、自分でもそう思ったよ。こう、ねじり鉢巻締めてさ。黒のゴム長に潮よけの黒い
前掛けつけたらさ。もうズッポリはまってんの、カッコから」
「あははは」
「一年の時、二、三回やっただけだけどさ。その時に思ったわけ。『役作りに格好から入るって
このことか』って」
「…なるほど」
千円札とか、お札を出さないで食べられるから、大学のあるK地区を取って『K銀座』なんて呼ばれてる
食べ物屋が並ぶ界隈。そのうちの「喫茶L」へ、私たちはごく自然な風に入る。
「で、そのK港。釣りにもいいんだ。だから」
「はい」
「えっと、だから」
向いあって座った窓際の席。やってきたT大生のバイトウエイトレスさんに「ケーキセット二つ」
なんて注文してくれながら、天田さんは、そこで少し伸びてきた髭の中の顔を赤らめた。
「まだ公演、忙しくないよね? だから、土曜日…明日か、一緒に行かないかな、と」
「はい、行きます」
そして彼へ、私は自分でも意外なほどに「すぐ」はっきりと答えていた。答えてしまってから、
また顔に血が上ってしまったけれど、
「じゃあ、よろしく」
天田さんが、ホッとしたみたいににっこり笑う。釣られて笑い返したときに、ウエイトレスさんが
ケーキセットを持ってきた。
「で? 今回演るのはどんな風なヤツ?」
「あ、これなんですけど」
砂糖もミルクも入れないでコーヒーを飲みながら言う天田さんへ、私はカバンから出した台本を渡す。
すると天田さんはそれを片手でパラパラとめくりながら、時々笑って、
「なるほど、奥井らしい」
その言葉と一緒に台本を閉じた。
「今回のホン、いうなればこれ『現実逃避』がテーマだよね」
「『現実逃避』ですか」
「うん。あ、どうぞ遠慮なく」
「あ、すみません」
気付いたみたいに天田さんが勧めてまま、私もケーキを口へ運びながら、彼の口元を見つめる。
「普通に暮らしているサラリーマンの『男1』と、その彼女でウエイトレスをやってる『女1』、
男1が住んでるアパートの大家の『男2』、宗教勧誘者の『女2』と、隣の部屋の『男3』。
皆、どこにでもいる普通の人間で、それがいきなり、
『これがドラマだったらいいよな』
なんていう男1の言葉でドラマが始まってしまう。よく分からないまま観客は引き込まれて、
笑わされて、か…だけどこれ、役柄がある意味ハッキリしていない分、結構難しいよ」
「そうなんですよね」
どこそこの妖精、とか、どこそこのお母さん、とかいうんじゃなくて、本当にどこにでもいる「普通の人」
が、突然「地球防衛軍」と「侵略者」になって、訳の分からないドタバタ劇を繰り広げる…っていうのが、
今回の芝居「スクリーン一杯の星空でフルコンプ」なのだ。
私に言わせれば、どこでどうしてそういう題名になるのか良く分からなかった。だけどこれも
今の「流行の形」のシナリオなのかもしれないって思ってたんだよね。
「だから迷ってます。『素』の自分を出せばいいのか、それともやっぱり『きちんと』演じたほうがいいのか」
「…うん。これは迷う」
天田さんも、私の前で遠慮なく大きな口を開けてケーキを放り込みながら頷いて、
「奥井は多分これ、『面白い』っていうだけで選んだのかもしれない。あいつ、結構そういうところも
あるヤツだし…あ、悪い意味で、じゃないよ? とにかく『自分たちも観客も面白いのが一番』だって
いう、確固たるポリシーを持ってるヤツだってこと」
「はい、それは分かります」
私も深く頷く。今回の演出を見ていれば分かる。テンポが良くて、役者の子たちもノセて、
皆が楽しく演ってる。私にもそう見えるのだから。
「だから、そうだなぁ」
台本を私へ返してくれながら、天田さんは大きく伸びをして、
「今回は自分を出していいんじゃないか? ヨシモトとかコメディアンがやる舞台みたいに、
気負わず、かつ演じる、それでいいのかな、なんて」
「そう、ですね」
「あ、だけどやっぱりこういうのは、奥井と相談するべきなんだよね。一度奥井とよく
話し合ってご覧よ。尾山でもいい。尾山のほうが話しやすいっていうなら、そのほうがいいね」
「はい」
天田さんに苦笑いしながら言われて、私もほろ苦く笑った。卒論で忙しいはずのぼのさんは相変わらず、
稽古中に遊びに来ては私たちの演技に文句をつける、ってのを繰り返してるけど、坂さんは
遊びに来ても口出しは一切しない。だから、実際、悪いんだけど私たちもぼのさんをちょっと敬遠したりしている。
奥井君はというと、そんな先輩達を一切無視して、話しかけすらしない。先輩達が来るのを、時には
本当に嫌がっている風にすら見える。
好意的に見るなら、それは多分、
「自分たちの芝居なんだから、今、ここにいる自分たちだけで創り上げるのがスジだ」
って奥井君が思ってるってことで、だけどそれは逆に言うなら、
「引退して無関係な人間があれこれ口出しするな。鬱陶しい」
ってことにもなる。
「確かに引退した人間が、劇の内容についてあれこれ口を出すにはちょっと、って、俺も思うんだけど」
私が思っていたままを言うと、天田さんは苦笑して、
「休憩時間のときくらいは、戯れてくれても…なーんて思っちゃうんだよね」
「はは、そうでしょうねえ」
とくに演劇部に思い入れの強かった坂さんは、きっとものすごく寂しい思いをしてるに違いない。
今の劇について相談は一切するな、とは言わないけれども、見ているだけと、そして休憩時間の間にくらいだけは
他愛ないことを話すってのを許して欲しい、って思うのは無理もないんじゃないかな。
(だから加藤さん、全然こっちに来ないんだ)
農学部だから、工学部と違って「植物」相手、つまり生き物相手だから、卒論実験で忙しいのは分かるけど、
あのマメで寡黙で、今時手書きで全部シナリオを書くほどの人が、演劇部に来ないっておかしいと思ったんだよね。
「ま、とにかく出ようか。それともここでメシも食ってく?」
「そうですねえ」
ちょっと暗くなってしまった雰囲気をほぐすみたいに天田さんが言うのへ、私もちょっと考えてたら、
「あれ、あっちゃん。具合、もういいんだ? あ、天田さん、こんにちはー」
「美帆ちゃん」
まさに予想外、だった。Lの扉を開けて今村君と一緒に入ってきたのは美帆ちゃんで、
「まあさ、私よりずっと丈夫なあっちゃんのことだから、大したコトないだろうし、今日には
出てくると思ってたんだけどね。大丈夫だった?」
「…たいしたことなかったのは事実だが、アンタに言われたくないね」
私が皮肉を込めて言うと、美帆ちゃんはそれを冗談だと受け取ったのか「あはは」なんてあっけらかんと笑って、
「奥井さんもさ、さっき正門で会ったんだ。これから一緒にゴハン食べませんかって言ったら、
後から行くから、って言ってた。もうすぐ来るんじゃないかな」
そんな美帆ちゃんを、天田さんは苦笑いしながらただ黙って見ていたけれど、
「ごめんな。『俺ら』、これからちょっと。ね?川上さん」
言いながら立ち上がって、私を促す。
…悪いけど、ホッとした。助かった。
「ばいばーい! また演劇部でね」
「…うん」
能天気な従妹へ手を振って、私たちはLを出た。
奥井君のいいところ、私は認めているけれど、奥井君だって「鬱陶しい先輩」や「認めていない人間」とご飯の時まで
一緒にいたくないだろう。
美帆ちゃんだって、奥井君「お気に入り」の今村君といつも一緒なら、そこらんのところ、分かってるはずなのに、
「彼女なりの気遣いなんだよ」
「そうでしょうか、ね」
Lを出て、私たちはまた苦笑いし合った。確かにそうかもしれない。美帆ちゃんが私たちへ誘いをかけたのは多分
「お義理」で、奥井君に心酔している今村君だけだったなら、そういうことを言いもしなかったに違いない。
「だけど、演劇が好きなんだよね」
「そうです」
大学へ向かって歩きながら、天田さんが言うのへ私は頷いた。私が奥井君に認められていなくても、居心地が少し
悪くても、今の演劇部にいるのは、ただ「演劇が好き」だから。それだけの理由だし、それに言葉でいくら「弁解」
したところで、「川上は役立たず」っていう彼の印象を覆せるわけがないから、そしてその印象を覆すためには、
それ以上の行動で示さなきゃならないわけで、
「ま、それがいつ出来るか分かりませんけど」
「そうだねえ。だけどさ」
大学の正門の少し手前には小さな橋が架かっている。その土手の下を一時間に四本しかない「汽車」が
走るわけなんだけれど、そこへ差し掛かると天田さんは不意に足を止め、私の頭を軽く叩いた。
「引退した…っていうか、今の演劇部から『逃げた』人間が言うのもなんだけど、俺は君の味方だから」
「ありがとうございます」
二時限目の講義が始まっている時間のせいか、他の大学生の姿は嘘みたいにない。橋の欄干に手をかけて、
線路の先を見やる天田さんと並んで、私も同じように手をかけたら、
「君の、そういう…意外と芯の強いところも好きなんだ。最初は無愛想で、正直なんてとっつきにくい、
お高く留まっている子なんだろうと思ってた。だけど君をよく観て、実際に話してみたら全然違った。
俺も君を誤解していたクチだから、奥井のことは言えないんだけれど」
天田さんは頭をかきながら、私を見て、
「俺と付き合ってください」
軽く頭を下げたのだ。
…そしてその日の放課後。
「いつもの元気、ないじゃない。どうかした? まだ風邪、治ってないとか?」
演劇部にいつものように稽古に出て、いつものように練習していたはずなのに、
遊びに来ていた坂さんにそう言われてしまうほど、私はどうやらぼんやりしていたらしい。
慌てて笑って「いや、あの、何でも」なんて誤魔化して、だけど自分の出番が来ても
それまでなら言えていた台詞が頭の中からすっぽ抜けて、何度もダメ出しを食らって…
「ま、無理すんな。風邪、まだ治ってないんだろ。公演までに治してくれたら別に構わないし」
奥井君が素っ気無く言うのも気にならないほどに、
『俺と付き合ってください』
天田さんが言った言葉がぐるぐる私の頭の中を回っていたんである。
(明日、かぁ)
なんとか自分の出番だけの稽古が終わって、たかまが宣伝用のポスターを塗るのを手伝いながら、
自然に頬が緩む。
初めてのデートが『釣り』っていうのは、デートっぽくないかもしれないけど、
「…どんな格好、したらいいんだろう。釣りなんだよね…」
思わず呟いてしまって、
「今度の舞台の衣装、まだ揃えてなかったっけ?」
たかまに怪訝な顔をされたのは言うまでもない。


to be continued…

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