Last Stage L




(ん…なんだか身体がだるいなあ)
それに少し、喉も痛い。講義には頑張って出たけれど、今日は演劇部に出ずに
断って帰ったほうがいいかもしれない。
(美帆ちゃん…は、ま、当てにならんわな)
結局、大学に入学してから美帆ちゃんが下宿に帰ってきたのは最初の一週間だけで、
(やれやれ)
大学の講義にはちゃんと出ているみたいだけれど、それならそれで、伯母ちゃんの電話にも
ちゃんと出ればいいのに、なんてため息をつきながら、私はケータイを閉じた。
今日も、T市は雨が降っていて、ものすごく風も強い。ため息をつきつき学館へ向かう私の
ケータイには、伯母ちゃんからの着信履歴が今日で二回目だってことが記録されていて、
(美帆ちゃん、留守電にもしてないもんなあ)
私へは、私のお母さんからの電話なんて、週に一回あるかないかなのに…。
そういう従妹だから伯母ちゃんも心配だったんだ、って改めて思ってゲッソリしてしまった。
さすが親だ。美帆ちゃんのこと、当たり前かもしれないけど本当に良く知ってる。
(もう私からも電話しなおしたりしないもんね)
六月公演の稽古が始まるまで、まだ少し間がある。こういうクサッた時には、
(ピアノ、ピアノ)
ピアノを弾くに限るのだ。
幼稚園の時から始めて、たったの六年でやめてしまったピアノ。だけど弾き方はまだ
指が覚えている。暇つぶしにも最適だし、何より、
(天田さん、来てるかな)
そう考えると、なんだかテンションも揚がるから少し嬉しい。これって、ひょっとしたら一番お手軽な
「デート」なんじゃないだろうか、なーんて、はは。
…うん、多分、私は彼が好きなのだ。
背は尾山君や奥井君との間くらいで、髭が濃くて、少し太めで…
「やあ」
「こんにちは、研究室のほうは大丈夫なんですか?」
「うん。ゼミもさっき終わった。君らみたいな理系と違って文系だから、さほど時間は取らないんだよね」
だけど、私が行くと、待っていたみたいにピアノ室の扉を開けてくれる優しい人だから。
「…だから、本当は演劇部に残っていたって、支障はないんだけど、ね」
「…はは」
少しだけ苦笑しあって、私たちはまた並んで座る。狭いピアノ室へ響くのはやっぱりショパンで、
「女の子の指は、どうしても男と違ってリーチが足りないからね。特に君は手が小さいみたいだ」
「そうなんですよねえ」
指摘どおり、ショパンの曲を弾くには私の手や指は小さすぎて短すぎて、あまり適していない。
小学校三年生でやっと、一番下のドから上のシまで届いたって感じだった。本当なら
ドから上のレまで届くほど、指が長いのが望ましいのだ。
「でも、小学校三年生でやめたっていう割には、弾けてるほうなんじゃないの?」
「あはは、ありがとうございます」
天田さんと並んで座ったら…恋愛の本にあるみたいに好きでドキドキする、って言うのとも違う、
どこか安心すらできるような、ほっこりした気持ちになれる。
(だから、本当は恋とは違うのかもしれないなあ)
ひょっとしたら私は、彼に甘えているだけかもしれない。最初から、「男嫌いで性格が悪い」
私にめげずに話しかけてきてくれた人だから。
「わ、もう時間だ」
大切にしたいそんな時間って、いつも過ぎるのが早すぎるような気がする。
いつもみたいに天田さんのピアノテクニックに聞きほれて、ふと我に帰って腕時計を見たら、
集合時間の午後五時半まで後10分くらいしかない。
「あ、そっか…うん、残念」
そして天田さんは私が言って立ち上がると、本当に残念そうな顔をしてくれる…これも多分、
同じサークルの先輩として、心配してくれているからで、
「私も残念です…あれ?」
答えたところで、身体がぐらっと揺れた。
「…大丈夫? 熱っぽいみたいだけど」
「風邪、ひいたみたいなんですよね…すみません」
支えてくれた天田さんに、私は力なく笑い返した。
「今日は出ないで、家に帰ったほうがいいよ。送ってく」
「でも」
「送ってく」
天田さんは、なんだか怒った風にきっぱり言って、私の腕を取る。
「連絡なら、赤井さんに電話して伝えてもらったらいいじゃないか。こんな時の従妹だろう」
「は…はは、そう、ですね…」
ほとんど私に力を入れさせないで、天田さんはピアノ室を出た。
「それとも、あれは本当かい?」
「本当って」
今日も空はどんより曇ってはいるけれど、雨は降っていない。少し急ぎ足で歩きながら、
「赤井さんがほとんど下宿に帰ってこないってこと」
「…ええ、まあ…」
「人のことだから、口出ししたくはなかったけど」
私が苦笑しながら頷くと、天田さんはやっぱり怒ったような顔のまま、
「赤井さんは、君が赤井さんのことを心配しているほど、君のことを心配していないように見える」
「え…」
「いや、とにかく」
苦笑した天田さんの目に映る私は、なんだか本当に「熱に浮かされた病人」みたいな顔をしていて、
「赤井さんに電話して、欠席するって伝えてもらいなさい。今日の晩、『それ』が分かるかもしれない」
「は、い」
熱のせいなのか、天田さんの言ってることがいまいち私には分からなかった。だけど、
「君の部屋には入れないけど、もしも心細かったらいつでも連絡して。食べたいものとかあったら
持っていくから」
「すみません」
下宿へ向かって歩きながら、天田さんが言ってくれた通りに私は美帆ちゃんに電話した。
「あっちゃん。どうしたのー? あれ?来ないなー、なんて思ってたんだけどさ」
そしたら電話の向こうから、相変わらずノーテンキな美帆ちゃんの声が聞こえてきて、
「ん…ちょっと熱っぽいから、今日は休むって奥井君に言っといて」
ズキズキし始めた頭をふりふり、私は答える。
「ん、分かったー」
すると美帆ちゃんはそう言った後で、
「ま、私、今日もそっちへは帰らないからさ。お大事に〜」
…ぷっつり、なんて電話は切れた。
(…それだけ?)
しばらく呆然としたまま切れた電話を見つめてしまった私に、
「…一人で大丈夫?」
天田さんが、ぴたりと足を止めて尋ねる。いつの間にか私の下宿の前についていて、
「…ありがとうございました。大丈夫です」
なんだか泣きたいような気分で私は答える。苦笑しているところを見ると、電話の内容は
天田さんにも聞こえていたに違いない。
「悪気はないんですよ、彼女も。そういう子なんです」
そう、美帆ちゃんはそういう子なのだ。あっけらかんとしていて、大らかなところがいいところで、
ただ…
「あ、えー、そ、そうそう! ケーキとか、好きだったよね?」
「は? はい、そりゃ」
慌てたみたいに尋ねる天田さんへ向かって、私も何故だかにじんできた涙を慌てて拭った。
「買ってきて、もってくるから、ね? 持ってきたら窓の外から声をかけるから。君はもう
部屋に戻って横になっていたほうがいい」
「はい。すみません、それじゃ…」
「うん、じゃ、待ってて」
駆け出していく天田さんへ手を振って、私はふらふらしながら私の部屋への階段を上がった。
隣の美帆ちゃんの部屋には、当たり前だけど鍵がかけっぱなしになってる。そのことに改めて
苦笑しながら部屋へ入って、
(んー…ちょっとゾクゾクするよね)
押入れへ突っ込んでいた布団を引くのもそこそこに、毛布に包まって横になったら、
寒気までしてきた。
一人暮らしって、自由で楽だけど、こういう時ばかりはやっぱり心細い。
普段は滅多に風邪なんて引かないから、余計にそう思うのかも。
(お? 電話)
ため息を着いていたら、充電器に置いたケータイが鳴った。そこにあったのはワカメの
電話番号で、
「もしもーし、あっちゃん? 大丈夫? 実は学館で赤井さんにたまたま会ってさ、聞いたんだけども」
「あー、だいじょぶ、だいじょぶ。ありがとねー」
(遠くの親戚より近くの他人かぁ。友達っていいなあ!)
なーんて、私は思わずじーんとしてしまった。
「あっちゃん、ケーキ好きじゃん。だからさ、差し入れようかと思って今『かまた』に来てるんだけどさ」
「…あー、。悪いね…」
「そしたらさー、へっへっへ」
「なんでそんな風に笑うの。キモいぜベイベー」
…熱があってヘロヘロなのに、ほんとこういうとこ、「我ながらホント、いつでも自分を見失わないな」
なんて思う。するとワカメは続けて、
「天田さん、演劇部のセンパイだったよね? 『あれ? 確か君、川上さんのお友達だよね?』って
言われちゃった〜」
「…う」
それで彼女が何を言おうとしてるのか分かって、たちまち言葉に詰まってしまった。
「へっへっへ、ま、頑張ってねー。私はあっちゃんの味方だよ! いつでも応援するからね!
だけどま、今日は少しお邪魔かな〜」
「もう、ワカメっ!」
「あはは、じゃあね! いやマジ、お大事に。明日講義、出られる?」
「大丈夫だよ、ありがとう。また明日、大学でね」
「うん、じゃあね。お休み。お大事に」
「うん、ありがとう」
限り無い感謝を込めて、私は電話を切った。持つべき物は友達だ、本当にそう思う。
だけど、
(あー…熱が上がったみたいな気がする)
天田さんとのことを言われて、恥ずかしいことは恥ずかしいから、顔に血が上った。
この界隈で、ケーキ屋さんっていったら『かまた』しかないから、大抵はみんなそこで
ケーキを買うんだよね。だから、T大生の女の子はほとんどがそこの常連で、
「おーい、川上さん」
…今、窓の外から遠慮がちに私を呼んでる天田さんも、女の子に混じってケーキを買うなんて、
多分ものすごく恥ずかしかったろうな。
「はい、すぐ行きますから!」
窓を開けて、紛れもない天田さんがそこにいるのを確認してから、私は財布をひっつかんで
階段を駆け下りた。
下宿の入口には少し雨に濡れたらしい天田さんが、ケーキの箱を大事そうに抱えて待ってくれていて、
「すみません、あの、恥ずかしかったんじゃないですか?」
私が言うと「いやあ」なんて照れたみたいに彼は頭をかく。
だけど、
「あの、いくらで…」
「要らない」
箱を受け取って、財布を出しかけた私を、天田さんはきっぱりと止めた。驚いて彼の顔を見つめなおした私に、
「要らない」
彼はもう一度、少し傷ついたみたいな顔で繰り返す。
「あの、でも」
戸惑いながら、なんでだか分からないけど、私、(ものすごく間抜けで失礼なんじゃないだろうか)なんて思ってた。
「俺の一方的な好意でしかないかもしれないけど、俺は」
そこから先は、いきなり叩きつけるみたいにして降ってきた雨に遮られてよく聞こえなかったけれど、
『…君が、好きなんだ』
確かにそんな風に、天田さんの口は動いた。
「…じゃあまた、ピアノ室で」
土砂降りの雨が降っているのに、天田さんは逃げるみたいに外へ駆け出していく。
私はといえば、それを止める事も出来ずにただ呆然とケーキの箱をかかえたまま、彼が去っていった方角を
見つめて立ち尽くしていたのだった。


to be continued…

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