…でも、言いたかったんだ。4




だけどそんな時間は容赦なく過ぎていって、
「…帰ろうか」
しばらくして俺は言った。気がつけば太陽がすっかり沈んでしまっている。
俺達の側を、犬を連れた、俺達よりも少し年上っぽい女が、じろじろ見ながら通り過ぎていく。
耳のピアスも、指の指輪もやめた。髪の毛だって、彼女に合わせて黒く染め直した。
だけど、どんなに「普通の」格好を装ったところで、俺の体からは長年染み付いたすさんだ雰囲気が
発散されているんだろう。
そう思って顔を上げた途端、眩暈がした。地面がぐらぐら揺れて、
(怖い)
だからっていうわけじゃないけれど、
「…帰ろう」
「はい」
俺が再び促すと、彼女は柔らかく微笑んだ。
「まだ時間、あるようならさ。俺ん家の近く、通って送っていってもいい?」
「わ、いいですねえ」
あのワンルームに上げるわけにはいかない。だってあげたら最後、きっと俺は、
(彼女が拒んでもその服を破いて)
ひとつになりたいと望んで、それを実行するに違いないから。
駐車場に止めておいたバイクのエンジンをかけて、
「大丈夫? 行くよ」
「はぁい」
この前と今日、したみたいに、彼女は俺の腰へ柔らかい腕を回してぎゅっと力を込める。
(俺からは触れちゃいけない)
そうされるたび、切なくてたまらなくなって、胸の動悸が高くなる。頭も痛くなって地面がまた揺れる。
(せめて手だけでもつなぎたい)
だけど触れたら最後、きっと俺は彼女の髪の毛一本まで自分のものにしたくなるから。
揺れて歪む地面ヘ何とかバイクを転がしながら三十分。
「ここ。そこの青いカーテン、下がってるだろ? そこが俺の部屋」
「へえ」
ありきたりなワンルームマンションの駐車場へバイクを止めると、彼女はメットを外して、
「なんだか懐かしい。下宿してた頃を思い出してしまうみたいな感じです」
「…いつか」
「はい?」
俺の腰につかまったままの彼女を振り返って、俺もまたメットを外して言った。
「いつかまた、ここに来てくれたら」
「あはは、はい。遊びに来ますよ。私、方向音痴じゃないつもりなんで」
「…うん」
その反応に、俺は少しの失望を覚えながら、でも嬉しくて微笑んでいた。いつか、っていうのが
いっときのことだけじゃなくて、永遠になったらどれだけいいだろうと思ってるのは、
やっぱり俺だけで、
「…あ」
「大丈夫ですか!?」
その寂しさをはっきり自覚した途端、また酷い眩暈と吐き気が襲ってきた。
「あの、私、ここからならまだバスも通ってるし、一人で帰れますから」
バイクから降りて、思わず地面へ蹲ってしまった俺に、彼女は慌てた風に言う。
「だから、今日はもう休んでください、ね?」
「…ごめん、ね」
俺の肩にかかる指先が愛しくて、彼女の気遣いが申し訳なくて、
「送っていけない…ごめん」
繰り返すたびに、地面のうねりは酷くなる。
(怖い)
もうここにはいられない。早く部屋へ戻りたい。部屋にいたら、こんな状態になることは
ないのだから。
「立てます?」
「うん。だから、帰って」
バイクを支えにして、俺は辛うじて立ち上がる。
「俺の事なんか気にしないで。早く帰って」
帰れ、なんて…なんて思いやりの無い言葉。だけど息苦しいくらいに胸もドキドキしていて、
それ以上の言葉を口に出すのも辛い。
「は、はい。分かりました。あの、大事にして下さいね? またメールとか電話します!」
なのに彼女はそんな風に言って、俺を何度も振り返りながら帰っていく。
(行かないで…側にいて)
バス停は曲がり角の向こうにある。それを彼女が曲がってしまうまで、眩暈をこらえて見つめながら、
俺は心の中で、ただそれだけを思った。彼女の姿が完全に消えると、
『不釣合い』『いいところのお嬢さんを騙して』『中卒が』『不良みたいな格好』
途端に、俺の周囲からそんな声が一斉に俺を襲う。
どうしたんだろう。
(気にしていなかったはずなのに)
うねるコンクリの廊下を、やっとの思いで歩いて自分の部屋へ戻ったら、たちまちこの「症状」は消えた。
同時に、それまで頭の中でぐるぐる回っていたそんな雑音もぴたりとやんで、
(ああ…俺は)
外に出ることが、こんなにも怖くなっていたんだ。外灯の明かりが差し込むだけの暗い部屋の中で、
ケータイを充電器に置きながら、やっとそれに気付いた。
「同じ仲間」となら、(中卒)(すさんだ格好)(荒れて…)周りの声に気付いていても、
まるきり気にならなかったこと。オフクロだって、離婚したっていう負い目があるせいなのか、
俺に強く言わなかったこと。
(あまりにも「普通」な彼女と一緒に外に出たら、また言われる)
俺の人生を、「中卒だから」の一言で片付けてきた馬鹿な奴ら。そんな奴らをあざ笑いながら、
俺は心のどこかで奴らの目を恐れていた。そんな俺の前に現れた彼女自身が、(高学歴)(いいところの
お嬢さん)皮肉にも俺が抱えていた心の闇を引きずり出してしまった…。
「…店長、すみません。明日休ませてください」
明かりをつけないままの部屋の中、充電器に置いたケータイをまた取り上げて、俺はガソリンスタンドへ
そんな風に電話をしていた。
店長の許しが出て、俺は試しにまた、ワンルームの玄関の扉から外へ出てみる。
一歩踏み出した途端に、また地面は揺れて、
(歩けない…外に出られない)
少しずつ少しずつ、俺は『病気』になっていたんだとはっきり自覚した。外の世界は…俺が憧れていたはずの
彼女でさえも…全部俺の敵で、なのに俺は今、
(側にいて…声を聞かせて)
体を震わせながら戻った暗い部屋で、その中央の小さなテーブルへ頭を打ち付けるみたいに座り込みながら、
狂わんばかりに彼女を恋している。
そこへケータイが、メールが届いたことを知らせて、
『…優祐さんへ』
(綾さん…)
俺の名前で始まるそれは、彼女からのだった。
『今日もありがとうございました! お疲れのようだから、メールにしました。
ゆっくり休んでくださいね。じゃあまた』
(じゃあまた…)
最後の文字を見た時、俺は声を殺して泣いていた。


そのメールの返事はどうしても出来なくて、俺がその部屋から一歩も出られなくなって、
だからバイトもクビになって…どれくらい経ったんだろう。
彼女からの電話にも全然出なくて、なのに彼女の電話番号をディスプレイに見つけることが
嬉しいなんて。だけど彼女からの電話が無い日には、
(心配してくれてないんだ…寂しい…)
なんて自分勝手だったろう。その一方で、このままフェイドアウトしたほうがいいのかも、なんて
矛盾したことを思い始めた頃、
「どうしたんですか? 実家にでも帰っちゃったのかと思ってたのに…あ、あの、いきなり
来ちゃってごめんなさい!」
ベランダへ続く窓の外では、いつの間にか半袖になっている近所のガキたちがギャアギャア騒ぎながら
遊んでいて、
「…来てくれなくてもよかったのに」
(来てくれた…!)
その窓越しで、同じように半袖の、白いワンピースを着た彼女を眩しく見つめながら、
俺は心とは裏腹にそんなことを言っていた。
「どうしてそんな。あれから何があったんですか?」
「俺のことは、放っておいてくれていい。オフクロに連絡したから、オフクロも週に一回は
来てくれてるし、薬だって飲まなきゃならないし。俺、さ、もう外に出られないから。
出ようとしたら、地面が歪むんだ」
ベランダは、駐車場からも出入りできるように小さな階段がついている。
その下で、彼女は息を飲んだまま立ち尽くしている。これまでの会話とは正反対に、
「な、おかしいだろ? …俺…こんな…アタマがおかしいからさ。だから、君も」
今度は俺のほうが、口元をいやらしく歪めてベラベラしゃべり続けてる。
「君も…もうこんな俺に付き合う必要は無い。もっといい人を見つけたほうがいい」
「そんな。どうして」
「知りたい? 俺がどうしてこんな風になっちゃったのか、知りたい? …君のせいなんだってば」
…俺は今、何を言っているんだろう。彼女は何も悪くない。ただ当たり前に普通に育って、
当たり前に大学を出て、院にも入って…当たり前に暮らして、そして俺を恋してくれた、
ただそれだけのことなのに。
「全部…君のせいなんだって」
「私、の?」
俺は俺をあざ笑いながら、とうとう言い切ってしまった。彼女の顔が一瞬驚いて、それから、
「どうして…」
「君が高学歴で、君が頭が良くて、君が普通で…全部『そう』じゃなければ良かったんだ。
そんな君と一緒にいたら、君が持ってるものを全部持ってない俺が辛い。言わなかったけどさあ、
世間って、どんな事情があったって、最終的には学歴なんかで人間を測る。そして中卒だ、
で人を切り捨てる。俺は今までそうやって、ヘドが出るくらいに言われ続けてきた」
「そんな」
みるみるうちに、俺が好きな丸い目に涙がたまって、俺が好きな少しふっくらした頬へ零れていく。
「な、俺、おかしいだろ? だから…離れてくれ、俺から」
(行かないで。俺の側にいつまでもいて俺のことを好きだって言いつづけて)
「所詮は中卒のフリーターだ。収入だって低いし、大学院生の君の側にいる資格なんてない。
君と一緒にいても、君を幸せには出来ない。君が側にいたら、嫌でも俺の汚いとこ、自覚するんだ!」
最後のほうは、もう悲鳴になっていた。
だから俺は心の病気になったんだ、なんて、本当に気が狂ったとしか思えない、自分勝手としか
言いようのない理屈。
俯いて言葉を吐ききった俺に、
「じゃあ、どうして」
やがてやけに冷たい声が響いてきた。ハッとして顔を上げると、彼女は綺麗な涙をぽろぽろ零しながら、
「どうして、私に『好きだ』なんて言ったんですか」
「あ…」
言われた瞬間、俺の額の中央で何かが割れたような気がした。
「せめて言わないでいてくれたら…さよなら!」
窓ガラス一枚を隔てた俺の目の前で、白いワンピースの裾が翻る。
(でも、な)
カーテンを閉めて窓ガラスの側にそのままへたりこんで、
(これで、良かったんだよな…)
触れずにいて良かった、彼女を俺なんかで汚してしまわなくて良かった、そう思いながら、
(ごめんね。好きだって言ってしまって、ごめん)
…自分の勝手な都合で彼女を傷つけて、失ってしまったっていうのに、たまらなく彼女そのものが欲しい。
泣いて泣いて、頭の芯がズキズキする頃に、俺はやっと眠りにつけた。


…TO BE CONTINUED…


MAINへ ☆TOPへ