…でも、言いたかったんだ。2




(…本当に来てくれるかな、まだかな)
木枯らしに吹かれながら、俺は待った。
「明日、また来ますから。コーヒーごちそうさまでした!」
昨日、そう言ってくれた彼女の姿を、本当に初めて恋した中学生の時みたいにドキドキしながら、
いつもみたいに昼間、出勤したガソリンスタンドで。
なのに、
(遅いなあ)
やっぱりというか何と言うか、午後十時になっても彼女は来ない。よっぽど研究とやらが長引いてるのか、
それとも、
(考えたくはないけど)
ひょっとしたら、すっぽかされたのかもしれない…だったら、ものすごく寂しい。
あるいは事故にでもあったのかもしれない。そう思って、やっと『客』の数が少なくなった頃、
店の中、カウンターの内側の椅子から、立ったり座ったりしていた俺の視界の中に、
(彼女だ!)
いつもの緑色のバイクが見えて、俺はそっちへすっ飛んでいった。
「ごめんなさい、こんな時間になっちゃって」
「いや、いいよ。来てくれたんだから」
彼女は昨日と同じように、寒さで唇まで真っ青にしている。だから俺も、昨日と同じように
小さな背中へ手を回して、彼女の肩を庇うみたいに、だけど触れることはせずに、店の中へ入るように彼女を促す。
「実験が大詰めになってるんです。明後日の土曜日、学会なものだから、その準備も忙しくて」
俺が奢りだといって差し出した紙コップのコーヒーを、彼女はまた「すみません」なんて恐縮したように
首をすくめながら受け取って、少しため息を着いた。
「じゃあ、日曜日は疲れちゃって無理なんじゃない?」
「いいえ、そんなこと」
少し残念だけど、彼女に無理をさせたくない。俺がそう言ったら、彼女はコーヒーを一口飲んで、
笑いながら首を振る。
「ちょうどいい気分転換だし、コーヒーのお礼ですよ。それにね」
昨日と同じように向かい合わせに座った、丸くて小さなカウンターテーブル。少し足の長い椅子に
向かい合って座った俺を見ながら、彼女は照れたように笑って、
「私、恥ずかしながら、この年になるまで男の人からデートに誘われたことなんてないんです。だから、
ちょっとドキドキしちゃって」
「あ…」
ちょっと驚いて、俺はその顔を見つめ直した。すると彼女は少し頬を膨らませて、
「『マジメ』だったんですよ。大学時代に入ってたサークルでも、カレとカノジョっていうより、
そんなこと関係なしに、友達としてわいわいやってるほうが楽しかったし」
なんて言ってから、
「でもまあ…『縁が無かった』ってことには変わりないか。そりゃ、驚かれちゃいますよね」
苦笑する。
「あ、いや、違うんだ。そうじゃなくて」
(デート、か…そうだよな。これって)
俺のほうはと言えば、彼女に指摘されて初めてそのことに気付いた、ってことに驚いていた。
「え、っと。デートのお誘いじゃなかったですか? ひょっとして?」
そんな俺の様子がおかしかったのか、彼女は心配そうに俺の顔を覗きこんでくる。
「いやいや、違うよ。そうじゃない。だから、えっと」
「はい…」
慌てる俺を、キョトンとした丸い目が見ている。それでもっと慌ててしまって、
「これは、紛れもなくデートです」
つい、変な風に断言してしまった。たちまち彼女は笑い始める。
「だから、どこか行きたいところとかあったら、言って」
「そうですねえ…」
ひとしきり笑い終わって、彼女は天井へ目をやりながら、ちょっと首をかしげた。
無造作に後ろで束ねただけの長い髪の毛が、その拍子にさらりと揺れて、
(いいな、こういうの)
…だけど、俺には到底手の届かないものだ、って、何故かそんな思いもちらっと心をよぎってしまって、また慌てた。
「動物園とかじゃ、ダメですか?」
「動物園?」
「あ、大学関連の生態研究、とかいうんじゃなくて、ただ単に、子供の頃に戻って動物を見たいなって」
(子供の頃、か)
「いいよ」
答えながら、思い出す。まだ両親が揃っていて、幸せだった頃に一度だけ行った。それきり、
学校行事とかでも行く場所の候補に入らなかったみたいだし、「元カノ」達とも行かなかった場所。
元カノ達はそもそも、動物園なんていう場所に行くような子でもなかったから、彼女の提案は
俺にとってものすごく新鮮なように思えた。
「じゃあ、日曜日。ここに来て」
「ここ、ですか?」
「うん」
また少しびっくりしたような彼女の、素直な表情を見るのも楽しくて、俺も笑いながら頷く。
「俺のバイク、二人乗りだから。ここでメンテさせてもらってるんだ。それで動物園まで送ってくよ」
「へえ、すごい!」
彼女の一言一言は、まっすぐ俺の中に届く。彼女と話していると少しずつ、心の中にある強張ったものが
溶けて行くような気がして、
(大事にしなきゃ)
心の底から思った。彼女には指一本触れちゃいけない。俺が触れると、きっと彼女は汚れてしまうって。
「あの、ケータイの電話番号とメルアド。書いておきますから、何かあったらご連絡ください」
ちょっと左を向いて、体の脇に置いていたカバンをゴソゴソやっていたと思うと、彼女は
いかにも女の子らしい、薄いグリーンのメモ用紙を取り出した。
「あ、それ、俺にも一枚くれない?」
「はぁい。どうぞ」
にっこり笑い合って、彼女の手からメモ用紙を受け取ろうとしたとき、指先がほんの少し触れた。
(汚しちゃダメだ)
それだけでドキドキして、テーブルに置いてある店の備え付けのボールペンを、何気ない風に取り出す手が震える。
「…芹沢、綾、さん」
「そうですよ。よろしくお願いします。牧田優祐さん…ゆうすけさん、ですよね?」
「う…ん」
俺にとっては本当に「いきなり」下の名前で呼ばれて、顔にどんどん血が上っていくのが分かった。
ただ彼女は読み方を確認しただけ。なのに、彼女が読んだだけでこんなに落ち着かない気分になるなんて。
「あの、じゃあせっかくだから」
本当は彼女を俺のバイクに乗せて送っていきたい。だけど、まだ俺の勤務時間は終わっていないから、
どんなに名残惜しくたって、見送るしか許されていないのがとても歯がゆかった。
「綾さん、って呼んでいい? あの、嫌なら、芹沢さん、にするから」
…ああホント、どうしたんだろう俺は。これまでだったら、軽い気持ちで同じことを、俺と同じくらい
「カルい」身なりの女の子に平気で言ってたはずなのに。
(嫌われてしまうか…? だったら、どうしよう)
彼女の「許し」を得るまでの数秒間が、とんでもなく長く思えた。
「いいですよ? そう呼んでください。友達は皆、綾ちゃんとかあっちゃんとか呼んでるから」
「…ありがとう」
「やだなあ。そんなことに、そんなオーバーな」
確かに「そんなこと」だったかもしれない。だけど嬉しくて嬉しくて、俺が心からお礼を言ったことに
気付いたらしい彼女は、
「じゃあ、『優祐』さん、また日曜日に。こっちこそありがとう」
ぺこりと頭を下げて微笑って…また夜道へバイクを転がしていったんだ。
そのライトが消えてしまうまで見送って、汚れた雑巾をバケツへ集めながら、
(『友達』か…)
ちょっと寂しいけれど、俺は幸せだった。
これまで付き合ってきた女の子とは、少し…全然違う、おっとりして少しぼんやりしていそうで、
礼儀正しい「いいところの」お嬢さん。
生きてきた環境も、きっと全然違うけれど、
(大事にしなきゃ)
友達と思ってもらえただけでも嬉しい。だから、俺が出来る限り守らなくちゃって、汚れた雑巾を絞りながら
俺は改めて誓い直していた。

当日は幸い、快晴だった。
冬にしては珍しい、抜けるような青空っていうんだろうか、その天気の中を、俺のバイクは
彼女を後ろへ乗せて動物園へ走った。
二人乗りの癖に、実は今まで誰も後ろに乗ったことのない俺のバイクは、
周囲の家族連れの注目を浴びながら、動物園のと何だかの役所のとを兼ねてる駐車場に止まる。
「結構揺れるもんですねえ」
「大丈夫? 酔った?」
メットを外しながら言う彼女を気遣うと、彼女は「少し歩けば大丈夫」なんて健気に答える。
駐車場から歩いてちょっと。動物園のゲートに着くと、彼女が新聞配達の営業所からもらったのだと
いうチケットを出して、
「でも、すごくかっこいいです。私も二輪の免許、とろうかなあ」
「君ならすぐ事故りそうだから、やめたほうがいいんじゃない?」
「わ、ひどい!」
笑い合いながら、俺達はゲートをくぐった。中には少しだけど家族連れもいて、
「懐かしいなあ。ずいぶん変わっちゃいましたよ、ここ」
彼女が嬉しそうに言うのへ頷きながら、俺はその目を気にしていた。
グレーのタートルネックのセーターに紺色のジーパン、っていう『普通な』彼女の格好と、
なるべくそれに合わせて地味な服装を選んだつもりだけど、男の癖に指輪を二個嵌めていて、
しかも耳にピアスで茶髪、っていう俺の格好は、やっぱりあんまりにもちぐはぐなんだろう。
「草食動物のコーナー、ひとつにまとまっちゃったみたいですよ」
「行ってみる?」
頷く彼女と一緒に、俺はそっちへ向かって歩き出す。
おんなじような「元カノ」達と一緒に、街の中を歩いていたときには全然気にならなかったことが、
彼女と一緒だととても気になって、少し萎縮したような気分になってしまう。
(こんな格好をしていたら、『仲間内』から馬鹿にされるよ…それでも変だって思って見るんなら、
勝手に見ろよ)
だから俺は、ことさらその気持ちを感じないフリをしていた。
だって少なくとも俺の目の前にいる彼女は、
「ほら、こっちへ来ましたよ!」
手を振ってゾウをおびき寄せて…俺の格好なんて気にもしていないんだから。
だけど、
「…ちょっと変なカップルじゃない?」
「女の子のほう、騙されてるんじゃないかしらって思っちゃうわねえ」
強い風が、近くにいる子連れの中年女の会話を運んできて、思わずそっちを睨み付けそうになった。
自分でも分かってる。ガソリンスタンドって、『そういう』格好の人間が多いから、付き合ってるうちに
染まってしまって、それが当たり前になって…『普通』の感覚とは少しずつずれていくってこと。
普段は気にしないようにしていても、関係ない赤の他人の、何気ないそんな一言でふと弱気が
顔を出してしまう。
(もしも両親が離婚していなくて、俺も普通に上のガッコに行けていたら)
「優祐さん? 寒くなっちゃいました?」
彼女の声が間近に聞こえて気がついたら、俺は手すりを両手で掴んで俯いていた。
「夜行動物のコーナーにでも入ります? それとも、どこかでお茶します?」
「俺が君にタメ口利いてるんだから、君だってタメでいいよ」
見れば俺と同じように、彼女は両手で手すりを掴んでいる。少しだけ笑える元気を取り戻して、
「だって俺、中卒だから。君みたいに礼儀を知らないし、君がする話も、時々分からない…
俺とこうして遊びに行ったりするのが嫌になったら、いつでも言って」
だけどそれを告げた時には、声が震えた。中卒、っていう現実が、働くこと以外にこんなにも
自分の心に重くのしかかってくるなんて、夢にも思わなかったから。
「学歴がどうであっても、年上の人に対等な口なんて利けませんよ」
また俯いてしまった俺に、彼女は静かに言う。
「今日だって、私が貴方のことをもっと知りたいと思わなければ、一緒には来ません。
こちらこそ、私でよかったら、また付き合ってください、ね?」
「…うん」
見つめていた地面へ、ぽとりと雫が落ちた。
こんな、「普通の人」からのあったかい言葉に、本当はどれほど飢えていたろう。それをくれたのは
(大事にしなきゃ…好きだ)
初めて心からそう思えた彼女で、だからこそ、
(俺なんかが触れちゃいけない)
痛切に、そう思った。その瞬間、
「あ、れ?」
何故か俺の周りの景色がぐんにゃりと歪む。不覚にも泣いてしまったせいで、視界がぼやけたんじゃないのは
すぐに分かった。
思わず片手を目の前に持っていくと、それはすぐに元に戻ったから、
「どうしました? あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫。えっと、じゃあ、次はあったかい所でコーヒーでも」
心配そうに尋ねる彼女へ、俺は気を取り直して明るく笑った。
「はい、行きましょう」
すると彼女も笑って、俺達はまた歩き出す。彼女がいてくれたら、世間の目なんて気にならない。
ただこうやって彼女が側にいる、それだけでこんなにも心が満たされる。
「あはは、あのお店。いいですねえ」
「本当だ」
手をつながないまま、並んで歩く俺達が見つけた喫茶店には、「Zoo」という名前がついていた。


…TO BE CONTINUED…


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