…でも、言いたかったんだ。1




「わ、寒いっ!」
「大丈夫!?」
(また、来てくれた)
彼女が原付バイクから降りて叫ぶのへ、店員の俺はいつもみたいに声をかけた。
「はい、大丈夫です」
膝丈までのフードつきオーバーを着て、ぐるぐる巻きのマフラーに首を埋めるみたいにしながら、
真っ青な顔をした彼女は僕を見て微笑う。
「原チャリでこの寒さはきついよね。もう大丈夫?」
「…あは、確かに」
いつもみたいに彼女からキーを受け取って、いつもみたいにガソリンを入れながら…いつもなら、
「ガソリンスタンド店員」と、「客」の、俺と彼女の会話はそこでおしまい。
でも今日は勇気を振り絞って、
「あの、今度の日曜日、もしも時間があったら、一緒にどこかへ行かないかな?」
バイクにまたがった彼女へ俺は声をかける。
すると切れ長の綺麗な目が大きくなって、それから。

俺が彼女に「出会った」のは、今年の春のことだった。
(あれ? 見かけないお客だな)
国道とはいっても山沿いにある、小さなガソリンスタンド。中卒で、しがないアルバイトでしかない
俺は、彼女が原付バイクにまたがってやってきたのを見て椅子から立ち上がり、
「いらっしゃいませ。ご新規様ですか?」
マニュアルどおりに言いながら、彼女の白い手からバイクのキーを受け取った。
「カードとか、お持ちじゃありませんか? ガソリンもお安くなりますよ」
「そうですねえ」
赤紫色のメットを取りながら、彼女は少し首を傾げて笑った。
…夜の明かりに照らされて、少し茶色く見える髪の毛の長い、化粧っ気のまるでない、少しふっくらとした頬。
男にしちゃ一六五センチと、背の低い俺と同じくらいの背の高さで、
「そういうの、作るの初めてなんです。今年、これの免許をとったばかりで」
握ったハンドルを片手でそっと叩きながら、ちろりと舌を出して屈託なく「えへへ」なんて彼女は笑った。
「また来ることになると思うんで、その時に」
「はい、お待ちしております。ありがとうございました!」
帽子を取って頭を下げて、俺は他の客にするみたいに彼女の背中を見送った…何故かいつまでもいつまでも、
見送りたい気分になりながら。
それからというもの、ガソリンが切れるたびに彼女は俺の勤めているガソリンスタンドへ寄った。
「今日は遅かったですねえ」
「研究が長くなっちゃったんです」
夏の夜。もう午後の十時過ぎだっていうのに、山の方から走ってきた彼女は疲れた顔をして笑った。
「研究、ですか?」
「はい。私、O大の大学院に通ってるものですから。大学は地方だったんですけど、卒業したこの春から
O大の修士の一年になったんです」
…ということは、俺より一つ年下か。
「へえ…すごいな。ゆくゆくはナントカ博士とかになるんですかね?」
「あはは、そんな偉いものじゃありませんよぉ」
こんな会話も、ごく自然に交わすようになって、
(おいおい、しっかりしろよ)
今年で二十四にもなりながら、胸がドキドキしたのを自覚した。手の震えと一緒に、彼女のバイクに入れてる
注入筒の先が震えてる。
今までだって、女の子と付き合ったことがないわけじゃない。最終学歴が中学で、それからすぐに「社会人」に
なったわけだから、多分、他のヤツより付き合ったコの数は多いんじゃないかと思う。
どうして彼女と会って、こんな短い会話を交わすだけで「そう」なるのか。
(初めて恋したガキみたいだな)
「ありがとうございました!」
いつものように帽子を取って、手を振ってくれる彼女を見送って、その日の業務はこれで終了。
(寂しいな)
従業員室で着替えながらふと、そう思った。
一人暮らしをしていたワンルームへ帰りながら、彼女は今頃どうしているんだろうとか、夏の夜空を見上げて
考えて…ガラじゃないって一人、俺は顔を赤らめていた。
中卒じゃ、どこも雇ってくれなくて、仕方なく始めたガソリンスタンドのアルバイト…いわば
フリーターだけど、それでも明日もガソリンスタンドに行けば、彼女が前の道路を通り過ぎるのは見られる。
そんな小さなことが、いつの間にかとても楽しみになっていた。

ともかく彼女は、俺が今まで付き合ってきた女の子…分厚い化粧に付け睫、香水の香りがどぎついほどに匂う、
手足が折れちゃうんじゃないかって心配になるほどに細い…そんな女の子とはまるきり正反対だった。
その女の子達には悪いんだけど、「お義理」で肌を重ねたことだって実は何度もある。
それが嫌で、しばらく女っ気なしで過ごそうとすら決めていたんだけれど、そんな俺へ、
「四年間、田舎の大学だったから下宿生活だったんです。こっちがもともとは実家だったんですよ。
親が心配して、大学院へ行くなら戻って来いって」
言って笑うその顔は、どんどん涼しくなっていく今日も化粧っ気がなくて、ごく自然。
「へえ。だけど毎日通うの、大変じゃない?」
その大学の「研究所」は、近くの山のトンネルを抜けた先にある。
「冬になるともっと大変だよ。気をつけて」
「ふふ。ありがとうございます」
そしていつの間にか、俺が彼女へ利く口は「タメ」になっていて、けれどそれを彼女が全然気にしていない
風なのがとても嬉しい。
彼女がここに来るのは一ヶ月にほぼ一回。彼女のバイクの両サイドのミラーを拭いて、そこに映る
俺の顔はいつだって、
(茶髪で、すさんでて…)
彼女はきっと両親が揃ってて、だから大学院にまで行けて、幸せだからあんなにも屈託なく笑えて、
きっと化粧っ気がないのを母親にも嘆かれて…っていう、そんな人生を送ってきたに違いないから、
俺が彼女と並ぶには、全然似つかわしくないんじゃないか、って思ってしまう。
ちょっと俯いてため息をついてしまった俺に、
「どうかしました? 疲れてるんじゃないですか?」
俺の顔を覗きこむみたいにして、彼女はいつだって笑ってくれる…両親が離婚して、行きたかった高校に
行けなくてやむなく中卒で働き始めて…だから、学歴っていうのにものすごいコンプレックスを抱いてて、
なのに大検とかを受けるアタマもない、自分に価値がないからと自殺する勇気もなく、ただ生きて…
拗ねてるだけの俺に。
「ありがとうございました!」
いつもと変わらず、彼女は手を振って去っていく。帽子を取ってお辞儀をしながら、
(だけど、俺は)
いつの間にか、彼女の笑顔で頭の中が一杯になっていたことにやっと気付いて、思った。
(俺は、彼女がこうやって来てくれているだけでもいい)
当たり前だけど、ただガソリンを入れるためだけ…たとえ俺に会いに来てくれているんじゃなくても、
彼女という人間に出会えた、彼女を知った。それだけで生きていて良かったと、大げさでなくそう思ったのだ。

そして、とある冬の日。
(彼女、大丈夫なのかな)
その日は本当に寒くて、木枯らしがものすごい音を立てていた。
原付で山越えをしなきゃならない彼女は、この風に吹かれてバイクごと転倒したりしていないだろうか、とか、
もしも怪我をしていたらどうしよう、とか、役にも立たない心配をしていたら、
「わー、寒い寒いっ!」
言う、というよりもむしろ叫びながら、すっかり日が沈んだ闇の中、彼女がガソリンスタンドへ
入ってくるのが見えて、
「大丈夫!?」
暖房の効いている部屋にいた俺は、飛び立つみたいにして彼女のところへ走っていった。
「はー…なんとか」
鼻水をすすり上げながらメットを取った彼女の顔は、
「なんとか、どころじゃないよ。ほら、こっちへ来なって」
真っ青を通り越して、真っ黒といったほうが近い色をしている。
「時間、大丈夫?」
「はい…まだ大丈夫…」
彼女のバイクを押しながら、俺は彼女を店の中へ入るように促した。
(時間は大丈夫なのかもしれないけど…大丈夫、じゃないよ)
幸い、寒すぎるくらいだから客は少ない。自動ドアの前へ彼女のバイクを止めて、
先に店の中に入った彼女に続いて俺も中へ入る。
「ほら、そこへ座ってて。今、コーヒー淹れてあげるから。俺の奢り」
「いいですよぉ、そんな」
「いいからいいから。ほら、オーバーも脱いで。でないと、また外へ出たとき、もっと寒いよ」
「はぁい」
俺が言うと、彼女は素直に客用の椅子に腰掛けて、春にも着ていた黒くて長いオーバーを脱いだ。
「熱いから、気をつけて」
「ありがとうございます」
自販機から戻ってきて、俺が紙コップを置くと、彼女はぺこりと頭を下げて両手を出す。
その手は限り無く震えていて、彼女の両目も風に吹かれたせいなのか充血して真っ赤だ。
「…はい、これ」
「あ、すみません…」
気がついて、俺が差し出したティッシュボックスを、彼女は照れたみたいに笑って受け取る。
何枚かティッシュを取って、盛大に鼻を噛む彼女の姿も、
(自然で、気取らなくて、いいな)
なんだかとても微笑ましくて、俺の口元は自然に緩んでいた。すると、
「わ…みっともないですよね。恥ずかしい」
「いやいや、仕方ないよ。寒いところからあったかいところへ来たんだから。どうぞ遠慮なく」
俺が言うと彼女はまた照れたみたいに苦笑して、ティッシュへ手を伸ばす。
「ガソリン、入れてくるから。十分にあったまったら出てきなよ」
見ているうちに何となく俺も照れくさくなって、言いながら外に出た。
(う、寒っ!)
たちまち冷たい風が俺を襲う。ガソリンを入れる手がまた震えたけれど、なんとか入れ終わる頃に、
「ありがとうございました。おかげで生き返りました」
大きく息をつきながら、彼女が中から出てきた。
「もう大丈夫なの?」
「はい。ごちそうさまでした! 本当にありがとうございます」
言うなり、バイクにまたがって出発しようとする彼女を、
「待って、あの」
俺は引き止めていた。本当は、彼女がここへ来るたびにいつだって言いたかったのに、
勇気がなくて言えなかったこと。
「今度の日曜日、俺でよかったら一緒にどこかへ行かないかなー、って、思ってるんだけど」
一瞬だけ目を丸くして、それから笑って、
「いいですよ。それじゃ、また明日、ここに来ます」
彼女は言い、いつもみたいに「じゃあ」なんて手を振りながら帰って行った。
(…やった!)
いつもみたいにその後姿を見送って、俺は飛び上がりたいのを一生懸命堪えていた。
風は相変わらず冷たいけれど、心の中はあったかい、なーんて、本とか漫画とかの中でしか
起こらない、ばかげた現象だと思っていたのに、
「牧田、お前、風邪でも引いたのか?」
主任にそう言われるくらいに、俺の心の中まであったかくなっていたんだ。

…TO BE CONTINUED…


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