追悼の波 12




「犯人…うん、犯人」
柳川は呟くように言う。しかしそれは石崎へ向かっての答えではないということは、
彼にも分かった。
 彼女の手のひらにあった薬は、パソコンの横の机上に転がっている。それを
  忸怩たる思いで見つめて黙ってしまった石崎に、
「よっちゃんが先生の机を探ったんは、先生が怪しいと思ってたからやろ?」
モニター画面を見つめながら、キーボードを叩いて柳川はポツリポツリと話した。
「恋人やったら気付かへんわけが無い…やんな?」
「ああ。でも、お前」
やがて一編のメールを打ち終えたらしく、彼女は塚口の椅子から立ち上がった。
「権藤刑事に…言うのか? 今から言いに行くのか」
「…それ、見てもええよ」
彼に答える代わりに、今しがた打ち終えたばかりのメールを見ろと柳川は言う。石崎が
それへ思わず目をやると、柳川はこちらまでが気の重くなりそうなため息を一つついて、
助教授室を出て行った。
(…ああ、そういうことか…)
 彼女を止めようとした石崎は、しかしメールの内容に目を奪われてそれが果たせず、
  柳川と同じような重く苦しいため息をつく。
(津山先生が指示した犯人、塚口先生が実行した犯人…津山先生はもうご老齢で、
さほどの力が無い。だから塚口先生が…)
 津山夫人が言っていた電話の内容、そして時間…恐らく塚口が津山に仰いだ指示というのは、
言うまでも無く卒業論文に関することではなくて、
(『川村にどうかして飲ませた睡眠薬が切れる時間について』)
柳川が残したメールを読みながら、まさに論文のタイトルそのままが頭に浮かんで、石崎は苦笑した。
『…睡眠薬の切れるぎりぎりの時間に、塚口先生は川村君を訪れましたね。』
 メールはそんな風に続いている。憶測にしか過ぎないが、と言いながら、
『川村君は大学在学当時から、自分のお祖父さんと津山先生の関係を知っていました…。』
本来ならばT大に合格できるはずがない成績であったとしても、地元の有力者である川村会長の
力を使えば、なんとか誤魔化せる。留年せざるを得ない成績しか取れなくても、まして大学院に
到底入ることなど到底出来なくても、川村会長が一言、お前への援助をやめると言えばそれで
全てが通った。それで問題にもならなかったのは、K機構株式会社が地元であるT県に及ぼす影響が
それほどまでに大きかったからである。
 当の川村も、自分の成績の悪さを嘆くことも無く、むしろ祖父の『恩恵』を慶んで受け続けた。
修士論文で満足の行く実験データが出なかったのは事実かもしれないが、
『川村君本人も、ひょっとしたらお祖父さんのやり方を真似て、塚口先生に迫ったかもしれません。
研究費は田舎の大学にまで満足には行き渡りませんから』
塚口自身も、津山に恩恵を蒙っている。川村会長が出す資金も大事には大事だが、それよりも
津山のほうが塚口にはもっともっと『大事』だっただろうし、何よりも愛する研究室にいる学生が、
研究においてゆすりめいたことを言ったことも、塚口にとってはたまらないことだったに違いない…
『川村』は、研究室におけるガン細胞である。
 睡眠薬を飲ませたのが午前三時、その薬が切れるのが午前六時半前後。見計らって塚口は、
川村のワンルームを訪れ、柱に取り付けたロープへ目覚めたばかりでまだ意識のはっきりしない彼の体をぶら下げた…。
『T大農学研究室、大好きでした。いつまでも大好きです』
 そして最後に、
『物的証拠は、先生の机にあったK機構開発の睡眠薬です。おいていきます。警察には誓って言いません。
…研究室の発展と存続を心から』
柳川はそう結んで、メールを書き終えていた。
(論理の帰結…)
「柳川!」
真っ白になりそうな頭の中を、なんとか正気に保とうとしながらメールへ最後まで目を通して、
石崎は彼女の名を呼んだ。当然ながら返事はなくて、
(探さなきゃ)
再会した昨日とは全然違う、切羽詰った焦りを感じながら、石崎は助教授室から飛び出しかけて足を止めた。
扉が開け放しになっている向かい側の研究室には、
(タバコの吸殻、か…)
かつて石崎自身も、ヘビースモーカーだった川村に釣られて良く吸った。だからその部屋には、
もうもうたる白い煙が漂っていたものだ。酒盛りをした机には、酒だけではなくてタバコの匂いも染み付いていて、
より一層の空しさを煽った。
(どこを探そう)
 空しさと共に、柳川が消えたこともより強く胸に迫る。焦る心とは裏腹に、動かない足に思わず舌打ちすると、
「あ、石崎さんだ!」
「戻ってたんですね!」
 賑やかな声が聞こえて、見ると下級生達が階段を上がってくる。
「…塚口先生は?」
その中に、助教授の姿が無いことに限り無くホッとしながら石崎が誰に言うともなく尋ねると、
「津山先生とお話があるから、先に帰っててくれって言っておられましたよ」
「先に初めちゃう? 石崎さんもよかったらどうぞ!」
賑やかに話しながら、酒やツマミの入ったビニール袋をてんでに抱えた下級生達は、彼を通り過ぎて
研究室の中へ入っていく。
(ああ…)
涙が出そうになるくらい懐かしい光景。そしてこれからも続くはずだった心象風景。ひょっとしたら永遠に
失われてしまうかもしれないという絶望感に囚われながら、
(柳川…)
とにかく今は、彼女に会いたい。会ってちゃんと話をしたいと石崎は思い、後輩達が登ってきた階段を駆け下りた。
 事件は『解決した』のだ。彼女のことだから、ここにはいたくないと思ってもう帰ってしまうかもしれない。
(嫌だ)
 石崎に嫌われてもいい、という彼女の言葉も蘇って、
(それは、俺が嫌だ)
 柳川が研究室を出て行ってから、どれくらいの時間が経ったのかは分からない。けれどそう遠くへは
行っていないはずだと彼は思いながら、大学の正門へ向かった。
 左手を見ると、昨日訪れた川村のワンルームが見える。
(あそこじゃない)
それに警察へも行かないと塚口にメールの中で告げていた、あの言葉はきっと信じてもいい。
となると彼女が行く先は、
(…あそこか)
夕闇が、刻一刻と近づいてきている。あまりにも大きすぎる衝撃に直面して、逃げ出したい気持ちと
必死に戦いながら、石崎は吹き寄せられた砂に埋もれている観光用道路のほうへと走った。砂丘行きの
バスは、もう既に止まっている。柳川はどうやらその『最終』に乗ったらしい。
(この格好じゃ、あまりにもそぐわないけど)
夕暮れの砂丘には、観光客の姿がほとんど見当たらない。宿へ戻るためだろうか、石崎とすれ違う
親子連れやカップルなどは、彼の姿をジロジロと眺めながらバス停のほうへ歩いていって、
(喪服のままだもんな)
やっと彼は自分の格好に気が付いた。
(アイツも、こういうところ全然気にしないヤツだから)
きっと柳川も、喪服のままであの場所を訪れたに違いない。
砂の中を歩いていくと、下ろしたてで黒光りしていた靴はたちまちその光を失う。それに構わず、
時々吹き付けてくる風に目を細めながら、彼は足を運んだ。
(いた…)
 あの場所に、黒い喪服姿のままぽつねんと座って海を眺める柳川を発見して、しかし石崎は二の足を踏んだ。
(探してたのに…またこんなところへ来て、って)
強い風で吹きつけられた砂が堆積して出来た崖の端。暮れなずんでいく海の向こうには、漁火が見えていて、
「…石崎君」
今度は彼女のほうが先に声をかけてきた。
「…お前、また、ここに来るよな」
 話したかったことは言葉にならず、石崎はやっとそれだけを彼女に言う。
「…来るよな?」
決め付けるように言って、喪服が汚れるのも構わず柳川の側へ腰を下ろしながら、
「だって、俺の故郷だもん…お前の二番目の故郷だろ? …来るよな?」
石崎が繰り返すと、柳川は小さく苦笑した。しばらく、眼下に打ち寄せる波の音だけが響いて、
二人はゆっくりと暮れていく海を見つめていた。
日がすっかり沈んでしまっても、風は相変わらず強い。いささか冷たさを増した風が吹き付けて来て、
「とにかく戻ろうぜ、ホテルに」
石崎が言った時、彼の懐で携帯電話がメールの着信を告げた。
「…権藤さんから」
差出名を見て彼が呟くと、のろのろと柳川はそれに目を向けてくる。
「…塚口先生、研究室に帰ってきて…農場のほうへ出かけて戻ってこないから、様子を見に行ったら」
農場の、農薬の並んでいる研究小屋で、塚口は倒れていたらしい。側には農薬の瓶が空になって転がっていて、
「…酷い有様だった」
権藤はメールでそう告げていた。
「津山先生、これからどうなさるんだろう」
「…もうええよ」
石崎が呆然と呟くと、柳川が震える声で言って顔を伏せる。
「覚悟してたけど…ごめん。私はもう、ここには」
「戻って来るんだよな!」
言い掛けた彼女を、石崎は抱き締める。声を殺して泣く柳川の頬を両手で挟んで、
「俺が側にいてやる。嫌いになんてならない、だから」
石崎は言い、
「いつでも戻って来ようぜ、一緒に」
顔を近づけた。
 そっと唇を重ねた二人の間を、風は相変わらずの強さで吹きぬけていく。紫色に染まった雲が千切れて
西へ飛ぶ…明日は珍しく快晴らしい。

 終


 T大農学部研究室は、塚口の服毒自殺と津山への事情徴収で、いっときは解散の憂き目に遭ったらしい。だが、
「塚口先生、遺書の中で津山先生への関与を一切書いてなかったらしい」
翌日、ホテルニューコタニで一緒に朝食をとりながら、地方紙の一面を飾ったニュースを見て、
石崎はため息を着いた。
「それから、これ…夕べ遅く、届いた塚口先生からのメール」
「…ん」
向かい側の柳川は、彼が差し出した携帯電話を大事そうに受け取って、メールへ目を通す。
 柳川君の推測は間違ってはいないが、津山教授と川村会長の、五十年前からの『関係』。川村会長の
当時の研究の成果…副産物とはいえ生まれた『発明』を、当時の教授たちが津山の研究成果だと勘違いして
津山のものとした発表してしまったこと…が原因の一つである。川村がどうしてそこまでを知り得たのかは
分からないが、修士論文に関するデータが著しく不備であったのは間違いなく、ために彼の祖父と津山の
五十年前のことまで持ち出して、何とかしろと僕に迫った全ては僕の一存で、津山先生には関係ないのだ、
と、そこにはあって、
「何のために研究してるんやら」
少し眠れなかったらしく、頭が痛むのだと言う柳川は、苦笑しながら携帯を閉じた。
「お前も、それで悩んだんだろ? だからO大の院を辞めて」
「はいはい、それはもうええねん」
石崎が携帯をしまいながらいうと、彼女は背伸びをして大きく欠伸をした。
そして、
「石崎君、まだ有給は残ってるんやんな?」
いたずらっぽく笑う。
「ああ」
「そやったら、もうちょっと付き合うて?」
「いいぞ。どこへ?」
「三朝温泉。浸かって帰らんとすっきりせん」
(やれやれ)
柳川は、言うなりすぐに立ち上がってレストランを出て行く。微苦笑でもってその後を石崎が追うと、
「おお、いたいた。朝っぱらからすまんのだが」
「権藤さん」
どうやら二人を探していたらしい。これも寝不足の顔で、階段から降りてきた権藤刑事が彼らに声をかけてくる。
ぬうっと彼らにジャガイモ顔を近づけたかと思うと、
「…このこと、『手柄』にするつもりはないっちゃ。そんことだけ、言うておこうと思うて」
では、と言い捨て、またあたふたと階段を上っていく。
「…つまり、あれか?」
風のように去っていった権藤に苦笑しながら、
「俺らのことは出さないし、なるだけ穏便に済ませる…ってことか」
石崎が言うと、柳川もまた
「ありがたいけど、ほんま、出世せえへんなあ、あの人」
「同感だ」
二人は顔を見合わせ、また笑う。連れ立って駅へと向かい、
(また、戻ってくる。コイツと一緒に)
ホームへと続く階段を上がりつつ、石崎はほんの少し後ろを振り返った。
 …まだ耳に残る、波の音を思い出しながら。


        FIN〜


著者後書き:うーわー…初めて書いた「ミステリ」。きっと後から読み直したらツッコミどころ満載なんだろうなあと(苦笑)。
お付き合いくださいまして、ありがとうございました! (2009年5月27日謹製)

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