LIMIT 8



5 LIMIT

市庁舎から大学校舎へ、エミリオは走り続けた。
アンプルケースを小脇に抱え、息を切らせて通りの時計を見上げる彼の目に、時計は無情に
時を刻み続ける。
…午後五時十五分。
(ちくしょう)
『この菌に感染すると、どんなに強靭な肉体を持っていたところで十八時間以内に死ぬんだよ。
僕は…死ぬ』
唇を噛みしめるエミリオの脳裏に、諦めきって全ての表情が抜け落ちた敦也の顔が浮かんでは消えた。
(オレを責めろよ! …死なせてたまるか!)
時折、足がもつれる。体力の限界に近づきつつあるらしい。けれどエミリオはそれでも走り続けて、
(来た!)
ようやく、大学の正門に着いた。それに寄りかかるようにして少しだけ息をつき、彼は
さらに奥にある敦也の研究室へ向かう。
(間に合う、間に合う!)
キャンパスに立っている大時計は、午後五時四十五分を指している。思わずガッツポーズをしながら
親友の研究室の扉へ飛びついて、
「…あれ?」
その横に、自分が研究しているのとまるきり同じマシンが停めてあるのに気づき、彼は眉をしかめた。
(まさか…まさか)
抱えていたアンプルケースを、震える手で大事に地面へ置いて、エミリオは車に近づき、恐る恐る中を覗く。
(嘘だろ、おい)
その中の設備をざっと見ただけで、彼はとてつもない恐怖に襲われた。
(『オレ』が来てる。今、ここに!)
設置しているのとまるきり同じ設備に、決定的なのは助手席に落ちているメリルの写真。
「さっき会ったばかり」の五十年後の彼女が、同じように年を取った男と共に幸せそうに微笑んでいて、
今すぐここから逃げ出したくなった自分と必死に戦いながら、エミリオはゆっくりと研究室の
扉を開けていく。
すると、
「こいつは…敦也!」
あの厳重なセキュリティ・システムのほとんどが完膚なきまでに破壊されていた。思わず親友の
名を呼んで、彼は駆け出した。
(オレ、オレがやったのか!?)
だとすると、五十年後の自分はあらゆる事態に備えての十分な『準備』をして、ここへやってきたのだ。
今はもう、あの分厚い扉でさえ真ん中が見事にぶち抜かれて、何の役にも立たなくなっている。
それを躊躇なく駆け抜けると、
(あ!)
前方に、人の後姿が見えた。エミリオは慌てて先ほどの扉の陰へ身を隠し、そっとその様子を窺う。
当たり前だが、その人物は研究室関係者ではない。いやに落ち着き払ってゆったりした、そして
確信に満ちた足取りで歩き、廊下の角を曲がった瞬間、その横顔がちらりと見えた。
(…っ!!)
瞬間、エミリオは、思わず叫びそうになるのを辛うじて堪えた。年老いて、髪は全て白くなっていたけれど、
まぎれもなくそれはいつも飽きるほどに見ている自分自身の顔で、
(どうして、ここに)
かなりの高齢のはずなのに、背筋は未だしゃんと伸び、表情は同じ自分かと思うほどに険しい。
(何をしに来たんだ…まさか)
エミリオはその後からそろそろと付いて行きながら考えて、愕然とした。
(…For Real History)
あの十字架に刻まれていた言葉。あれを五十年後の自分実行するために来たのだとしたら、
(敦也は助からない…それで、歴史は変わったのか)
歴史改変の謎が解け、恐れていたことがついに現実になった。
(オレは、オレのすべきことをしなければならない)
自分がやろうとしていること、恐らくそれは、方法はどうあれ敦也の存在を消すことにつながるのであれば、
己はそれを止めなければならない。
(メリルに誓った。でないとアリスンにも合わせる顔がない)
老年の自分が、その角を曲がって姿を消したのと同時に、エミリオも慌てて再び動き出す。曲がり角まで来て
そっとそこから顔を出すと、老年のエミリオは何かを確かめるように、何度も敦也の部屋のドアと周囲の様子を
見回して、
(まだだ、もう少し、もう少し)
それを見ているエミリオの心臓が、早鐘を打ち始める。じっとりと汗ばんだ手で銃を握り締めて、
(落ち着け、落ち着けよ)
自分に言い聞かせていると、老年の彼が敦也の部屋の扉を開けて中に入っていくのが見えた。
(今だ!)
急いで扉へ駆け寄り、締まりかけたそれを蹴飛ばして、エミリオは部屋へ踊りこんだ。
「動くな! 少しでも動くと頭をぶち抜くぜ!」
踊りこむなり叫んで、彼は銃を構える。すると、床に力なくへたり込んでいた敦也と、彼に銃を
向けていた老年の男がエミリオを同時に見た。
「…お前! 動くなよ、絶対動くな!」
エミリオが言うと、老年の男は肩をすくめ、おどけたように銃を持ったままの手を上げる。
「エミリオ!」
敦也がいっぱいの汗が滲んだ顔で、彼の名を呼ぶ。
「戻って…来られたんだね」
ぜいぜいと苦しげに呼吸をしながら話す親友の側へ駆け寄って、エミリオはしゃがみこみ、
「悪運が強くてね」
その肩を抱きながら力づけるように頷いた。そして、
「それよりも…散々探したんだぜ。どこにいたのかと思ったら」
馬鹿にしたような微笑を浮かべている、目の前の男を見上げる。
「アンタ、ここに来たのは敦也を殺すためか? なんで…なんでアンタは自分のダチを殺せるようになった?」
「五十年前の私か」
すると、老年の男は懐かしそうに言って、上げていた両手を下ろした。
「その時は私もそう思ったよ」
「その時って何だよ!」
「ああ」
老年の男…年老いたエミリオは、若い自分自身へ微笑み、
「思い出すよ。五十年前のこの日を。昨日のことのように思い出せる。私は君のように若くて、君のように
敦也をどうしても助けたくて、君のように五十年後へ行ったよ」
エミリオも、今朝、自分が取った行動を思い出して頷いた。そんな彼を見つめながら、
「君も見たろう、あの孫娘を。君の孫娘だぞ。愛する女性との血を引く、可愛いアリスン。
だが、彼女は敦也が助かればいなくなる。私は君が考えたように、五十年後から戻ってくる間中考え続けた。
これから作るだろう、私と君が憧れていた温かい家庭のことと家族のことを。そして元の時代へ戻ってきたら、
ほら、今の私と君のように、私の前には五十年前の私がいて、君の前には五十年後の君がいる。
彼は私に言ったよ。『温かい家庭を築きたくないか。アリスンに会いたくないのか』とね。私は、君を助けるために
やって来たのだよ」
老年の彼を見上げたまま呆然としているエミリオを、敦也が訳が分からないといった風に見つめている。
それへ苦笑して、
「さて、もう一度問おう。『温かい家庭を築きたくないか。アリスンに会いたくないのか』。さあ、どうする?」
「エミリオ、どういうことなんだ?」
老年のエミリオが言うと、たまりかねて敦也が口を挟んだ。
「私はね」
何か言おうと口を開きかけたエミリオを遮って、老年のエミリオは楽しそうに言う。
「五十年後のエミリオ・クーパーだ」
「なんだって!?」
「…サリダ菌に感染している割には、まだ元気じゃないか。あの時とまるきり同じだね」
敦也の叫びをさらりと聞き流し、老年のエミリオは続けた。
「私は、若い私とメリルを結ばせるためにわざわざやってきたというわけだ。私もうっかりしていたが、
二台のマシンを同時に作動させたために磁場が狂って、こんな時間になってしまったのは大変失礼だった」
「じゃあ、あの計器のブレはやっぱり」
「そうだよ」
エミリオが思わず言った言葉に、老年の彼は慈悲深く頷く。
「磁場のせいで計器が狂って、そのために設定時間がずれたというわけだ。年のせいもあるし、
そんな細かいことまでいちいち覚えていなかったものでね。いや、失礼。とにかく」
そして、下げていた手をゆったりと上げた時には、その慈悲深さはすっかり影を潜め、
瞳はぞっとするほど冷徹な光を湛えていた。
「敦也、君は邪魔だ。放っておいても死ぬんだがね。若気の至りで親友を助けようなどと、
中途半端な正義感を持っていた若い私を説得しなければならなかったのでね」
それと同じ、冷たい光を放つ銃を敦也へ向け、
「君は非常に邪魔だ。君さえいなければ、私はメリルと温かい家庭を築ける。可哀相だが
君はここで、研究していたサリダ菌に冒されて死ぬ、そういう運命だったのだよ」
「…エミリオ!」
敦也の肩にかかっていた若いエミリオの手から、力が抜けていく。悲痛な叫びにびくりと肩を震わせて、
しかしエミリオはもう、敦也の顔を見ようとしなかった。
「いやあ、それではやはり、君も私と同じ選択をするのだね? さすがは私自身だ」
老年のエミリオは、そんな彼を見てわが意を得たりとばかりに笑う。
「心配は要らない。市街にはサリダ菌はもれぬように手を打ってある。さあ、敦也」
そして、老年の彼は、二人へ一歩近づいて、
「最期の祈りを唱えたまえ」
力なく目を閉じた敦也へ銃口を向けた。
「…ごきげんよう」
老年のエミリオが言った途端、静まり返っている研究室に一発の銃声が轟く。
…そしてゆっくりと、老年のエミリオが床に倒れた。
「エミリオ」
閉じていた目を恐る恐る開いて、敦也が親友を見ると、
「…それは」
エミリオが己の隣で、銃口から煙を上げている銃を握り締めている。
「どうして」
「敦也、注射器を貸せ! どこだ!」
そして敦也が話しかけて、ようやく我に返ったように彼は叫んだ。
「机の上に転がしてある、けど」
敦也の答えを聞いて、エミリオは敦也の机の上へ目をやる。そこには確かに、今朝敦也がエミリオに
注射したばかりのそれがあって、
「彼が言ったのを聞いていたろ? もう時間はないって。薬も無いのに」
それを取ったエミリオへ、敦也は苦笑した。しかし、
「うるせえ。病人は黙ってろ」
言って、エミリオはズボンのポケットからアンプルを取り出し、それの中味を注射器へと吸い込ませる。
目を丸くしている敦也の腕を強引にとって、服の袖をまくり上げ、
「いてっ!」
「くそ、いいからじっとしてやがれ! こちとら素人だ!」
無理やりにその宙張りを突き立てて、アンプルの中身を敦也の腕の中へ注ぎ込んだ。
その時、部屋の時計が午後六時の鐘を鳴らして、
「…言ったろう、オレは間に合わせてやるって」
「うん…」
一気に気が抜けて、エミリオも敦也もそのまま床へ仰向けに転がった。
「エミリオ」
やがて、敦也が囁くように、
「さっきの老人は、彼自身のことを五十年後の君だと言っていた」
言いながら、よろよろと身を起こし、研究室の壁へ上半身をもたれかけさせる。
「ああ、そうだな」
エミリオが投げやりに答えると、
「そのことも、五十年後のことも含めてさ。どういうことなのか…教えてくれるんだろう?」
「お前が知る必要なんて無いさ」
エミリオは言って、ふらふらと立ち上がる。
「敦也。オレは、タイムマシンの研究をやめるよ」
「なぜ? そのおかげで僕はこうして助かったんじゃないか」
「…自分の思い通りにならないから、生きてて面白いのさ。ヘタにいじったらろくなことにならないって、
オレ、今回の件でいやってほど思い知った」
エミリオ哀しく微笑んで言いながら、少し疲れた様子だった五十年後の自分を思い出していた。
(…だけどオレはアンタみたいにはならない)
床の上に横たわる、息絶えた自分自身へ近づいて、エミリオはその軽い体を右肩へひょいと担ぐ。
「エミリオ!」
そのまま部屋を出て行こうとする彼に、敦也が慌てて声をかけた。
「どこへ行くんだ!」
するとエミリオは、
「結婚式には呼んでくれるか? …じゃあな」
振り返らずに言い、空いた左手で敦也に向かって親指を立てたのである。


エピローグ

『ニ一二×年五月二十日。

今年もまた、あの日がやってきた。
私と親友、エミリオの仲を裂いた病原菌は、そのアンプルの発明と共に完全に消え去った。
私の娘婿、そして孫娘によって大量生産の技術要綱が今日発表され、いよいよ市場に出回る。
結果として、当時エミリオと行ったシミュレーションの結果通りになってしまったのは、
なんとも皮肉なことだ。
あれから、一切の消息を絶ってしまった私の親友よ! 君は今、どこにいるのか。
大統領でさえ、何度尋ねても硬く口を閉じたまま、とうとう墓場にまでその秘密を持って
いってしまった。きっとエミリオの所在を知っていたはずなのにと、今も私は悔やんでいる。
両親も亡く、彼の叔母大統領夫人も逝き…孤独だった彼のことを知るものは本当にいなくなってしまった。
だが、今、思う。
私の知らない経験をした彼は、五十年後の世界で私の知ってはいけないことを知ってしまったのだ。
私が今、こうやって生存していること…彼が行ったのは、私の居ない世界であったに相違なく、
その場合、私の孫娘、アリスンは存在していたのかどうか…否、むしろ私がメリルと結ばれたのか
どうかすら、定かではなかったろう。
きっと送ろうと誓っていた結婚式の招待状は、あて先不明のまま戻ってきた。だから、もう、
今となってはアリスン以外に彼のことを語ってくれる人物はいない。
幼い頃から私の孫娘が口にしていた不思議な言葉…『私にはもう一人、お祖父様がいたはず』。
妻メリルや私の娘夫婦は一笑に付していたその言葉を、私は何故か笑えず、
「やっと会えました、もう一人のお祖父様に」
今日、午後のお茶の時間に現れた彼女の言葉が、何を意味していたのかをやっと悟ったのだ。
彼に違いない、直感でそう思った。先を促すと、私の孫娘は嬉しそうに、
「私はちょうどこの日に、一度あの人に会っていたんですわ。ようやく思い出しました」
元気だったか、と問うと、大きく頷いて言ったのだ。
「はい、お元気でした。私の名前もちゃんと覚えてくださっていて、研究室から出てきたところで
すれ違った時に『アリスン』って。…約束どおり、忘れないでいてくれたのですわ」』

…二一二×年 五月の日記より。敦也・カイザー博士死去のため、彼の日記はこの日付けを後に
途切れたままとなっている。


END


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