LIMIT 7




4 午後二時

「あの市長の顔! 私、これから市庁舎へ行くたびに思い出して笑ってしまいそうです」
そして車に乗り込み、大学へ戻る道すがら、楽しそうに笑いかけたアリスンは、
「でも…いよいよ戻ってしまうんですね、お祖父様」
その顔を一瞬にして曇らせた。
「ああ、戻る。おかげで間に合ったよ。敦也はきっと俺のことまで心配して待ってるだろうからね。
早く帰ってやらないと」
エミリオは、膝の上に大事に載せたアンプルケースを見下ろしながら言った。
「もしも…もしもお祖父様が五十年前に戻ることで歴史が変わったら、私は誰か他の人の孫に
なって生まれてくるのでしょうか。それとも、私の存在そのものがなくなってしまうのでしょうか」
そんな彼に、アリスンが呟く。
「…」
(メリル)
エミリオは黙って顔をあげ、「孫娘」の横顔を見つめた。
未だに未練を断ち切れていない女性の面影が、その顔に重なる。瞳の色はメリルそのままで、
日差しが当たると金色に輝く髪の色は自分に似たのだろうか。
(「オレの」孫娘、か)
もしも敦也とメリルが結ばれたなら、今、自分の横に確かに存在るアリスンはいないことになる。
(「オレの」家族)
エミリオはふいにこみ上げて来た愛しさを、敦也の顔を思い浮かべることで必死に消そうとしていた。
時代を超えてアリスンに出会ってからずっと、自分の胸の奥にわだかまっていたものに、
(これだった…憧れていたあったかい家庭への憧憬)
改めて気付かされて、彼は思わずため息を着いた。そうしている間にも、車はだんだんと大学へ
近づいていく。
午後の柔らかい日差しに包まれて、大勢の学生がのんびりと歩いている。正門で、再びアリスンが
車から顔を見せると、守衛は笑ってそのまま行くように促した。
もう講義は終わったのだろうか。車が大学構内の奥へへ入ると、嘘のように人の気配がなくなって、
(オレがあそこにいたのは今朝なんだがな)
苦笑しながらエミリオは、
「そこを左に…だよね」
「はい、大丈夫。良く知ってますから」
敦也の病理学研究室を右に見て、車は進む。
やがて五十年前と同じ、しかし風雨にさらされたためなのかみすぼらしい小屋が見えてきた。
「信じられない。建て替えられていて当たり前だと思ってたのに…まだ残っているなんて」
エミリオが驚いたように、ところどころ塗装の剥げた所はあるにしても、五十年の年月を経たとは
思えないほど、完璧に近い形で『今朝の出発したばかりの小屋』は残っている。
「お祖父様の最初の研究所ですよね。私は滅多に来たことは無いんですけれど、この小屋は、
お祖父様が大学側へ残しておいてくれって頼んだものなんですって。だから残ってるんです。
もう動かないって言われてる初期型のタイム・マシンと一緒に、厳重に鍵をかけて。ですから
誰も近づかないらしいんですけど」
「そうか」
どうやらノスタルジアらしい、と、この時代の自分に鼻先で笑いながら、
「まあ、そのおかげでオレは自分の時代に戻れるんだから、複雑な気持ちだけどね」
「はい」
アリスンと顔を見合わせて笑った。二人が扉に近づくと、
「お祖父様、鍵が」
アリスンが困ったように言う。この時代にありがちなオートロックではない、頑丈な錠前がついている、
旧式タイプの鍵だった。
なるほど、確かにこれではナンバー式の扉に慣れているらしいアリスンが、困惑するのも無理は無い。
「…旧式だからね。やれやれ、さび付いたまま固まっちまってら」
『いつも』開閉しているその錠前を手に取って、
(さび付いてなきゃ、オレが持ってる鍵が合ったんだろうけど、こんなんじゃ無理だな)
彼はため息を着いた。
「アリスン、ちょっと退いてろ」
言って、その錠前めがけて銃を撃つ。するとそれは重く鈍い音を立てて地面の上に転がった。
「これでいい。さあ」
アリスンを促しながら、重い扉を開けてエミリオは中へ入っていく。途端にかび臭い匂いが
二人の鼻をついて、一歩踏み出すごとに床の埃がもうもうと舞う。
「あれ? 電気はまだ来ているんだな」
大した期待もなく、いつものようにスイッチをひねると、明かりがつく。そのことに思わず驚いた彼に、
「ええ、こういうところの管理は、お祖父様がちゃんとなさってたみたいです」
アリスンが頷きながら言った。
スイッチが入ると同時に、全ての精密機械が連動する仕掛けになっていたのが、この時代でもまだ
生きていたらしい。
かすかな振動を立てて地下へ降りていくエレベーターに二人で乗りながら、
「お祖父様」
ぽつりとアリスンが呟いた。
「ん、何だい?」
優しい目を向ける彼に、アリスンは、
「お祖父様は、戻ったら敦也さんを助けるんですよね」
その目を覗き込むように言う。
「そりゃもちろん」
「だとしたら、私が今、お祖父様と呼んでいる人とはこれっきり会えなくなるかもしれないんですよね」
その寂しそうな、思いつめた表情を見て、エミリオの心は再びぐらついた。
しかし、
「そうだな」
彼は顔を強張らせたまま、それのみを答える。やがて、いつも体験しているのと同じような鈍い衝撃が
来て、エレベータの扉が重々しく開いた。
今朝したのと同じように指紋を照合し、目の前のもう一枚の扉をもエミリオは開いていく。
(今朝…今朝なんだよ)
いつも見ているのと同じ、その部屋。その場所は、五十年の歳月を思わせないほど几帳面に保たれており、
そこに安置されていたタイム・マシンやシステムをざっと調べて、
(…動く)
「アリスン、君は外で捜査してくれ。出来るよな?」
彼は『孫娘』を振り返った。
「はい、任せてください!」
「うん、いい子だ」
茶色の髪が元気に上下するのを確認し、エミリオはマシン全体を覆っているカバーを取り除く。
すると完全な形で彼が作っていたマシンが現れた。
なんのためらいもなくドアを開き、損傷部分がないことを確かめて、運転席へ乗り込み、
(二〇七×年五月二十日午前五時)
忘れもしないその日付けを、エミリオは入力した。
「…アリスン」
いつの間にか、アリスンがマシンの窓越しにそっと彼を見つめている。その瞳に涙が溢れているのを見て、
「どうした? 泣くなよ」
「『いい子だ』って言われたら、堪えられなくなってしまいました」
彼が優しく言うと、喉を詰まらせながらアリスンは答えた。
「お祖父様、忘れないで下さいね、今の私のこと。忘れないで…私は、貴方の孫で本当に幸せでした、から」
「…いい子だ。だから泣くな」
エミリオは、思わず手を伸ばして彼女の頭をそっと撫でた。
「もう一度だけ、してください。私が小さい頃によくしてくれたみたいに、いい子だって言って…」
「…いい子だ」
彼が繰り返して『孫娘』の頭を撫でると、アリスンは涙の雫を一つ零して、照れくさそうに笑った。
そして真顔になり、
「でも、お祖父様は一体どこに行ってしまったんでしょうか」
「え? ああ、この時代のオレか」
「ええ、市庁舎にもいない、研究室にもいない、おまけに家にもいない…行動範囲は私、ほぼ全てを
把握してます。なのに、私の知らない場所にいるなんてこと、これまでに無かったですから」
「大丈夫だよ」
エミリオは微笑んで、アリスンの頭を軽く叩いた。
「どうせオレのすることだ。コンビニで軽くコーヒーでも飲んでるか、本屋で立ち読みでもしてるのさ」
言った途端、ふと得体の知れない不安が湧き上がる。だが、それを強いて押し殺し、
「心配要らない。大丈夫だ。いい子だから、君は家に帰るんだよ」
「…はい」
するとアリスンは微笑んで、
「銃」
「ん? ああ、そうだな」
「差し上げます、『記念』に。銃刀法違反で逮捕されないように気をつけてくださいね?」
初めて会った時のように、いたずらっぽくウインクしてそう言い、コントロールパネルの所へと
走っていく。
そして、
「お祖父様、さよなら…お元気で」
アリスンは呟いて、Enterキーを押す。たちまちマシンは青白い炎のに包まれたかと思うと、
一瞬のうちにその姿を消していたのである。


車の周りが、青白く光っている。
初めて五十年後へ移動した時と同じような圧力が彼を襲い続けて、マシン内の機器がかすかな振動で
細かく震え続けているのも同じだ。
(オレの時代に還って、オレがしなければならないこと)
その圧力に耐えながら、エミリオはアリスンの表情を頭の中から必死で追い出そうとしていた。
『忘れないで下さいね、私のこと。いい子だって言って』
哀しげなその瞳に、切なさで胸が締め付けられそうに鳴っているのは他ならぬ彼自身で、
(くそっ、忘れられるもんか!)
思わず両の拳でそれぞれの膝を叩いて、ふとメモリーボードへ彼は目をやった。
(あと少し)
細かい振動が、そこでぐんと大きくなった。計算ではその振動はすぐに収まって、指定した時代へ
到着するはずなのだが、
(ヤバい!)
ブレはますます酷くなって、入力した時代の数字がめちゃくちゃに動き始める。マシンを包む青白い炎が
その温度をさらに上げたような気がする。
(敦也、メリル、叔父貴、アリスン)
起こり得る最悪の事態を予想して、思わずエミリオが目を閉じた時、フッと辺りの景色が変わった。
同時に、彼を押さえつけていた圧力も感じられなくなる。
(市庁舎…戻ってこられたんだ)
マシンの周りの景色は炎ではなくて、彼の時代にいつも見慣れていたまだ新しい市庁舎で、
人々はいきなり現れた車に驚いてざわめき、あるいはジロジロと見ながら通り過ぎて行く。
エミリオは、一度シートベルトを外してホッと息をついた。
(どうやらオレは、試行錯誤を繰り返して車ごと時代を行き来できるようにしたらしいな)
そしてメモリーボードへ再び目をやると、
(午後四時四十五分…どこでこんなにも狂いが出たんだ! このまま大学まで…)
予想外の時間のロスに、彼は慌ててハンドルを握る。すると、
「わっ!?」
メモリーボードのみならず、計器のあちこちから白い煙が上がり始めた。助手席に置いていた
アンプルケースを取り上げてマシンから飛び出し、そこから出来る限り遠くへ走って
エミリオが振り返った瞬間、耳を裂くかと思われる轟音が響き、マシンは爆発した。
人々もさすがに驚いて逃走し、あるいは集まって携帯電話を取り出し、
(急がなきゃ!)
たかりだしてくるそれらの人ごみを縫って、エミリオは駆け出した。まだ新しい時計を抱く、
真っ白な壁の市庁舎を右手に見ながら。


…続く。


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