LIMIT 5



3:午前十一時

車は駅を通り過ぎ、さらに走った。駅前通りの大時計が刻む時刻を横目に見ながら、
通りを歩く人々が驚くのを尻目に、アリスンは乱暴な運転を続ける。
(簡単には手に入らないって覚悟はしてたけど、こんなにまで手間取るなんて!)
助手席で、エミリオは親指の爪を噛みながら、やや俯き加減に前方を睨んだ。
アリスンもまた、彼と同様に疲れた顔で、でも辛抱強く車のハンドルにしがみついている。
車が制限時速をはるかに越えて突っ走っていても、二人とも沈黙を守り続けていた。
(メリルが生きていて、オレの奥さんになってる…敦也)
景色もまた、車に合わせてどんどん変って行く。彼の時代と変わらない町並みがやがて
周りへ流れて、これも見覚えのある並木通りを車は走る。
親友の顔を思い浮かべながら、エミリオは思わず爪を強く噛んだ。
「イテッ」
「どうしました?」
つい叫ぶと、車のややスピードが緩む。指先を見れば、深く噛みすぎた爪と皮膚の間から
わずかに血が出ていて、
「はい、これ」
「ありがとう」
アリスンがボードから出してくれた絆創膏を受け取ってそれに貼りながら、エミリオは苦笑した。
(もしかしたら、敦也が死ぬということは)
貼った絆創膏にも、みるみるうちに血が滲んでいくのが分かる。それを見つめて、
(あらかじめ歴史に定められていたことなんであって、ひょっとしたらオレがやろうとしている
ことというのは、それに対する冒涜なんじゃないか)
心のうちに、迷いが生じる。敦也の顔と、メリルの顔が交互に浮かんで、
(馬鹿なことを…メリル)
好きだった女性。敦也だから大丈夫だと、自分よりはずっとマシな愛し方が出来ると思って、譲った。
(…アリスン)
実際に、彼とメリルの血を引く『孫娘』がいる。早くに両親を失くして、ただ憧れているだけだった
『自分だけの家族』が実在するのだと思ってしまえば、
(余計なことを考えるな…余計なことを考えるな)
再び己を叱咤したところで、生じた迷いは消せないのだ。
「もう少しですよ」
アリスンの言葉に、いつの間にかうつむいてしまっていた顔を上げると、車は閑静な住宅街を
走っていた。スピードも、出発時に比べるとかなり落ちていて、
「パトカーによく捕まらなかったもんだ」
「ふふ」
エミリオが、吹っ切るように明るく言うと、アリスンは笑って、
「あれです。分かります? あの赤い屋根の家」
前方へ目で示す。なるほど、その先を見れば確かに赤い屋根を持つ、小ぢんまりした家が建っている。
その家の側に、車は静かに横付けになった。ほとんど同時に玄関の扉が開いて、中から空色の瞳に
すっかり白くなってしまった髪をした老婦人が、にこにこしながら姿を現す。
「お祖母様!」
アリスンが車のドアを乱暴に閉めて祖母に駆け寄ると、祖母は孫娘の顔を皺深い両手で挟んで、
「車の音が聞こえたのでね。今日はまた、ずいぶんと急いでのお出ましだったこと。
何があったの?」
「実はあの、お祖母様」
孫娘が可愛くてならないらしい。目を細めている祖母へ、どう切り出したものか言いよどんだアリスンは、
エミリオを振り返った。
車の外に出て、ボディに寄りかかっていたエミリオは、自分を見つめる彼女達へぎこちなく手を振る。
つられてアリスンの祖母も手を振り返したのだが、
「私に何かご用?」
じっとしていられなくなったらしい。差し出された孫娘の手を押し留め、せかせかとエミリオに
近づいてきて、
「私に何かご用?」
繰り返す。
「いつか、どこかでお会いしたことがあったかしら…?」
言って、彼女はエミリオを見上げた。その仕草と物の言い方は、つい『昨日』も会ったエミリオの
時代の彼女とまるきり同じで、
(ちっとも変わらないんだな)
背筋は少し縮んで丸くなってしまったらしいけれど、五十年間、どうやらずっと彼女は彼女のままだったらしい。
思わずその手を取りたくなる衝動を、エミリオが辛うじて抑えていると、
「実はね」
アリスンがエミリオと祖母を交互に見ながら、祖母の細い肩をそっと抱いて言った。
「私達、研究室のお祖父様に会いに行ったの。だけど、暗証番号が変更されていて、システムが正常に
作動しなくなっちゃっていて」
「まあまあ、それは大変でしたね」
その『大変』の度合いを知らない祖母は、小鳥のように首を二、三振って、
「急なご用事? どうしても主人にお会いしたいのかしら?」
「はい、ぜひ」
空色の瞳を見つめて、エミリオは頷く。
「でないと、オレの友達が…いえ、あの、とにかく大変なことになるんです」
「貴方、一体主人とどういうご関係の方?」
エミリオの言葉に、祖母の周りの空気が変わった。それを救おうと、
「お祖母様、あの」
「貴女は黙っていてちょうだい」
助け舟を出しかけた孫娘を制し、祖母はエミリオをしげしげと見上げた。
しばらくの沈黙の後、
「…エミリオ?」
「あ…うん…」
まさに、「思いがけない言葉」をかけられて、エミリオはつい頷く。はっとしてアリスンと顔を見合わせると、
「貴方は、エミリオ…彼本人ね?」
「…そうだよ、メリル」
確認するように繰り返されて、エミリオは彼女の瞳を改めて見つめた。
「今朝、五十年前の今日からここへ着いたばかりだ」
「そんな…本当に?」
「本当だ。嘘じゃない、信じて欲しい」
思わずよろめいた彼女を支えるようにしながら、エミリオは続けて、
「オレの時代じゃ、当たり前だけど敦也もまだ生きてる。けど、君も知ってるだろう? アイツは今日、
自分で研究してる菌に感染して、あとわずかで…」
そこで自分の言葉に自分で息を呑み、深呼吸をひとつしてから再び話し始める。
「だから、オレは敦也を助けるために、君の孫のアリスンが開発したアンプルが欲しい。
分かってくれ、頼む」
「…敦也を助けることが、本当に出来たの…いえ、出来るの?」
するとメリルは驚いて、丸い瞳を一層丸くした。
「もちろん出来るさ。やってみせる。だけど、なんでそんな風に驚くんだ」
「だって、だって私は」
エミリオから目を逸らし、メリルは激しくかぶりを振って、
「あの時、貴方が五十年後に行ったけど、どうしてもアンプルは手に入らなかったって、
貴方から聞いているから…」
「ええ?」
エミリオもまた驚いて、彼女の頬を両手で挟み、
「落ち着いて、言ってくれ。オレが本当にそんなことを?」
空色の目を覗き込むようにしながら言う。すると、
「そうよ」
彼女もエミリオの緑色をした目を見つめて、
「そうよ。そう聞かされたから私、行けたかどうかも分からなかった五十年後に行ってくれて、
敦也のためにそこまでしてくれた貴方に、心から感謝したわ。頑張ってみたけど出来なかった、って…
全ては自分の責任だからって、研究室であの日あったことも全部包み隠さず話してくれて。
そんな貴方とだったら、敦也はきっと死んでも許してくれるって思ったから、私は貴方と一緒に」
(なんてこった…!)
語り終えて終えて涙ぐむメリルから目を逸らして、エミリオは思わず空をあおいだ。
(裏切り者…オレは裏切り者でペテン師になる)
「お祖母様。とにかく、今は急を要します」
そこでアリスンが、彼を再び救うようにメリルへ話しかける。
「お祖父様から何か、聞いておられたこととか、変わったこととかありませんか」
「…そうね」
メリルはすると静かに頷いて、
「つい一時間前のことよ。あの人は帰ってきて、まだ眠っていた私をわざわざ起して、
誰が来ても渡すなって言いながら、これをくれたわ」
首から下げていたペンダントを外した。
アリスンがそれを受け取って、しげしげと眺めている。純銀製の、小さな十字架を象った
割合に趣味のいいペンダントだ。
「これを調べれば、何か分かるかも」
言いながら、彼女はエミリオへそれを手渡した。受け取って、
(For Real History…)
そこに、小さな文字が彫られているのに気付き、エミリオは少し眉をしかめる。
「ほら、見てごらん」
エミリオがその文字を、絆創膏を貼った爪の先で指し示しながら言うと、メリルとアリスンが
一緒に頭を寄せてくる。
「これがひょっとしたら?」
鈍い銀色をしたペンダントは、朝の日光を反射して眩しく光る。目を細めながら彼を見上げた
アリスンへ、
「多分ね。手がかりその1、ってとこかな」
エミリオは頷いた。
「じゃあ、メリル。オレ達はこれから『オレ』を探しに行くよ。元気で」
「疑っていたわけじゃないんだけれど」
車へ向かうその背中へ、メリルの声が響く。
「貴方が五十年前に行って、やってきたって言っていたことは本当だったのね。そして貴方は、
また歴史を変えるのね?」
「うまくいっても、いかなくても」
エミリオは振り向いて、
「君とはもう、二度と会わない。卑怯な自分になりたくないからね。でも」
歪んでしまいそうになる口元を必死で動かした。
「結婚式には行くよ。招待してくれるかい?」
震える声でようやく言い終えてメリルへ手を振り、エンジン全開のアリスンの車に再び乗り込む。
ドアを閉めようとしたその手を、年老いた手がそっと押さえた。
「エミリオ。今朝戻ってきた時、貴方は市庁舎の金庫にアンプルを移したと言っていたわ」
「本当に?」
エミリオが助手席に座りながら彼女の顔を見上げると、
「ええ。私も詳しく走らないけれど、市庁舎の地下に。彼自身じゃないと絶対に入れないようにしてあるって。
その文字、ひょっとしたらそこで役に立つんじゃないかしら?」
「そうか、ありがとう!」
「時間は足りますか!」
メリルへ限り無い感謝を込めて、エミリオは勢い良く扉を閉める。アリスンが運転席から、
「市庁舎まで、突っ走りますよ!」
怒鳴るのへ、
「よし!」
エミリオもまた威勢良く叫んだ。
「着いたらまず、市長室だ!」
同時に、アリスンが思い切りアクセルを踏み込む。威勢のいい音を上げて発進した車から、
ふとエミリオが振り返ると、
(メリル…)
リアウインド越しに、彼女の姿がとても小さく見えて、
(さよなら)
思わずこみ上げてくる涙を堪えながら、エミリオは再び前方を睨み付けたのである。


…続く。


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