LIMIT 3




そして、現在。
 彼が出て行ってから、もう五時間が経った。外は少しずつ、明るくなり始めている。
 敦也は、あれからずっと研究室のソファに体を沈めたまま、天井を眺めていた。
(アンプルを作るか)
(いや、しかし時間がかかりすぎる)
(僕の)
(僕の今の技術では)
(問題にもならない)
 絶望感のなか、頭だけが妙に冴えていて、とりとめのない思考を編み出しつづける。
(エミリオ:君が責任を感じる必要なんて、全くないんだぞ)
 必死の形相で駆け出していった親友の顔も、脳裏に浮かんでは消える。
 十三時間。
 普段なら長く感じるだろう。だが、それが自分に残された時間だと思えば、何と
短く感じることだろうか。
(メリル:彼女にも言えない。言ったらきっと、彼女まで巻き込んで)
(悲しませるだけだ)
 悔しいけれど、なす術もない。
 敦也は思わず両手で頭を抱えた。
 その時、突然机の上の電話が鳴った。
 発症に伴う熱のせいで、けだるく感じる体をやっとの思いで起こし、十数回目の
コールで受話器を取る。
「アロー」
「敦也君、私だ!」
「大統領」
 聞き慣れた声が耳に痛く響く。不覚にも涙が出そうになって、敦也は大きく息を吸い込んだ。
「大丈夫か」
「は、はい」
崩れ落ちそうになる心と体をなんとか立て直し、敦也は答える。
「いいか、気をしっかり持つんだぞ」
 受話器の中からは、大統領の声が流れつづけている。
「今、エミリオが五十年後に行った。取りあえずは成功したと見ていいだろう」
「本当ですか」
 敦也の声が、少しだけ上ずった。自分でもそれに気づいて苦笑する。まだ生への執着を
捨てきれないでいると。
 だが、当然ながら彼のそんな心の浮沈に、大統領が気づくはずがない。
「本当だ。きっとあいつは、アンプルを山ほど抱えて帰ってくる。だから最後まで、
望みを捨てるな」
「はい」
「本当ならそっちへ行ってやりたいが、それも出来ん。とにかく気をしっかり持て」
「ありがとうございます」
 受話器を置き、敦也は再び力なくソファに崩れ落ちた。
 励ましなど、今の自分には何の効果もない。
 大統領も、エミリオも気づいていないはずはないだろう。
 五十年後;世界はどうなっているのか。そもそも世界が無事で存在しているのか、
アンプルが本当に出来上がっているのか、そんな保障などまるきりない。
(僕なんかのために、出来上がっていない未来へ行くなんて)
(メリル、君だけは)
(僕がいなくなってもエミリオが)
(彼が無事に帰ってきたなら彼と)
 下げられたブラインドの隙間からは、朝の光が漏れ始めている。

  さて同じ時間帯。こちらは五十年後である。
 大きな家の居間に通されて、エミリオは自分のことをどうやってアリスンに
話したものかと躊躇していた。
(オレが君の祖父なんだ、なんて言っても信じないよな。当のオレだって、
まだ信じられないくらいなのに)
 彼女の父の若い頃の物だというTシャツとジーンズを出してもらって
それに着替えると、ようやく人心地が付いた。
「おじい様は、最近はずっと、大学にこもりきりなんです」
 そういう性格なのか、それとも気を使っているのか、あれきり一言も
彼について尋ねようとしてこないまま、アリスンはお茶を入れてくれている。
帰宅するなりテーブルに放り投げるように置かれた車のキーが、カーテンを伝わって差し込んでくる
朝の光を受けて、鈍い光を放っているのをエミリオは眩しく見つめた。
 エミリオの持つ雰囲気から、大学の関係者だとでも考えたのだろうか。
沈黙を守り続けるエミリオに、彼女は再び自分から話し始めた。
 彼女の祖父の親友がしていたという研究を彼女の父が引継いだこと。
 そして、それをそのまま娘の自分が手がけて、研究を進めたこと。
「最初は、サリダ菌のタンパク質から直接、抗体を集めないといけなかったので、
とても苦労したんですけど。ご存知かもしれないけど、あの菌はとても感染力が強いから」
 湯気の立つティーカップを差し出してくれながら、彼女はよいしょ、などと言って、
エミリオが座っている向かいに腰を下ろした。
 彼女の父であるエミリオの娘婿が開発した技術をより発展させ、アリスンが大量に
アンプルを生産することに成功したのだという。
「これから、市場へ売り出す予定なんです。その手配もおじい様のおかげで、女だからって
バカにされずにスムーズにすみましたし」
 彼女の話のおかげで、この時代におけるエミリオの立場は良く分かる。しかし。
(いつまでもこうしちゃいられないんだよな。どうしたもんだか)
 ティーカップを両手で包み込むようにしながら熱い紅茶を一口飲み、エミリオは、
意を決して彼女に言った。
「そのサリダ菌なんだけど、アンプルをもらえないだろうか。一つでいいんだ」
 途端に彼女の顔色が変わった。エミリオは慌てて、
「いや、別に盗んで企業に売ろうとか、そんなことじゃない。オレは別に産業スパイとか
そんなんじゃない。ただ友達を助けたいだけなんだ。そのためにオレはここに来た…そいつを
絶対に助けなきゃならないんだよ。頼む!」
「事情によっては」
意味をなさない懇願を続ける彼に、アリスンは警戒した固い表情のまま、探るように言った。
「差し上げてもいいです。けど、それには、おじい様の許可がいります。誰にも所在と製造法を
明かすなと、父にも私にもそれはきつい命令で」
「そうだよね。それが当たり前なんだよね。ごめん」
 エミリオは思わずうつむいて爪を噛んだが、すぐに顔を上げ、
「じゃあ、君のおじいさんに会わせて欲しい。直接会って、アンプルをもらえるように話を
させて欲しい。おじいさんに連絡を取ってもらえないだろうか」
それを聞くと、アリスンの顔が、ますます強張った。
「無理なことを簡単におっしゃいますけど」
「君のおじいさんがオレに会えば」
 エミリオはアリスンの瞳を見つめた。
「オレの頼みを聞いてくれると思う」
「どうしてですか」
 アリスンも、エミリオの瞳を見つめ返す。少しの沈黙の後、エミリオは言った。
「オレは、君の祖父だからだ」
 それを聞くと、アリスンはいきなり立ち上がって、電話へと駆け寄り、手を伸ばした。
「待って!」
 その手を咄嗟にエミリオは押さえつける。
「もう少しだけ、オレの話を聞いて欲しい。そして、無理かもしれないけど、どうか信じて欲しい。
オレが君の祖父だというのは本当なんだ。オレは五十年前の世界から、敦也を…オレの親友を
助けるためにやってきた。あいつは、今…いや、五十年前のちょうど今頃、君らが引き継いで
研究していたサリダ菌に感染してしまって、あとわずかの命なんだ。敦也を助けるためには、
君らが開発した抗体のアンプルが、絶対に必要なんだ」
「…」
 アリスンは黙ったままで、話しつづける彼の顔を見つめている。
「お願いだ。オレを君のおじいさん…この時代のオレに会わせてくれ。頼む!」
 言われてアリスンは電話から手を離した。そして少しの間、考え込んでその顔を伏せていたが、
やがて顔を上げ、微笑んで、
「そのお友達…私のお父様が研究を引き継がせていただいた方ですね」
「あ、ああ、そういうことになるのかな」
「だって、おじい様にも教わったし、研究史を見れば、敦也さんのお名前が載っていますよ。
敦也さんのことをご存知だということは」
 彼女は立ち上がり、テーブルに放り出されたままだった車のキーを手に取った。
「ご案内します、おじい様の研究室へ。あなたを信じます。お若い頃のおじい様」
「ありがとう。感謝する」
二人は顔を見合わせ、微笑みあった。

 一時間後。彼らは再び暴走する車の中にいた。彼女の家から大学までは、思ったより
距離があるらしい。
「おじい様は、ひょっとしたら研究室で寝ているかもしれませんが」
 アリスンが心配そうに言う。エミリオは笑って、 
「自分が自分に起こされるんだ。文句は言えないよ」
「それもそうかも」
 くすくす笑ってアリスンは答える。彼女は笑い上戸でもあるらしい。
「この時代にも、タイムマシンはあるんだろ」
 何気ないエミリオの問いに、彼女は一瞬顔を強張らせ、
「あります。だけど時間管理委員局が厳しく取り締まっているので」
「使えない?」
「ええ」
彼女はうなずき、
「十年ほど前だったら、カリフォルニア市長に届けを出せば、誰でも使えたらしいんですけど」
 タイムマシンを利用しての犯罪が後を絶たなくなったので、TECの取締りが
厳しくなったのだという。
「ほら、分かるでしょ? その人にとって、もしも気に入らない過去があった場合、それ
を変えてしまえるわけで、そうしたら」
「ああ、その結果、他の誰かの運命が狂う。ひょっとしたらその存在すらなかったことに
なってしまうかもしれないからだろ?」
「そのとおり。さすがおじい様。だから」
 アリスンの祖父、すなわちエミリオは、取締りを厳しくするように、条例を出したのだという。
「全く、お偉くなったもんだね、オレは」
「その当時、おじい様がアメリカ州の大統領でしたしね。引退した今でも、まだまだ
大きな権力を持ってますよ。ですから」
「え、オレ、大統領になるんだ」
「ええ」
 彼の言い方がおかしかったらしい。アリスンはまたも笑って、
「その話し方。まるきり同じですね。やっぱり本物だわ」
「しみじみ言わないでくれないか。何だか、いきなり年取ったような気分になる」
 エミリオが憮然とした表情で言うと、アリスンの笑いが爆発した。
「まあ、それはそれとして、ですね」
笑いをこらえながら、
「いきなり目の前に若いおじい様が現れるなんて、普通はないですよ、ね?」
「確かにね」
エミリオもまた、苦笑する。その拍子に車は交差点を乱暴に曲がる。途端に
車のタイヤがきしんだ。
「でもね、実は」
 それを気にもしないで彼女は話し続ける。
「初めてお会いしたとき…あの店であなたを見た時から、以前どこかでお会いしたような
気がしていたんです。久しぶりに身内に会ったような、懐かしい、暖かい気持ちを感じたんです。
それに」
 エミリオもまた、彼女と出会ったときの自分の気持ちを思い出してうなずいた。
「お話を伺って、もう疑いようがなくなりました。やっぱりあなたは私のおじい様。
だから私の力の及ぶ限り、お助けします」
「ありがとう」
 エミリオが、ハンドルをさばく彼女の横顔を見つめて深く頷き、感謝の言葉を口にすると、
アリスンはそれへ、前を向いたままいたずらっぽい表情をし、茶目っ気たっぷりに肩をすくめることで
答える。
「でも、私とおじい様が同い年だなんて、何だか変な感じ」
 アリスンが楽しそうに言いかけた時、突然鈍い音がして、サイド・ミラーがもぎとられた。
エミリオは驚いて、後を振り返る。再び彼らを襲った鈍い音が、車のボディーに新しい
かすり傷を作った。


…続く。


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