追悼の波 8




 権藤は、その二人の様子をこれも興味深く伺いつつ、
「私はそちら方面、あまり詳しくないんでよく分らんのだが、これまで市販されておる睡眠薬とは
少し違ったタイプだとか…だがねえ、本当に微量だったもんで、皆、問題にもせんとそのまま
過ごしたんだわいや」
手にした資料の束を、太い指でぱらぱらとめくった。
「君らの話によると、川村君は失礼だがどうも…悩むというには程遠い人間らしい。
そういった性格の上からも、眠るために薬に頼る、といったタイプにはますます思えんのだわ。
上のほうの人間は、それでも川村君が薬を飲んだと思える午前二時からすると、胃の内容物と
考え合わせてね、ちょうど薬が切れる頃だから目覚めただけなんじゃわいと言うて、
問題にもせなんだんだっちゃ」
「そうでしたか…」
 冷めてしまった湯のみを、柳川は片手に持ちながら傾けたり元に戻したりしている。その中には、
  まだ少量の黄色がかった液体が残っている。
「それにねえ、君らももう会ったんなら知っておると思うんだが、川村君のご祖父上」
「ああ、はい」
「いわば地元きっての『名士』なんですなあ。県警の中にも、悪い意味ではないが、
川村会長の恩恵を蒙っておる者がようけいる。だから、警察としてもあまり
大それたことは言えんのだわ」
「大それた…他殺、ということですか?」
「ん…まあ、そういうことだっちゃ。そうなると、警察としては慎重論が勝ってしまう。
私ももう表立っては動けんのです。これが田舎の始末の悪いところだっちゃ」
権藤は柳川の質問に苦笑して頭を掻く。
「…川村君の遺体にあった、ロープの跡。これも後ろから絞めた後、ぶら下げたんであれば、
水平に痕がつくはずでね。だがどう見てもあの痕は、後ろから絞めたというもんではない。
あの状態では自殺としか断定のしようがない…事実、彼の研究は上手くいっておらんかった
ようなのでねえ。それは君らんとこの助教授、塚口さんでしたかな、彼もそう言っていた。
このデータでは、とてもじゃないが修士の資格は出せんと言うてしもうたから、
彼は自殺したんではないかと、ずいぶん気に病んでおられたようだわい」
「…はい」
 柳川と石崎は、権藤の言葉に暗い顔をして同時に頷いた。
「気を悪くせんでくださいよ」
そして権藤刑事はそう前置きしてから、
「これも警察としては当たり前の捜査手順でね。一応、その時大学研究室内及び構内に
おった者の身分と、そのアリバイというものを調べる」
軽い音を立てて茶をすすった。二人が神妙に頷くのを見て、
「塚口助教授は、まあ…卒業の時期じゃというんで、研究生の卒論にかかりっきりで、
大学研究室にこもりっきりであったと。こちらのほうは、一度三朝から退官された…
津山先生でしたかな、朝早いによって恐れ多くはあるがと、そちらのほうから指導についての
助言を電話であおいでおったというし、研究生は銘々の研究にかかりっきりであるしというんで、
いずれもアリバイははっきりせんのだわ。はっきりせんが、川村君がその時分、研究室に出て
おらなんだということだけは、皆の一致意見ですよ。これもまあ、君らも知っておるだろうが」
 権藤は、そこでようやく気が付いたように、恐縮する柳川の手から湯呑みを取り上げて、
新しい茶を注いだ。
「ここは風が強いから、ちょくちょく停電しよる。昨日の…川村君が亡くなる二時間ほど
前からその直後辺りまで停電しておったんですな。だから、途中で津山教授への電話を切って、
またかけ直す手間が要ったと、塚口さんは言うておるわけだ」
「なるほど…」
「他の残っておった学生。これはのんびりしすぎておって、論文が間に合わなさそうだと
いうので研究室に詰めきりであったと」
 自分たちの時は、川村が「そう」だった、と石崎が思わず微笑しながら柳川を見ると、
  柳川も彼を見て微笑んでいる。
「だから、今のところでは、直接川村君の下宿を訪ねて手を下したというような、
特に怪しい者は見当たらんのだわ。私一人では出来ることは限られておるし」
権藤は、そこで大きくため息を着いて口を結ぶ。
 そこで、
「その…睡眠薬の詳細とか、化学式とか、もしもデータをお持ちで、差し支えなかったら
見せてくれませんか?」
もう片方の手を柳川が彼へ差し出しながら言った。
「ま、構わんでしょう。本来ならば部外者へ見せるものでは当然ないが、現時点では
自殺と決まっておるものだ」
すると権藤は苦笑して、あっさりとその書類を渡す。
「この頁に載っておる」
 右上をホッチキスで閉じられたそれの作成日は、昨日である。きっと何度もためつすがめつ、
食い入るように眺めたに違いない。それはまるで権藤の「納得の行かなさ」をありありと示すかのように、
既に端のあちこちが擦り切れていた。
(あの化学式だ)
柳川が強張った顔をし、石崎が眉をしかめると、
「見覚えがあるんかいや?」
それを見逃さず、権藤が尋ね返してくる。
「川村君が、朝の七時前…正確には、午前六時五八分に私宛に送ってきたメールに、
添付されていた化学式です」
 それへ正直に、柳川が答える。
「死亡推定時刻は午前六時三十分だいや」
「はい」
尋ねるというよりも、むしろ確認するように権藤が頷きながら言うのへ、彼女が頷くと、
「だから、君らも彼の死に疑問を持った」
権藤が言うと、石崎も柳川に合わせて頷いた。
「だが、今話し合って出てきたことは状況証拠にもならん…犯人を特定するにはどうも弱いですな」
「だから、私が動きます」
苦笑する刑事に、柳川はきっぱりと言う。
「私は、そのために『故郷』へ戻ってきたんです」

「お前、あんなミエ切って良かったのかよ」
 また新しいことが分ったら教えてくれ、と手を振る権藤刑事に別れを告げ、県庁前のバス停に戻ると、
ちょうどそこへバスはやってきていた。「鳥取砂丘行き」と書かれたHバスへ隣り合わせに乗り込んで、
石崎が呆れたように苦笑すると、
「ミエやないもん。ホンマのことやもん」
テレもせず、真面目な顔で柳川は窓の外を見つめたまま答えた。
「昨日の朝、T市一帯が停電してた」
「うん」
 今日、彼女が肩から下げているのは旅行カバンではない。茶色く、何の飾り気も無い
  ショルダーバッグから、昨日ホテルで便箋に書いた「まとめ用紙」を取り出そうとして、
「あかん、車酔いする」
手を止める彼女に、
「俺が覚えてる。気になったことがあるんなら話せよ。後でまとめるの、手伝ってやるから」
「うん、頼むわ」
石崎が促すと、柳川は小さく「オエッ」などと言いながら、出しかけた用紙を
再びバッグの中へしまいこんだ。
(色気もクソもないな)
苦笑しながら彼女を見つめていると、
「あー。マジ、あかん。あかんなあ。昔っから車には弱いねんよ」
彼女は次には大きく吐息をついてから、目を閉じて座席の背へもたれ、
「停電時間は川村君の死亡推定時刻の三時間前。ということは、朝の三時半から六時半くらいまで
ってことかな。まあ、朝っていうには早すぎるし、普通の人やったら寝てる時間帯やから、
中国電力の人も苦情を受けんと直せたかも」
「まあな」
その、ちょっと嫌味な言い方に笑いを誘われて、口元をほころばせた石崎は、
「…塚口先生。川村君の卒論データが上手く出えへんかったから〜、って
言うてはったけど、ホンマかな、それ」
「…お前」
同じ口元をまた強張らせた。
「データ改ざんなんて、しかもたかが修士の論文の実験結果データやなんて、パソコン
いじれる人間やったら簡単や。違う?」
不機嫌に黙ってしまった彼には構わず、
「川村君が院生になっても研究してたのは、津山先生が川村会長と開発予定の、睡眠薬が農作物害虫に
与える影響について。塚口先生も津山先生の研究を受け継いで、その開発に必要な実験をしてはった。
確かに川村君のデータが取れへんかったのは事実やったかもしれん。よっちゃん…吉元さんも
そない言うてたし。けど、恋人のよっちゃんでさえ、そんなに悩んでるように見えへんかった、
っていうんやったら、取られへんかったデータっていうのは、全体にあんまり影響の無い、極々小さくて
後で取り返せるミスやったんかも…ああ、怒らんといてえや。あくまで可能性の問題」
「怒っちゃいないけど」
 よくもまあ、そこまで色々考えられるものだと半分呆れ、半分怒りながら、
「続き、話せ」
石崎はそれでも彼女を促した。
「ん、分かった」
 柳川はそれに頷く。その拍子に彼女の頭で隠れて見えなかった砂丘部分が小さく見えて、
(…大学に着いちまう)
彼女が言い出そうとしていることで、彼が愛した大学が『壊れてしまう』のではないかと
石崎は密かに恐れつつ、
「で、そうやって川村君が、あの成績で奇跡的に出したデータは、一体誰が使う?
使われたと分かっても、川村君は絶望するどころか、それを逆手に取るちゃっかりモンやから」
「…だから」
(真実が知りたい)
乾いた唇で、先を促さざるを得ない。
 息を詰めて見守る石崎へ、柳川は少し哀しげな表情で笑ってから、
「他殺やとするなら、犯人は大学関係者。最初から決まってるやん」
俯いて、ポツリと答えたのである。


…続く。


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