追悼の波 6




   3  傷跡

「ほれほれ、こっちこっち」
「はいはい」
 ニューコタニの一室である。シーズンオフだということもあり、柳川のちょうど向かい側の部屋に、
石崎もすんなりと同じような部屋を取ることが出来た。
 一旦落ち着いてお茶でも飲むのかと思っていたら、
「早く早く。忘れへんうちに、これまでのこと、整理しときたいねん」
柳川は、そそくさと着替えて石崎の部屋の扉をノックした。
 石崎は苦笑して、柳川に招かれるまま、彼女の部屋へ入る。石崎の泊まっている部屋からは
  JR鳥取駅が見えるが、彼女の部屋からは駅から放射状に伸びる通りにそった町並みが見えて、
「懐かしいなあ。入試の時も、入学式の時もここに泊まった。全然変ってへん」
窓際の椅子に腰掛けながら言い、柳川がホテル備え付けの便箋を小さな机の上で繰る。
 その白い指先をなんとなく、眩しい思いで見ながら、
「そうだなぁ。これからも変らないよ、きっと」
石崎が頷いて言うと、
「ずっと変らへんと思てたんやけどな」
「…お前は、変ったと思うのか?」
「いや…うん。変ってまうかもしれん」
やけにしみじみと、謎のように柳川は頷く。
「言っとくけどな」
 そんな彼女に、釘を刺すように石崎は、
「川村が自殺じゃないっていうのは、今のところはお前の想像の産物でしかないんだ。本当に
自殺かもしれないだろう。そのことで、あの研究室が」
言いかけて、ふと口をつぐんだ。
(崩壊…もしくは閉鎖)
 柳川の「憶測」が、もしも的を射ていたら、本当に研究室内に『犯人』がいることになる。
研究室内の後輩や、あるいは
(まさかと思うけれど先生方が)
そうであったら、と思い、彼は思わず身震いした。
「自殺…やっても」
 そんな彼を見て、柳川がポツリと口を開く。同時に、窓の外で大きな風が吹く音がした。
山陰地方は、風が強い。鳥取砂丘もこの風と、千代川によって運ばれる砂によって出来たのだ。
「いや、自殺やったらなおさら…そんな風に追い詰められたら、周りの人間が、全部、敵に
見えるんや。たとえば恋人とかやったりしてもな」
「お前…」
 その強い風は、柳川が座っているほうから吹いてくる。
「O府立大で、お前にも、それと似たようなことがあったんだな?」
まさにその風が運んできたように浮かんだ考えを、石崎が思わず口にすると、
「私は、人付き合いが苦手やから…特に、初めて会うた男の人には身構えてしまうもんやから」
柳川は彼から目を伏せ、手にしていた便箋へさらさらとボールペンを走らせ始めた。
「素っ気無い答えをつい、してまうんやな。けど、川村君だけは違たから。好きになった、って
いうんとも違うんやで。ホンマに軽うて、ノリが良うて…こっちまで『そんなんでええんや』って
思わせてくれる、そんな子ぉやったから…そやから」
 死亡推定時刻、午前六時半。典型的な縊死。絨毯に失禁の跡…そんな文字がたちまち白い
  便箋の上へ並んで、
「最後に、彼が…彼じゃなくても、彼の名前で、あの化学式が私に送られてきた意味を知りたい。
それが私の…彼へ送る最後の友情…追悼」
…午前六時五十八分、柳川、川村からのメール受信。
そこまで書いて、柳川はボールペンを便箋の上にぱたりと音を立てて置く。伏せていた
切れ長の目をまっすぐ石崎へ向けて、
「石崎君も、聞いたやんな?」
「…ああ」
それだけで、彼女が言わんとするところを察し、石崎は頷く。
 津山宅を訪れた時にすれ違った、初老の紳士。あれが川村の祖父で、本人達は気づいて
  いなかったかもしれないが、二人が耳にしてしまった津山と彼の話は、
「ただの腐れ縁やない。何かあるな…津山先生と、川村会長」
「うん」
世間に疎い者でさえも、そう思わせるに十分だったろう。そもそも川村幸信自身も、祖父と
津山の『親交』を隠そうとしなかったのだから、研究室の誰もが津山と川村の付き合いを知っている。
(やっぱり川村がT大に入学できたのって)
 石崎は、椅子の上で胡坐をかいて腕を組んだ。実に不謹慎極まりないし、T大は
田舎の大学だとはいえ、『腐っても国立』である。だから、私学でよくあるような、
受験生が誰かのコネで容易く入学できたという事態があった、とは考えがたいのだが、
(とてもじゃないけど入学できる成績じゃなかったかもしれない川村の場合、
何かの力が働いたとするなら)
それはやはり、三朝の川村の祖父なのかもしれない、そう思って石崎が大きくため息を着くと、
「石崎君、知ってる?」
伸びをしながらあくびをして立ち上がり、柳川が口を開いた。
「何を?」
「学者の世界ってなぁ…ほれ、どうぞ」
「お、すまん」
備え付けのポットの湯で淹れた茶を彼に勧め、再び彼女は椅子に座る。
「見た目、学問の世界やから、他の経済社会と違て、純粋やと思われてるかもしれんけど」
「おお」
 熱い湯が、体の隅々に染み渡っていく。湯気に思わず細くなった石崎の目は、
「すんごい汚いねん。派閥とかでドロドロ」
「…ああ。聞いたことあるよ」
柳川の言葉で、すっと伏せられた。
「誰かの研究を他の誰かにとられた、なんて当たり前。学生がたまたまやった研究で、
例えばものすごい低確率のウイルスなんかが発見された、とかなったら、教授の
手柄になるのも当たり前。そんな世界」
「テレビとかでよくあるけど、本当なのかよ」
 むしろ笑みさえ含んだ彼女の話に、石崎もまた苦笑する。柳川はそこで一口茶を飲んで、
「実際に自分がそんな目に遭うたら敵わんで。そやから分かった」
「何を?」
「津川先生は、川村君のお祖父さんに何かの弱みを握られてて、それは多分、
研究に関することで…そやから川村君は」
「…うん」
もはや、石崎も彼女の言葉を否定しない。
「もしも彼が自殺やないとしたら…そこらへんも関係してるんちゃうかと思う。今、
大学に在学してる人間だけやなくて。あのお祖父さん、敵も多そうやったし…あ」
柳川が言ったところで、部屋の電気が一瞬、ふっと消えて、また点いた。どうやら停電らしい。
「春先だし、風が強いからな」
「うん」
昔から、春先に鳥取県に吹く強い風は、この時期になるとちょくちょく電線を傷つける。
それによる停電もたびたび起こったことを思い出し、彼らは微笑んだ。
「ともかく、今日は一旦、ゆっくり寝る」
その微笑をあくびに変えて、柳川は再び大きく伸びをした。
「また明日。明日は鳥取県警に行くけど、どうする?」
「付き合うってばよ」
「ん、分かった。じゃ明日八時ぐらいに」
「了解」
石崎も言い、彼女へ手を振って自室へ引き上げた。
 ホテル全体が、ゆっくりと揺れている。相変わらず風は強いらしい。



…続く。


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