YOU BECAME SO…前編
プロローグ それは既に始まっていた。
今朝もいつものように、目覚ましは鳴った。カーテンの隙間から漏れてる春の日差しに目を細めながら、
まだ半分寝ぼけている頭でそれを止めて時間を確認したら、もう7時半。
昨日、ティーン向けファッション雑誌モデルの『アルバイト』が終わっても、そのままデザイナーの先生に
引き止められて、なんだかんだと注意を受けていたから、寝坊したのはきっとそのせいだろう。
慌ててガッコの制服のズボンを履いて、ケツの辺りまで上げかけたら、
「びり」
なんて小さい音が部屋に響く。
まただ。今日もまたやった。毎朝制服を着るたびに、体のあちこちから何かが裂けるような
音がし始めて、これで四日目だ。いったいどうしたんだろう、俺の体。
恐る恐るケツの辺りへ手をやって、思わずホッとする。音は派手だったけど、細かい糸が
解けただけらしい。時間もないし、俺はそのまま隣の幼馴染に声をかけることにして、家の玄関を出た。
「あ、涼君、おっはよ!」
「よっ」
こうやって俺の幼馴染…芙美の家の玄関で小さい頃から俺が学校へコイツを誘いに来るのが
当たり前みたいになって、もう何年経つだろう。朝の光にも負けないお前の笑顔、まぶしい。
「モデルさん、アルバイトのつもりだって言っても、いつも大変でしょ? もう少し寝てたっていいのに」
「別に、構わないって」
そうだ。芙美を他の男からガードするためなら、少々の睡眠不足くらい耐えられる。
芙美と一緒に学校へ歩きながら時々めまいがするけれど、こうやって二人でいる時間、
減らしたくない…うん、俺、いつの間にかコイツをただの幼馴染とは思わなくなっていた。
もっとも、コイツは俺のこと、どう思ってるのか知らないし、まだ確かめる勇気も無いけど…。
「でね、でね、それで相田のマコちんが」
俺が聞いてても聞いてなくても構わずに、芙美は歩きながら友達の一人の名前を出して、
楽しそうに話し続けてる。
「相田って、確か、水泳部のマネージャーをやってるヤツだったよな? あの、ちょっと
女にしては髪の毛をかなり短くした」
「そうだよー。本人も中学の時の大会記録、持ってるんだって。すごいよね。けど、足の怪我で
水泳が出来なくて、だけど水泳が好きだからマネージャーやってるって」
「すごいな」
「でしょー」
俺の言葉に頷く度、大きな瞳はくるくる動いて、肩で揃った綺麗な髪はさらさら揺れて…
そんなコイツを見ているのも、俺には楽しい。
「でね、涼君」
「ん?」
「今日のお弁当、豪華フライづくしだよ!」
「そうか。いつも悪いな」
「だって涼君、ご両親が共働きじゃない。だから代わりに私が、ね?」
「…うん、ありがとう」
俺がスカウトされてモデルをやり始めてから四ヶ月、コイツは毎日、俺のためにうまい弁当を
作ってくれる。いつの間にこんなに上手になったんだろうって、初めて食べたときには驚いたもんだ。
食べることにあまり興味はなかった俺だけど、芙美のおかげで少し、いや、大分食べるのが好きになった。
「楽しみだ、すごく」
俺がからかい気味に笑ってそう言うと、
「あー、初めての挑戦だから、まずいんじゃないか、とか思ってるでしょ」
芙美は口を尖らせる。…可愛いなって、素直に思う。
だからついいじめたくなって、俺はそんな風に言ってしまうんだ。
「ああ。冗談だって」
もう、と、安心したみたいに笑って、芙美は俺の手をつないだ。
「ほら、行こ。もう予鈴が鳴っちゃうよ!」
「ああ、急ごう」
俺達の通う高校は、海を見下ろす坂の上にある。その道を芙美と手をつなぎながら
こんな風に走る、ってのも悪くないな、なんて思いもする。なぜだか最近、そうすると
ちょっと息が切れる俺と俺の幼馴染、内田芙美は、この春K県立高校二年になったばかりなのだ。
その1 そして彼は気づいた。
そして今日も無事にガッコから引けて、夜。
「はい、梁川ちゃん、いいよ。今日はここまで。お疲れさん!」
カメラさんの声で、スタジオの中にほっとした空気が流れた。撮影も無事に終わった。
後は帰って寝るだけだ。
(いや、楽しみはまだあるな)
芙美がバイトしてる喫茶店のコーヒー。アイツの笑った顔と、エプロン姿を思い描いて
俺の口元は少し緩んだ。芙美は最近、急に可愛くなったから、アイツ目当てで来る客も増えてる。
早いとこ行ってガードしないと、って考えてたら、
「ちょっと涼介ちゃん、いい?」
今回の撮影のプロデューサーでもある聖護院センセイが話しかけてきた。そう無下にも
できないから、俺はしぶしぶ応じる。
「何っすか」
芙美以外に愛想を振りまく必要も無いから、つい声も素っ気ないものになる。去年のクリスマス、
街で芙美と歩いてたら受けたいきなりのスカウト。芙美が「やってみなよ」なんて言わなかったら
きっとモデルなんてやらなかったし、別に今だって特に続けたいわけじゃない。いつだってやめていい。
それに雑誌にちょくちょく載るようになってから、ガッコの中でも知らない奴らに声をかけられたり、
女に追いかけられたり…うざったいことばかりだ。
「んー。その無愛想さ、ス・テ・キ」
「…俺、用があるんで」
「あらいやだ、そうじゃないのよん」
帰ろうとする俺を、ちょっとカマッ気のあるこの先生は慌てて呼びとめた。
「ちょっと話したいことがあるの。ここじゃなんだから、スタッフルームの方へ、ね」
有無を言わさず腕を掴んで引っ張っていかれる。これがまた、すごい力なんだ。
中のソファに無理やり座らせられて、俺はため息をついた。
「単刀直入に言うわね、涼介ちゃん」
「どうぞ」
そう、メシとクソは早いほうがいいっていし、単刀直入、大いに結構だ。
俺が促したら、先生もなぜか大きなため息をついて、
「アナタ、太ったわよ。そこはかとなく」
「…は?」
聞き違いかと思った。先生は、そんな俺にじれたようにもう一度言った。
「だ〜か〜ら、アナタ、太った、って言ってるの!」
「そうですか?」
「そうですか?じゃないでしょ。最近、ズボンのボタンが止まらないとか、ファスナーが
上がらないとか、そんなことあるでしょうが?」
「…はあ」
確かに思い当たる節はある。今朝も、学校指定制服のズボンのファスナー、上がらなかった。
ケツの辺りで音もしたのは、そういうことだったのか。でも先生、何で分かるんだろう、
さすがファッションデザイナーだ。
納得と驚きの混じった顔をした俺に、先生は決め付けるように言う。
「モデルとしてのアナタに、期待してる人たちの気持ちを裏切らないでね。早速、ダイエット
始めてらっしゃい! 人間はね、わき腹に肉がついたらオシマイなのよっ!」
「…はあ」
ダイエットしろ、って言われても、経験がないから何をしたらいいのか皆目見当がつかない。
それにやっぱり、モデルをこれからもやりたいわけじゃないから、別に太ったって
構わないと俺は思うんだが。
「いいわね? 次の撮影が三日後だから、それまでに1キロでも減らしてきて頂戴!
涼ちゃんとこの社長にも話、通しておくわヨ。デブの梁川涼介なんて、誰も見たいとは
思わないんですからねっ!」
…全くもって、めちゃくちゃな言われようだ。芙美がバイトしてる喫茶店へ向かいながらの夜道、俺は考えた。
そんなに俺、太ったか? だとしたら、原因はなんだ?
そして翌日。
「りょーうくん! やっぱりここだった。四限の体育、サボったでしょー。…あれ、
どしたのー? 何か暗いよ」
学校へは来たけど、退屈なだけの授業に出るのもつまらない。だから裏庭のベンチで
寝ていた俺のところへ、芙美もいつものようにやって来る。
「別に。ちょっと寝不足なだけだ」
俺が慌てて言うと、そうかなあ、なんて言いながら、芙美は俺の隣に座った。
まさか女みたいにダイエットのことで悩んでる、なんてコイツには言えない。いつもは
トボけてるのに、妙なところで鋭いんだから。
学校の裏庭にいついているらしい猫たちを何となくいじっていたら、
「ほら、じゃーん!」
芙美は後ろ手に持っていた大きな包みを差し出した。
「今日のお弁当は、中華風こってり春巻きだよ。中にチーズ入ってんの」
「サンキュ。ホント悪いな、いつも」
「いいっていいって。私がやりたくてやってるんだもん」
よいしょ、と隣に腰を下ろし、コイツは包みを広げ始める。
「それにさ、モデルさんって、意外にハードなんでしょ? 夜もすごく遅くなる時、
あるみたいだし…少しは体力付けとかないと、体がもたないんじゃないかと思ってさ」
そして俺に向かってニコニコ笑う顔を見たその瞬間、やっと分かったんだ。
(俺が太った原因の一つは、お前の弁当だ)
体育の授業も、たるいからサボって、おまけに芙美の弁当がうまいからついつい食べ過ぎて…
だって、食べないと芙美が悲しそうな顔をするから、つい食べてしまうんだ。
(運動不足と、食い過ぎ、か)
そりゃ太るだろう。そういうことに疎い俺だって分かる。確かに、モデルって、ただ
カッコつけて立ってるだけとか、寝そべってるだけっていうわけにはいかなくて、
それなりに体力も必要なんだけど…要するに、『それ以上』食わされてるってことなのかな。
「どしたの、涼君。ほら、食べようよ」
ついボーッと目の前の顔を見てたら、不思議そうに声をかけられて、俺はやっと芙美から
視線を外した。芙美は顔を真っ赤にして、同じように顔に血を上らせた俺に弁当を差し出す。
「ああ。もらう。頂きます」
そうだ、まだ三日ある。ダイエット、どうやって始めたらいいか分からないけど、三日もあれば、
一キロくらいは減ってるだろ、多分。それにモデルの仕事だって、コイツの弁当には代えられない。
「ごちそうさま。腹、一杯だ。サンキュ」
幸せな気分で芙美の顔を見ると、芙美も嬉しそうにうなずいた。
「これからお昼寝、する? 天気もいいし、私もサボっちゃおうかなー」
「ああ、そうしろよ」
そして、俺たちは二人で仲良く眠った…。
その2 そして彼は模索する。
(さあて、どうしたもんか)
『三日後にもまた撮影があるから、それまでに1キロは痩せて来てよねっ』
デザイナーの聖護院センセイの言葉が、ガッコから家に帰ってくる道々頭の中で反芻され続けて、
いつも以上に芙美の話を聞けなかった。
今日は特に何の予定も無いから、アイツとゆっくり帰ってこられると思ってたんだけど、
家が近づいてくるにつれて、あのカマ声が余計に気になり始めてどうしようもない。
いつもみたいに芙美をお隣まで送り届けて、
(まだ帰ってきてないみたいだな)
自分ん家の玄関の扉を開けながら、これもいつものごとく俺は思った。
共働きの両親のうち、どっちもまだ帰ってきてないらしい。風呂を沸かしながらふと思いついて、
風呂場で埃を被ってた体重計に乗ってみた。
すると針は回って、七十少しなんていう信じられない結果をはじき出す。
…ということは、プラス八キロ強?
知らないうちにこんなにも増えてたんだ。確か四ヶ月前、モデルをやらされることになって
図った時は、一七八センチの身長に、六二キロくらいだったと思うんだけど…。
これは確かにまずいかもしれない。だけど一体、どうやったら痩せるんだろう。
柄にも無く深刻に考えながら、部屋に戻って着替えようと思っても、無意識に
楽そうな服を選んでる自分に気がつく。
いや、俺はもともと締め付けられるような感じのする服は好きじゃないから、ラフっぽいヤツしか
普段着にしてないんだけど、
(それにしても、苦しいな、やっぱり)
なんだか着られる服が少なくなってきてるような気がする。
で、服を選んでいる最中に、ふと思いついて鏡の前に立ってみた。上半身もろ脱ぎになって、少し捻ってみる。
(…)
わき腹が、三段になった。
(……)
今度は下っ腹を少しつかんでみる。
(………)
そしたら、なんだかサンドイッチみたいな厚さでつかめた。
(やっぱり、太ったんだな、俺)
別にどうでもいいことだとは思っていたはずなのに、やっぱりちょっと軽いショックを
覚えたその時、
「涼介! いるの? ご飯買ってきたから降りてらっしゃい!」
オフクロの声がする。どうやら仕事から帰ってきたらしい。
「分かったよ!」
まあ、とりあえず腹は減った。腹が減っては戦は出来ぬっていうし、これからダイエッ
トするにしたって、必要最低限のエネルギーはきっと必要だろうから、
「すぐ行く!」
階段の下へ怒鳴り返して、俺はダイニングへ降りていった。
…オフクロが買ってきた、おなべ屋のカレー弁当大盛りを、どうしてだかペロッとたい
らげてしまえたのには、われながら驚いたけどな。
なんだかやたら、食い物ばかりが出てくる夢を見て、あまり良く眠れなかったその翌日。
(あ、あいつ!)
二時間目の授業が終わっても、まだまったりしてるみたいな感じがする腹をさすりながら、
俺は芙美を他の男からガードするためにアイツの教室へ歩いてた。
その前で、
「んー、だからさ。僕と一緒に来週の日曜日、どこかへ出かけないかって」
芙美をくどいてるヤツがいる。
「ね? 美味しいランチの店、見つけたんだ」
北条拓馬。北条コンツェルンの一人息子で身長が俺よりもさらに五センチくらい高いし、
みてくれだって「そこそこ」だからガッコの女たちも放っておかないんだけど、
「あの、でも私、日曜日は宿題を」
引く手あまたなはずのヤツの狙いは、今度は俺の幼馴染らしい。しどろもどろに答えてる
芙美とヤツの間にムッとしたままの俺が割り込んだら、
「おやおや、こんにちは、モデル君。モデルの癖にそんな怖い顔してたら、女の子にモテないよ?」
「…お前に話がある」
からかうみたいに言われて、もっとムカついた。
「芙美。いいからお前は教室ん中、入ってろ」
「う、うん」
俺が続けると、芙美は戸惑ったように頷きながら、素直に教室の中へ入っていく。
「あまりアイツに近づくな」
アイツに聞こえないように、ドスの聞いた声で囁くと、
「…やれやれ。彼女には怖いガードマンがいるんだねえ。近づくな、なんて君に言われる
筋合いはないんじゃない?」
北条は肩をすくめてきどったポーズをとった。なんだってこんなヤツが県立に入って
きたんだろう。コンツェルンの坊ちゃんなら、他の私立とかに入ればいいのに。
「僕だって、あんな可愛い子になら毎日お弁当を作ってほしいなって思っちゃうよ。
いいね、君は。幸せ太りで」
「…幸せ太り?」
「そうそう」
…なんとも『面妖な言葉』を聞いた。俺がつい聞き返すと、コイツはしたり顔で頷く。
「あんな可愛い子が、毎日手作りの弁当を作ってくれるんだよ? だから君、最近
太ったんだねえ。幸せだろうねえ、いいねえ」
「…お前はオヤジか」
最後の部分は聞き流したけど、『幸せ太り』っていう意見にはうなずけるところがあって、
「じゃあ、どうしたら元に戻れるのか、お前、知ってるんだよな?」
人のことを「太った」って臆面も無く言えるくらいだから、そっち方面の知識もあるんだろうと
思って、腹立ち半分で俺はもう一度尋ね返す。
「どうするもこうするも…まあ、まずはダイエットじゃないか?」
するとヤツはまた肩をすくめて、
「ご飯をあまり食べないようにして、体育の授業はサボらないで出る。これだけで結構成果
出るんじゃないかな。とにかく体を動かすことだよ。…そういや君、ホント最近、顎の辺りとかふっくらしてきたよね」
一言余計だ。
「…大きなお世話だ」
やっぱりムカつくから、口ではそんな風に言ったけど、
(早速実行してみることにしよう)
心の中では密かにそう決心して自分の教室へ戻りかけた俺の背中に、北条がまた余計な声
をかけてくる。
「まあせいぜい頑張りたまえ。失敗しても、君の幼馴染は、僕が面倒を見てあげるから安
心するがいい。人間、わき腹に肉がついたらオワリだからね」
…失敗は絶対に出来ないと思った。
「えー、涼君、食べてくれないの?」
「…悪い。ダイエットしてるんだ。聖護院センセイも、うちの社長も、絶対に痩せろって
言って、あれから電話もかかってきて」
やっぱりな、こうなると思ってたんだ。
昼休み、意気揚揚と俺の席の前に現れた芙美は、俺が事情を告げるとたちまちシュンと
なった。
「ダイエットなんて…。最近の涼君、なんだか倒れそうに見えてたんだよ?
今の少しふっくらしてる涼君の方が、私、ずーっと好きだな」
「……」
好き、っていうのはコイツの場合、「親愛」の表現なんだって知っているんだけど、
(…ダメだ)
くじけそうになる、そんな風に言われると。ダイエットやってるヤツら、こんな気持ちを
いつも味わってるんだろうか。
(だとしたら、成功した奴らにはものすごい意志力と精神力があるんだろうな)
俺は諦めのため息をついて言った。
「食べる」
「え、ほんと?」
たちまち輝く芙美の顔。そんな顔が見たくて、俺は生きてるんだ…大げさじゃなく。
「ああ。頂きます」
俺が言うと、芙美はいそいそと弁当の包みを広げて、
「そうこなくっちゃ! どうぞ召し上がれ。今日は、チーズ入りスパゲッティカルボナー
ラだよ」
ひょっとしてコイツが作るのって、濃いのばかりじゃないか? コイツは食べても太ら
ない体質みたいだから、それでもいいんだろうけど、
「はい、どうぞ。冷めてもおいしいよ、絶対!」
「…うまい」
目を輝かせる芙美の前で、俺は最初の一口をかみ締めるようにしながら頷いた。ほんと
にうまいから、なんだかものすごく複雑な気分だ。
「わーい、嬉しいな!」
芙美はにこにこ上機嫌で、そんな俺を眺めてる。
…せめて六限の体育の時間は、寝ないで頑張ろう。
「ごちそうさま。うまかった、ほんと」
心の中で密かな決意を固めなおして俺が言うと、芙美は心底嬉しそうに笑う。
「うん、これからもいっぱい食べてね」
「ああ、うん」
その笑顔を見ながら、まだ二日あるんだ、まだ…なんて思って…俺の意識は遠ざかって
いったんだ。
その3 そして彼は葛藤する。
少し冷たい春の風が吹きすぎていった時、俺はやっと目が覚めた。
(またやった)
体育の授業、サボらないで出ようって決心したばかりなのに。
腹が膨れると、つい眠くなる。この癖っていうか習性、いい加減に変えるように努力し
ないと、やっぱマズいよな。
頭を右手で掻きながら上半身を起こすと、芙美はいなくて代わりにメモがその手に握ら
されていることに気づいた。
『放課後にまた来ます。5限目の数学のノート、持ってくるね』
…五時間目? でも、本当のところ、今は何時なんだろう。
どっちにしても、
(あと二日か…)
撮影の日は迫ってくる。それまでに1キロは痩せて来いなんて言われてるけど、
(ひょっとしたらこの分じゃあ…)
恐ろしい予感に思わず顔が引きつったのを嫌でも自覚した。悪寒を振り払うみたいに頭
をもう一度振りながら、ズボンの埃を払って俺は立ちあがる。
そこへ、
「やれやれ、こんなトコでサボってたなんてねえ。もう終礼も終わってしまったわよ?」
「川崎先生」
呆れたみたいに声がかけられた。よりによって、自分の担任に見つかっちまうなんて。
「君、モデルさんをやるのもいいけどね。授業放棄は重大なペナルティよ」
「すみません」
去年大学を出たばっかりだっていう、この英語の女教師は割にさばけた人で、俺ら生徒
の間でも人気が高い。物分りのいいこの人が「ペナルティ」って言うんだから、よっぽどのことだと思って、
(三十六計謝るに如かず。ここは大人しく謝っておこう)
「ごめんなさい。気をつけます」
俺は一応、神妙に言って頭を下げた。
「ま、いいわ。今回だけは大目に見といてあげる」
「え…?」
すると、川崎先生は肩までの髪の毛を横へ払いながら、俺へいたずらっぽくウインクして後ろを向いた。
ああ、そうか。アイツが走ってくるからだ。
「中田さんに免じて、今回だけよ。もう二度目はないからね?」
「すみません。ありがとうございます」
忙しいときにはほぼ毎日。モデルやってると本当に、精神的にもクタクタになって
勉強どころじゃなくなる。何度も単位を落としそうになった俺だけど、芙美のおかげで
何とか授業にも付いていけてる。先生もアイツに感謝してるのかもしれない。
「うふふ。彼女のお弁当、美味しい?」
「あ、はい…あの」
「ま、じゃあ君が内田さんのお弁当、食べてるって噂、本当だったんだ」
しどろもどろになった俺を見て、先生はクスクス笑う…どうやら引っ掛けられたらしい。
「先生っ!」
「はいはい。いいじゃないの仲が良くて」
顔にたちまち血が上る。つい大声で叫んでしまった俺の前で、
「君たち見てると、可愛いなあって思うのね」
先生はやっぱりクスクス笑ってる。これが「大人の余裕」ってやつなんだろうか。何だかちょっと悔しい。
「でもねえ」
咄嗟に気の利いたことを言い返せなくて言葉に詰まった俺へ、だけど先生はすっと
真面目な顔になって、
「幸せなのはいいけど、 健康管理は自分の責任だからね」
「へ?」
突然話が飛んで、俺はきょとんとした。先生は構わず、
「君、最近急激に太ったような気がするのよねえ。君みたいな年頃から体重を増やしたら、
私くらいになってから痩せるのに苦労するわよぉ? 無理にとは言わないけどさ、
ダイエットしたほうがいいんじゃない? んじゃっ!」
俺の目の前を一瞬に暗くするような言葉を投げつけて、先生は教室のほうへもどって行く。
その途中で芙美とすれ違って、
「あ、先生、さよなら〜」
「はいはい。気をつけて帰るようにね」
芙美も先生に手を振って、俺のほうへ走ってくる。
俺、ほんと、一番言われたくない人にばかり、一番言われたくないことを言われてるような気がする。
「りょーうくん! もう、風邪引いちゃうよ? 大丈夫?」
「ああ、大丈夫。いつものことだから」
教室って、なんだかんだで人が多くて、変に温くなる。そこで寝ても近頃何だか、
暑くて仕方が無いから…ひょっとして太ったせいなのか?
「でね、そのときマコちんのお父さんったらね。カナヅチを足の上に落として、ぎゃあ、って言ったんだって!」
早速、芙美と並んでガッコから帰る途中、コイツの明るい笑い声を隣で聞きながら、
俺、本気で思った。
(今日の晩飯、抜きにしよう)
「で、涼くん」
「ん?」
話が一区切りついたのか、芙美は俺の顔をいたずらっぽく見上げて、
「今日、涼君とこのおじさんとおばさん、いないんでしょ」
「ああ。そうだけど」
まあ、あの人たちの場合、まともな時間に家にいることのほうが珍しい。
俺が頷くと、芙美は嬉しそうに続けて言った。
「じゃあ私、涼君の家に行って、晩御飯作ってあげる」
「いいのか?」
(しまった!)
…思わず言ってしまって、俺、死ぬほど後悔した。
「うん、もちろんだよ! 何かリクエストある?」
「そうだなあ」
嬉しそうに尋ねてくれる芙美を見たら、やっぱりいい、とは言えなくて、俺は考え込んだ。
こういう時は、何かあっさりした物がいいって、テレビで言ってたような気がするんだけど…だけど、
「うん、じゃあ、ピリ辛焼肉定食にしよう!」
俺が答える間もなく、芙美は決めてしまった。
「おい…」
「そうと決まったら、ほら! 早速スーパーに寄って、材料買わなくちゃ。急いで急いで!」
「あ、ああ、うん」
結局流されてしまって、俺はお前に手を引っ張られたままスーパーへの道を一緒に走る。
頼むから、もう少しゆっくり走ってくれ…息が切れる。
to be continued…
MAINへ
☆TOPへ
|