追悼の波 5



「…やあ、君たち。よく来てくれたね」
「津山先生」
「お久しぶりです、先生」
 どことなく固まってしまったような空気をほぐすように、津山がその二人へ声をかけた。
  和美もまた微笑んで、「ごゆっくり」と言い置き、キッチンのほうへ消える。
「まあ、もっと側へ。せっかく来てくれたんだ。ゆっくりしていけるんでしょう」
 咥えパイプを口から離して、懐かしそうに二人を見やりながら津山は縁側へ腰を下ろし、
  そばに重ねてあった藤の円座を二つ、自ら彼らのほうへ差し出した。
「あ、すみません。頂きます」
「ありがとうございます」
すると二人は恐縮したように頭を下げながら、それぞれへきちんと正座をして両手を揃えた。
「ああ、早速ですがね、柳川君」
「はい」
 自分の口ぞえでO府立大大学院へ入り、しかし中退してしまったかつての教え子へ、
微苦笑を漏らしながら津山は、
「色々…あったんだろうね」
「…すみません。せっかく先生の口ぞえを頂いたのですが」
責める様でもなく、むしろ労わるように柳川へ話しかけた。
「あの時、私は「まるで娘を嫁にやるような気分だ」と言ったが、それは今も変わっていない。
むしろ、T大から放すべきではなかったと思っていますよ」
「…ありがとうございます…嬉しいです」
(…涙ぐんでる?)
 二人の会話を聞きながら、そっと柳川の横顔へ目をやって、石崎は少し驚いていた。
(『逃げるため』って言ってたな…)
 そこでふと、再会した時の彼女の言葉を思い出し、
(何から逃げるためだったんだろう)
内心、改めて首をかしげていると、
「先生、さらに不敬で不躾ですが、こちらに覚えはあらはりますか?」
「うん?」
柳川がカバンから出した化学反応式の紙切れを、津山は受け取って眉をしかめる。
「おお、これは私が世に出るきっかけになったものですねえ。懐かしい」
「その時の経緯を、お差し支えなければ教えていただきたいんです」
「ああ、いいですとも。ほらほら、和美」
 そこへ、津山の妻が湯気の立つ湯飲みと和菓子を盆へ載せてやってくる。
  手で差し招く夫へ微笑しながら頷いて、和美は石崎と柳川、二人の前へそれらを置いて、
「ゆっくりしていってくださいねえ。主人はあなた方の電話があってから、
それは楽しみにしていたんですのよ? まだ来ないのか、なんて何度も言いましてねえ」
ころころと笑いながら去っていく。
「全く、しょうのない…」
 照れたように苦笑いする津山へ、石崎と柳川の、まだ幾分か硬かった表情が一気にほころんだ。
(あの頃の研究室に戻ったみたいだ)
 石崎もまた、かつて津山に慣れ親しんだ気持ちを取り戻したような、そんな思いで
柳川と顔を見合わせ、微笑する。
「さて、この化学式だが」
「はい」
 老眼が来ているのだろう、津山は眼鏡の奥の目を細め、少しその紙切れを離すように見ながら、
「これはね、かつてのK製薬株式会社…今のK機構の川村と協力して世に出した、負の相関交差耐性を
解消する自然農薬を生成する為の化学式ですよ。君らの同期では、中谷君が卒論として発表していた」
「ああ、はい…」
「ほら、さっき、廊下ですれ違ったでしょう。少し無愛想な奴だが、彼が川村だ。
…川村幸信君のご祖父上ですな」
 和服の袖を少し払って腕を組み、津山はそこで顎を引いた。
(あの人が)
 石崎は、ふと先ほどの人物を思い描いた。
 川村は、年老いたから、退官したからとは言っても、白髪交じりの髪を綺麗に撫で付け、
  きちんと兵児帯を締めてパイプにも凝る津山と同じような雰囲気を持っていた。もっとも、
  川村の場合は黒い喪服姿だったが。
「君らも学んだでしょう。負の相関交差耐性というのは、作物にとって非常に厄介だ」
「はい」
 かつての植物病理学の講義を思い出しながら、石崎も頷いた。
「相関交差耐性」というのは、農学的観点から言うと植物に対する農薬の効き目のことである。
 普段食卓に上る米やその他の作物、あるいは家畜が口にする牧草にまで、ありとあらゆるところに
いわゆる「害虫」とされる虫は生息する。その駆除のために生産される農薬が「正常に」作用するのが
本来の姿である。交差耐性というのは、いわば虫などが農薬によってどれだけ死ぬかの度合いである、と言ってもいい。
 だが、あまりに農薬を使いすぎていると、今度は逆にその農薬に耐性を持つ…つまり農薬が効かなくなる
  …害虫が現れてくる。それを「負の相関交差耐性」と呼ぶのだ。
 当然ながら、その害虫を完全に除去するためには、さらに成分の強い農薬を使わなければならない、
となるのが従来の考え方で、そうすると、最終的に人間の口に入ることになる作物へその強い農薬が使われることになり、
「結局は害虫だけが『いい思い』をする、そういうことになってしまうんですな」
人間の健康へもよい影響を与えず、さらに害虫だけが『耐性』をつけてさらに増殖する、
という結果になってしまうのだ。
「それを解消するための薬…まあ、これは人間への例でいうなら、『眠くならない風邪薬』やらに
使われておる。つい最近では、数時間でも眠っておきたいが、しかし眠れないという方々のための
睡眠薬を開発中なのですよ。川村と一緒にね」
「へえ…それはすごいですね」
「ふうん…」
「いやいや、まだ臨床実験の段階なのですがね。だが、発明されたらきっと重宝されるだろうと、
川村とも話し合っておるんですよ」
少し自慢げな様子と照れくささで締めくくった津山の言葉を、石崎と柳川は首を二つ、軽く振りながら聞いていた。
「思えば、この化学式のきっかけもそうだった。川村の家は元々資産家でねえ。川村自身も私と違って
先見の明があった。かつて私の院生時代に偶然発見した研究成果へも、大々的に投資してくれて、
商品化にこぎつけられたのですよ」
 津山は、紙切れを覗きこんでいた顔を上げて遠い目をした。
「彼と同期だったおかげで、私のその後も運命付けられたのかもしれない。…まあ、それを皮切りに
私が発案し、彼が具現化する…そういった流れがなんとなしに出来てしまったんですな。まさに腐れ縁と
いったところか。おお、茶が冷める。どうぞ、あがりなさい」
「あ、はい」
「頂きます」
 桜の散る模様を描いている小さな湯飲みを押し頂くようにして、二人は津山が勧めた茶へ口をつけた。
(美味い)
 葉がいいのか、それとも淹れてくれた和美夫人の手並みがいいのか、口にした途端、中へふわりと
 広がる香味に、石崎は改めて津山の趣味の良さを思う。それは今、隣で同じように茶を飲んでいる
柳川も同じのようである。
「で、君たちは、どうして今頃、私にこの化学式について聞いたのですか」
 その様子に目を細めていた津山の声が、少しだけ厳しいものに変わった。
「…懐かしいからと、ただそれだけのために、私に会いに来てくれたわけでもなさそうだ。
…川村君のことかな」
 石崎は戸惑って、思わず目を伏せた。しかしそんな彼とは対照的に、
「そうです。失礼やと思いましたが、確認したいと思たんです」
これも冷静そのものの声で、柳川は湯飲み茶碗をコーナーへ戻しながら言った。
「先生は、川村君が本当に自殺したと思ってはるんですか」
「うん…?」
 率直過ぎ、無神経すぎるその問いに、津山の片方の眉がぴくりと動いた。
(おい)
 石崎は一瞬にして心臓が大きく音を立てたのを感じながら、津山から見えないように
そっと柳川の膝を突付く。だが、彼女はまるきりそれを無視して、
「それが私のパソコンに届いたのは、今朝なんです。川村君の死亡推定時刻よりも、二十分ほど遅れで…
川村君の、大学に置いてあったパソコンから」
「ほう」
「パソコンが壊れてたっていう可能性もありますけど、私のも川村君のも、普通に動いてました。
となると、それを私に送ってきたんは誰や、いうことになりますよね」
「…君は、警察の見解に異議があるというのですか」
「はい」
会話を続けるほどに、にこやかだった津山の顔が、みるみるうちに強張っていく。
「それに、君の言い方だと何かね、川村君は自殺じゃなく殺されて、しかも手を下した人間は
研究室内にいるということになるね」
「…はい」
「…君は、自分が今、昔の仲間たちや研究室そのものに対して、どれだけ失礼な事を言っているか
分かっていないようだ」
 質実剛健だが、その一方で偏屈で頑固な津山の顔に、ついにはっきりと怒りが浮かび上がった。
「…失礼なんは承知の上です。ただ私は」
「少々疲れました」
 なおも言い募る柳川へ、津山は素っ気無く言い放って立ち上がる。
「失礼。私も川村君のお通夜に出る準備をしなければならないのを思い出した。
出席する義務はないが、君らもどうするか考えておきなさい」
そのまま二人の左手にあった襖を開き、中へ入って津山はぴしゃりと音を立ててそれを閉めた。
「…失礼します。本当に懐かしくて楽しかったです…ごちそうさまでした」
 すると柳川はその締まった襖へ声をかけ、これもまた立ち上がって玄関のほうへ向かう。
ハラハラしていた石崎も、慌てて彼女の後を追った。
「あらあら、もうお帰り?」
 足音を聞きつけたのか、和美夫人も慌てて玄関先へ出てくる。
「またいらしてくださいねえ」
 品の良い笑みを浮かべて言ってくれた夫人に、恐縮したように頭を下げる二人へ、
「これも持っていきなさい。さあさあ」
夫人は押し付けるように、茶請けに使った和菓子の袋を渡す。
 津山の家を辞去して角を曲がるまで、玄関先から手を振ってくれている夫人へ振り返り、
  振り返りしながらこちらも手を振り、ようよう見えなくなったところで、
「…参った…怒らすつもりは無かってんけど」
柳川はとある家の塀に背をもたれかけさせ、深くため息をついたのである。
「あんな言い方じゃあ、誰だって怒るよ。特に研究室を愛してた人間だったら、
あんな風に言われて気分がいいわけないだろう」
 そんな柳川に苦笑しながら石崎が言うと、
「うん。でも、手ごたえはあった…それにも参った」
再び歩き出しながら、柳川はどことなく湿り気を帯びた声でぽつりと呟いた。
「参った、って何にだよ」
「それにしても懐かしいなあ、ほら、知ってるやろ?」
 町の中央を、三朝川が涼やかな音を立てて流れている。 
石崎の言葉を聞き流して、柳川は流れの浅い川の、そのほとりにある無料の露天風呂を指した。
「あそこのお風呂、いっぺんサークルの後輩らと入ったことあんねん。男の子らも一緒に」
「…男とか?」
「あ、もちろんバスタオル巻いて、夜に、やで?」
「お前、親とかに怒られなかったのか」
「なんで? 『男の子らと女の子らとで混浴した』って話したら、お父さんもお母さんも
『お前らしいなあ』て笑ろてたけどな」
「…ふ、あははは」
 橋を渡ってとある旅館前のバス停へ戻りながら、あっけらかんと話す彼女を見て、
ついに石崎は吹き出していた。
(ほんと、こいつってば開けっ放しで、『理解不能』)
 だが、今彼女に抱く『理解不能』な気持ちは、再会した時のそれとは全く違う。
(面白い)
 歩きながらクスクス笑う石崎に、特に気を悪くした様子もなく、柳川は、
「石崎君、これからどうするん?」
「お前は?」
「一応、研究室に戻って塚口先生に挨拶して、鳥取市内に戻ってニューコタニに泊まる。
そこで分かった事を整理しなおして…そんで、明日は県警に行って、あの刑事さんにもご挨拶。そういう予定」
「そうか…じゃあ」
 話しているうちに、気がつけばバス停についていた。その時刻表に何となく目をやりながら、
「俺も、そこに泊まろう。とことん付き合う」
石崎が言うと、
「うん。そうしてもろたらありがたいかな。一人で考えるより、話し相手がおったほうが
整理しやすいし。うん、嬉しいなぁ」
柳川は驚いたように目を見張りながら微笑い、
「研究も、それと同じなはずやのにな…」
再び呟くように言って、視線を落とした。それきり黙ってしまった彼女を見ながら、
(そう言えば俺、こいつのことは本当に何も知らなかった)
何か言いかけようとして、石崎は口をつぐむ。ちょうどやってきたバスヘ、柳川に先に乗るように促し、
その白い襟足を見上げながら、石崎は改めてそのことを思った。
(そっけなかったやつ。こっちから話しかけても必要以上の事を話さなかったやつ。皆で一緒に
川村の死を悼むことが嘘になるって言ったやつ…自分しか信じていない、自分さえ良ければ
どうでもいい冷たいやつなんだって、思ってた)
 バスの窓から見える景色は、いつしか夕闇に沈んでいる。隣の席で目を閉じながら黙然と座る
かつての研究室仲間の横顔を、石崎もまた、ただ黙って見つめていたのである。



…続く。

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