追悼の波 4



「あれ、これってさ」
 すると石崎と柳川、二人の後ろに何となく立っていた中谷が、コーヒーをすすりながら、
「たしか、眠くならない風邪薬に入ってる化学式じゃなかったかな」
「…それ、ホンマ?」
「うん。四年の卒論、私のが負の相関交差耐性についてだったからね。この反応を植物が示すかどうか、
確かめる実験をやったことがあるから覚えてるの」
 柳川と石崎の視線を受けて、少し目を白黒させながらも中谷が答える。
「これ、津山先生の研究を受けたんだけど…」
「津山先生の」
「うん」
 津山、とは、石崎や柳川の卒業と同時に、T大学を退官した作物学研究室の津山行人教授のことである。
  東京大学や京都大学など、いわゆる「エリート大学出身」ではなくて、鳥取県T大という地方大学のいわば
  「たたき上げ」の教授だったが、彼が若い頃から発明した「水田害虫用マルチ薬剤」や環境に優しく
  雑草を繁茂させない「マルチシート」などは、世界の農学界から大絶賛を浴び、たちまちのうちに
  「世界の津山」としてその名を知られることになった。
 少々偏屈ではあるが、質実剛健。カリスマがあるうえに年を重ねても研究室の実習に出てくるときは
  咥えパイプに紺色のジーパン、ジージャンなど、何よりも「気の若い」ファッションを心がけていたため、
  農学部内で彼を慕わないものはいなかった。
(俺も、多分にもれずその一人だったわけだけど)
 世界に基盤を持っている津山のことだから、自分の研究室のあるT大へ戻ってくるのもまれではあったが、
  それでも彼の講義はいつも席が足りなくなるほどに人気があった。日本へ戻ってきた時にはいつも学生達に
  親身に接していた豪快な笑い声を思い出しながら、
(今は三朝におられると聞いたけれど)
石崎がつい微笑すると、
「川村君のご家族は、まだ?」
「うん。先に下宿とか警察とかで事情を聞いてるって。塚口先生が言ってたよ」
「そうか。ご両親だけ?」
「うん。ほら、あきらんも聞いてたでしょ?」
相変わらず、隣では険しい顔をしたままの柳川と、少し気圧されたような中谷の会話は続いていた。
「川村君、すごく厳しいおじいさんがいるって。三朝のK機構の跡継ぎなんだから、っていうんで
うるさいって苦笑してた…うん」
「…うん」
 川村について語る言葉はすでに『過去形』になってしまっている。そのことに中谷と顔を見合わせて苦笑して、
  柳川は空になったコーヒーカップを持って立ち上がった。
「…津山先生と、仲がいいって言うてたよな、その…川村君のおじいさん」
「ん? ああ、仲がいいかどうかは知らないけど、川村君のおじいさんと津山先生、
同期だったもんね。知らない仲じゃないよね」
「ああ、そやった。うん、そやったね。卒業してからも付き合いがあったって言うし」
 ごちそうさま、と言いながら、柳川は部屋を出て行く。それがまた、
(どこかへ行くんじゃないか)
大学内のどこか、ではなくて、大学の外へ出かけるような雰囲気だったので、石崎もまた中谷へ礼を
言いながら慌ててその後を追ったのである。
「なあ、どこへ行くんだ? ひょっとして三朝か?」
 難しい顔をしたまま階段を降りていく彼女の背中へ声をかけると、踊り場で柳川はぴたりと足を止め、
  階段の途中の石崎を仰いだ。
「うん」
「津山先生に会いに行くのか」
「…まあ、な。ここまで来たらご挨拶も兼ねて…ご自宅におられるやろけども、その前に電話をと思てな。
ケータイとか持ってへんから、大学会館前で」
 そこまで言うと、柳川はまた石崎に背を向けてとっとと階段を降りていく。
「…俺も行くって言っても、お前、『どうして来るんだ』って聞かないよな」
 彼女と並んで、彼女の歩調に合わせて階段を降りながら石崎が言うと、
「うん」
くすりと笑って、柳川は柔らかく微笑んだ。

 三朝とは、もちろん三朝温泉のある三朝町のことであり、JR倉吉駅から三朝温泉行き日ノ丸バスで、
  山奥へ向かって三十分程度のところに位置している。
 倉吉へはT大のあるJR鳥取駅から山陰本線の各駅停車で約一時間。快速を使うとその半分ですむが、
「そもそも、その快速も三十分に一本やもんな…この交通事情、全然変わってへん」
口ではそう言いながら、鳥取駅で懐かしそうに線路図を見上げ、柳川は切符売り場へ向かった。
「お前はさ」
 同じように隣の切符販売機に並んで倉吉までの切符を買いながら、
「こっちにいつまでいられるわけ?」
石崎が問うと、
「んー…いられるっていうよりも」
電車乗り場へ続く階段を上がりながら、柳川は苦笑した。
「この『事件』が私の中ですっきりするまでこっちに居ときたい」
「お前、やっぱり川村が自殺じゃないって思うのか」
 その彼女へ、石崎は何度となく口にした言葉で、呟くように言う。
 山陰本線は、まだ複線化が進んでいなくて単線である。各駅停車も正確に言えば『電車』ではなくて、
  未だに石炭を燃料としている「ディーゼル」であり、さらに言えば一時間辺りの『電車』の本数も
  都会のそれと比べて昼間だと一時間に四本しかないなど、格段に少ない。
 その各駅停車が来るのとタイミングがちょうど合ったらしい。階段を上りきると同時に、米子行きの
  各駅停車がホームへ入ってきて、一緒に乗り込みながら石崎は、
「よくサスペンスドラマとかであるけど、他殺の場合、後ろから首を絞めるにしても前から首を絞めるにしても、
その後でああいった風につるしたら、二重にロープの痕がつくっていうよな? 警察だって馬鹿じゃない。
そのくらいは当然分かってるから、自殺だって断定したんだろ」
「うん…でも、あの刑事さんは違うと思うって言うてたし」
「ああ。まあ、なあ」
「出世せんなあ、あのタイプ」
「はっきり言うな、お前。…でも俺も実はそう思う」
 そこで、川村のアパートで出会ったあの刑事のいかつい顔を思い出し、向かい合わせの席に
  座った二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「何より、メール発信の時間と場所っていう問題があるやろ、石崎君」
 倉吉へ向かうに従って、もともとさほど都会的ではない辺りの風景は、まさに「田園」となっていく。
  その景色を懐かしげに見やりながら、ぽつりと言った柳川の言葉に石崎はハッとした。
「川村君が朝の六時半に自殺したんやったら、私になんで大学から…六時五十八分にメールが
送られて来たんか…その時間帯、大学におった人間は誰か。大学は言うなれば『不夜城』やし、
実験の内容によったら徹夜せなならんこともあるから、特定はでけへんかもしれへんけど」
「…うん」
「それに、津山先生…」
「うん?」
「いや、なんでもない。私の憶測に過ぎんことやから、今ここでしゃべることやなかった」
(津山先生が、どうしたんだろう)
 それきりまた、口をつぐんで外を眺める「パートナー」の横顔を見ながら、石崎は考え込んだ。
 絞め殺されたのであれば、当然付くはずの「二重のロープの痕」が川村の首にはなかった。
  なかったから警察もあっけなく「自殺」だと結論を下した。もしも絞め殺されてから
  吊り下げられたのであれば、警察が発見しているはずだという柳川の意見には頷けるが、
(誰かが…その時、研究室にいた誰かが柳川に発信した…?)
 ひょっとしたら川村はその時、自宅から研究室へ向かう直前だったかもしれない。もしも彼が殺されたのであれば、
  彼の発信予定のメールが相手に届いていないと怪しまれると思ったから、「川村を殺した人間」はうっかり
  発信してしまったのかもしれない。
「…違うかな」
「…いや、うん」
 まもなく倉吉に着くというアナウンスが流れた。降りる支度をしながら石崎がその考えを述べると、柳川は、
「私も、そう考えた…あのメールを見た時。だから」
そこでまた、口をつぐんで昇降口へ向かったのである。

(しかし、なかなか暖かくならんものだな)
 新しく分解させたタバコのくずを、愛用のパイプへ詰め替えながら、津山はつと座椅子から立ち上がった。
 退官してから、ようやく三朝にある自宅に落ち着く回数が増えたような気がする。
 縁側から彼がいつものように眺めるのは、純日本風の小さな庭園である。部屋の掘りごたつから出ると、
  たちまちしんと冷えた寒さが襲い掛かるのは、やはり海から少し離れているせいなのだろうか。
「あら、あなた」
「おお」
 大学教授を退官したので、今はもう誰にも遠慮なく朝寝が出来る身である。だが、今日はそうはいかなかった。
「卒業された生徒さんから、お電話がありましたでしょう。お茶菓子の準備に参りますから
、お留守をお願いしますね」
「うん」
 年齢的に少し遅くに娶った妻、和美は、彼と違って洋装よりも和服のほうが似合う、
  楚々とした女性である。世界のあちこちを飛び回る津山を、いつもでしゃばらないように
  支えてくれた「糟糠の妻」なのだ。
「気をつけて行っておいで」
「はいはい」
 普段着の長いスカートをふわりと翻し、和美は津山へ軽く一礼して廊下を曲がる。やがて
  玄関のほうから扉が開いて、それから閉まる音がして、
(…川村君か)
 それを聞きながら、朝から大変だった、と、津山はパイプの煙を大きく吐き出しながら思った。
 退官前に、彼が…実質上は、忙しすぎた彼の代わりに塚口が…卒業論文の指導を担当していた学生で、
  津山の同期生で研究仲間だった川村博の孫息子。
「どんな学生さんでしたか」「悩みを溜め込む性格ではありませんでしたか」「成績は
どんな風でしたか」…くだらないが、暇つぶしにはなるテレビの中でもそうだが、
(警察というものは、本当に何度も同じ事を質問するのだな)
 それならば、今日これから訪ねてくるという学生の相手をしていたほうが、どれだけ気が紛れることか。
(石崎君、柳川君…)
津山のモットーとして、自分の研究室にいる学生の顔と名前は常に記憶するようにしている。
それは自分がどれだけ『偉く』なっても変えないと思っているところであるし、何よりも自分を
慕ってくれている学生を迎えるのは、
(やはり、楽しいものだ)
 彼らが来る前に、和美は帰ってくるだろうか。彼らの好物は何であったか、などと考えながら、
  津山が縁側へ戻りかけると、
「和美かね?」
廊下の向こうで、扉の音がした。彼の問いかけには答えずに、無言のまま姿を現した人物は、
「…邪魔するよ」
「…川村…」
 いつの間にここへ来たのだろう。ロマンスグレーの髪をオールバックにして、高級な背広に
  きちんとしたネクタイを締め、険しい顔をしたかつての研究仲間である。
「来る時は連絡ぐらいしたらどうだね」
「お前がそんな風に言えるのか?」
 思わず落としそうになったパイプを辛うじて持ち直して苦情を言うと、現れた人物…
  三朝町K機構創始者である川村博は、口元をゆがめて皮肉な微笑を浮かべた。
「…まあ、入ってくれ。これから生徒が来るんだ。用件は手短にな」
「フン。ここでいい」
 襖へかけた津山の手は、鼻を鳴らした川本の嘲笑でぴたりと止まる。
「…幸信は、本当に自殺か」
「…何故それを私に問う」
「いや、警察が言うんなら間違いはないんだろうさ。ただ、僕は」
 川村は、老人に似合わないこすからい笑みを浮かべて、
「ただ僕は…お前や塚口の『指導』に何か問題があったんじゃないかって思ってね」
「…私達の指導は適切だ」
「ああ、そうだな。そうだった、はっはっは!」
そこで皮肉な笑いを爆発させた。
「君は何しに来たんだ?」
 さすがにいい気はせず、津山が幾分かムッとしながら尋ねると、
「なぁに」
 学生時代から変わらない、肩をひょいとすくめる気障なポーズを川村は取り、
「幸信がいなくなって、さぞやお前らが安心しているんじゃないかと、そう思ってね。
どうしようもない奴だったが、僕にはあれでも大切な孫だった…」
「だが、川村。私達は」
「ああ、お前達の指導は適切だったよ。その礼も言いたくてね」
 言葉とは裏腹に、川村は皮肉たっぷりに言い放つ。ちょうどその時、再び玄関の扉が開く音がして、
「あなた? 生徒さんたちとちょうど行きあったので、一緒に帰ってきましたよ…
あら、どなた? まあ、川村さん?」
川村の靴に気づいたらしい和美の声が廊下に響く。それを聞いて、川村はまた口を歪め、
「…これから僕は、町役場に行く。K機構の跡取りが亡くなったとなると、色々そちらの
付き合いがうるさくてね」
言いながら、津山へくるりと背を向けた。廊下ですれ違った和美が、驚いて目を丸くするのへ
軽く頭を下げて、すたすたと去っていく。
 その後ろにくっついている二人の若者が、同じように軽く頭を下げるのをちらりと見て、
  川村は心持ち背を反らせながら、玄関の扉を開けて津山宅を辞去した。

…続く。

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