ね、遊ぼ。




今、俺はあそこへ帰ろうとしている。
なんでだか、9歳より前の記憶は俺には無い。
両親も、俺の幼い頃のことを尋ねると話を逸らす。
海水浴の話題に必ず上る、風光明媚でシーズンになるといつも込む場所なのに、
家族旅行ですら訪れたこともない。まるでわざと『故郷』だけを避けているみたいに。
だから、俺もいつしか自分からは小さい時のことを尋ねるのを止めていた。

そのまま引っ越してしまって10年。
空白の記憶をはっきりさせたくて、俺は両親に内緒でその街へ向かった。言えばきっと
強く止められる、そんな気がしたから。
その街までは、俺が住んでいる今の市から特急電車に乗って、2時間足らず。
潮騒のざわめきが間近に聞こえるあの町で、俺が幼いときを過ごしたあの町で、
俺はどうして記憶を無くしたのか。
それに、今も目をつぶれば、
『…ちゃん…。祐ちゃん…』
(君は、誰なんだ)
「お客さん、終点ですよ!」
「ああ、すみません」
車掌さんに揺り起こされて、いつの間にか眠っていた俺は目を覚ます。俺の遠い記憶の中に
かすかに残る…女の子の声が、また夢の中で俺の名を呼んでいたのだと気づき、わずかに苦笑をもらしながら。
古いタイプのボストンバック一つを肩に下げ、駅のホームへ降りる。
途端に、海の香りを含んだ風が、俺の耳を優しく撫でた。
(思い出せるだろうか)
海が、駅のすぐ近くに迫っているような、そんな…田舎。
シーズンオフだからだろうか、降り立った客は俺しかいなくて、昼下がりの太陽が鈍い光をホームに投げかけている。
覚えていなくても、どこか潮の香りが懐かしい。それを胸いっぱいに吸い込んだ時、
『祐ちゃん』
(え)
俺の名を呼ぶあの声がはっきり聞こえた。遠くから呼ばれているような、なのに耳のすぐ近くで囁かれたような、
そんな不思議な感覚。
辺りを見回しても、誰もいない。ただ陽炎の立ち昇る線路や、少しずつ影の形を変えていく樹があるだけだった。
けれど、
『ずっと待っていたんだよ。お帰り』
もう一度、その声は俺に語りかける。
幻聴と言い切ってしまうには余りにもリアルで、けれど、
「どうかしましたか? 探し物でも?」
「あ、いえ…」
いかにも『田舎の親切な駅員』っぽい係員さんが、親切に声をかけてくれたのへ、俺は曖昧に
笑って首を振った。
記憶をなくしたのと多分同時期に、俺だけに聞こえるようになったその声。話したところで誰も信じちゃくれないから、
「今夜、この街に泊まりたいんですけれど。適当な旅館、紹介していただけませんか?」
俺は係員さんにそう言うのだ。


記憶が少しでも戻るかと思って、街中をぶらついていると、いつの間にか夜になっていた。
駅員さんが紹介してくれた宿へ戻って、宿の人が敷いてくれた布団へ横になると、昼間も少し気になっていた
波の音が耳について離れない。駅よりも海に一層近い旅館だからだろうか。
(出て、みようか)
少し疲れてはいるけれど、なぜだか心が高ぶって眠れない。
だから、眠れないまま、俺は砂浜へ散歩に出かけた。
(ここに9年間、住んでいたのか)
旅館を出ると、午後9時を回ったばかりなのに、都会と違って街は既に暗い。
漁火が、沖のあちこちで光を投げかけているのは素直に綺麗だと思えたけれど、
(嘘みたいだな)
ひょっとしたら、夏になったらこの海で泳いだこともあったかもしれない。けれど実感が全然湧いてこない。
オヤジやオフクロが話したがらない俺の過去や、戻ってこない俺の記憶と何か関係があるんだろうか。
夏になったら、さぞや花火客でうるさいだろうと思う砂浜にいるのは、今は俺だけ。寄せては返す波打ち際を、
旅館からどれだけ歩いたろう。
もう真夜中近いのかもしれない。満月が中天にかかっていて、蒼い光を辺りに放っている。
本当に静かで、波の音だけが響いて、
(違う世界に迷い込んだみたいだ)
月の蒼い光もまた、一層そんな不思議さを募らせる。思わず苦笑すると突然、
「ね、遊ぼ…」
背後で小さな声がした。驚いてそちらを振り向く俺の目に、小さな女の子が映る。…小学校3年くらいだろうか。
「ね、遊ぼ」
背中の半ばまでくらいの長い髪の毛にヘアバンド。膝丈までのスカートを夜風にひらひらはためかせながら、
女の子は俺を見上げ、再び俺を誘った。
「君は…おうちの人は?」
こんな時間に、こんな小さな女の子がどうしてこんな場所にいるんだろう。
不審に思うよりも、
「いない。ね、遊ぼ?」
にこにこしながら、いつの間にかもっと側へ来て俺の目を覗き込んでいる彼女が、
(懐かしい…?)
ふとそう思えて、俺は首をひねる。
「真夜中近くじゃないのかな。近所の子?」
「うん…この近く」
俺の答えに、彼女は海のほうを指差した。その指を蒼い月の光は照らし続けて、
(別の世界に迷い込んだみたいだ)
再び素直に俺はそう思う。だから、
「おうちの人が来るまでだよ」
そんな言葉も、するりと口をついて出た。
「うん」
すると彼女は顔を輝かせて頷いた。
(あ…れ?)
その表情を、いつかどこかで見たような気がする。そう思った瞬間、
(思い出しちゃいけない)
心の中で、もう一人の俺が囁いた。けれど、
「ほら、来て」
誘われるまま、俺は彼女に手を取られて歩き出している。
月の青、海の青、夜の闇の中でどこからがその境界線なのか、まるきり区別のつかない不思議な空間の中、
(その手を取っちゃいけない)
波のように俺の胸の中に打ち寄せるもう一人の俺の囁きは、けれど、
「遊ぼ?」
「…うん」
彼女の問いに跡形もなく消えた。
蒼い蒼い闇の中、またどれだけ歩いたろう。
「やっと、来てくれたんだ」
「え?」
彼女の嬉しそうな声にふと気がつけば、辺りには一欠けらの明かりもなかった。
ここはどこなのだろうと改めて自分の周りを見回しても、聞こえるのは波の音ばかり。
「覚えてないの? 昔、よく遊んだじゃない」
そんな俺の様子がおかしいのか、彼女は空いている片方の手で自分の口元を覆って、
クスクス笑った。
「いつの間にか、すごくお兄ちゃんになっちゃったんだね。私は…変わらない、ううん、
変わることが出来なかったのに」
「君は、何を…」
彼女の言うことを正しく理解できないまま、いや、理解することを何故だか分からず
拒否しようとしたまま、俺の心は早鐘を打ち始める。
雲が月を覆って辺りを真っ暗にした一瞬、彼女は言った。
「…やっと、帰ってきてくれたんだ…祐ちゃん」
驚きに、俺の目がまん丸になる。その拍子に分かった。俺は今、海の上にいる。
「…アッコ…ちゃん?」
そして思い出した。記憶が抜け落ちてからいつも響いていた声の主のこと。
「ずっと、ずっと待ってたの。祐ちゃんだと思って、違う子ばかりをこうやって『遊ぼ』って誘って…。
あの子たちには悪いことしちゃった」
言いながら、彼女はまたクスクス笑う。
「だけど、今ここにいるのは、ホントの祐ちゃんなのよね…来てくれたんだ、やっと」
「アッコちゃん…」
いつしか岸は遠く隔たっていて、俺と彼女は蒼い光につつまれて海の上にいる。
「私ね、寂しかったの。だけど、これからはずっと一緒よね? だって、私がずっとここにいなくちゃ
ならなくなったのは」
アッコちゃんは、俺の手をものすごい力で握って、薄く笑った。
「貴方のせいなんだから」
覆っていた雲が溶け、月は再び俺たち二人を蒼い光で照らし出す。
(思い出した)
あの日…俺と彼女がこの砂浜で遊んでいた日。季節は思い出せないけれど、
風が強い日だった。俺は彼女が被っている帽子を、わざと海へ落として、
「取ってこれないだろ?」なんてふざけて…。
泣いている彼女をそのまま置き去りにして、家へ帰った。
…それから数時間後、彼女がいなくなって大騒ぎになったんだ…。
俺は、俺の罪を思い出したくなくて、そのまま記憶の底に封じ込めてしまった。
「思い出した?」
クスクス笑いながら、月と同じ、蒼く光る目でアッコちゃんは俺を睨む。
「あの帽子ねえ」
俺の手を握る力が、ますます強くなる。なんとか振りほどこうとして、俺は額に汗をじっとりと浮かせていた。
「まだ見つからないの。一緒に探してくれるわよね? 海の底にあるのかもしれないわ」
彼女に引きずられるような形で、俺は海の上を歩いている。
岸がますます遠くなっていく。
「ねえ、私の代わりに探してくれるわよねえ? だって私、お魚に突付かれて、こんなになっちゃったんだもん。
ふふ、うふふ、あはははは…」
彼女が笑った。途端に俺の腕を掴んでいた小さなその手は、耐え難い腐臭を発して溶け始め、眼球はどろりと流れて後に
残ったのは黒々と開いた眼窩。
俺は声にならない悲鳴を上げる。
途端に、俺の手を握っていた彼女の力がふっとなくなり、俺はそのまま…。


そして俺は今、海の中で彼女の帽子を探し続けている。
ひょっとしたら、砂浜に落ちているのかもしれない。そんな風に考えて、時々明るい満月の晩に、
砂浜へ出て、たまたま通りかかった人へ頼むのだ。
「彼女の帽子を、一緒に探してくれませんか?」


FIN〜


著者後書き:子供の頃に失くしてしまった記憶。それは覚えていないだけ、ではないのかもしれません。
思い出したくないことを押し込めてしまっただけなのかも…? 彼に聞こえていたのは、
ひょっとすると良心の呵責の叫びだったのかもしれません、なーんて、ちょっと真面目に(苦笑)。
(2009年4月17日謹製)

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