ピュグマリオン


僕は君を知ってしまった。
「ねえ、氷室君。この色、どうやって出してるの?」
高校に入学して一年半。美術部に入部して、敢えて誰とも話さないように努めていた僕の心の中に、
「すごいねえ、素敵だね」
君は屈託なく微笑ってするりと入り込んでくる。
「あ、え、っと、これはね」
だから僕はもつれそうになる舌を一生懸命に動かして、僕のカンパスの彩りについて説明するのだ。
「青をベースにして、白を散らす…それだけじゃなくて、もっと他に大胆に赤も少し混ぜて」
「うんうん」
拙い僕の説明を、君は肩までの髪を揺らしながら熱心に聞く。
「すごく参考になるよ、ありがとうね」
「…いや、別にこれくらい」
素直な賞賛の言葉を聞いて、胸が苦しくなるようになったのはいつからだろう。

僕はいつだって独りでいい。
そうさ、偉大な芸術家はいつだって孤独なもの。桜の花びらが渦巻く絵を描きながら、僕は思っていた。
孤独だからこそ生まれる芸術は素晴らしい。僕の考え方は間違っちゃいないはず。
「作品は素敵なんだけどね」
だからいつだって独りでいた僕の作品を見ながら、顧問の先生は苦笑する。
「もっと他に大事なこと、あるんじゃないのかしら」
それも分かってる。だけど僕は敢えて独りになることを選んだ。芸術というのは、
本来は他人には理解されないもので、孤独なもののはずだから。
最初は芸術家を気取っているだけだと後ろ指刺されたこともあったけれど、
「すごいねえ、氷室君って。高校生で二科展に入賞する人、そうそういないもの」
同じ美術部に入った八木さんの、素直な賞賛の目を見ていれば分かる…僕は気取っているんじゃない、
本当に、プロに匹敵する技術を持っているんだって。
「ありがとう」
美術室のイーゼルにかけたカンパスヘ向かったまま、僕はおざなりにお礼を述べる。
だって僕がプロに匹敵する、なんて、
(当然のことじゃないか)
だって僕はプロなんだから、そう思っていた。
だけど…。

やがて高校に入って二度目のクリスマスがやってくる。
「こうやって、花びらを散らしたんだ。光は白で」
「うん」
最初はただ鬱陶しいだけだと思っていた君との会話を、いつしか僕は待ち望んでいた。
桜の花びらがほころびる頃、密かに同じクラスになることを願っていて、だけどその望みは
叶わなくて、がっかりしている自分自身に僕は大いに驚いたものだ。
それに、
(どうしてしまったんだろう、僕は)
キミを「識って」しまってから、僕の心の中は空洞が出来たようにうつろになってしまった。
気がつけば学校で君の姿を探し、デッサンに集中しなければならない時でも君の笑顔を思い浮かべて。
授業を受けながらでも、休み時間でも、今頃君は他の奴と、僕に対するのと同じように屈託なく
会話を交わしているんだと思ったら、胸が焼かれるように苦しくてたまらなくなる。
(バカな話だ)
君がが誰を愛しているのか、その愛が誰に向けられているのか、
(それは僕じゃない)
君が素敵な人なんだとようやく気付いた僕は、愚かな自分自身をまた嘲笑った。
いくら絵を描くことが一番だといっても、好きになった女の子のことに気づかないほど、僕は馬鹿ではない。
だけど苦しい。
「ねえ、氷室君。今度の二科展、どんな絵を出展するの?」
クリスマスに合わせたように、二科展の日は24日。もしも僕の片思いでなかったら、きっと君に
僕の絵を見に来てくれと堂々と誘えたろうけれど、
「…まだ考えてないんだ。おぼろげに考えてはいるけれど」
君から目を反らして真っ白なカンパスを見つめて、僕は苦しくてたまらなくなりながら返事をする。
「そうなんだ。思いついたら教えてね?」
そんな風に笑う君に振り向いて欲しい。その瞳に映るのが僕だけであって欲しい。
思いつめて思いつめて、
(ああ、そうだ)
思いついた…僕が作るのは。

ねえ、もうすぐクリスマスだよね。
神様がこの世界にやってくる、聖なる日だ。そして奇跡が起こる日。僕の高校の裏庭にも小さな教会はあるけれど、
当然僕は祈ったことなんてない。君を識る以前なら、きっとそんなのはお伽話だと笑い飛ばしていただろう。
「何を作ってるの?」
「秘密」
美術室にこもって石膏像を作る僕に話しかけてくる君から、僕は庇うようにそれを隠す。
僕が作っているのは、
「完成したら教えてあげるから」
「あはは、残念」
そんな風に屈託なく笑う…僕以外にも…君にに生き写しの像を。キミがボクに無限の微笑を向けている像を。
そして、作りながら、まるきり信じていなかった神様にお祈りをしている。
(この像に、どうか魂を宿らせてください)
きっと君は笑うだろう。そして以前の僕も、こんな僕を笑ったに違いない。
だけど、心をこめて作られた芸術作品には、例外なく魂が宿るはず。うん、僕はそう信じている。だから…。
そんな風に信じて信じて、明後日がいよいよクリスマスイブ、二科展の日。
「あれ? 氷室くん」
「やあ」
教室で友達と話していた君は、
「珍しいね、どうしたの?」
僕を見て大きな目をもっと大きくした。
「君にさ。どうしても頼みたいことがあるんだ」
「何かな?」
僕が言うと、僕に「クラブ仲間」としての微笑を向ける君。
その微笑みはあくまでも「クラブ仲間」としてのもので、一定以上の好意を持っている女性の微笑じゃない。
僕はそれを感じてしまう哀しさを堪えて言う。
「今日は部活は休みだけれど、放課後にさ、美術室に来てくれないかな」
「うん? いいよ」
「ありがとう。絶対だよ」
僕はそれだけを言って、君に手を振る。
そうさ。きっと君はびっくりする。その時、僕が何をしようとしているのかを知ってしまったら。
なんだかとても楽しくなって、教室に戻りながら僕もまた、思わず口元に笑みを浮かべた。

そして放課後。誰もいない美術室は静まり返っていた。皆、二科展の準備で出払ってしまっていて、
「氷室くーん、来たよー」
カラカラ、と音を立てて、美術室の扉が開く。
「ごめんね。君も忙しいのに」
「ううん、大丈夫。先生も戻っていいって言ってくれたから」
僕が謝ると、優しい君は逆に僕を気遣って、顔の前で手を振るのだ。
「ねえ、私に用って、何かな?」
「うん…もっと中に入っておいでよ」
僕はそんな君を促す。おずおずと美術室へ入ってくる君を。
そして、完成した石膏像にかけてあった布を剥ぎ取りながら、僕は言うんだ。
「あのね…君の血が必要なんだ」
「…へ?」
「冗談なんかじゃないよ」
僕は呆気に取られたような顔をする君へ、少しずつ近づいていく。
「もう少しで、僕の傑作が完成する。だけど足りないものがあるって気づいたんだ。それはね。キミの血なんだよ」
そうなのだ。どんなに心を込めて完成させても、それは血の通う暖かさを備えない。
僕の愛する君の魂を僕は僕の作った像に宿らせて、僕は君と愛し合いたい。
「氷室…くん?」
僕は今、どんな顔をしているんだろう。僕の中にいるもう一人の、嫌に冷静な僕が、自分のしようとしていることを
離れた場所から冷めた目で見ているような、まるで魂が遊離してしまったような、そんな感じがする。
「だから…君が必要なんだ」
そしてその言葉と同時に、僕はパレットナイフを君の喉に走らせる。
途端に教室に響いたのは、ひゅう、って空気が漏れる音と、ごぼごぼ言う声。
(ああ、ごめんね)
君は大きな目を一杯見開いて僕を見る。
(君に苦しい思いをさせてしまってごめん)
そんな君を見下ろしながら、僕は思う。
(だけど苦しいのほんの少しだけだよ)
ゆっくりと床に倒れていく君を見ながら、僕は微笑んでいる。
やがて君は動かなくなって、
(最後の仕上げをしなくちゃ)
喉の切り口から流れてくる赤い液体を、僕はまだよく渇いていない石膏像へ塗りつける。
もう少しで、君は生まれ変わるんだ。僕を限りなく愛してくれるキミヘ。
僕は時間の経つのも忘れて、赤い血を石膏像へ運んだ。
赤い陰影に包まれていく石膏像の君はとても綺麗で、色づけしながらも僕は見とれてしまう。
やがて、
(やっと、出来た)
床に倒れたままの君の体がすっかり冷えてしまった頃に、ようやく満足の行く彩色が終わった。
僕は少しだけ後ろへ下がり、文字通り血を備えた石膏像へと生まれ変わった君の姿を、首をかしげてつくづく眺めやる。
…いつ、君は僕に向かって微笑んでくれるんだろうか。
…いつ、その唇が僕の名を、限りない優しさで紡ぐんだろう。
僕はドキドキしながら待って待って…そして部室の時計が真夜中を知らせる。
ああ、もうクリスマスだ。
(神様。僕に奇跡を起こしてください)
僕は祈った。
いつだったかどこかで読んだ、自分の掘った女の像に恋した男そのままに、僕は祈った。
祈って、祈って祈って…だけど、
(ああ、君は)
いつまで経っても、僕へ微笑みかけてはくれない。話しかけてすらくれない。
いつの間にかストーブも消えていて、どんどん冷えていくことに気付いた時、取り返しのつかないことを
してしまったって、やっと分かったのだ。
奇跡は…起こらない。僕は自分で自分の恋を終わらせてしまった。

メリー・クリスマス…メリー・クリスマス。
もう僕は、狂ってしまっているのかもしれない。
クリスマスの晩、学校の裏の教会へとふらふら歩きながら、僕は笑いを堪えきれない。
施錠されていた教会の扉は、無理に力を込めるとあっけなく開く。僕はその扉を開けて、中へ入る。
正面には埃にまみれたマリア像があって、
(願わくば神よ。ボクに光の裁きを)
ひざまづいて祈るボクの耳に、パトカーの音が聞こえてくる…。


FIN〜

著者後書き:ちょっと時期外れですが、クリスマスにUPする予定だったホラーものです。
ギリシア神話の中の逸話「ピュグマリオン」より。(2010年2月19日謹製)
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