…この口



(もう、いいよね)
貴方を見下ろして、私は笑った。
(もっと早くこうすればよかった)
けだるい午後の昼下がり。小さな小さなマンション。南向きのベランダから入ってくる
太陽の光は、物言わぬ身体になった貴方を照らす。
(大好きよ、今でも、もちろん)
私は、横たわったままの貴方にすがりついてまた笑った。
そう、いつまでも貴方が大好き。欠点が無くなって、やっと「完全」な貴方になったから、
これからもっともっと大好きになる。
…マンションの玄関から、扉を乱暴に叩く音がする。
(なんて無粋なんだろう)
私は貴方から顔を上げて、思わずそっちを睨みつける。二人きりの空間を邪魔しないで欲しい。
(ね、覚えてる? 初めて出会った時のこと)
しばらくして、乱暴なその殴打は止まった。だから私はもう一度、昔良くやっていたみたいに貴方の胸へ
頬を寄せながら、心の中で語りかける。


『父親になるからには、それ相応の責任を果たす。経済的にも精神的にもね。だから見くびるな』
文通から始まった恋だった。貴方は今、アルバイターなのだと言った。正確には毎週日曜日にしか
働いていないのだと。
『俺と付き合って欲しい』
何度かの手紙のやり取りの後で、貴方はそう言った。
男の人が何故か怖かった私。だから、つい構えて無愛想になってしまうのに、貴方だけは
他の男性と違って、どんどん私の心の中へ入ってきた。
初めて出会った時の貴方は、Tシャツにジーパンっていうラフな格好で、
『君と付き合ってると、とても気が楽なんだ。それでいてちゃんと『好き』っていう気持ちもある。
不思議だね』
男性と、家族以外に手をつないだことの無い私が、出会ったその日に貴方と手をつないで街を歩いていた。
貴方が働いていないことなんか、気にならなかった。
『OLさん、やってるの? 偉いなあ。俺、ちょっと上司と折り合いが合わなくなっちゃってさ、
前の会社を辞めてからプータローなんだよ』
そんな風に話す貴方と、初めて出会ったばかりの貴方とホテルへ行った。
ホテルの時間、気がつけば基本料金を過ぎていて、催促の電話がかかってきて…貴方が慌てたように
探ったのは私のカバン。そして私の財布を取り出して中味を改めて、
『悪い、延長分、負担して!』
何の疑問も感じず、私はその延長料金を払った。
すると、彼は言った。
『酒も呑まない、ギャンブルもやらない、タバコもやらない…つまらない男だけど、これからもずっと
俺と一緒にいてくれる?』
生まれたままの姿の私を抱き締めて、私の髪の毛を撫でながら…まるで許しを請う犬のようなその表情に、
私はとうとう笑ってしまった。
…貴方が大好きになった。だから親族の猛反対を押し切って、私は貴方と結婚した。
『あの男だけはやめておけ』『お前が絶対に苦労する』
何と言われても雑音としか思えない。あの人たちは、私たちが幸せになるのを邪魔したいだけだと思った。
反対されて、私たちが住んだのは、小さな小さなこのマンション。
贅沢は別にする必要はない。ただ普通に食べて普通に家賃その他を払って、一ヶ月に一度は出かける、
そんな暮らしで十分だと…それが贅沢だと私は思っていた。
一緒に暮らして半年後。
『あれ? そのパソコン、どうしたの?』
結婚してからも勤めていた会社から帰ってきて、私は部屋の中に見慣れないものがあるのに気がついた。
『買ったんだ』
照れくさそうに頭をかきながら、貴方は答える。
『どうやって? そんなお金あったの?』
半年経ってもいっこうに会社勤めをしようとしない貴方。貯金があったのかと訝しげに首をかしげる私へ、
『ごめんな。お前の口座から三十万ほど借りた。パソコンで在宅やって稼いで、耳揃えて
返すからさ。絶対、約束する!』
『…そう』
そこで初めて感じた『わずかな引っかかり』。だけど私を拝むようにして両手を合わせて、
頭を下げる貴方を見て、
(大丈夫、この人なら、返してくれる)
そう思って、私も笑って頷いた。
それから一年後。やっぱり貴方は職探しにも行かなくて、日がな一日パソコンと睨めっこしていた。
そんな貴方を、『気分転換にもなるでしょう』と、手をつないで、少し家から離れたスーパーへ買い物に
連れ出しに行った時のこと。
『○○君? ○○君じゃないの?』
レジは混んでいた。買い物籠をぶら下げて、イライラしながら待っていた私たちへ、私の知らない
中年の女の人が声をかけてくる。
『貴方、うちのアパートのお家賃、どうしてくれるつもり? 十ヶ月も滞納して!』
…ひょっとして、彼が私と結婚する前に住んでいたアパートの大家さんなんだろうか。
どうやら余程腹に据えかねていたらしい。その人は衆人環視の中であるにもかかわらず、
貴方を罵り始める。私はただ呆然とその会話を聞いていた。
『催促しに行ったら、荷物が全部消えて空っぽって、どういうこと? いい加減にしなさいよ!?』
『すみません。払います、絶対に払いますから…今は、その、手持ちが本当に無くて』
『払うから、払うから、で、もうどんだけ経ってるっていうのよ!?』
貴方は慌てた風に私を見る。私はたまらず間に割って入って、
『私が払いますから。どうも申し訳ございませんでした』
そう言った。すると彼女もシブシブだけど納得してくれたみたいで、
『貴方、こんな可愛い奥さんにまで、負担と迷惑かけるんじゃないわよっ!?』
言いながら、去っていった。
『…ごめんな。俺』
帰り道、やっぱり手をつなぎながら、だけどずっと無言だった貴方は、私たちの家の側まで来て
初めて言葉を発した。その声が限り無く震えて、目から涙がころころと流れ落ちる。
『払いたくても払えないんだよ。働きたくても就職口、ないし。だからお前に甘えてしまうんだ』
『うん、分かってるよ』
ここで感じた、『二回目の引っかかり』。それを気のせいだと思って、私は貴方の頭を撫でた。
『払いに行っておいで。私の口座から出してあげるから』
すると救われたみたいに彼は顔を上げて、やっと笑った。
…そう、助けてあげる。だって私は貴方が大好き。貴方のそんな顔が大好き。
それから二年。やっぱり貴方は働かない。職探しをしようともしない。
『あの、そろそろ求人とか探してくれないかな?』
恐る恐る私が言うと、パソコンに張り付いていた貴方は、
『俺は、このアフィリ一本で食ってく! 会社勤めなんてしなくてもいずれは食えるようになる!』
…だからつべこべ言うな、と、私へ向かって怒鳴るように言った。

家賃、食費、光熱費、被服費…そしてたまに出かける時の『デート代』、貴方の前の大家さんに
払った家賃分の『私の』お金、今、貴方が使っているパソコンの購入代金…。
女である私がそれを全部負担していること、時々割に合わないと思う。
だけどそう思っちゃいけない。彼の私への愛を疑うことになる。
だから私は、何故か爆発しそうになってる私の心を自分でなだめながら、黙った。爆発しそうになってるのは
気のせい。そう、きっと気のせい。
そして私も彼の肩越しにパソコンの画面を覗き込んで、
(声帯、か)
どうやら彼は、ブログを開設したらしい。それへアフィリエイト広告を一杯に貼って、
その広告には医療に関する内容のものもあるから、
(『声を出す仕組み…喉頭がんにかかったら』って…声帯を切り取るのか)
悪くすると声を出せなくなるんだ、って、それを見て何の気なしにそう思った。
『悪かった、怒鳴って』
私を振り返って、彼が言う。照れくさそうに彼が言う。
『ううん、そんなことないよ』
だから私も笑って返す。そう、貴方は悪くなかった。
三年経っても四年経った今も、働かないでパソコンの前に座って、月三万にも満たないアフィリエイトで
『俺は稼いでるんだ』
と言い張り、そしてそのお金を全部自分の小遣いにしてしまっても、貴方は悪くない。
『パソコンのパーツが足りない』『回線を引くためにお金がいる』
言う貴方を助けるために、一年も前に私の貯金は底をついた。
だけど悪いのは…貴方じゃないのだ。そう、貴方じゃない。
(悪いのは)
木枯らしの吹く、寒い寒い夜だった。
貴方が晩御飯を自分で作ってくれていることなんてない。『仕事で忙しいから』って、
晩御飯を作るヒマも惜しいから、って、そういう貴方のために、
(悪いのは貴方じゃない…私が助けてあげなきゃ)
急いで帰らないと、なんて思いながら、私は会社から家への道を早足で辿る。
玄関の扉を開けながらいつものように小さな台所で晩御飯の支度をしようとして、
『おいおい、見てみろよ。この女』
貴方が笑いながら私を呼ぶ声に、何事かと包丁を持ったまま、貴方がいつも座っているパソコンの前へ行った。
『アダルトサイト、検索してたんだけどさぁ。大した身体じゃねえの。デブだしな』
(悪いのは)
そう、悪いのは貴方じゃない。私が会社勤めをしている間にも、くだらないサイトを見て打ち興じている
貴方じゃない。
『…この、口なのよね』
やっと分かった。口の中で呟くように言ってから、私はパソコンに向かってる貴方の喉仏へ包丁を突きたて、
ざっくりと右へ引く。
『…ひが…っ!?』
『きゃあ!? 乱暴じゃない!』
途端、貴方は立ち上がり、私を突き飛ばす。フローリングの床に思わず尻餅をついて、私は貴方を
見上げながら、初めて貴方をののしった。
『ひゅ…ひ…げは…!』
よろよろと立ち上がった貴方は、信じられないものを見るように、私と、私の右手にある包丁を見比べた後、
目をぐるりと上へ回したかと思うと、大きな音を立てて私の隣に転がった。
『貴方は悪くないのよ。悪いのはね』
仰向けに転がった貴方は、苦しそうにひゅうひゅう息をしながら、私へ向かって開いた手を弱弱しく伸ばす。
その手を払いのけながら、私は笑った。
『悪いのは、ありもしないこと、出来もしないことを言い散らす、この口なんだわ、ね? 
この口がある限り、貴方は私が「貸した」お金も返さない。これからちゃんと働こうともしないでしょう。だから』
そして包丁を逆手に持って、今度は貴方の唇の左側へ突き刺す。途端、貴方の体がまたびくりと大きく跳ねる。
『だから、切り取ってあげる。そしたらもっと素敵な貴方になれる』
ああ、私は笑ってるはずなのに、どうして貴方は恐怖に満ちた目で私を見るのだろう。
よく研いである包丁は、さくさくとよどみなく、貴方の唇を輪郭に沿って綺麗に切っていく。
(…あら?)
ようやく切り終えて、そこで気付いた…貴方はもう、ぴくりとも動いていない、動かない。
『一生、大事にしてよ? 私が貴方に「貸した」お金も返してよ?』
そんな貴方にすがり付いて、私はクスクス笑った。
嘘をつく口と声がなければ、嘘なんてつかない、つけない。これからの貴方は、もう「口だけ」
の人じゃなくなる。こんな簡単なことに、どうして気付かなかったのだろう。
喉から赤い物を溢れさせ続ける貴方の頬を、私は愛しげに撫でる。
そこへ、マンションの扉を乱暴に叩く音がまた響いた。
(せっかく二人だけなのに…悪いところの無くなったこの人と二人っきりなのに)
どこまでも、どこまでも、他人は邪魔をする。
マスターキーでも使ったのだろうか。施錠していたはずの扉はやがて開いて、大家さんや
警察の人たちが私たちを見て立ちすくむ。


FIN〜

著者後書き:まあ…ホラーといいますかサスペンスといいますか…。そういう気分でしたので、
ちょっと連載は横において。お付き合いくださいまして、ありがとうございました。(2009年11月5日謹製)
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