…棲む家




家の奥。伯母がかつて使っていた、台所とつながっている和室。
畳を上げて、俺はその下の地面を掘り返していた。
夏だから、汗の滲んだ俺の肌にまといついてくる蚊がマジ、鬱陶しい。それを払いのけながら、
(…古い家には、何かが住む…か。美幸ネエ)
俺は黙々と『作業』を続ける。
あの時無理に緊急入院させた病院から、俺の従姉がまだ出てこられないのは、全部この家のせいなのだ。
古い家には、何かが住む…棲む。
シャベルで土を掘り返すたび、周りの景色がぐにゃりと歪む。まるでこの家が、俺の行動を阻止しているように思えて、
(負けるもんか…『お前』なんかに)
ゲロが出そうになるのを懸命に堪えながら、俺は必死に手を動かし続けた。
古い家には、何かが住む…棲む。この家に限って言うなら、その原因は。
俺がそれを確信したのは、ついこの間のことだった。

「ようい、しょっと! オジキ! これでいいのか?」
「おう、すまんな、翔!」
ぎらぎらした太陽の光が、めちゃくちゃ皮膚に痛かった。
退職金で、小さくて中古だけれど、格安で長年の夢だった庭付きの家を買ったのだと、嬉しそうに言う
伯父の引越しを手伝っていた俺は、その時大学の二年生だった。
(…こんなにも、暑いのに)
ものすごく…失礼だけど「ど田舎」ってほどじゃない。都会っていうにはちょっと憚られるけど、
まあ一応、そこそこに人口密度があるっぽい市で、ずっと住み手がなくて…ほぼ40年近くは空き家だったっていう平屋。
俺んちの両親が冗談交じりに言ったところでは、
「あの市であの場所で、安すぎる。何かあるんじゃないか」
ってことだったんだけれど、伯父と伯母はもちろん、
「そんなことあるもんか、今時」
なーんて笑い飛ばして、そしたら俺の両親も声を合わせて笑ってたっけ。
その家を二人で丁寧にリフォームして使いやすくして…美幸ネエも本当に嬉しそうだった。
(ま、野暮なことは言うまい)
けれど、そんな風に思いながら、玄関を上がって台所を通り抜けて、新しく敷き直された畳の香りがつんと
鼻をつく奥の部屋へ伯母の鏡台を運んだ時、
(うそだろ。寒い…誰かに、見られている?)
変な寒さを感じて、俺は思わず、ぞくりと背中を震わせたものだ。
「ショウ、サンキュ! おそうめん作ったから、食べよ」
「あ、ああ」
その時、台所のほうから暖簾をぱっと上げて、従姉の美幸が言ったもんだから、
(助かった…かも)
ちょっと固まった感じになってた俺も、そこで我に帰ることが出来た。
「でもさ、ホントぼろっちい家だな」
一時的に出したのだという小さなテーブル。席について遠慮なくそうめんをすすりながら俺が
言うと、
「あてっ!」
間髪をいれず、美幸ネエのゲンコツが飛んでくる。そこでいつもみたいに…前住んでたマンションでも
やってたみたいに、皆で笑って…だけど、
(…やだな、この家)
何故かその思いは俺の心の中から去ってくれず、
「また来い!」
「遠慮しないでね」
「はいはーい」
見送ってくれた伯母夫婦に明るく手を振りながらその家を出るとき、悪いけど俺は心底ホッとしてたんだ。
(あ…れ?)
道の曲がり角を曲がる時、振り返ったその家は、一瞬だけだけど、なんだか黒いものに包まれているように見えた。
目を擦りなおしたらそれは消えたから、本当にただの錯覚だとその時は思い過ごしてしまった。

まだ五十四という年で、伯母がその家の中で亡くなったのは、その一週間後のことだった。

「まだまだ若いのに、信じられないよな」
「元気、出してね」
俺の両親も、もちろん俺もこもごも言って、伯父と美幸ネエを慰めた。
気さくな伯母だったから、前に住んでたマンションの人とも付き合いがあって、葬式にも色んな人が
来てくれたけど、
「美幸ネエ」
「…ショウ…今日はありがとうね」
声をかけると、従姉は俺に向かって力なく微笑む。
本当のことを言ったら、大好きな美幸ネエ…泣き腫らして目を真っ赤にしてた…の側に、せめて一晩だけでも
ついていてやりたい。だけど、
「ごめん。明日、卒論の中間発表なんだ」
「気にしないで。それよか、アンタはちゃんと大学を卒業するのよ」
というわけで、俺はあの家に残された二人を気にしながら、俺ん家へ帰る事になったのだ。
すると、帰りのタクシーの中で、俺のオフクロさんが言った。
「お義姉さん、なんだか家の中に赤い血が一杯ついててごめんなさいって。
座るところも無くてごめんなさい、って言ってたわ」
オフクロさんが、伯母の家を訪ねるたびに、そう言って伯母さんがすまなさそうに謝るもんだから、
「どこも汚れてないってば」
ぴかぴかに磨かれた床や綺麗に掃除された畳の部屋を見ながら、呆れたようにオフクロさんが言うと、
しまいには怒り出したらしい。だから、いたたまれなくなって、いつもすぐに帰ってきてしまうって。
(…どこにも赤い血なんてついてなかった、よな)
葬式が行われたのは、住んでいるあの家。伯母を病院にでも行かせたほうがいいんじゃないかって、
何度伯父に言っても、
「笑い飛ばされるばかりで聞いてもらえなかったのよねえ。しまいには、毎日食べるご飯の中にも、
すぐに赤い血がべっとりついて食べられなくなるから、って言い出して…」
…だから伯母の死因は、衰弱死。病院で検査してもらっても、体はどこも異常なしの、原因不明の死。
嘆息と一緒にオフクロさんはそう言って、タクシーを降りた。
「知らなかったよ」
「そりゃそうでしょうよ。アンタは研究室にこもりっきりだったんだから。これからも頑張んなさいよ」
とんだヤブヘビだ。
「でも、もしもヒマだったら、アンタもちょくちょく様子を見に行ってあげてくれない?」
「もちろんだよ」
言われなくてもそうするつもりだった。美幸ネエは会社勤めだし、明るいあの伯母がいつも家を
しっかり守っていたからこそ、伯父も退職してからだって、安心して「やれ飲みだ」「やれカラオケだ」
って毎日みたいに出かけられていたのに、
「お父さんくらいの男の人ってねえ、奥さんを突然亡くすと一気にガックリくるものなのよ」
オフクロさんが言うように、あれだけ出好きだった伯父は、葬式が終わった途端に家にこもりがちに
なってしまった。
俺が訪ねていっても、庭の縁側にしょんぼり座りこんでいるだけだったり、「やあ翔。来たのか」なんて
言うだけで、黙りこんでしまったり。
伯母が生きていた頃より、一回り以上縮んでしまったその背中をわざと強く叩いて、
「ちゃんと食ってんのかよ。美幸ネエに心配かけてんぞ」
俺が言っても、
「…すまんな」
無気力な答えが返ってくるだけ。
心配だから、オフクロさんが作った料理とかを差し入れに、何度も伯父の家へ行ってたある日、
「オジキ!? 何してんだよ!?」
「おお、翔」
いつ訪ねても、俺がたまらない寒気を感じるあの部屋の畳を、伯父が、一心不乱に雑巾がけしていた。
いや、別に雑巾がけをやってたから、って変なわけじゃない。そうじゃない。
「…拭いても拭いても、あっちこっちに赤い血が出てきてな…。ほれ、座る場所も無いわい」
何でも無いところを顎で指して言う…。
何度、別に普通の床だ、赤い血なんてどこにもついてない、って言っても、
「いや、そんなことはない、翔に申し訳無いから帰ってくれ」
って、伯父はピカピカの廊下をなおも磨き続ける。
オフクロさんに言ったら、大騒ぎになったのだ。即入院させたけど…もう手遅れだった。
病院にいても、異常にあの家に帰りたがる。それをなだめるのに、俺らはどれだけ苦労しただろう。
伯父も、最後まで「赤い血がきっと天井についてる」「襖の奥にも」なんていいながら、亡くなってしまったのだ。
…わずかの間に、自分の両親が二人とも亡くなってしまって、今度は美幸ネエが家にこもりがちになってしまった。
会社の有給はたっぷりあるからって、それをほとんど全部使うつもりらしい。
「…綺麗にしなきゃ」
その従姉の身にも異変が現れたのは、伯父と伯母、二人の葬式を終えて一週間後だった。
「ショウ…アンタ、そんな血まみれの服を着て、ダメじゃない」
奥の部屋で、伯父と同じように畳に雑巾がけをしていた美幸ネエは、訪ねてきた俺を見て言い放つ。
慌てて病院へ彼女を入院させる俺とオフクロさんを、
「ちょっと、私はなんともないわよ! 入院させるなんてどういうつもり?」
美幸ネエは、足をバタバタさせながら、
「恨むわよ! 私をあの家から引き離さないで!」
そう罵ったっけ…。
近所の人たちが、騒いでいる俺らを見てヒソヒソ話してる。その時には、ただの物好きな野次馬だって
ムカついたけど、なるだけ気に止めないようにしていたのに。
なのに、
「あの…失礼なんだけど、入院なさったお若い方、まだ生きてらっしゃるの?」
「…は?」
美幸ネエが病院に入院してさらに一週間。彼女の荷物やら家の掃除やらをしに、あの家へ寄っていた俺に、
比較的若い近所の奥さんらしき人が話しかけてくる。見れば美幸ネエと同い年くらいで、
「あ、あの、気を悪くなさらないでね。ごめんなさい」
「待ってください!」
その時、何故か俺はその奥さんを引き止めていた。
「まだ生きてる、って、どういうことですか? 貴女はなにかご存知なんですか?」
そういえば、この家に越してきてから、あれだけ気さくで近所づきあいを欠かしたことのない伯母が、
近所の人を家へあげているのを見たことがない…知り合ってその日には、その近所の人と茶の間でお菓子を
摘んだりしていたのに。
「あ…あの、私も今年の初め、結婚してここに引っ越してきたばかりだったんだけど、その家は…」
俺がその人の二の腕を掴んで迫ると、その人はお姑さんから聞いたのだという話を、ためらいながらしてくれた。
…やがて、
「…あの、私が言ったってことは誰にも言わないで…じゃあ」
全てを聞き終えて、呆然としている俺から、そそくさと彼女は去っていく。

(なんてこった…なんてこった!)
そして今、俺は伯母の部屋の畳を上げ、土を掘り返しているのだ。
昼過ぎから汗だくになって始めたその作業は、すっかり辺りが暗くなってもまだ終えられない。
こんなこと、オヤジやオフクロに言ったところで到底信じちゃくれないし、当たり前だけど
手伝ってもくれないだろうから、
(早く…早く出て来い!)
掘った地面にも、ぽたぽたと俺の汗は落ちていく。日が落ちて、どれくらいの時間が経ったんだろう。
痺れそうになる腕を励まし励まし、土を掘り続ける俺のシャベルの先に、
(…あたった…!!)
硬いものがぶつかって、俺はほぼ条件反射的にそれへ用意してきていた懐中電灯を向けた。
…あげようとした悲鳴は、声にはならなかった。
『実はね、その家で、二十年ほど前にその家の奥さんと小さな息子さんが行方不明になっているらしいのよ』
『旦那さんに尋ねても、奥さんは子供を連れて田舎の実家に帰ってしまったってだけ…もともと、
近所づきあいのあまりなかったご家庭だったらしいから、奥さんの田舎も誰も知らなかったのね』
『だけど、いつの頃からか、子供達が言い出したの。その旦那さんが奥さんと子供達を奥の畳の部屋の、
ちょうど真ん中に埋めてたのを見たって…子供達が言い出したことだから、当てにはならないって
警察の人もそのままにしちゃったらしいけど』
若い奥さんの話が、俺の頭の中に改めて蘇る。
呆然としたまま肩で荒く呼吸を繰り返して、土にまみれて埋もれた二つの頭骸骨を懐中電灯で照らしていると、
ぽっかり開いたその眼窩が、じっと俺を見つめているようで、
(…警察…)
俺は震える手でようやくズボンの尻ポケットからケータイを取り出して、110番を押したのだ。
『それからも、その家を買った人はいたんだけどね。四年ごとくらいに入れ替わり立ち代り…ええ、
次々にお亡くなりになっているの』
俺が、二十年間空き家だったって聞いてる、って言ったら、その奥さんは「そんなはずはない」なんて、
逆に驚いたっけ。
(不動産屋め…)
いや、この場合は、きっと不動産屋も知らなかったのかもしれない。『仲介』の『仲介』ってことで、
あちこちたらいまわしにされているうちに、そんな『事実』なんて埋もれてしまうのだろう。
ともかく、そんなことがあった家…実際、証拠は俺の目の前にある…なんて、誰も買いたがらないだろうから、
この家を管理していた一番最初の、二十年前の不動産屋は、それをひた隠しにして売り出したに違いない。
建築関係の経済事情も教わるから、大体のところは予想だってつくんだ。不動産なんて売れりゃいい、
ってなもんだから、実態は本当にいい加減なんだよな。
(…ともかく、美幸ネエ。これで多分助かるぞ!)
やってきたパトカーの赤いランプが、襖に眩しく映るのを見た途端、俺の体中から力がどっと抜けた。
俺の大事な、たった一人残った従姉は、これできっと助かるに違いない、そう思ったから。
だけど、
(う…わ?)
畳へ手を突いて、部屋へ上がった途端、視界がぐにゃりと歪んだ。
眩暈と同時に吐き気も覚えて、思わず側の畳へ向かってえずいたら、
(…血…)
俺の手も、側の畳も、そして俺の吐寫物も、皆が赤い血に染まっていて、
(…綺麗にしなきゃ…綺麗に…警察の人たちが来る前に)
こんなに汚しちゃダメだって、そう思いながら、俺はふらふらと台所へ行って、流しにあった雑巾を
取り上げた…。


FIN〜

著者後書き:一転、蒸し暑くなりました。皆様方には少しでも涼しくなっていただきたいと思いつつ(笑)。
この後、彼はどうなったんでしょうか…なーんて。これは、知人の知人からの又聞きの話をベースにしています。
事実と思われるかどうかは、皆様方のご想像にお任せしますということで。(2009年6月25日謹製)

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